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神父と白い野獣―呪われた村で出会ったのは、神に縋る青年と、獣と呼ばれた異教徒だった。  作者: あともす
第一章

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第十二話「崩れた威光」②

 一行が代官邸へ着くと、従者に導かれて行き着いた先は、謁見室ではなく応接間だった。

 トーマス・バートンは、暖炉の前に置かれた背の高いアームチェアへ深く腰掛け、両手を革張りの肘掛けに置いていた。室内の空気は重く、温かい。謁見室から続く通路の先に位置するこの応接間には、昼間であっても外の騒々しさがほとんど届かない。

 窓際の光が差す場所では、妻が白い布地へ針を進めている。刺繍糸が細かく、規則正しく布を擦るたび、トーマスは満足感を覚えた。この静謐な空間こそ、自分がこの屋敷で享受する権力と秩序の象徴だった。彼は妻の存在を、意識的に、そして無言の道具として用いている。


(この静けさの中で、あの若造はどれほどの苦痛を感じるだろうか?)


 トーマスは、数分後に会う予定のアーサー・クロムウェルのことを考えていた。司祭代理という聖職にある若者が、自ら「謝罪と相談」のために訪れる。これは、ウルフの件で仕掛けた小さな揺さぶりの勝利であり、自らの支配が教会の権威にまで及んだという、公然たる証明に等しかった。

 短くノックが響いた後、従者が重い扉を開け、声を上げた。


「旦那様、クロムウェル司祭代理様がお見えになりました」


 トーマスは微動だにしない。許可を待たず、従者は一歩下がって扉を開け放つ。

 入室したアーサーの視線は、まず窓際の妻へ向けられ、次いで部屋の奥、暖炉の前に座るトーマスへ移った。外光を背にした妻の姿は影となり、顔の表情までは読み取れない。一方、暖炉の光に照らされたトーマスの顔は、冷たい岩のように明確だった。

 トーマスの目に映るアーサーは、完璧な司祭服を身につけているにもかかわらず、顔色は昼の空のように青白い。手に持った帽子を握る指先には、汗まで滲んでいるように見えた。


(さて、この羊は、いかにして私を欺こうとするだろうか?)


 内心で笑みを噛み殺しながら、トーマスは最も権威ある主人のように、厳かに口を開いた。


「よく来たな、アーサー。座りなさい。妻もいる。遠慮はいらないよ」


 そう言って視線だけをアーサーの背後へ流す。そこに立つピーターと目が合うと、相手は軽く会釈し、何も言わず応接間の外へ姿を消した。

 完全に一人残されたアーサーは、不安を隠しきれない面持ちで立ち尽くしている。その様子に、トーマスの胸の内はひどく高揚していった。

 アーサーはひどく憔悴した様子で、暖炉を背に座るトーマスの姿を見つけると、怯えた表情のまま深く頭を下げて口を開いた。


「トーマス様。昨夜は、私の配慮の足りなさにより、村にこれほどの混乱を招き、トーマス様という代官の権威を煩わせてしまったこと、深くお詫び申し上げます」


 その姿は予想に反し、心からの謝意と誠意に満ちていた。もっと反抗的な態度や、欺きの気配を見せるものと思っていたが、そうした様子は微塵もない。それが非常に心地良く、トーマスは威厳たっぷりに腕を組み、満足げな笑みを浮かべて応じた。


「面を上げなさい、アーサー司祭殿。貴殿が己の非を認めたことは評価する。若さゆえ情に流されるのは致し方ない。だが、公務と私情の区別は、司祭代理として、また領主の息子として常に弁えねばならぬことだ。……あの流浪人は村を去った。これで騒動は収束へ向かうだろう」


 流浪人の話題が出ると、アーサーの表情はさらに悲しげとも苦しげともつかぬものへ変わった。きっと彼は、あの野蛮人を孤児のルーシーのように、当たり前の人間として扱いたかったのだろう。トーマスには、その感覚が理解し難かった。

 貧民は貧民として生きるからこそ、持てる者からの慈悲に権威が生まれるのだ。

 まあ、アーサーも若い。今は納得できていないのだろうが、こうした経験から少しずつ理解していくのだろう。トーマスは先達として、これからもこの若い司祭を導いてやればよいと考えた。


「はい。トーマス様のご判断は、村の秩序を守る上で正しかったと存じます。しかし……」


 殊勝な言葉に続いたその一言へ、トーマスは片眉を上げる。


「しかし、何だ?」


 どんな発言が来ようと跳ね返してやるという気構えで、居丈高に視線を向ける。するとアーサーは、おずおずと申し出た。


「昨日、トーマス様が敷かれましたあの結界ですが、村人たちにとっては『恐怖の象徴』として、まだ残ったままです。あの杭と縄がある限り、村人たちの心からは『呪いがまだ残っている』という疑念が晴れません。このままでは、病が収まっても、村への不信が残るでしょう」


 思ってもみない殊勝な申し出に、トーマスはわずかに身を乗り出した。


「なるほど。さすがは敬虔なアーサー司祭殿らしい、精神的領域への配慮だな。では、貴殿はどうしろと言うのか?」


 興味を引かれた声音には、先ほどまでの叱責とは別の愉快さが混じっていた。


「結界が公的な手段で設置された以上、それを公的な儀式で『浄化』し、『神の慈悲によって完全に解放された』と宣言せねば、村人の不安は収まりません。トーマス様が張られた隔離線を、今度は神の権威をもって清めるのです」


 アーサーは、トーマスの指導ですっかり目が覚めたらしい。トーマス様と呼ばれ、彼が満足げに頷く。何より、自らの権威が神の権威と並べられるのは、何とも喜ばしいことだった。


「良い考えだ。では、貴殿はその儀式をいつ、どのように執り行うつもりか? 私にも協力を要請するのだろう?」


「はい。トーマス様のご助言が不可欠です。儀式は、村人の目を集め、最も厳粛な雰囲気で行う必要があります。今夜の夜半、皆が寝静まり、松明の光が映える時間帯が最も効果的かと存じますが……いかがでしょうか?」


 その申し出に、トーマスは腕を組んだ。松明の輝く幻想的な儀式の光景が脳裏に浮かぶ。悪くない。むしろ、実に良い計画だと思えた。

 若造とはいえ、教会の権威が自分のためにそのような儀式を行うというのだ。権威的なものに目のないトーマスに、断る理由などなかった。


「夜半か。良い。人目を避ける必要はない。むしろ目立たせろ。松明は教会の者で揃えさせよう。そして、儀式の流れだが――」


 言うや、トーマスは身振り手振りを交え、儀式の具体的な手順、村人の動員方法、そして自分自身の公的な役割について熱心に語り始めた。意識は完全に儀式の計画へ向き、他のあらゆる事柄への注意を逸らしてしまっている。

 アーサーの語る計画に夢中になったトーマスは、彼の視線が一瞬自分から外れたことにも、まるで気づかなかった。

 アーサーは、トーマスから次々と出される要望へ、ひたすら従順に頷いてみせる。


「仰る通りです。さすがはトーマス様、詳細なご指示ありがとうございます。私もすぐに準備に取り掛からせていただきます」


「よろしい。それでは私の方もそのように準備しよう」


 そう言ってトーマスが満足げに立ち上がった、まさにその瞬間だった。窓の外のかすかな物音と共に、隣接する資料室の方角から、一瞬だけ異音が聞こえた気がした。引き出しを閉めるような音か、布を擦るような音か――。

 怪訝に思って振り向こうとしたその時、アーサーが勢いよく立ち上がる。


「失礼。今宵のトーマス様の雄姿を想像して、私も興奮してきました。早速教会へ戻って、私も準備いたします!」


「お、おお……そうか。気を付けて帰ると良い」


「……あ。そうでした」


 立ち去りかけたアーサーは、ふいに歩みを止め、振り返った。


「まだ何か、あるのかね?」


「ルーシーは元気ですか?」


 思いがけぬ問いに、トーマスは一瞬きょとんとした顔になる。


「ん? ああ、元気だとも。彼女の名誉回復も、私に任せてくれれば悪いようにはしない」


「それは安心しました。トーマス様の慈悲があれば、不憫な彼女も安らかでいられるでしょう」


「もちろんだとも。無実な者の名誉は守られるべきだからな」


 その言葉を聞いた途端、入室時の気落ちした様子が嘘であったかのように、アーサーは生き生きとした足取りで退室していく。

 その背を見送ったトーマスは、完全勝利の喜びを堪えきれず、高らかに笑い声を上げた。

 すると窓際から、妻ヘレナの呆れた声が飛ぶ。


「はしたないですわよ」



 アーサーはピーターと馬車に乗り込むと、冷めやらぬ興奮のまま、しばらく無言で固まっていた。馬車に揺られても身じろぎ一つせず、身体は強張ったままだった。

 その様子を見たピーターは、小さく溜息をつく。やがてそっと手を伸ばし、強張ったアーサーの身体を抱きしめた。


「よく頑張りました」


 ピーターは、それ以上何も言わなかった。説教も、咎める言葉もない。

 そこでようやく、アーサーは顔をくしゃくしゃにして、大きな泣き声を上げた。


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