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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第85話「デマンド交通、目的地が洞窟と空中庭園」

◆朝・ひまわり市デマンド交通運行センター(静かな朝ほど、画面の文字がよく刺さる)


 始発前の運行センターには、独特の静けさがある。倉庫と事務所の中間みたいな建物の中で、電話機の受話器がきちんと揃えられ、配車表がホワイトボードに貼られ、昨日の最終便で回収した忘れ物が棚の上に置かれている。まだ乗客の声はなく、車両も洗車を終えたまま白い朝の光を受けて休んでいる。その静けさは本来、今日も町の足が問題なく回るはずだという前提に支えられている。病院へ行く人がいて、買い物へ出る人がいて、免許を返納したあとも暮らしの範囲を縮めずに済むよう、予約に合わせて小型車が迎えに行く。派手ではないが、こういう地味な仕組みがあるから町はちゃんと生活できる。


 その前提が、今朝の配車画面ではひどく頼りなかった。


 委託運行会社の事務担当、宮野は、タブレットの前でしばらく瞬きの回数が減っていた。画面に出ている文字を、見間違いだと思いたかったからだろう。けれど、予約一覧は目をこすっても変わらない。九時二十分、迎車先は温泉通り入口、目的地は「ひそやかなる試練の穴」。十時四十分、迎車先は駅前旅館、目的地は「空中庭園(雲の階段・第三踊り場)」。備考欄には、ご丁寧に「花だけ見て帰ります」「初心者なので近くまで」などと書かれている。


 洞窟まで近くまで、という日本語がまずおかしい。近くに行ける前提もおかしい。そもそも、デマンド交通はそういう夢を見るための乗り物ではない。


 運転手の谷口は、配車票を受け取ろうとしてその文字を見た瞬間、眉間に深い皺を寄せた。


「宮野さん、これ、どこ走るんですか。俺、昨日まで病院とスーパーしか運んでませんよ」


「私もそう思ってます。でも、アプリ上では選べてるんです」


「選べるから行けると思うでしょう、普通は」


「普通はそうです」


 谷口はそこで一度、待機中の車両越しに外を見た。始発を待っている利用者のうち、今日は杖をついた高齢の女性が一人、入口脇のベンチへ座っている。毎週金曜の整形外科へ行く藤田さんだ。受付時間があるから、予約はずらせない。生活の移動は、こうして時間と一緒に組まれている。その横で「雲の階段・第三踊り場」が同じ画面に並んでいるのだから、気持ちが悪くならないほうがおかしい。


 宮野はその藤田さんの予約欄を見て、さらに顔色を悪くした。観光目的らしい新規予約が二件入ったせいで、配車の自動最適化が組み替わり、病院便の到着予定が本来より十二分遅くなっている。十二分といえば短いようで、受付番号が前倒しで動く病院には十分長い。ふだんなら運転手が経験で調整してしまう範囲だが、調整の前提が洞窟では話が違う。


「これ、生活便が食われてるじゃないですか……」


 谷口が低く言うと、宮野はすぐに配車を手で戻しかけたが、システムは再計算のたびに「同一方面への効率的運行」を最優先し、温泉通りと洞窟方面をひと続きの便として束ねようとする。方向が近ければ同じだと判断しているのだろう。山道の現実を知らない画面は、ときどき残酷なくらい素朴だ。


 ちょうどそのとき、藤田さんが入口から顔を出した。


「宮野さん、今日、少し遅いのかい」


 声音に責める気配はない。ないからこそつらい。毎週同じ時間に乗っている人は、数分のずれを責めるより先に「何かあったのか」と心配する。町の足を信用している人の聞き方だ。


 宮野は慌てて外へ出た。


「大丈夫です、すみません、少し確認がありまして。でも病院へは必ずお連れします」


「そうかい。ならいいよ。今日はレントゲンだけだから、ちょっと早めに行きたかっただけさ」


 その一言が余計に重い。病院へ早めに行きたいのは、待合室で息を整えたいからかもしれないし、診察のあとの買い物まで頭に入っているからかもしれない。そういう生活の積み上げの上に、洞窟の予約が乗ってはいけない。


 宮野はすぐに市役所へ電話した。最初は交通政策係にかけたが、途中で「たぶん異界案件です」と言われ、結局いつものように異世界経済部へ回される。庁内で「説明しにくいことは異世界経済部へ」が定着しつつあるのは、たぶん町としてあまり良くないが、だからといって今日の朝にそこを正している余裕はなかった。


◆朝・ひまわり市役所 異世界経済部(生活の足に観光の夢が混ざると、だいたい誰かが泣く)


 市役所の朝には、何も起きていないように見えて、起きる気配だけが濃い日がある。廊下を歩く足音は静かで、コピー機もまだ本気を出していないのに、誰も無駄話をしない。そういう朝は、たいてい最初の電話一本で一日の形が決まる。


 交通政策係の職員が、顔色を一枚ぶん失ったまま異世界経済部へ入ってきた時点で、勇輝はもう半分察していた。


「何が来た」


 短く聞くと、職員はタブレットを両手で差し出した。


「デマンド交通の予約画面が……いま、こうなってまして……」


 画面には、宮野の運行センターで見ていたのと同じ文字が並んでいる。


【目的地:ひそやかなる試練の穴】

【目的地:空中庭園(雲の階段・第三踊り場)】


 勇輝は、声を出す前に一度だけ鼻で息を吸った。笑うのも怒るのも早い。まず、何がおかしいのかを順番に確認しないと、自分がいちばんおかしくなる。


「これ、生活交通の画面だよな」


「そうです。通院、買い物、役所手続き、金融機関、あと登録済みの生活関連地点が目的地として入っているはずなんですが……住民が新しい目的地を申請できる入力欄があって……」


「入力欄があったら、なぜこうなる前提で止めなかった」


「導入当時の資料に、『住民主体で目的地を育てる柔軟な交通』って書いてありまして……」


「柔軟すぎて洞窟まで曲がったのか」


 美月が横から覗き込み、最悪のタイミングで少しだけ楽しそうな顔をした。


「“雲の階段・第三踊り場”って、語感だけならかなり良いですね」


「語感で交通をやるな」


「でも、行けたら人気出ますよ」


「行けるかどうかの前に、そこは住所なのか」


 加奈がその会話へ、地面のある方向から戻すみたいに口を挟んだ。


「デマンド交通って、もともと病院とかスーパーへ行くための足だよね。お年寄りとか、車がない人が困らないための」


「そう」


 勇輝は頷いた。


「だから、目的地に洞窟が混ざった時点で、笑い話じゃなくて制度の事故なんだよ」


 市長がコーヒー片手に現れたのは、そこだった。妙に落ち着いているのが嫌な予感しかしない。


「洞窟と空中庭園か。観光の芽としては面白いな」


「市長、生活交通が観光の芽に飲まれかけてるんです」


「だが、行きたい人がいるのも事実だろう」


「いるでしょうね。でも、行きたい人がいることと、明日から車を出していいことは別です」


 交通政策係の職員が、小さく助けを求めるように言った。


「委託先の運転手さん、もう泣きそうでした……“洞窟って車両保険の対象なんですか”って……」


「泣くよ。そこは泣く」


 そのとき、内線ではなく直通の電話が鳴った。運行会社からだ。勇輝が受けると、宮野ではなく谷口本人の声だった。現場が限界に近い声であることは、受話器の向こうの息づかいだけで分かる。


『主任さん、いま洞窟予約のお客さん、もう乗る気で待ってます。断ったら“アプリに出たんだから行けるはずだ”って』


「出ても、行けるとは限らない」


『その説明を俺がすると、ただの運転手の言い訳に聞こえるんです』


 それは本当にそのとおりだった。制度のミスで出た誤認は、制度側が回収しないと現場だけが悪者になる。


「分かりました。出発は一旦止めてください。こちらで現地確認します。お客さんには、市が判断のため向かうと伝えてください。あと、藤田さんの病院便は自動配車から切り離して先に出してください」


『そこまで見えてましたか……助かります』


「生活便を食わせないで。今日はそれが最優先です」


 電話が切れると、勇輝は手帳を閉じた。


「行くしかない。洞窟と空中庭園、両方見に行く。その上で、生活交通で混ぜてはいけない理由を、現場と画面の両方から片づける」


 美月が勢いよく手を挙げる。


「記録係で同行します!」


「実況係にはしない」


「分かってます。今日は本当に記録だけです」


「その“本当に”が毎回少し怪しいんだよ」


 加奈もすぐに言った。


「私も行く。現場で予約した人がいたら、説明役がいたほうがいいでしょ」


「助かる」


 市長は当然のように最後尾へついた。


「洞窟も空中庭園も、今後どう扱うかを考えるなら、現地は見ておいたほうがいい」


「見に行くまではいいです。でも、その場で『面白いから走らせよう』はなしでお願いします」


「善処しよう」


「善処じゃ足りないんですよ」


◆午前・デマンド車両で町外れへ(生活交通の車内に冒険心を持ち込むと、空気がすぐ不穏になる)


 委託運行会社の小型車は、いつもどおりの白い車体で待っていた。側面には市のロゴと「ひまわり市デマンド交通」の文字。今日も本来なら、病院へ向かう人や買い物帰りの荷物を乗せて、細い住宅地の道を静かに回っているはずの車だ。その後部座席に、市長と美月が並び、助手席には加奈が座っている。谷口はハンドルを握ったまま、まだ気持ちの整理がついていない顔だった。


「主任さん、本当に洞窟まで近づくんですか」


「近づけるところまでです。行けるかどうかの確認なので、無理ならすぐ止めます」


「デマンドって、家と病院とスーパーをつなぐ仕事じゃなかったでしたっけ」


「そうです」


「ですよね……」


 谷口の声に、長年この仕事をやってきた人間の生活感覚が詰まっている。目的地が読めるからこそ、乗せる相手の暮らしも見える仕事だ。通院の曜日、買い物の癖、雨の日の歩き方。そういうものが全部あるのに、そこへ突然「ひそやかなる試練の穴」が混ざる。気味が悪くて当然だった。


 予約した利用者は、温泉通り入口で待っていた。まだ若い男性で、服装は普通の観光客より少し動きやすそうだが、いわゆる危険な人ではない。むしろ、アプリの機能を素直に信じた結果ここに立っている人の顔をしていた。


「市の方ですか? よかった。行けるかどうか確認してくれるんですよね」


「確認はします」


 勇輝は穏やかに言った。


「ただ、先に言います。アプリに出ていたからといって、そのまま運行できるとは限りません。生活交通には安全確認や運行条件があります」


「でも、追加候補に出てたんです。住民が使えるってことは、地域に開かれてるって意味ですよね」


 その理屈も分からなくはない。だから余計に厄介だ。システムがそう見せた以上、利用者だけを責められない。


「その説明も含めて、現地で整理します」


 車は町はずれへ向かい、舗装路を抜け、森の入口近くまで来た。そこから先は道と呼ぶには微妙な幅しかなく、対向が来たらどう避けるのか考えるだけで頭が痛い。さらに進むと、木々の間に黒い口が見えてきた。洞窟だった。見事なくらい洞窟で、地面の湿り気も空気の冷たさも、観光ポスターより先に安全担当の顔を曇らせる種類の洞窟だった。


 入口には手作りの看板が立っている。


『ひそやかなる試練の穴(初心者歓迎)』


 勇輝は降りた瞬間、その看板を見て言った。


「初心者歓迎って書けば、何でも優しく見えると思うのやめてほしい」


 市長はなぜか少し感心していた。


「名前は悪くない」


「いま評価するのそこじゃないです」


 谷口は車から降りず、前方の地面を見ている。


「主任さん、ここ、切り返しどうするんですか。もし前から何か来たら戻れませんよ」


「だろうな」


 洞窟の前には簡単な駐車スペースらしき空きがあったが、それも乗用車二台でいっぱいになる程度だ。段差もあり、乗り降りを補助する前提のデマンド車両には向かない。しかも周辺にトイレも待合もなく、雨の日を考えただけで中止判定が増える。


 予約した男性が、期待と不安を半々にした顔で聞いてきた。


「で、どうですか。近くまでは来られるなら、すごく便利だと思うんです。市の交通って、高齢者だけじゃなくて、町を楽しむ人にも開いていいんじゃないですか」


 その問い自体は悪くない。悪くないから、簡単に切って捨てるのも違う。


 加奈が先に言葉を選んだ。


「考え方としては、間違ってないと思うよ。町を楽しむ人の足も大事。でもね、いまのデマンド交通は、まず生活の足を絶対に外さないための仕組みなの。だから、病院へ行く人と洞窟へ行く人が同じ枠で競うと、困る人のほうが先に困っちゃう」


 男性は少しだけしょんぼりしたが、聞く耳は失っていない。


「生活の足と観光の足を、分けるってことですか」


「そうです」


 勇輝が引き取る。


「さらに言うと、ここは車両安全、乗降補助、保険、待避、天候時の判断、全部が未確認です。『行きたい人がいる』だけでは走らせられません」


 その瞬間、洞窟の奥からひゅう、と冷たい風が吹いた。大げさな演出みたいにタイミングがよくて腹が立つ。風はたいして強くないのに、谷口の肩がさらにこわばった。


「主任さん、やっぱり生活交通の顔ではないですよ、ここ」


「分かってます」


 勇輝は入口の看板をもう一度見た。


「観光資源にはなり得る。でも、生活交通へそのまま混ぜる場所ではない」


 市長がその横で静かに頷いた。


「現場で見ると、たしかに線が引きやすいな」


「だから最初から言ってたんです」


 そのとき、美月が洞窟入口の横に立つ別の看板を見つけた。木札でできた小さな案内だ。


『達成証あり。週末は案内人待機』


「主任、ここ、もう半分観光化してます」


「だろうな。でも半分観光化してる場所って、一番制度に乗せにくいんだよ。責任が誰にも固定されてないから」


 市長がそこで、ようやく観光課の仕事の顔になった。


「なら、まず管理主体をはっきりさせる必要がある。生活交通へ載せる以前の話だな」


「そうです。やっと同じ地面に降りてきましたね」


◆午後・天空橋入口広場(車で行ける場所と、車で行った気になっていい場所は違う)


 洞窟の件をいったん保留し、次は空中庭園のほうへ回った。こちらはさらにややこしい。空中庭園そのものは、異界側の浮遊地形に作られた観光名所で、季節ごとに花が変わり、空の近さが売りの場所らしい。だが、そこへ至るには町はずれの天空橋入口広場まで車で行き、そこから先は歩きか、異界側の昇降装置を使うしかない。つまり、車で行けるのは入口までで、予約画面に書かれていた「雲の階段・第三踊り場」は、最初から車両の目的地ではない。


 入口広場にはすでに、別の利用者が待っていた。年配の夫婦で、服装からして観光目的なのは明らかだったが、見た目の派手さより「スマホで調べて、行けると信じて来た」人たちの慎重さがあった。


「ご迷惑でしょうか」


 妻のほうが先に言った。


「アプリに出ていたので、市の交通なら安心かなと思ったんです。橋の入口まででもいいんです。ただ、どこまでが車で行けて、どこから先が自己責任なのか、画面では分からなくて」


「その疑問は正しいです」


 勇輝は、ここでは洞窟より少しだけ救いがあると感じた。少なくとも、この広場までは実際に車で来られる。生活交通の目的地としてそのまま入れるのは違うが、「まったく無関係な場所」でもない。だからこそ、混ざると面倒なのだ。


 広場には観光案内の簡易板があり、その先へ続く天空橋の入口には異界側のスタッフが立っている。徒歩観光客はいる。週末にはそれなりに人気だろう。問題は、その人気を生活支援の車両へ雑に乗せてしまったことだった。


 加奈が案内板を見ながら言った。


「ここなら、“入口広場まで”と“空中庭園そのもの”を分ければ、かなり整理できるね」


「そう」


 勇輝は頷いた。


「車が着けるのはここまで。ここから先は別事業、別責任、別案内。予約画面に『第三踊り場』まで書いた時点で、利用者の頭の中ではもう車がそこまで行くことになってる」


 美月はその言い方に、少し反省したような顔をした。


「アンケートで『異界スポットにも行けたら最強』って書いた時、私、そこまで分けてなかったです」


「だろうな」


「でも、行きたいって声が大きいのも本当です」


「それも本当だ。だから潰すんじゃなくて、仕組みを分ける」


 市長はそこで、ようやく完全にこちらの論理へ乗ってきた。


「生活デマンドと観光シャトルを分ける。生活側は登録済み停留所のみ、観光側はルート固定、時間固定、安全確認済みの場所だけ。入口広場までは観光シャトルで連れて来て、その先は徒歩または異界側設備に接続する」


「その方向なら、かなり現実的です」


 谷口が運転席から身を乗り出した。


「観光用なら、車両も説明も変えられます。生活便みたいに、家の前まで細かく回りながら『次は雲の階段です』は、やっぱり無理です」


 その一言は重かった。生活便の本質は、家から目的地まで細くつなぐことにある。観光シャトルの本質は、魅力のあるところへ分かりやすく連れていくことだ。同じ車でも、運ぶものが違う。生活をつなぐか、期待をつなぐか。その差は大きい。


 年配の夫婦は、事情を聞いてかえって安心したようだった。


「最初からそう書いてあれば、私たちも迷いませんでした」


「すみません。今はそこを直しに来ています」


 勇輝が答えると、夫は苦笑した。


「でも、こうして見に来てくれるなら、町としては誠実ですね。駄目なら駄目で、その理由が見えたほうが納得できます」


 その言葉に、谷口が少しだけ救われた顔をした。現場はいつも、「断る」だけをやらされるのが一番つらい。なぜ駄目なのかを制度側が引き受けてくれるだけで、だいぶ違う。


 広場の端では、ちょうど異界側の案内人が別の観光客へ「ここから先は足元に雲が寄りますので、滑りにくい靴で」と説明していた。言葉を聞けば聞くほど、これは生活交通ではなく、最初から観光の文脈で扱うべき場所だと分かる。病院や郵便局と同じ画面へ置いたのが、そもそもの事故だった。


◆午後・市役所ミニ会議(混ざったものを分ける時、ホワイトボードはだいたい偉い)


 市役所へ戻ると、交通政策係、観光担当、福祉側の移動支援担当、委託運行会社の宮野、それに異世界経済部を集めた臨時のミニ会議がすぐ始まった。議題は、ホワイトボードに勇輝が大きく書いたそのままだった。


『デマンド交通の目的地へ洞窟・空中庭園が混入した件』


 会議室の空気が少しだけ重くなる。笑えるようで笑えない、まさに今のひまわり市らしい議題だ。


 勇輝はボードに二本の太い線を引いた。


「まず分けます。生活デマンドと観光の足は、目的が違う。生活デマンドは通院、買い物、行政手続き、金融機関、福祉利用、そのほか登録済みの生活関連停留所。観光は別にする」


 ボードの左へ書く。


『生活デマンド

・登録済み停留所のみ

・運行区域内

・住所または安全確認済み地点

・日常生活目的を優先』


 右へ書く。


『観光シャトル(仮)

・異界スポット向け

・ルート固定

・時間固定

・安全確認済み地点のみ

・週末実証から』


 宮野がその文字を見た瞬間、肩の力が抜けるのが分かった。運行現場は「違う」と思っていても、自分の口だけでは言い切れない。制度の線として見えた瞬間に、ようやく呼吸できるのだろう。


「目的地の追加ボタンは、どうしますか」


 交通政策係が聞くと、勇輝は迷わなかった。


「生活デマンド画面からは外します。少なくとも自由入力ではなく、追加申請フォームと事前審査へ分ける。選べることと、申請できることを同じ画面に置かない」


 美月が手を挙げる。


「それ、UI的にも大事ですね。ユーザーって、一覧に見えた時点で『行ける』って思うので」


「今回はまさにそれで事故ってる」


「あと、アンケートは……」


「観光課へ引き渡して。交通の予約画面に混ぜない」


 市長がそこで、洞窟と空中庭園の扱いを具体に落とした。


「洞窟は、まず観光課と安全管理で現地調査。車両の転回、待避、崩落リスク、案内表示、トイレ、通信状況、全部確認してからだ。空中庭園は、天空橋入口広場までのアクセス便を将来的に観光シャトル候補とする。第三踊り場までは、当然ながら車両運行対象外」


「その線なら現実的です」


 観光担当も頷いた。


「人気があるのは事実なので、生活交通と切り離した上で育てるのがいいですね。中途半端に混ぜると、どちらにも嫌われる」


 加奈が、会議の空気を少し柔らかくしながら言った。


「住民の足って、毎日の信頼でできてるんだよね。『今日もちゃんと病院へ行ける』『予約したら買い物に行ける』っていう。その信頼の上に、観光のわくわくをそのまま乗せると、重さが違いすぎて傾くんだと思う」


 その言い方が、全員にすっと入った。数字や保険の話も大事だが、最後は利用者の信頼で制度は立っている。


 谷口は会議室の隅で、小さくしかしはっきりと言った。


「生活便の利用者さんって、予約が取れなかったり、目的地が曖昧だったりすると、次から使うのをためらうんです。こっちはそれが一番怖い」


「はい」


 勇輝は深く頷いた。


「だから、今日の修正は単なるバグ取りじゃない。生活交通の信用を戻す作業です」


 ここで福祉側の担当が一枚のメモを出した。午前中、藤田さんを病院へ送ったあとに聞き取った内容らしい。


「藤田さんが、『最近やっとアプリにも慣れてきたのに、急に知らない行き先が増えて怖かった』とおっしゃっていました。使い慣れない方ほど、画面に余計なものが増えると不安になります」


 その一言で、会議室の地面がさらに固まった気がした。観光の夢が悪いのではない。だが、その夢の表示一つで、生活の足を頼りにしている人が怖くなるなら、まず直すべきはそちらだ。


「そこも周知に入れます」


 勇輝は言った。


「『生活デマンドの目的地は整理し直しました。通院・買い物など、これまでどおり安心して使えます』と出す。変更の説明だけじゃなくて、安心を戻す文を入れたい」


 美月がその言葉を聞いて、端末のメモへ何かを書き込んだあと、少しだけ控えめに言った。


「広報も、その線で組みます。『異界スポットに行けるようになります』じゃなくて、『生活交通は生活を守る。観光は別便で検討』って順番で出す」


「今日はそれでいい」


「“今日は”って付けましたね」


「観光シャトルが制度になったら、その時はちゃんと盛り上げていい。ただし制度が先」


「分かりました」


◆夕方・予約画面の修正(消す作業は地味だが、町の信頼はだいたいそこで守られる)


 システム担当と交通政策係が一緒に、問題の予約画面を修正した。いままで「新しい目的地を追加する」と軽く書かれていたボタンは、「目的地追加のご要望はこちら」という別フォームへ移され、生活デマンドの一覧からは完全に分離される。一覧には、病院、スーパー、薬局、市役所、支所、郵便局、登録済みの生活支援拠点だけが並ぶ。地味だ。あまりにも地味で、画面としては華がない。だが、その地味さこそが、本来このサービスの信用なのだろう。


 さらに、交通政策係はもう一段だけ手を入れた。目的地名の横へ、小さく用途も表示したのだ。『ひまわり中央病院(通院)』『みなみスーパー(買い物)』『市役所本庁(手続き)』。見た目は少し野暮ったい。だが、何のための足かを、使う人が一目で確認できる。用途が見えるだけで、知らない行き先が急に紛れ込みにくくなる。


 勇輝は修正後の画面を見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。


「これなら、少なくとも“雲の階段・第三踊り場”が急に病院の隣へ出てくることはないな」


 交通政策係の職員が、本当に泣きそうな顔で頷いた。


「救われました……今朝、本当にどうなるかと思いました……」


「まだ終わってないよ。利用者への周知と、運行会社への説明が先」


「はい……でも、洞窟が消えただけで心が軽いです……」


 その気持ちはよく分かる。画面から文字が消えるだけで、制度の顔つきはずいぶん変わる。


◆夕方・支所前の乗降ポイント(戻したいのは、予約枠より先に“使っていい”という感覚だった)


 その日のうちに、交通政策係は主要な乗降ポイントへ臨時の案内を貼りに回った。支所前、中央病院前、みなみスーパー前、郵便局脇の待合スペース。デマンド交通を使う人たちは、アプリだけで完結しているわけではない。紙の掲示を見る人も、運転手へ直接聞く人も、窓口で予約する人もいる。だから、画面を直しただけでは半分しか直っていない。


 勇輝が最後に立ち寄った支所前では、ちょうど夕方の便を待つ利用者が二人、ベンチへ座っていた。ひとりは午前に整形へ行っていた藤田さんで、もうひとりは買い物帰りらしい男性だ。掲示を貼る勇輝の手元を、二人ともじっと見ている。


『デマンド交通の目的地表示を整理しました。

 通院・買い物・手続きなど、これまでどおり生活利用を安心してご予約ください。

 異界観光スポットは、別事業として安全確認の上で検討します。』


 短い文だが、今日の修正としては必要なことが全部入っていた。


 藤田さんが、貼り終わった紙を見上げて言った。


「こう書いてあると、ほっとするねえ。朝の画面、私は使い慣れてないから、病院の横に知らない文字が並んでるだけで、なんだか自分の行き先が間違ってるみたいで嫌だったのよ」


「すみません。今日のうちに戻せてよかったです」


「洞窟に行きたい人がいるのは分かるよ。若い人はそういうの好きだろうし。でも、病院へ行く画面は病院へ行く画面のままでいてほしいの」


 それがたぶん、今日一日でいちばん大事な言葉だった。制度を守るとは、ルールを守ることだけではない。使う人が、自分の用事のために遠慮せず開ける画面であり続けることでもある。


 買い物帰りの男性も笑いながら言った。


「観光の便ができたら、できたで乗ってみたいけどね。あっちはあっちで、ちゃんと“遊びに行く便”って顔をしていてくれたほうが気持ちいい」


「その顔を作るのが次の仕事ですね」


「なら、まず今日は病院とスーパーを守ってくれりゃいいよ」


 勇輝は頷いた。派手なことは一つもない。新しい観光シャトルが今日走るわけでもないし、洞窟が安全になるわけでもない。それでも、こうして乗り場の壁に一枚貼り紙が増えるだけで、町の足は少しだけ元の顔へ戻る。


 加奈が少し離れたところでそのやり取りを見ていて、目が合うと小さく笑った。たぶん彼女も同じことを思っていたのだろう。戻すべきはシステムの挙動だけじゃない。利用者の胸の中にある「これを使って大丈夫」という感覚そのものなのだ。


◆夜・運行センターへ一本の電話(生活の足は、ちゃんと生活へ返す)


 日が落ちるころ、勇輝は運行センターへ電話を入れた。谷口が出る。朝の声より、だいぶましだ。


『主任さん、画面、確認しました。ちゃんと病院とスーパーだけに戻ってます』


「洞窟は消えた?」


『消えました。いま見ると、朝のあれが夢みたいです』


「夢じゃないから困るんだけどな」


 受話器の向こうで、谷口が少し笑った気配がした。


『でも、助かりました。さっき藤田さんを整形に送ったあと、“今日はちゃんと病院って書いてあって安心した”って言われて。ああ、やっぱりこっちが本業だなって思いました』


 その一言で、今日の騒ぎの芯がようやく落ち着いた気がした。生活交通は、正しく動くと目立たない。目立たないからありがたいのだ。目立つ洞窟や空中庭園は、別の仕組みで迎えに行けばいい。混ぜないことが、どちらへの敬意にもなる。


「観光シャトルは、もしやるなら別でちゃんと組みます」


『その時は、最初から“観光の顔”でお願いします。生活便の顔で洞窟へ行くのは、やっぱり怖いです』


「その言葉、会議メモに入れたいくらいだな」


『入れてください』


 電話を切ったあと、庁舎の窓の外にはいつもの夜の町が広がっていた。病院へ行く人も、スーパーで買い物する人も、今日はもう家へ戻っている時間だ。空中庭園へ行きたい人はいるだろうし、洞窟を覗きたい人もいるだろう。だが、その願いと、毎日の足は同じ車両の同じ画面では扱えない。順番がいる。順番があるから、町は少しずつ広がれる。


 美月が帰り支度をしながら、まだ少しだけ未練ありげに言った。


「でも、空中庭園シャトル、ちゃんと制度になったら絶対人気出ますよ」


「出るだろうな」


「その時は、広報していいですよね」


「制度が先にできたら、いくらでもしてくれ」


「よし」


 加奈が笑いながら、その会話をやわらかく締めた。


「ほら、今日もちゃんと“混乱が仕組みになった”じゃない。ひまわり市らしいよ」


「らしさの方向が毎回ちょっとおかしいけどな」


 それでも勇輝は、最後にもう一度だけ手帳を見た。洞窟も空中庭園も、最終的には紙へ収まった。紙へ収まったからといって現地が急に安全になるわけではないが、少なくとも明日から運転手が病院の隣で「第三踊り場」を読むことはなくなる。まずはそれで十分だ。


 生活の足は生活へ返す。観光の夢は観光の仕組みで育てる。その切り分けができたなら、今日は悪くなかった。


 役所は、混乱をそのまま抱え続ける場所じゃない。混ざったものを分けて、分けたものをまた町の中で並べ直す場所だ。洞窟でも、空中庭園でも、最後はそうやって日常の横へ座らせるしかない。


 明日また別の画面に、別の妙な目的地が出るかもしれない。それでも、その時はまた線を引けばいいのだと、勇輝は夜の庁舎で静かに思った。

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