第六話「スポンジと犬」①
「旦那様、入ってもよろしいでしょうか?」
トーマスが羽ペンを走らせる代官邸の執務室の戸の向こうから、幼い声が控えめに問いかけた。
彼は一瞬だけ戸口へ視線を向けたが、すぐに書類へと戻し、何も言わない。
やがて、十歳ほどの少年給仕が銀の盆に水差しと杯を載せて入室する。
少年は一礼し、静かにトーマスの脇へ水差しを置くと、盆を抱え直し、もう一度深く頭を下げて退室した。
足音が遠ざかってから、ようやくトーマスは筆を止める。
水差しから器にエールを注ぎ、乾いた喉を潤した。
あの少年は、先月入ってきたばかりだったか。
たしか、一人で給仕するのは今日が初めてだったはずだ。主人を前にして、あの緊張ぶり。幼いなりに礼を尽くそうとする姿勢は悪くない。
その様子に、トーマスはふと別の少年を思い出す。
アーサー。
この村へ来たばかりの頃の──あの私生児だ。
目の前に立つと、怯えたように緑の瞳を見上げ、ただ次の言葉を待っていた。
慣れぬ土地と大人への恐怖、そして『先生』への畏れと尊敬がないまぜになったあの眼差し。
あれは――実に心地の良い光景だった。
何かを命じれば、必死に教えの通りに応えようとする。
その懸命さを、可愛らしいと思ったことすらある。
(子供は、あのくらい素直で良いのだ)
そう、子供は『先生』から注がれた水を、スポンジのように飲めばいいのだ。
──それで良いのに。
トーマスは先日、孤児を助けるために自分の前に立ちはだかったアーサーの振る舞いを思い出し、頭に血が上るのを感じた。
アーサーには二人の教育係がいる。
アッシュワース村に来る際にクロムウェルが寄こした教区書記ピーター・フィンチと、受け皿となるペンストレイト領の常識を教え込む役割を負った、村の代官トーマス・バートン。
そもそもトーマスがこの村で、領主ペンストレイト男爵の名代ともいえる代官を任されたのは、アーサーの存在があってこそだった。
現在は代官だが、もとは領主付きの事務所で荘園の会計に関わる書記官をしていた。
出身はアッシュワースではなく、男爵の本拠地イーストブリッジウォーター近郊のホークストン。家は代々、領内の荘園管理をする部署に勤める下級書記官の家系である。
生まれる前から定められた道のように事務所へ入り、書記官となった。
持ち前の数字への強さで任される仕事は増え、法務、会計、記録、書類作成を通して、「領主の利益の最大化」という論理を徹底する管理者として重用されてきた。
情に流されず、規定を守らせる。
疑り深く嫉妬深い性質は、この職には皮肉なほど向いていた。
だが同時に、その性格と優秀さゆえに周囲には疎まれてもいた。
もっとも、トーマスからすれば心外だった。
忠実に職務を果たしているだけなのに、厳しいだの心がないだのと言われる。賄賂や相手の立場で扱いを変えるなど論外だ。
平民であろうと貴族であろうと、領主の定めた税を納めるのは当然のこと。
嫌われようが構わないと、本気で思っていた。
そんなトーマスの転機は、クロムウェル家に奪われていたフェリー権をペンストレイト家が取り返し、その代償としてアッシュワース村がクロムウェル伯爵の私生児を受け入れることになった時だった。
ある日、トーマスは荘園総監に呼び出される。
アッシュワース村の代官になれ、と。
突然の赴任命令に、胸の奥が冷えた。
自分は仕事で追随を許した覚えはない。いずれは総監の席も視野に入るはずだった。それが農村の代官とは。
代官という立場は軽くない。出世といえなくもない。
だが事務所で積み上げてきた経歴を捨てることになるのも事実だった。実質的な左遷ではないか。
しかも、どこぞの女が産んだ私生児の監視と教育係まで。
「それが男爵様のご判断ですか。私から職務を奪い、子守でもしろと?」
思わず問いただすと、総監は苦い顔で首を振った。
「誤解だ。フェリー権返還の後処理で人手が足りぬ。マナーハウスのウィットニー殿も多忙だ。直々にトーマス殿の手を借りたいと。男爵様も期待しておられる。頼む」
期待されている、と言われれば黙るしかない。
事実、領内は疲弊していた。
十年余り、渡し場の通行税を握られていた間に主要な流通は細り、畜産や羊毛、農地で補おうとしても赤字は膨らんでいる。アッシュワースはその内地産業の要だった。
難しい場所だからこそ、自分が選ばれた。
理屈は理解できる。
それでも、私生児の世話まで背負わされるのは不本意だった。
王室の勧告によってフェリー権の返還は決まった。
だがクロムウェル伯爵は、ただでは手放さなかった。
代わりに求めたのは、聖ヒュー教会のパトロネージ権――司祭を任命する権利と、領民が収穫の一割を教会へ納める「十分の一税」を監督する権利。
畑の麦も、羊の仔も、蜂蜜の壺も。
その一部は必ず教会を通る。
世俗の権限では奪えぬ教会権益を盾に、敵領の内側へ恒久的な足場を築く。
クロムウェルは、教会という楔を打ち込んだのだ。
その楔は象徴ではない。
収穫の一割が集まる場所には、必ず金の流れが生まれる。
その流れを帳簿の上で制御できる者が必要だった。
だから自分が選ばれた。
そして、その楔そのものとして送り込まれてきたのが、あの私生児だった。
トーマスは結局、不承不承ながらもアッシュワース赴任を受け入れた。
代官就任に乗り気ではなかったトーマスの胸中を察してか、用意された邸宅は貴族が住んでもおかしくない造りだった。
予想以上に立派な佇まいに、長年住み慣れた街を離れるのを渋っていた妻ヘレナも、手習い先から戻ってきていた子供たちも、揃って目を丸くした。
もっとも、この邸宅は単にバートン一家を迎えるためだけのものではない。
トーマスが仕事をしやすい環境を整えるためであり、ひいては伯爵の子を預かるに足る場所として整備された意味合いも強い。
どんな形であれ、新代官の労苦に報いようとする男爵の配慮は伝わった。
それを感じ取ったとき、トーマスは腹をくくった。
それでも、積み上げてきた経歴を断ち切られたという思いまでは消えない。
敵地から送り込まれた伯爵令息──しかも私生児。
貴族の血を持ちながら正統でないその存在は、どうしても胸の奥に澱を残した。
任された以上、徹底的に分を弁えさせるしかない。
奪われたものを、この子を立派に仕立て上げることで取り返す──そんな思いもあったのだろう。
苛立ちを押し込めるように、トーマスはアーサーを厳しく教えた。
貴族の作法に疎い部分は、元貴族である妻ヘレナや、教会で家政を担うマーサの助けを借りながら補った。
幸いにも、アーサーは素直で従順だった。
教えれば教えただけ応えようとする。
その姿は、トーマスの歪んだ支配欲を満たし、同時にどこか愛らしくも映った。
アーサーを教育するにあたって、面倒なこともあった。
クロムウェルが寄こした教区書記ピーター、そして聖ヒュー教会の教会長ジャイルズ。
教育方針を巡って、彼らとはたびたび衝突した。
ペンストレイト領に住む以上、教育は一貫して行われるべきだとトーマスは考えていた。だが現実は違った。
彼らは度々、「代官殿のやり方は厳しすぎる」と批判し、時には真逆のことを言ってアーサーを慰め、庇う。
その結果、アーサーは真面目ではあるが、どこか甘さを残した子に育った。
それが、トーマスには悔しかった。
やがてジャイルズが体調を崩し、寝たきりとなると干渉は減った。
ピーターとも次第に折り合いがつき、表向きは二人で話し合いながら教育する体制が整っていった。
甘さはあるが、アーサーは優秀だった。
教会の手習いを始める頃には、聖務に必要なラテン語も、貴族社会に欠かせぬフランス語も習得していた。身なりさえ整えれば、どこぞの正統な貴族の子息と見まがうほどだ。
男爵の息子エドウィンとともに本宅へ招かれることもあり、そのたびに「躾が良い」と男爵から言葉を賜った。
それはトーマスの誇りでもあった。
だが、子供はいつまでも子供ではない。
年を重ねるごとに、怯えるだけだった視線に、貴族の令息らしい強さが混じり始めた。
従順でいるように育てたはずなのに。
ときおり見せる反抗の色は、恐らくピーターの影響だろう。
代官として教育を任された自分を差し置いて、教会の中で何を吹き込んでいるのか。
だが教会の内側にまでは踏み込めない。
十五になると、アーサーは司祭の道を本格的に歩むため、オックスフォード大学へ進学した。
一時的に村を離れ、戻ってきた頃には、もはやかつての少年ではなかった。
表面上は従順だ。
だが必要とあれば、クロムウェルの名を盾に言い返す。
それが、トーマスには面白くない。
これまでその血筋ゆえに村人との接触を制限してきた。
だが今のアーサーは、その血を巧みに使い、村で影響力を広げつつある。
孤児を抱え込むのも度を越している。
ついには村政にまで口を出すとは。
診療所で起きた毒草騒ぎを思い出し、はらわたが煮えくり返る。
犯人など裁くまでもなく孤児でよかったはずだ。それを割って入り、ルーシーを庇った。
しかも、あの流浪人を横に従えて。
危険な野蛮人がアーサーの傍にいれば、クロムウェルの影響はさらに強まる。
――放置してよいはずがない。
「だから、あの流浪人を村から追い出す。そして孤児にも身の程を教える。アーサーには、自分の立場を思い出させるべきだ」
トーマスには、すでに準備があった。
「水を吸わなくなったスポンジは、一回搾り上げてやる必要がある……」
そう言って器のエールを一気にあおった。




