第十三話「焚火から始まる新しい日常」②
また、別の日。
司祭館にある書類の作業場には、蜜蝋と乾いた羊皮紙、そしてインクの匂いが混じっていた。
午後の光が高い窓から斜めに差し込み、木机の上に積まれた帳簿や紙束を淡く照らしている。
その中央で、アーサーはひどく真剣な顔をして羽根ペンを走らせていた。
ミサの説教を書いている時よりも、聖務日課を確認している時よりも、あるいは告解の内容を思い返している時よりも、よほど深刻そうな顔である。
傍らに置かれた紙束の表紙には、几帳面な文字でこう記されていた。
『養蜂箱増設の覚え』
「……養蜂箱増設の覚え?」
横からそれを覗き込んだアリスが、何とも言えない顔をした。
「村での販売分を増やしたのも、その一環?」
アーサーは羽根ペンを止めず、真顔のまま答えた。
「三十%も収穫報告が減らされたんだよ? だったら、その分を僕がどう使ったっていいだろ。蜂蜜で救える命は多いんだし」
その声には、静かな怒りがこもっていた。
だが、内容は蜂蜜である。
真剣なのは分かる。分かるのだが、作業場の空気はどこか妙に締まらなかった。
そばで椅子に腰かけていたルーシーが、ぱちぱちと瞬きをしてから、無邪気に口を挟む。
「でも、アーサー、趣味って言われたのが一番怒ってたよね」
「…………」
アーサーは無言でペンを置いた。
そして、次の瞬間、力尽きたように机へ突っ伏した。
「趣味じゃない……これは教会の慈善事業で、診療所の薬材確保で、村の栄養改善で、蝋燭の原料調達で……」
机に額を押しつけたまま、くぐもった声でぶつぶつと言う。
アリスは苦笑しながら、彼の肩を軽く叩いた。
「で、でも、高価な蜂蜜が安価で手に入って嬉しいって、みんな喜んでたから。ね?」
「……それは、よかった」
アーサーは机に突っ伏したまま、少しだけ声を和らげた。
その様子を、作業場の隅に腰を下ろして眺めていたウルフが、深々と呆れたように息を吐く。
「よく分からん」
蜂蜜の収穫量を増やしただけで、なぜここまで人が沈み、慰められ、計画書まで作るのか。
武人の彼にはまるで理解できなかった。
ウィンドル川の浅瀬では、今日も村人たちが思い思いに手を動かしていた。
女たちは桶を並べて衣類を洗い、若い男たちは道具についた泥を落とし、子どもたちは大人たちの邪魔にならない範囲で水際を行ったり来たりしている。
夏の陽射しを受けた川面はきらきらと光り、濡れた布を打つ音や、桶の水が跳ねる音が、ゆるやかに重なっていた。
「みんな、体の具合はどうだ? 腹を壊したり、気分が悪くなった者はいないか?」
粉挽きのサイモン・ミルナーが、川辺に立って声をかけた。
以前なら、こうした問いかけにはどこか怯えたような、あるいは面倒そうな顔が返ってきたものだ。だが今は違う。
「大丈夫ですよ、サイモンさん」
「うちの子も、昨日はちゃんと粥を食べました」
「診療所の薬も、前より飲みやすくなった気がします」
返ってくる声は明るかった。
呪い騒ぎの本当のところが村人たちに伏せられている以上、人々からはまだ完全に不安が消えたわけではない。
それでも、目の前に並ぶ顔はどれも穏やかで、あの呪い騒ぎに浮かされて松明を掲げていたあの夜のような険しさや疑心は薄れていた。
サイモンは返事の一つ一つに頷き、ホッとしたように息を吐く。
少し離れた場所では、妻のエディスがその様子を見守っていた。
彼女は洗い物の手を止めたまま、夫と村人たちが言葉を交わす姿を、どこか嬉しそうに眺めている。
その視線に気づいたサイモンが振り返ると、エディスは何も言わず、ただ穏やかに微笑んだ。
サイモンは照れたように鼻の頭をかき、苦笑する。
「……騒ぎも、少しは役に立ったようだな」
「ええ。人の悪いところだけが出たわけではありませんもの」
エディスの言葉に、サイモンは肩をすくめた。
川辺には、穏やかなざわめきが戻りつつあった。
だが、その景色を遠くから眺める者がいた。
代官邸の二階、重い窓枠の陰。
トーマス・バートンは、外から見えないように身を半分隠したまま、ウィンドル川の方を窺っていた。
その顔は、以前より明らかにやつれていた。頬はこけ、目の下には薄い影が落ちている。血色も悪く、窓辺に立つだけでひどく疲れているように見えた。
以前は誰も寄り付かなかった代官邸裏の川辺で交わされる村人たちの笑い声が、彼の耳にはやけに遠く、そして苛立たしいほど明るく響く。
トーマスは無意識に窓枠を握りしめた。
その時、奥の部屋からヘレナの声が飛んできた。
「あなた、診療所に出した使いが薬湯を取ってきたから召し上がってくださいな。少しくらい休憩も大事でしてよ」
「……っ」
診療所、という言葉を聞いた瞬間、トーマスの肩がかすかに震えた。
彼は窓の外から目を離し、奥を振り返る。
「あ、ああ。分かった」
声は平静を装っていたが、返事はわずかに遅れた。
川辺では、また誰かが笑っていた。
トーマスはそれ以上外を見ることなく、重い足取りで窓辺を離れた。




