第六話「スポンジと犬」②
夕暮れ。空が赤く染まりはじめたころ、アリスは木桶で川の水を汲み、大きな木のたらいへと注いでいた。
「ふう、キッチンにも運ばなきゃ」
母屋の方へ目をやる。家屋に繋がった粉挽き小屋からは、水車の回る音と石臼が粉を砕く低い響きが絶え間なく聞こえてくる。
それがミルナー家の日常だった。
今夜の夕食当番はアリスである。水を汲み、下ごしらえを始めたところだった。
そこへ、ルーシーが顔を出す。
「何か手伝うことある?」
「じゃあ、その野菜を洗ってくれる? 私は鍋の水をキッチンに持っていくから。すぐ戻るわ」
「分かった」
ルーシーは袖をまくって川辺にしゃがむと、酷使され荒れた指先の赤い少女の手が、慣れた手つきで野菜を洗い始める。
その姿に小さく微笑むと、アリスは木桶を抱えて母屋へ入った。
「ママ、お水持ってきた!」
「ありがとう。そこへ置いてちょうだい。野菜もお願いね」
作業台でパイ生地を練っていた母エディルは、顎で鍋の置き場を示す。
「今ルーシーが洗ってる」
「そう。今日はもう仕事終わりなのね。なら今夜は少し腕を振るわなきゃ」
思わず、アリスは笑う。
「思ったより早く来たよね」
「ええ。本当によく働く子だわ。あなたも年上なんだから、もう少し張り合いなさいよ」
「はーい」
肩をすくめてキッチンを出る。
軽く流したが、少しだけ胸がちくりとした。普段、粉の袋くらいしか持たないアリスの手は、ルーシーの手に比べたら白魚のようにきれいだったから。
ルーシーは年下なのに、すでに大人と同じように働いている。
自分は暇ではないが、親に言われるまま粉屋の仕事を手伝うだけだ。
アリスとルーシーとは、アーサーよりも長い付き合いだった。
彼女を育てていた老婆が、各家を回り「どうか力になってやってほしい」と頼んでいた。その中にミルナー家もあった。
老婆を失った当初、ルーシーは日替わりで寝床を変えていた。
ミルナー家では、小麦倉庫に藁を敷き、休むことを許していた。倉庫は人目につきにくく、しかも警備もある。子供が身を寄せるには一番安全な場所だった。
やがて自然と交流が生まれ、同じ年頃の娘同士、二人が親しくなるのに時間はかからなかった。
けれど、ルーシーは家族ではない。
今日のように同じ食卓につくのは、あくまで「娘の友人」として。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
アリスが野菜を洗いに川へ戻ると、積んであった籠の半分以上は、もうルーシーの手で洗い終えられていた。
無言のまま隣にしゃがみ、菜っ葉を川に浸す。水が跳ね、まくった袖まで冷たさが走った。
「アリス」
「ひゃっ」
呼ばれて顔を上げた瞬間、冷えた指先が頬に触れる。思わず肩が跳ねた。
「もう、ルーシーったら。お返しよ」
「ちょっと、冷たいってば」
アリスはその手を捕まえ、両手で包み込む。
水面を蹴り合いながら、二人は小声で笑った。
こんな顔を、二人はあまり他人には見せない。
仲の良いアーサーにさえも。
村では、少女であっても〝子供〟ではいられない。
笑いすぎれば軽んじられ、はしゃげば隙になる。
だからこうして二人きりで川にしゃがむ時間だけが、ほんの少し素に戻れる場所だった。
とりわけルーシーは、物心ついた頃にはもう一人前として扱われてきた。
助けられてきたことを知っているからこそ、今は自分が他の孤児を気にかけている。
年はアリスより下なのに、もう自分の足で立っている。
それが、誇らしくもあり、少し眩しくもあった。
粉挽きの娘として守られて育った自分と、居場所を選びながら生きてきた彼女。
違いはあっても、アリスにとってルーシーは妹のようで、そして本当の友達だった。
けれど、アーサーの名が出ると、二人の間にはほんの少し沈黙が落ちる。
理由を言葉にしたことはない。
それでも、お互いが同じ方向を見ていることだけは分かっていた。
抜け駆けはしない。
それは約束ではなく、確信だった。
「アリス、ルーシー。遊んでないで野菜を持ってきなさい。夕食が遅くなるでしょ」
エディルの声が飛ぶ。
「はーい、今行きます!」
ルーシーが応じ、アリスは洗い終えた野菜をたらいにまとめて抱え上げた。
ふと振り返ると、川面は夕焼けに染まり、赤く揺れている。
その色が、不意にあの日を思い出させた。
診療所に集まった人々の熱気と、その中にあった冷たい視線。
あのときは、アーサーがいたから収まった。
けれど、あの代官が本当に引き下がったとは思えない。
胸の奥に、小さな不安が静かに残っていた。
診療所の慰問を終え、外に出たアーサーは足を止めた。
十日ほど前の毒草騒ぎ以降、診療所に運ばれる者が目に見えて増えている。軽い発熱や腹痛ばかりだが、同じ訴えが続くのは気味が悪い。
祝福を求められ、個人宅を回ることも増えた。
病人が増えるだけでも落ち着かないのに、村では別の話が広まり始めている。
――流浪人が呪いを持ち込んだ。
誰に聞いても、「村でそう聞いた」としか言わない。
「ウルフがそんなことをするはずがない」
小さく呟き、眉を寄せる。
助けてもらったのは事実だ。
それを知っているのに、黙っているのは違う気がした。
だから彼は、会う人ごとに言って回った。
噂は根拠がないこと。
流浪人は頼りになる人間だということ。
それが火に油を注いでいるとは、考えもしなかった。
教会へ戻ると、入口でピーターが待っていた。
「アーサー様。少々よろしいですか」
声は低く、表情は硬い。
「……何かあった?」
逃げたい衝動を抑え、背筋を伸ばす。
「村中で〝流浪人は良い人だ〟と触れて回っているそうですね」
「事実だからだよ。間違っているのか?」
「間違いかどうかではありません」
ピーターは一歩近づく。
「あなたは司祭です。しかも――クロムウェルの名を背負っている」
その名を出され、アーサーの肩がわずかに強張る。
「呪いの噂がある相手を、あなたが庇う。それがどう見えるか分かりますか」
「見えるも何も、助けてもらったんだ。根も葉もない話を放っておけない」
「放っておくのです」
きっぱりと言い切られる。
「あなたが動けば、噂は〝特別扱い〟になります。悪意ある者にとっては、格好の材料です」
アーサーは言葉に詰まった。
「あなたには守るべきものがある。彼一人ではないでしょう」
「……でも」
「今は何もしないでください」
ピーターの視線は逸れない。
「代官殿の耳に入れば、話は別の形になります。
それは脅しではなく、事実だった。
沈黙が落ちる。
「……分かった」
納得はしていない。
それでも、ここで自分が動いて波を立てることの重さは理解できる。
「軽率だった」
小さくそう言うと、ピーターは深く息を吐いた。
「考えてから動いてください」
それだけ言って去っていく。
残されたアーサーは、その場に立ったまま動かなかった。
何もしないことが正しいのか。
それとも、ただ楽なだけなのか。
答えは出ないまま、夕方の鐘が鳴った。
ある晩。
ウルフは焚火の前に腰を下ろし、野兎を炙っていた。
脂が火に落ち、小さく爆ぜる。
焦げる匂いが夜気に溶けた。
最近は、頭のおかしい神父に絡まれたり、村の揉め事に引きずり込まれたりと落ち着かなかった。
今はただ、静かに肉を焼くだけでいい。
(次は何があっても手は出さん。面倒を持ち込まれるなら、場所を変える。そもそも、ここでの目的はもう終わっているのだからな……)
岩塩を削り、肉に振る。
そのとき、森の奥で枝が鳴った。その音にウルフが顔を上げると、四つ足のシルエットが闇の中で近づいてくるのが見えた。
──犬だ。
「野犬か。肉はやらん」
だが犬は肉を見ない。それは明確に躾られた動きだった。
犬はただ、低く唸り、視線はまっすぐウルフを射抜いている。
獲物を見る目ではない。
「……飼い犬か」
ウルフはゆっくり膝を折り、視線を外さずに低く構えた。
喉の奥から、短く息を吐く。
「ガウ」
それだけで十分だった。
犬は一瞬で腰を落とし、腹を見せた。
ウルフは軽く腹を撫で、耳を伏せた犬をそのままにする。
だが立ち上がらない。
森の奥に、別の気配がある。
風ではない。
獣でもない。
焚火の火が小さく揺れた。
【続く】




