第十話「窓を開けた先には」②
上流から順に調べていたウルフは、日が暮れる頃にポイントC――バートン邸付近の川辺にたどり着き、調査を始めた。
バートン邸の裏手を流れる川には、最初に調べたような流れの早い深みは無く、比較的浅く穏やかな流れのそばに、砂と石の多い河原が点在していた。これなら村人にとっても使い勝手がよさそうなのに、不自然なほど人気が無かった。
しかも、ガマほどの丈高い草は生えていないものの、人目を遮る茂みは多い。身を隠すには都合がよく、あの群生地とはまた別の厄介さがあった。
そこでウルフは付近を細かく調べてゆくと、やがて明らかに踏み荒らされた跡のある川岸を見つけた。
足跡の周辺には大量の獣毛が散らばり、油じみた悪臭も色濃く残っている。
「この臭い、タールか……他は獣の脂と灰汁ってとこだな……」
ウルフは詳しい仕組みを知らないが、タールは松脂などから採る黒い油で、防水、防腐、獣皮の駆虫、家畜の洗浄にも用いられる。ただし刺激が強く、皮膚を荒らし、口に入れば激しい腹痛や嘔吐を招き、大量なら命にも関わる。獣脂も腐れば吐き気や下痢のもととなり、灰汁は灰から取る強アルカリ性の液で、肌に触れれば炎症や火傷を起こし、飲めば喉や胃を焼く危険な代物だ。
つまり、石鹸じみた洗浄剤の残滓が、この川辺一帯を広く汚していたのである。
ウルフは地面に散った毛を摘み上げ、指先で確かめた。
「この毛は……あの犬どもか。こんなところで薬品を使って獣なんか洗ったら、下流の人間に被害が出るに決まってるだろ、あのデブ!」
残留物の量から見て、一度や二度ではない。何度もここで犬を洗っていたと考えてよかった。
ウルフは採取用の水筒へ慎重に川水を詰め、周囲に散らばった犬の毛や薬品の残り滓を布切れへ包んで集めていた。すると、不意に人の気配がこちらへ近づいてくるのを感じ、即座に身を低くする。
気取られぬよう茂みの奥へ身を伏せ、葉の隙間から様子を窺うと、一人の羊飼いが数匹の犬を連れて川辺へ現れた。男は何のためらいもなく犬を浅瀬へ追い込み、桶からどろりとした薬品を掬って毛並みに塗りつけ、そのまま洗い始める。
犬たちは嫌がって水を跳ね上げ、油じみた臭気があたりへ広がった。皆が使う川で、鼻歌交じりにそんな真似をする男の無神経さに、ウルフの眉間へ深い皺が刻まれる。今すぐ引きずり出して怒鳴りつけてやろうか――そう腰を浮かせかけた、その時だった。 別の足音が駆け寄ってきた。もう一人の羊飼いが姿を現し、犬を洗っている男へ慌てて声を張る。
「おい、もうここで犬洗っちゃまずいんだぞ!」
「ああ、そうだっけ? そうだった~。折角便利だったのにな~」
呑気に頭を掻く男の前へ、茂みが大きく揺れた。
次の瞬間、ウルフがぬっと姿を現れ、二人の進路を塞ぐように立ちはだかる。
羊飼いたちは同時に息を呑み、引き攣った顔のままその場で固まった。
その頃、診療所ではちょっとした騒ぎが起こっていた。
代官の指示で遣わされた使者が、ルーシーを連れ出そうとしていたのである。
診療所の監理者であるシスター・マーガレットは、使者の前に立って静かに問いただした。
「何故、この子を連れて行くのです」
使者は一礼すると、いかにも事務的な口調で答える
。
「先日の毒草騒ぎにて不当な疑いを掛けられた件につき、名誉回復の手続きが進められております。そのための証言聴取にございます」
そこへ話を聞きつけたアーサーが駆け込んできた。
「ルーシーを連れて行くとは、どういうことですか」
事情を聞いたアーサーは言葉に詰まった。
また濡れ衣を着せるつもりなら、何としてでも庇うつもりだった。だが、名誉回復のための手続きだと言われてしまえば、表立って反対しづらい。司祭である自分がそれを妨げれば、かえってルーシーの立場を悪くする恐れすらあった。
だが、トーマスが何の企みもなく彼女を呼び出すはずがない。
名誉回復を口実に別の罪を捏造するかもしれない。あるいは、自分とルーシーを引き離すことそのものが狙いか。
何より今は、村を蝕む異変の調査が佳境に入っている。薬草と患者の記録に通じたルーシーは、ウルフに次ぐ分析の要だった。彼女をここで失えば、診療所の動きは大きく鈍る。
患者の経過記録も、聞き取りも滞ってしまう。
アーサーが決断できずにいると、ルーシーがそっと微笑み、彼の手を握った。
「大丈夫。ちょっと行ってくるだけ。すぐ戻るよ。後はマーガレット様に訊いて」
そう言うと、彼女は抵抗も見せず、大人しく使者の後ろへついた。
残されたアーサーがとっさにシスター・マーガレットを見る。
マーガレットは、ただ小さく頷いた。
その晩、村は俄かに騒めいていた。複数の村人が松明を手に列を作り、夜道をぞろぞろと歩いている。揺れる火の先頭には、代官トーマス・バートンの姿があった。村人たちの顔には怯えと興奮が入り混じり、誰もが落ち着きなく辺りを見回している。
胸騒ぎに駆られ、アーサーは慌てて列へ駆け寄った。裾を乱しながらトーマスの横へ並び、息を整える間もなく声を掛ける。
「バートン様、こんな夜に一体どこへ向かわれるのです?」
「これはこれは、アーサー司祭殿。丁度、使いに呼びに行かせようと思っておりました」
トーマスは足を止めもせず振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。その余裕ぶりが却ってアーサーの胸をざわつかせる。
「どこへ向かうかだなんて決まってるじゃないですか……あの流浪人のところです」
「え、あ……な、何で!? 彼は当教会の慈悲の元にあると、先日お話ししたばかりじゃないですか!」
思わず声が裏返る。近くの村人がちらりとアーサーを見て、すぐ視線を逸らした。
「それは私も理解はしておりますが、この村人たちがどうにも恐ろしくて堪らないと泣きついてきましてね……」
トーマスは肩を竦め、後ろの列へ視線を流す。呼応するように、何人かが深く頷いた。
「でしたら、そういう事は先に当教会にご相談頂ければよろしかったのに!」
「でも、あの流浪人の面倒を見てらっしゃるんでしょう? 相談したところで村人たちは納得しないでしょう。私自身はアーサー様からお話を聞いております故、心苦しかったのですが……代官権限で動かさせていただきました。さあ、あと少しですぞ」
有無を言わせぬ調子だった。アーサーは反論の言葉を探したが見つからず、そのまま村人たちの流れに呑まれ、トーマスに伴われる形で森外れの天幕へ辿り着いた。
ざわめきと火の気配に、天幕の幕が勢いよく開く。中からウルフが飛び出した。赤い瞳が群衆を鋭く見渡し、すぐにアーサーを見つける。だが、その横にトーマスが立っているのを見るや、わずかに目を細めただけで、声を掛けることも駆け寄ることもしなかった。




