第十一話「清めの夜」③
アーサーを陥れるための資金が、アーサーが管理している養蜂事業から生まれていたとしたら、皮肉なものだ。しかし、トーマスとアーサーの関係性を考えたらアリスの推論には十分説得力があった。
「じゃあ後であいつの所にも行って、帳簿奪取の相談をしないとだな。しかし、あの坊ちゃんが直接帳簿を盗むなんて真似は出来ないだろうし、何よりあいつにはデブ代官のところに話し合いへ行ってもらわないと困る。良い陽動になるだろうからな」
トーマスはウルフが村を去ったと思い込んでいる。注意さえ逸らせれば、代官邸の警戒も幾らか薄くなるはずだった。
「……あいつがデブ代官と話してる間に、俺が盗みに入れれば一番良いんだが」
そこまで言って、ウルフはわずかに眉をひそめる。肝心の資料室が屋敷のどこにあるか知らないのだ。
「真面目なアーサーに泥棒なんて無理よ。それに蜂蜜の帳簿なら私が取りに行く。代官邸の構造は私もよく知ってるわ」
迷いなく言い切ったアリスに、その場の空気が止まった。
思いがけない申し出に、流石のウルフも目を瞬かせる。勇気のある娘だとは見ていたが、ここまで腹が据わっているとは予想していなかった。
「良いのか。俺だけなら何かあっても逃げられるが、お前は見つかればただじゃ済まないだろ」
「良いでしょ。パパ、ママ。このままじゃどっちにしろ我が家も酷い目に遭わされるんだから」
アリスは両親へ向き直り、震えを押し殺した声で訴えた。恐れていないわけではない。それでも退く気はなかった。
「アリス……気持ちは分かるけど、流石に危険よ」
母は娘の手を取ろうとして、その強い眼差しに気圧されたように指先を止めた。
「……全く。アリス、お前は、今止めても勝手に動いてしまうのだろう。それにウルフさん」
サイモンは深く息を吐き、覚悟を決めた顔でウルフへ向き直る。
「貴方が居れば、何かあっても娘を守ってくださるのではありませんか?」
「まあ、あの邸宅の警備なら、見つかったところで娘一人くらい無傷で逃がす余裕くらいはある」
ウルフは肩を竦め、当然のように言ってのけた。
「分かりました。ではお任せします。アリス、ウルフさんの言うことをちゃんと聞いて頑張るんだよ。私たちは、いつでもこの家を出られるよう準備しておく」
娘の覚悟を受け、サイモンもまた家も財産も捨てる覚悟を決めたようだった。
「良い覚悟だな、あんたら。あの坊ちゃんにも見習わせたいところだ」
頼りない平和主義者の顔を思い浮かべ、ウルフは鼻で笑う。するとアリスがむっと頬を膨らませた。
「アーサーは、ああ見えて勇気も思い切りも良いんですよ! 貴方だって知ってるでしょ?」
庇うように言い返す声には、思いのほか熱がこもっていた。
「あー……まあ、たしかに。無謀の側に思い切りが良いところはあるな」
自分に向かって臆面もなく〝友達になろう〟と迫ってきた姿を思い出し、ウルフは露骨にげんなりした。
「ウルフさん。他に私たちに出来そうなことはありますか?」
空気を戻すように、エディスが控えめに口を開く。
「そうだな。ペンストレイト家へ手紙を出したいんだが、伝手はあるか? 全部上手く行かなかった時に、証拠をまとめて送りつけるくらいはしてやりたい」
「でしたら、アーサー様に直接手紙を書いて頂けばよろしいかと。彼はペンストレイト様がクロムウェル伯爵家から預かった人質ですし、ご嫡男のエドウィン様とも親しいので、家紋の印さえあれば、誰が持って行っても書状だけは受け取って頂けるはずです」
「あいつ、クロムウェル伯爵家の人質としてここに居るのか」
初めてアーサーの素性をきちんと知り、ウルフは意外そうに目を細めた。世間知らずの坊ちゃんにも、それなりの事情があるらしい。
「ええ。お可哀そうに。そのせいで幼い頃から苦労されていらっしゃいます」
エディスの声音には、長く見守ってきた者の情が滲んでいた。
「そうなのか……取り敢えず分かった。そしたら俺はこれから、あいつの所へ向かって打ち合わせをしてくる」
「でしたら私も参ります。貴方お一人でアーサー様の所へ向かわれると、最悪揉め事になるかもしれません。私は私で、司祭館に居る教区書記のピーター様へ今決まったことを報告せねばなりませんし」
「分かった。じゃあ一緒に行くか」
こうしてウルフとサイモンは夜の冷え込みが増す中、聖ヒュー教会の司祭館へ向かった。
アリスとエディスは、明日の調印と夜逃げの準備を始める。家の中には慌ただしい物音と、押し殺した緊張が満ちていた。
一方その頃、ウルフとサイモンは教会へ向かう前に、ウルフが捕らえた不正の証人である羊飼いを回収し、ミルナー家へ匿った。
それからウルフはアーサーと密談を交わし、夜が明けて決戦の日を迎えることになる。
同じ頃、代官邸では暖炉の火が赤々と燃えていた。
外の冷え込みとは対照的に、広間には上等な酒と焼いた肉の匂いが満ちている。トーマス・バートンは深く椅子へ腰を沈め、腹を揺らしながら満足げに杯を傾けていた。
「ようやく静かになりますな、代官殿」
控えていた下役の男が、機嫌を窺うように笑う。
「当然だ」
トーマスは鼻を鳴らし、脂ぎった指で卓を軽く叩いた。
「呪いだ病だと騒ぎ立てる狼の野蛮人は追い払った。粉挽き一家には誓約書を突きつけた。後はあの司祭坊やが頭を下げに来れば、村は元通りよ」
そう言って彼は喉を鳴らして笑う。
窓の外では、夜風が屋敷の壁を叩いていた。だがトーマスの耳には、それすら勝利を祝う拍手のようにしか聞こえなかった。
「アーサー様は従順なお方です。明日にも謝罪へ参りましょう」
「来るとも。あれはそういう男だ」
トーマスは侮蔑を滲ませながら杯の酒を飲み干す。
「血筋だけは立派でも、中身は甘やかされた子供だ。少し睨めば震え、少し優しくすれば縋ってくる。扱いやすいにも程がある」
人質として預かった貴族の子。名目だけは立派でも、所詮は世間知らずの若造に過ぎない。そう思うと、トーマスの口元は自然と緩んだ。
「では、粉挽きどももこれで黙りますな」
「黙らせるのだ」
トーマスの声が低くなる。
「サイモン・ミルナーは少し村で顔が利くからと勘違いしている。明日、署名させれば奴の家など私の許しなく粉一つ挽けん」
その言葉に、下役の男は慌てて頭を下げた。
トーマスは満足げに椅子へもたれ直す。
これで厄介事は終わる。狼の男は村を去り、粉挽きは屈し、司祭は従う。残るのは自分に都合の良い秩序だけだ。
明日になれば、誰も逆らえぬことを村中へ思い知らせてやれる。
暖炉の火がぱちりと爆ぜた。
それを合図のように、トーマスはもう一杯酒を注がせる。
勝利の前祝いにしては、少し控えめなくらいだった。
【続く】




