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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第86話「空き家対策:勝手にリフォームするスライム」

◆朝・商店街はずれの住宅地(古びた家が急に明るいと、人はまず足を止めてから不安になる)


 朝の住宅地には、だいたい似たような音がある。新聞受けの金属が軽く鳴る音、玄関先の植木鉢へ水をやる音、遠くの通学路から届く子どもの声、そして、長く人の住んでいない家の前だけが持っている、少し置き去りにされたような静けさだ。


 商店街から一本外れた細い道の角にも、そういう静けさを抱えた家が一軒あった。木造二階建て、庭は草に半分ほど飲まれ、雨樋はゆがみ、玄関脇の木戸は塗装が剥げて白く粉をふいている。去年の台風で屋根瓦の一部がずれ、近所の人が「危ないから何とかならないものか」と顔を曇らせたものの、所有者の親族と連絡がつきにくく、役所の記録の上でも「経過観察の必要がある空き家」としてしぶとく残っていた。


 だから、その家の前をいつもの散歩道としている山根さんが、その朝いちばんに違和感を覚えたのは当然だった。


「……あれ」


 杖の先が小さく止まる。いつもなら灰色っぽく見える外壁が、朝日を受けて妙に明るい。最初は、夜のあいだに雨でも降って濡れたのかと思った。けれど近づくほど、濡れたのとは違う光り方だと分かる。白い。しかも、ただ白いだけではなく、塗りたての漆喰みたいに均一で、ところどころ欠けていた板の継ぎ目まで妙になめらかに馴染んでいる。


 昨日まで、こんな顔はしていなかった。


 山根さんが恐る恐る門の前まで寄ると、玄関脇の壁が、ほんのわずかに波打った。


「ひゃっ」


 情けない声が口から漏れる。波打ったと思った場所から、透明な塊がにゅるりと剥がれ、畳んだ布みたいにくたりと落ちてから、また自分で形を起こした。丸い。やわらかい。つやつやしている。朝日を受けたその身体の中へ、向こうの景色が少しだけ透けて見える。


 スライムだった。


 しかも一匹ではない。玄関のたたきの隅に小さいのが二匹、雨樋の歪みを這うようにして一匹、さらに窓枠の上にも、ちょうどハタキでもかけるみたいな動きで伸び縮みしているものがいる。どれも慌てた様子はなく、見つかったから逃げようともしない。ただ淡々と、家の表面を舐めるように整え続けていた。


 山根さんは近所でも胆の据わったほうだが、それでも、空き家が朝のうちに勝手に小綺麗になっていて、その原因がぷるぷるした何かの集団だと分かったら、まず誰かへ電話したくなる。


「もしもし、町内会の佐藤さん? ごめんね朝から。あの角の空き家がね……ううん、泥棒じゃないの。もっと……もっと、ぬめっとしてるの」


 説明としてはかなり弱かったが、十分だったらしい。佐藤さんは五分後には現れ、その後ろから別の近所の人までついてきた。三人で門の外から覗き込み、全員が同じように黙り、最後に佐藤さんが低く言った。


「きれいには、なってるねえ」


 その感想がまた困る。怖いだけなら通報に迷わない。けれど、たしかにきれいになっているのだ。割れていた壁の一部は埋まり、黒ずんでいた木戸にはつやが戻り、庭へ倒れかけていた竹垣まで、なんだか少しだけまっすぐに見える。勝手にやられたのは大問題だが、結果だけ見ると、長く沈んでいた一角へ急に光が入った感じがある。


 だから近所の人たちは余計に困った。追い払うべきなのか、止めるべきなのか、それとも一度役所へ見せて判断してもらうべきなのか、善悪の手前で足が止まる。


 その迷いのあいだにも、スライムの一匹が壁のひびへ身体を薄く広げ、じわりと馴染んだ。次の瞬間、ひびの輪郭が消え、表面だけがやけに品よく白く整う。


「……うまいんだよねえ」


 山根さんが呟くと、佐藤さんも困ったように頷いた。


「うまいのが一番困る」


 その十分後、ひまわり市役所には「空き家が朝のうちに勝手に修繕されている」という、説明する側も受ける側も少し黙るしかない第一報が入った。


◆朝・ひまわり市役所 異世界経済部(前向きな議題ほど、現場へ出るとだいたい横から何かが生える)


 その朝の会議室には、珍しく空き家対策の資料がきれいに並んでいた。地図、空き家バンクの登録状況、移住相談の件数、老朽化家屋の一覧。どれも地味だが、町のこれからを考えるには避けて通れない。異界からの移住希望者が少しずつ増え、商店街の空き店舗や住宅地の空き家をどう活かすかは、ひまわり市にとって実際かなり大きなテーマになっていた。


 市長がホワイトボードに「空き家バンク」と書き、満足そうに振り返ったところまでは、ふつうの行政会議だった。


「移住相談の受け皿としても、景観の改善としても、今が動く時期だと思う。空いている家が増えると、町の気持ちまで少し沈むからな」


「方向性は賛成です」


 勇輝も資料をめくりながら頷いた。


「ただし、空き家対策は思っている以上に地味で重いです。所有者、相続、固定資産税、管理責任、応急措置、公費投入の線引き。景観だけを見て動くと、あとで権利関係が全部こちらへ返ってきます」


「だから役所がやるんだろう」


「そうです。だからこそ、雑に進められない」


 加奈は窓際の席で町の地図を見ながら、空き家の印が集まっている区域を指で追っていた。


「でも、放っておくと確かに空気が沈むんだよね。喫茶の帰りに通る道でも、庭が荒れてる家が一軒あるだけで、なんとなく夕方が早くなる感じがする」


「分かる」


 美月が珍しく真面目な顔で頷いた。


「写真で見ると、一軒だけでも景色の印象って変わりますしね。住んでない家が悪いんじゃなくて、手が届いてない感じが町全体に広がるというか」


 話がようやく地に足のついた方向へ乗り始めた、そのときだった。


「……勝手に直すな、なら、もう遅いかも」


 加奈が窓の外を見たまま、ぽつりと言った。


「え?」


 勇輝が聞き返すより先に、内線が鳴った。住宅政策担当からで、受話器を取った瞬間に向こうの声が半分裏返っているのが分かった。


『主任! 空き家の現場で、壁が動いてます!』


「壁が動いてる時点で、たぶんもう壁じゃないですね」


『白くなってるんです! それで、ぷるぷるしてます! あと床も……なんか、張り替わってます!』


「中まで入ってるのか」


『入ってます! でも、なんて言うか、荒らしてる感じじゃなくて……真面目なんです!』


 真面目な不法侵入が一番困る。勇輝は受話器を置く前から、会議室の全員がこちらを見ているのを感じていた。


「現場?」


 市長が聞く。


「現場です。しかも、善意っぽい感じで」


「善意っぽいのは厄介だな」


「だから言ってるんですよ」


 美月は椅子から半分立ち上がっていた。


「スライム系ですか!?」


「まだ確定してない」


「でも、ぷるぷるで壁塗ってるなら、かなりスライム寄りでは」


「推理が早い」


 加奈はもう紙袋を閉じながら、落ち着いた調子で言った。


「行こう。近所の人たちが一番困ってる顔してるやつだと思う。きれいになってるのに止めなきゃいけないときって、町内の空気が難しいから」


「それはそのとおり」


 勇輝は資料をまとめた。


「行きます。空き家対策の会議は中断。市長、加奈、美月、同行。住宅政策と法務照会もすぐ呼んでください。今日はたぶん、『助かるけどこのままではだめ』の整理になります」


 市長は立ち上がりながら、妙に満足げだった。


「前向きな議題が、その場で現場になる。悪くない流れだ」


「流れは悪いです。制度の前に現物が走ってるんですから」


◆午前・問題の空き家前(きれいになったことと、していいことは、いつも同じではない)


 現場へ着いた瞬間、勇輝も一度だけ言葉を失った。


 古びた木造の家は、昨日までの沈んだ色を脱いで、朝の光を正面から受け止めていた。白くなっている。しかも、やっつけで塗られた安っぽい白さではない。木の目を殺しきらず、もともとの家の輪郭だけは残したまま、古びた面だけを一枚やわらかく整えたような、妙に上手い白だ。雨樋の歪みはまだ完全には直っていないが、目立ち方が減っている。崩れかけていた塀の角も、危なそうなとげがなくなっている。


「……上手いな」


 市長が思わず言うと、勇輝はすぐ横から返した。


「上手いから困るんです。下手ならまだ全力で止めやすい」


 門の外には近所の人が数人集まっていた。誰も大声は出していない。騒ぎというより、判断待ちの空気だ。山根さんが勇輝たちを見るなり、少しだけ安心した顔になった。


「役所の人が来てくれてよかったよ。怖いんだけどね、正直。でも、見てのとおり、きれいにもなってて……」


「その迷い方、よく分かります」


 加奈がやわらかく答えた。


「だから今日は、そこをちゃんと整理しに来ました」


 玄関脇の壁で、透明な塊がぴたりと止まった。こちらに気づいたのだろう。小さな二匹が段差を上り下りし、大きめの一匹が窓枠からするりと降りてくる。やはりスライムだ。しかも、ただ漂っているだけの野生個体ではなく、作業者の気配がある。目的があり、手順があり、結果が見えている動きだ。


 そのうちの一匹が壁へ薄く張りつき、みるみるひびを均し、つやを揃えていった。塗料でも漆喰でもなく、自分の身体を薄膜みたいに広げて保護層を作っているらしい。コーティングという加奈の言い方がかなり近い。


「ねえ、これ、色を塗ってるというより、外壁を守る膜を作ってるんじゃない?」


 加奈の言葉に、住宅政策の職員が慌ててメモを取る。


「保護層……もしそうなら、雨風対策としてはかなり強いかもしれません」


「性能の話を始める前に、所有権です」


 勇輝は釘を刺した。


「誰の許可でやってるのか、そこが一番先」


 すると、玄関の中から別のスライムが現れた。丸い身体の一部を持ち上げ、何かを差し出している。ぬらりと濡れた紙。受け取るのをためらいたくなる見た目だが、差し出し方は妙に礼儀正しい。


「……書類?」


 勇輝が恐る恐る受け取ると、紙には見事に整った字でこう書かれていた。


『しんせいしょ

 このいえ いたい

 あめ はいる

 なおしたい

 すらいむ』


 美月が横から覗き込んで、目を丸くする。


「字、上手っ」


「そこを褒めるの早いって」


 もう一枚あった。


『かってに はいった

 でも くずれる まえ

 なおしたい

 まち きれい すき』


 言い分がまっすぐすぎる。悪びれていないが、開き直ってもいない。「順番は間違えたかもしれないが、悪いことだとは思っていない」という顔の書面だ。こういう相手は面倒だ。悪意がないから、叱れば済むわけではない。


「所有者は」


 勇輝が住宅政策の職員へ聞くと、相手はタブレットを見ながら答えた。


「固定資産税の納付先は県外の親族です。ただ、去年から郵便の受け取りが不安定で、電話も繋がったり繋がらなかったりで……実質、管理が空白に近いです」


「一番しんどいところだな」


 加奈は近所の人へ話を聞いていた。


「おじいちゃんが亡くなってから、庭も屋根もそのままなの。台風の日は瓦が一枚落ちかけて、うちの孫が通る道だからちょっと怖くてねえ。でも、誰に言えばすぐ動くのか分からなかったんだよ」


 町内会長の佐藤さんも腕を組んで言った。


「危ないとは思ってた。ただ、勝手に手を入れるわけにもいかないし、役所も持ち主が分からないとすぐは動けない。それが急に、朝起きたら白くなってるもんだから、これはこれで別の意味で怖い」


 まったくそのとおりだった。危険家屋を前にして「何とかしてほしい」という気持ちはある。だが、何とかするのがスライムの無断侵入であっていいはずがない。


 勇輝は玄関の前へ立ち、できるだけ簡単な言葉でスライムへ話しかけた。


「直したい気持ちは分かった。危ないと思ったのも分かった。でも、人の家は勝手に入ったらだめだ。まず、役所に言う。順番」


 スライムは、ぷるん、と一度だけ小さく揺れた。しゅんとしたようにも見える。分かっているのか、分かろうとしているのか、その境目が曖昧なのがまた厄介だ。


 市長が横から冷静に言った。


「ただ、危険の前で何もしないままよりは、ずっとましな結果も出ている」


「そこが一番困るところです」


 勇輝はため息を飲み込んだ。


「善意で違法を踏み抜かれると、止めるにも続けるにも手続きが倍要る」


 そのとき、屋根の端でわずかに木材が鳴った。昨日の風で浮いたらしい板が、まだ完全には危ない位置にある。住宅政策の職員が顔をしかめる。


「主任、これ、今日の夕方に雨の予報が入ってます。応急だけでも今やれたら、被害は減ると思います」


 その一言で、話は「きれいになっている」から「このままでは今夜また傷む」へ変わった。そこが現場の強さでもあり、役所の弱さでもある。理屈を整えている間に、雨は待ってくれない。


◆午後・玄関前の線引き(役所がその場でやるべき時は、やってはいけない範囲も一緒に引く)


 勇輝は少しだけ目を閉じ、頭の中で条例と運用マニュアルを並べた。空き家対策特措の扱い、危険家屋の応急措置、公的介入の限界、所有者通知、現状変更の記録。どれもきれいに片づく話ではない。だが、きれいに片づかないからといって、今夜の雨まで放っておく理由にもならない。


「よし」


 腹をくくって言う。


「今日は二つに分けます。勝手にやった部分は、違うと明言する。ただし、今夜の雨で危険が増える範囲については、行政立ち会いのもとで応急措置に切り替える」


 住宅政策の職員がすぐ反応した。


「外側だけ、ですね」


「外側だけ。屋根の浮き、雨樋の危険、外壁の剥離止めまで。内装は禁止。床も壁紙も勝手に触らない。中は権利関係がもっと重い」


 スライムへ向き直って、勇輝はもう一度、短い言葉を選んだ。


「中、だめ。外だけ。役所が見てる時だけ。合図があってから。勝手に始めない」


 スライムたちは数秒じっとしていたが、やがて一匹が地面へ細い膜を引いた。まるで「ここからここまで」という線を示すみたいに。


「……分かってるのかもな」


 加奈が小さく言う。


「掃除が好きな子って、境目をちゃんと示すとすごく頑張ることあるでしょう。あれに近い」


「町の制度を、掃除好きの延長で理解するなよって気持ちと、妙にしっくり来る気持ちが両方ある」


 美月はスマホを構えかけて、勇輝と目が合った瞬間にすぐ下ろした。


「今日は撮りません」


「今日は、じゃなくて今は、だろ」


「今もです。……でも、申請書だけは後で庁内資料用にスキャンしたいです」


「それはたぶん必要になるのが嫌だな」


 近所の人たちが見守る中、役所は玄関前へ立ち会い札を設置した。赤と白の簡易ポールで作業範囲を囲い、床へテープを引く。住宅政策の職員が写真を撮り、時刻を記録し、応急措置の理由を記載する。スライムはその線の外でぷるぷると待機している。勝手に始めないだけで、もうさっきまでよりだいぶ行政っぽい景色に見えるのが不思議だった。


 合図を出すと、三匹のスライムが一斉に動いた。外壁の剥がれへ薄く伸び、雨樋の継ぎ目へぴたりと沿い、浮いた木片の周辺を柔らかい膜で押さえる。その仕事ぶりは、やはり上手い。雑な塗りつぶしではなく、傷んだ箇所だけを見つけて薄く強く覆っていく。やっていることは応急だが、見た目の納まりが良すぎて、近所の人が「これは助かるねえ」と言い始めそうになるのを、勇輝は横で聞きながら半分だけ困っていた。


「助かるのはそうなんです」


 つい、近所の人へ説明みたいに口に出る。


「ただし、今日助かったからって、明日から全空き家へ勝手に入っていいにはなりません」


 山根さんが笑う。


「分かってるよぉ。難しいねえ」


「難しいんです。難しいまま進めるしかないんですけど」


 そこへ、住宅政策の職員が屋根の端を見上げて言った。


「主任、これ、外側の応急だけでもだいぶ印象が変わりますね。危険性も下がるし、景観も回復する。所有者と連絡が取れない家が増えている中で、使い道は本当にありそうです」


「だからこそ、今日ここで線を引く。便利だから何でもさせる、になると、次は権利関係が丸ごと壊れます」


 市長が、珍しくその言葉にすぐ同意した。


「応急措置とフルリフォームは別だ。景観改善と所有権の侵食も別。ここを分けるなら、制度にできる」


 その言い方に、勇輝は少しだけ救われた。市長が勢いだけで「面白いから進めよう」へ寄らないなら、今日の会議はまだましに着地できる。


◆午後・臨時調整会議(助かる技術ほど、役所は名前を付ける前に責任の所在を探す)


 庁舎へ戻るなり、異世界経済部、住宅政策、法務照会、総務、それに市長を交えた臨時会議が始まった。議題はホワイトボードへ太字で書かれた。


『スライム協力による危険家屋応急措置(試行)について』


 文字にすると、一気に条例の下書きみたいになる。美月がそれを見て、ちょっとだけわくわくした顔をした。


「名前としては、けっこう完成度高いですね」


「名前の完成度を褒める前に、中身です」


 勇輝はボードに大きく四本の線を引いた。


「まず一つ。無断侵入・無断改修は全面的に不可。これは絶対です。善意でも駄目」


 次に二つ目。


「ただし、危険家屋で、緊急の応急措置が必要で、かつ所有者対応が遅れている場合に限り、行政立ち会いで外装のみの補修を認める可能性がある」


 三つ目。


「作業主体としてのスライムは、ボランティア扱いにしない。責任の所在が曖昧になるので、『協力者』ではなく、実質的には委託相当の管理下に置く。少なくとも、誰がいつ何をしたか、行政側が記録する」


 四つ目。


「作業範囲、危険物の扱い、所有者通知、近隣説明、仕上がり確認。この五点をテンプレ化する」


 法務照会の職員が、珍しく少し前のめりで言った。


「中に入らない、材料の持ち込みをしない、現状変更は応急に限る、そこまで区切れば説明は立ちます。逆に言うと、その線を越えた瞬間にかなり厳しい」


「だから越えさせない」


 勇輝は即答した。


 加奈が会議の角をやわらげるように言う。


「結局、今日助かったのは本当なんだよね。空き家って、ただ古いだけじゃなくて、『誰も見てない感じ』が町の気持ちをしんどくするから。そこへ手が入ると、近所の人の顔も変わる。だから全部駄目では終わらせないほうがいい」


「そこは同意です」


 住宅政策の職員も頷く。


「景観改善効果は相当あります。ただ、きれいになったから良い、だけで押すと、次に別の権利者から止められたとき何も言えなくなる」


 美月が手を挙げた。


「じゃあ、広報はどうします? これ、絶対に『スライムが勝手に家を直した』だけ切り取られるとまずいですよね」


「まずい」


 勇輝は迷わず言った。


「だから外向きには出さない。少なくとも今は。先に内部の運用を作る。住民向けには、『危険家屋の応急措置を試行した』まで。スライムの存在を隠すわけじゃないけど、話題先行にしない」


「“ぷるぷる応急隊”は?」


「却下」


「まだ言い終わってないです」


「言い終わる前に却下できる」


 市長はそのやり取りを聞きながら、妙に真面目な口調で言った。


「名前は最後だ。先にやるべきは、町がどこまで頼るかを決めることだろう。便利なからくりとして扱った瞬間に、相手も住民も雑になる」


 それはかなり重要な指摘だった。スライムを便利な清掃道具みたいに扱えば、今度はスライムの側も住民の側も線を見失う。役所がやるべきなのは、そこへ先に責任の枠を置くことだ。


 勇輝は書き足した。


「“役所のお願いの時だけ手伝う”という条件を明記します。対象は危険家屋の外装応急のみ。作業開始の合図、終了確認、写真記録、所有者通知、公示手続き、全部セット。あと、申請様式も作る」


「申請様式、スライム用に?」


 美月が訊く。


「そう。字が書ける以上、申請経路を作ったほうがいい。言いにくいけど、申請なしで勝手に善意を持ち込まれるほうがもっと困る」


 会議室が一瞬だけ静まり、それから市長が頷いた。


「正しい。申請できる相手には申請させる。それが役所だ」


 加奈が笑う。


「今日の市長、やけに役所だね」


「いつも役所だ」


「たまに観光のほうへ寄るから、今日は真面目に見えるんです」


◆夕方・再び空き家前(線が見えると、善意は少しだけ町の中へ入れる)


 夕方、役所の立ち会い札が改めて例の空き家へ貼られた。今度は簡易の紙切れではなく、作業時間、範囲、責任部署、緊急連絡先を明記したものだ。近所の人にも説明し、住宅政策の職員が作業開始前と開始後の写真を撮る。スライムは門の外の植え込み脇で待機していて、勝手に動かない。合図と範囲を理解しているのが分かるぶん、やはりこの相手は「ルールを持てる」側なのだろう。


 作業範囲の白線が引かれ、屋根の端、外壁の剥離箇所、危険な雨樋の接続部だけがマーキングされる。中へ続く玄関には、大きく『本日対象外』の紙が貼られた。そこまでしてようやく、役所の気持ちも少し落ち着く。


「始めます」


 住宅政策の職員が声をかけると、スライムたちは合図を待っていたみたいに一斉に動いた。外壁へ張り付き、ひびの縁を滑らかに押さえ、雨樋の継ぎ目を薄膜で固める。内側へ入りたがる素振りはない。最初からこの順番で来てくれれば、町のほうももう少し楽だったのだが、そう簡単に言い切れないのが現実でもある。


 近所のおばあさんが、少し離れた場所でその作業を見ながら、しみじみと笑った。


「なんだか、家が息を吹き返したみたいだねえ」


「明るくなるのは良いことなんです」


 勇輝は、ほとんど自分へ言い聞かせるように返した。


「ただ、勝手に明るくなると、次に誰が責任を持つのか分からなくなる。だから、今日はちゃんと見える形にしてます」


「難しいねえ」


「難しいです。でも、その難しいところを飛ばすと、あとで町ごと困るので」


 山根さんも隣で頷いた。


「役所の人が立ち会ってるだけで、こっちも安心するよ。朝はきれいでびっくりしたけど、誰がどう決めたのか分からなかったから」


 その言葉は大きかった。結局、町の人が不安になるのは、異界の存在そのものより、「誰が決めているのか分からない」時なのだろう。きれいなことも、助かることも、決める人と手順が見えなければ怖い。逆に言えば、それが見えれば、かなりのことは暮らしの中へ座らせられる。


 作業が終わるころには、空き家の印象は朝以上に落ち着いて見えた。派手な化粧直しではない。危ないところだけがきちんと抑えられ、古さは古さのまま残っている。その「残し方」がいい。全部を新品みたいにしてしまうと、それはもう所有者の権利に踏み込みすぎる。応急であることが見て取れるくらいが、今日の町にはちょうどよかった。


 スライムの一匹が、作業終了後にもう一枚紙を差し出した。


『おわり

 なか は さわらない

 つぎ は きいてから』


 勇輝はそれを受け取り、ふっと息を吐いた。


「そう。それでいい。次は聞いてから」


 スライムは、ぷるん、と一度だけ大きく揺れた。返事のつもりなのだろう。


◆夜・県外の親族との電話(所有者不明に見える家にも、たいてい遠くで抱え込んでいる人がいる)


 空き家の応急措置が終わり、写真整理と通知文案の作成がひと段落したころ、住宅政策の職員が会議室の扉を少し強めに叩いた。表情は朝よりずっとましだが、今度は別の意味で緊張している。


「主任、連絡がつきました。県外のご親族です」


 その一言で、室内の空気がすっと現実へ戻る。スライムがどうとか、コーティングがどうとか、それ以前に、この家には所有者がいる。連絡がつかなかったから空白みたいに見えていただけで、本当は誰かの相続の途中にあり、誰かの気まずさや迷いの中へぶら下がっていたはずなのだ。


 勇輝は受話器を受け取り、名乗った。


「ひまわり市役所、異世界経済部の勇輝です。突然のお電話ですみません。本日、○○町の空き家について、応急措置の件でご連絡しました」


 向こうの男性は、五十代くらいだろうか。声だけで疲れているのが分かる。怒っているというより、ようやく来たか、という諦め混じりの警戒だった。


『……あの家、また何かありましたか』


「はい。まず結論からお伝えします。建物の外装に危険箇所があり、今夜から雨の予報もあったため、市の立ち会いで最小限の応急措置を行いました。ただし、無断で大規模改修をしたわけではありません。写真記録もあります」


『応急措置……。すみません、本当は私のほうで行くべきなんですが、仕事もあって、片づける決心もつかなくて』


 その言い方に、部屋の中の誰も余計な相槌を打たなかった。空き家問題は、怠慢だけでできるわけではない。離れて暮らす人間が、思い出の残る家を前に、時間も気力も足りないまま先延ばしにしてしまう。その積み重ねで生まれる家がたくさんあることを、役所の側も知っている。


「責めるためのお電話ではありません」


 勇輝は慎重に言った。


「ただ、現状として屋根と外壁の一部に危険がありました。近隣からも心配の声が出ていましたので、緊急的に外側だけ保全しています。内装や構造へ勝手に手を入れたわけではありません」


『……助かりました。正直、崩れて誰かに怪我をさせるのが一番怖かったので』


「今後について、一度ご相談させてください。維持管理、売却、空き家バンク登録、そのどれを選ぶにしても、まず現状確認の場が必要です」


 少し長い沈黙のあと、男性は低く言った。


『写真、送っていただけますか。父が亡くなってから、一度もちゃんと見られていなくて……。もう、どう手をつけていいか分からなくなっていました』


 そこまで聞いて、勇輝は少しだけ肩の力を抜いた。全部がすぐ片づくわけではない。だが、少なくとも今日の応急措置が「勝手な侵害」だけで終わらず、「話し始めるきっかけ」にはなり得る。


「送ります。あわせて、市でできる手続きと相談窓口も整理してお送りします」


『お願いします。……それと、その、変な話かもしれませんが』


 男性が少し躊躇ってから続けた。


『近所の方が“家が明るくなった”とさっき連絡をくれたんです。誰がやったのかは、いま詳しく聞かないほうがいい気もしていますけど……。長いこと、父の家の話になると、親族の誰も口が重くなっていたので』


 勇輝は、美月のほうを見ないようにしながら答えた。


「そこは、後ほど経緯も含めてご説明します。ただ、最終的な判断は所有者側にあります。市としては、危険を減らしつつ、権利が置き去りにならない形で進めたいと思っています」


 電話を切ると、会議室はしばらく静かだった。加奈が最初に口を開く。


「よかったね。持ち主の人、ちゃんと話す気持ちはあるみたいで」


「うん。空き家って、放置されてるようで、たいてい誰かの中で止まってるんだよな」


 勇輝はそう言って、さっきの言葉を思い返した。家が明るくなった。近所の人は景観としてそう言い、親族は長く止まっていた時間としてそう受け取る。なら、今日やったことは、外壁の応急だけではないのかもしれない。


◆夜・応急措置の先にあるもの(役所は“今日助かった”を、そのまま次の誰かの困りごとへしないために書類を増やす)


 親族との電話のあと、会議はもう一段だけ実務寄りになった。応急措置で終わらせず、次に何を置くかを決めなければ、スライムの善意も近所の安心も、結局また宙ぶらりんになるからだ。


 勇輝は新しい紙を一枚出し、表題を書いた。


『危険家屋応急措置協力申出書(異界協力者用)』


 美月がそれを見て、吹き出しかける。


「ほんとに作るんですね」


「作る。字が書けて申請できる相手なら、窓口を作ったほうが早い」


 内容は簡潔だが、必要なことは全部入れた。対象家屋、依頼理由、作業範囲、作業日時、行政立会者、写真記録、所有者への通知状況、作業終了確認。最後に「無断の追加作業を行わないこと」という一文を太字で入れる。そこが今日の肝だからだ。


 住宅政策の職員が感心したように言う。


「これなら、次に同じことが起きても現場で迷わずに済みますね。もちろん、起きないのが一番ですけど」


「起きないことを願いながら、起きた時の紙を作るのが役所です」


 市長がその文を読みながら頷いた。


「空き家バンクの説明にも、一行だけ足そう。『応急措置の相談可』と。もちろんスライム前提にはしないが、管理が止まっている家へ声をかけやすくはなる」


「それならいいと思います。放置か解体か、の二択に見えると、持ち主は余計に相談を先延ばしにしますから」


 加奈が、夕方撮った外壁の写真を見ながら言った。


「今日みたいに“少しだけ息をつける”段階があると、人ってやっと次を考えられるんだよね。全部きれいに直すじゃなくて、今夜の雨がしのげる、近所が少し安心する、そのくらいの一歩」


「そうだな」


 勇輝は頷いた。


「空き家対策って、景観だけでも、権利だけでも、気持ちだけでも進まない。今日みたいに、まず危険を減らして、持ち主に話し始めてもらって、そのうえで制度へ乗せる。その順番を外さないことが大事なんだと思う」


 会議の最後に、ホワイトボードへもう一つだけ書き足した。


『空き家対策

 危険の除去

 権利者との接続

 利活用の検討

 この三段階を分けて進める』


 派手さはない。けれど、今日いちばん必要だった整理はたぶんこれだった。


◆夜・市役所へ戻る道(町が少し明るくなる時、誰かの善意と誰かの権利が同じ場所へ立つ)


 帰り道、市長がぽんと勇輝の肩を叩いた。


「いい一日だったな」


「今日も制度が増えましたよ」


「町が生きている証拠だ」


「その理屈は分かるんですけど、毎回増えるたびに担当課は確実に疲れますからね」


 美月が後ろから、まだ未練がましく言う。


「でも、申請書だけは庁内研修で見せたいです。『しんせいしょ なおしたい すらいむ』、あれは行政史的にかなり良い資料だと思います」


「行政史的って何だよ」


「だって、相手が手続きを覚えようとしてるんですよ。そこ、すごく大きいです」


 加奈が笑う。


「たしかにね。勝手にやっちゃったけど、悪いことだと分かったら申請の形を取る。そこを拾ってあげるのが、たぶん町の側の器なんだろうなって思った」


「器ねえ……」


 勇輝は空を見た。夕方の色はもうほとんど消えていて、庁舎の窓の明かりだけがぽつぽつと残っている。空き家がきれいになったことを、単純に喜ぶだけでは済まない。かといって、全部を追い払えば町の沈み方もまたそのまま残る。だから結局、今日も役所はその間に線を引いた。


 助かったことは助かったこととして認める。だが、その助かり方を次からは手順の中へ入れる。勝手にやるな。けれど、役所が頼んだ時だけなら力を貸してほしい。その折り合いを、一つずつ紙へ落としていく。


「空き家って、放っておくと町の気分を削るんだよね」


 加奈がしみじみ言う。


「だから今日みたいに、少し明るくなると近所の人の顔も変わる。あれを見たら、全部止めるだけじゃだめなんだなって思う」


「うん。だから『権利を守る』と『町を沈ませない』を一緒にやるしかないんだろうな」


「難しいね」


「難しいよ」


 でも、その難しさをそのまま難しいと言ったまま帰れる日ばかりではない。今日はたまたま、スライムが言葉を理解し、線も理解し、申請まで出してきた。相手がそういう相手だったから、町は少しだけ前へ進めたのだろう。


 市長が最後に、少しだけ楽しそうに言った。


「次に来るとしたら、勝手に庭木を剪定する妖精かもしれないな」


「市長、それ、冗談でも先に言わないでください。呼びますから」


「もう呼んでるかもしれん」


「やめてください」


 美月が笑いを噛み殺しながら、でも本気半分で言う。


「でも、空き家バンクの紹介文、少し変えられそうですね。『応急措置体制あり』って入ると安心する人、いるかも」


「スライム前提で書くなよ」


「書きません。……たぶん」


「たぶんをやめろって今日は何回言ったかな」


 庁舎の灯りが近づく。今日もまた、町は少しだけ奇妙な方法で前へ進んだ。ぷるぷるした善意と、かっちりした書類のあいだを、役所がつないだ一日だった。


 ひまわり市の空き家対策は、たぶん今日からほんの少しだけ現実味を帯びる。人の住んでいない家を、人の町へ戻すための手順として。景観も、安全も、権利も、その全部を一緒に持ったまま。


 面倒だし、地味だし、書類も増える。それでも、そうやってしか町は明るくなれないのだと、勇輝は夜の庁舎の階段を上りながら思った。今夜の雨で、あの家の屋根が持ちこたえるなら、今日の一日は悪くなかった。善意を制度へ直すのはいつだって手間がかかる。だが、その手間をかけるだけの価値は、たしかに現場にあった。

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