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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第82話「消防訓練なのに火が消えない。褒めると消える火」

◆朝・市役所駐車場(訓練の朝は、準備の音からいつもと違う)


 庁舎の裏手にある駐車場は、まだ業務開始前だというのに、いつもの朝よりずっと早く目を覚ましていた。白線の上には三角コーンが等間隔に並べられ、訓練用の水槽が朝の光を鈍く返し、消防車の赤は曇りのない空の下でやけにはっきり見える。金属の器具がぶつかる乾いた音、ホースを引く靴底の擦れる音、拡声器の通電を確かめる小さなノイズ。どれも大きすぎる音ではないのに、重なっていくとそれだけで空気が少し引き締まる。


 勇輝は駐車場の端に立ち、消防団員が消火器の位置を調整する様子を見ていた。訓練の朝には独特の緊張がある。本番ではない、と皆が知っているからこそ、油断が混じりやすい。ところが本番に近づけようと気を張りすぎると、今度は段取りの確認がおろそかになる。その間を取るのがいつも難しい。しかも今日は、昨日から町に転がり続けている別件の余韻まである。水道課の窓口には朝一番で「聖水採取許可申請」なる書類が届き、佐伯課長が紙を握ったまま遠い目をしていた。その話を聞いたあとでは、消防訓練くらい何も起きず終わってくれ、と願いたくなる。


 願って済む町なら、とっくにもっと平穏だ。


 消防署から来た隊長は、チェック表を片手に現場を見渡しながら、団員たちへ短く声をかけていた。指示は無駄がなく、声量も必要なぶんだけで、現場の空気が彼の周りだけ少し真っ直ぐになる。こういう人が一人いるだけで、訓練はかなり締まる。勇輝はその様子に半分安心し、半分だけ今日を乗り切れそうだと思いかけた。


 その横で、市長はすでにヘルメットを被っていた。白いヘルメットが妙に似合うのが少し悔しい。胸元の防災ベストもきちんと留めてあり、見学者用の名札まで手元で整えている。楽しそうに見える瞬間はあるが、そこに浮ついた感じがないのがこの人の厄介なところだ。


「見学者の導線、こっちでいいかな」


 市長が地図を広げながら聞くと、勇輝はすぐ現実へ引き戻された。


「広場側から入れて、初期消火の実演位置とは距離を取ってください。今日は異界側の来客も多いので、説明が混線すると危ない」


「分かった。見学者はエルフの商会代表、ドワーフ連合の技術担当、それと魔族側の安全管理官だ。火の扱いに詳しいそうだから、いい意見も聞けるだろう」


「煽り口調で来ない人ならありがたいです」


「そこは期待しすぎないほうがいい」


 期待しすぎるな、という忠告はまったくそのとおりだった。見学席のほうでは、すでに異界側の面々がそれぞれ違う温度で現場を眺めている。エルフの商会代表は整列した器材に興味深そうな眼差しを向け、ドワーフの技術担当は消火器の金具を見て「これ、ばらして構造を見てよいか」と真顔で聞き、美月はその全部を端末に収めながら「今は見るだけです!」と制止していた。加奈はその間を縫うように歩き、誰に何をどう説明すれば角が立たないか、自然に判断している。喫茶の看板娘なのに、こういうときの動きは下手な案内担当より役所向きだ。


「加奈、今日は水分補給の案内だけで頼む」


 勇輝が声をかけると、加奈は紙袋を持ち上げた。


「分かってる。差し入れも持ってきたけど、今日は“水”って単語を強く出すと別の人が寄ってきそうだから、飲み物って言うようにしてる」


「その気遣いが本当に助かる」


 そこへ、美月が訓練計画書を抱えて走ってきた。朝から元気なのはいつものことだが、今日はやけに声が弾んでいる。


「勇輝さん、広報用の写真、開始前から撮っておきますね! 訓練の規律とか、消防団の並びとか、異界見学者との交流とか、絵がいいです!」


「いいけど、文言は大人しくしてくれよ。『市役所、燃えるほど熱い防災魂』みたいなのは絶対にだめだ」


「まだ言ってないです」


「まだ、ってことは今浮かんだんだろ」


「浮かびました」


「消して」


 美月が笑いながら端末を下げたところで、見学席の奥にいた黒い外套の男が、いかにも冷めた目で消防車を眺めているのが見えた。魔族側の安全管理官だろう。背は高く、肩の線がやたら真っ直ぐで、表情には「まず疑うところから入る」人間の落ち着いた面倒くささがある。しかもそれを隠そうともしない。彼は勇輝たちのほうへ歩み寄ると、訓練器材を一瞥して鼻で笑った。


「火災対策を水と砂と粉で構成する文明か。興味深い。ずいぶん率直だな」


「率直すぎて一周まわって刺さりますね」


 勇輝が返すと、男はわずかに口角を動かした。笑ったのかどうか、分かりにくい。


「魔族領安全管理局のラギールだ。今日は見学と、必要なら助言を行う」


「必要じゃないまま終わるのが理想です」


「理想どおりに終わる訓練は、だいたい役に立たん」


 その物言いは腹が立つが、言っている内容だけは否定しづらかった。勇輝が何か返す前に、隊長の拡声器が駐車場へ響いた。


「これより庁舎内火災を想定した避難訓練を開始します。通報、初期消火、避難誘導、負傷者搬送の各動作を、手順どおり実施してください。訓練であっても動きは本番のつもりで。見学者の皆さまは誘導線から出ないようお願いします」


 拡声器の音は、朝の空気を一段だけ硬くした。職員の列が庁舎側へ吸い込まれ、消防団員が所定位置へつく。勇輝も持ち場確認のため一歩踏み出した。ここまではいい。ここまでは毎年の訓練と大きく違わない。だからこそ、このあと何か一つでも違うことが起きたとき、空気は思った以上に大きく揺れる。


◆午前・訓練開始(本番でなくても、手順は本番のためにある)


 館内放送は市長が担当した。落ち着いた声で火元と避難経路を告げるその調子が妙にうまく、聞いている職員がうっかり本気で急ぎそうになるくらいには迫真だった。庁舎の窓から職員たちが階段を降り、点呼位置へ向かう。消防団員は訓練用の火元へ走り、消火器を構え、風向きを確かめ、距離を取る。勇輝はその一つ一つがきちんと流れているのを見て、ようやく肩の力が少し抜けかけた。


 火元として用意されていたのは、庁舎裏手の安全区画に設置した訓練用の小型火炎装置だった。金属の浅い受け皿の中で、あらかじめ管理された小さな炎を上げる仕組みで、消火器の訓練に使われるごく標準的なものだ。煙の出方も強すぎず、視認しやすく、それでいて「火だ」と身体に理解させるには十分な存在感がある。今日もそこまでは同じだった。


「初期消火、開始」


 隊長の声に合わせて、団員が安全ピンを抜き、ホースを火元へ向け、足場を取って噴射した。白い粉が勢いよく広がり、炎を包む。そこまでは完璧だった。ところが、包まれたはずの炎が、次の瞬間になぜか細く残った。残っただけではない。粉の幕の向こうで、火の芯がやけに明るく揺れ、それからふわりと体勢を立て直すみたいに持ち直した。


 団員が二度目の噴射に入る。今度は的確に火元の根を狙っている。それでも炎は消え切らず、白い粉の切れ目からするりと顔を出し、まるで「それで終わりか」とでも言うように揺れた。見間違いではなかった。見ていた全員の身体が、一拍だけ遅れて同じ違和感を受け取る。


「……今、消えなかったよね」


 加奈が小さく言った声が、近くにいた数人の本音を代弁した。


 隊長の表情が変わる。訓練が訓練のままでいてくれないと気づいた人間の顔だった。だが彼は慌てなかった。慌てないこと自体が現場の強さで、だから消防は信頼できる。


「追加噴射。距離を保て。見学者は下がれ」


 指示に合わせて動きが変わる。そのとき、訓練用の火炎装置の上で、炎が一瞬だけ縦に伸びた。風に煽られた伸び方ではない。こちらを意識したみたいに、ふっと背を伸ばした感じがある。勇輝は思わず目を細めた。そんなふうに見えるだけかもしれない。だが、異界絡みの現場では「そんなふうに見えるだけ」がそのまま厄介事の正体であることが珍しくない。


 美月が端末を胸へ抱えたまま、勇輝のすぐ横で息をのんだ。


「今の、火がこっち見た感じしませんでした?」


「言うな。言葉にすると現実味が増す」


「もう十分増してます」


 そこへラギールが一歩前へ出た。黒い外套が風に揺れ、その下の目だけがやけに冷静だ。彼は炎を数秒眺めたあと、ひどく納得したように頷いた。


「なるほど。承認欲求炎か」


「名前が最悪ですね」


 勇輝が返すと、ラギールは真顔のまま続けた。


「叱るほど燃え、抑え込もうとするほど意固地になる。無視されると拗ねて広がる。視線と評価に反応する火だ。舞台、式典、競技会、あとは妙な噂で町全体の注目が集まった場にも寄ってくる」


「最後の一言、嫌なつながり方をしましたね」


「昨日から『聖水の町』などと騒がれていたのだろう。注目を浴びた場所へ、注目を食う火が寄った。それだけの話だ」


「それだけで済む話に聞こえないんですけど」


 ラギールの説明が終わる前に、水バケツを持ってきた団員が補助の散水に入った。安全区画は確保されている。普通の火なら、それで十分弱まる。しかし今日の炎は違った。水がかかった瞬間、確かに勢いは縮んだ。ところが次の瞬間、火は水滴をまとって妙に生き生きと光り、その表面をきらきらと跳ねさせた。喜んでいるようにしか見えないのが腹立たしい。


「おい、楽しそうだぞ!」


 誰かがそう叫ぶと、炎はさらに一つ跳ねた。


 隊長はすぐに判断した。


「初期消火中止。訓練行動から実対応へ切り替え。避難誘導継続、見学者後退。火元から半径を広げる」


 その声で駐車場の空気がはっきり変わった。訓練だから、という甘えが消え、職員たちの足取りも一段真面目になる。点呼位置では総務の職員が名簿を持って人数確認に入り、庁舎の二階から出てきた職員も無駄話をやめて列へ加わった。異界側の見学者たちもさすがに表情を引き締める。火が相手である以上、可笑しさに逃げるのは危ない。


 勇輝は、そこだけは少し安心した。どんなに妙な火でも、現場が現場の判断を失っていないなら、まだ何とかなる。


◆午前・消えない火と避難の続行(変な火でも、現場の手順は崩さない)


 避難誘導を継続するあいだも、炎は受け皿の上で勝手に存在感を増したり縮めたりしていた。大きく燃え広がっているわけではない。けれど、普通の火のように酸素や燃料だけで説明できる動きでもない。誰かが「しつこいな」と漏らすと、ほんの少し高くなり、逆に視線が外れるとすねたように横へ流れる。見ていて気疲れする類いの火だった。


 加奈は見学者たちを安全線の後ろへ下げながら、通訳まじりに説明していた。


「今は訓練を止めて、本当に危なくならないよう対応してるところです。ここから先は近づかないでください。写真も、前へ出て撮らないでね」


 エルフの商会代表は真剣な顔で頷き、ドワーフの技術担当は興味を抑えきれない様子で「火に性格があるのか」と呟いている。面倒だが悪い人ではない。問題は、彼らの好奇心まで火の餌になりそうなことだった。


 点呼のほうでは、総務課長が声を張っていた。


「経済部、全員確認。観光課、あと一名確認中。庁舎内残留なし、再点検班入ります」


 隊長はその報告を受けながら、現場の安全円をさらに広げた。訓練で準備していた遮蔽板も活用し、万が一の飛散に備える。普通の火災に比べれば規模は小さい。それでも、相手の性質が分からない以上、なめないほうがいい。


 勇輝はラギールへ向き直った。


「止め方があるなら、今のうちに全部聞きたいです」


「全部、と言われても、相手がどの程度ひねくれているか次第だ」


「火に性格診断が必要なんですか」


「必要だ。承認欲求炎は、単に褒めればよいわけではない。雑な称賛は『その程度の理解か』と受け取り、かえって長引くことがある」


「厄介の方向が人間関係なんですよ」


 ラギールは肩をすくめた。


「火も群れの生き物だ。視線に育てられる。とくにこういうタイプは、存在を認められたい、役に立ったと評価されたい、だが雑に扱われるとへそを曲げる。今の散水で喜んだのは、『自分へさらに手間が割かれている』と感じたからだろう」


「最悪だな」


「最悪だ。だから魔族領では、こういう火が出たときほど、現場責任者の声の選び方を厳しく教える」


 勇輝は一度炎を見た。たしかに、火の勢いそのものより、「どう扱われているか」に反応している感じがある。物理だけでは説明し切れないが、異界の現場に立ち会い続けていると、そういう種類の存在がいること自体は否定できなくなってくる。腹立たしいが現実だ。


 その横で、美月がかなり真顔になっていた。


「広報、今日は一切外に出しません。訓練レポートも保留にします。『火が消えない訓練』って切り取られたら終わる」


「助かる。今は外向きより現場優先で」


「分かってます。あと、今のうちに来庁者対応文も作ります。『訓練中の一部機材不具合により安全確認を行っています』くらいなら、嘘にならないですよね」


「いい線だな。そこまでで止めてくれ」


 役所の仕事は、こういうときに現場と文面が同時に走る。片方だけでは持たない。火の前で何が起きているかと同じくらい、それを外へどう伝えるかも重要になる。


 ラギールは、そうした慌ただしさを少し離れた位置から眺めていたが、やがて静かに言った。


「一度、火へ話しかけてみろ。叱るな。命令するな。評価を与えろ。ただし具体的に」


「今この状況で、ですか」


「今だからだ。拗らせたまま長引かせるほうが危険だろう」


 勇輝は隊長と目を合わせた。現場責任者同士の短いやり取りだけで十分だった。隊長は頷き、ただし安全線の内側へ入るのは最小限とすること、飛散に備えて補助班を構えることを確認した。訓練が本物へ変わったとき、こうして現場がすぐ役割を組み替えられるのは強い。


◆午前・最初の褒めは足りない(曖昧な評価は、火にも効きにくい)


 安全線の手前まで出た加奈が、まず一度深呼吸した。彼女が選ばれたのは、場を柔らかくする声を持っているからだろう。勇輝もそれには異論がなかった。火を相手にするのに向いているかは知らないが、少なくとも怒鳴り合いへはならない。


 加奈は炎をまっすぐ見て、やさしく声をかけた。


「えっと、今日はすごく目立ってるね。ちゃんと見えてるし、みんなも気づいてるよ」


 炎は、たしかにぴくりと揺れた。周りの視線もそこへ集まる。加奈は続けた。


「訓練の途中で出てきたから、びっくりした人は多いと思う。でも、そのぶん本当に大事なことを考えさせてくれた。だから、もう十分、役に立ってる」


 炎は、一瞬だけ細くなった。よし、と勇輝が思いかけたとき、火はまた小さく背を伸ばした。消えない。悪くはないが、決め手にもなっていない。


 ラギールが即座に首を振った。


「足りん。褒めが抽象的だ。『頑張っている』『役に立った』だけでは、本人に届いた気がしない」


「本人って言い方を火に使うの、どうにも慣れないな」


「慣れろ。こういう火は評価面談が好きだ」


「最悪の比喩が増えた」


 加奈は苦笑しながらも、火から目を離さなかった。消えなかったことに腹を立てるより、効いた部分があるならそこを拾おうとしている顔だ。そういう柔らかさは、たぶん今日の町にかなり必要だった。


「具体的って、たとえば?」


 加奈が聞くと、ラギールは腕を組んだまま答えた。


「何をした結果、誰にどう影響したかを明確に言うことだ。『存在感があった』だけでは、何を認められたのか分からん。承認欲求炎は評価の粒度にうるさい」


「火に評価シートが要るんですか」


「場合によってはいる」


 勇輝は本気で頭を抱えたくなったが、抱えている暇もなかった。炎は依然としてそこにあり、訓練場は半分止まったままだ。午後には総括まである。ここでいつまでも足止めされるわけにはいかない。


 市長がそのとき、静かに一歩前へ出た。騒ぎの最中でも姿勢の軸がぶれない人間が前へ出ると、場が少し落ち着く。彼は誰かから書類を受け取ったわけでもないのに、いつの間にか一枚の紙を手にしていた。庁舎のどこにでもありそうな、白くて厚めの紙だ。


「市長、それ何です」


「感謝状の書式を借りた」


「こういう時のために、役所には本当に定型文があるんですか」


「感謝を伝える枠は、いつでも使える」


 市長はそう言って、紙を広げた。そこに即席で書き込まれていた文面は、驚くほど役所らしかった。妙に格式ばっていて、かつ具体性がある。さっきラギールが言った条件を満たしているのが腹立たしい。


 市長は安全線の手前で足を止め、炎へ向かって、まるで表彰式の読み上げのように落ち着いた声を響かせた。


「本日、あなたは消防訓練の場において非常に顕著な存在感を示し、参加者および見学者に対し、火災対応の難しさと安全管理の重要性を強く認識させた。よって、ひまわり市の防災意識向上に多大な貢献をしたものと認め、ここに感謝する」


 読み上げが終わるころ、炎の揺れ方が変わっていた。さっきまでの気難しい立ち上がりではない。少し照れたみたいに輪郭が丸くなり、芯の色がやわらいでいく。加奈がその変化に気づいて、そっと言葉を添えた。


「うん、そうだね。今日ここで、みんな本当に大事なことを覚えたよ。見せてくれてありがとう。だから、もう休んで大丈夫」


 炎は一度だけ、ためらうように揺れた。そこにラギールが低く、しかし先ほどよりずっとましな声で加えた。


「評価は正式に与えられた。これ以上の実演は不要だ。退け」


 最後の一言が命令調なのはどうかと思ったが、不思議なことにその瞬間、炎はふっと縮んだ。伸びようとする気配をもう一度見せたあと、自分で丸まり、金色の糸みたいに細くなり、それから静かに消えた。


 風の音だけが一瞬遅れて戻ってくる。駐車場にいた全員が、たぶん同じタイミングで息を吐いた。拍手が起きたのは、そのさらに一拍あとだった。誰かが始め、隊長も加奈も、異界側の見学者たちも、小さくしかし確かに手を叩いた。訓練中の拍手は本来あまり好ましくないのかもしれない。だが、今だけは誰もそれを咎めなかった。


 隊長が先に我へ返り、すぐに声を張る。


「鎮火確認。周辺温度と残留確認、班分けして入る。見学者はそのまま待機」


 現場はそこでようやく、また現場の顔へ戻った。拍手の余韻に浸る前に、消えたあとを確かめる。燃えかす、温度、飛散、再着火の有無。変な火であっても、最後に必要なのは地味な確認だ。そのことに少しほっとする。役所も消防も、最後はこういう地味さで落ち着くべきだ。


◆午後・総括会議(変な出来事ほど、言語化して運用へ落とす)


 昼を過ぎた会議室には、午前中の緊張がまだ薄く残っていた。ヘルメットを脱いだあとでも、皆の髪には少しだけ訓練の汗が残り、机の上には現場メモと点呼表と、なぜか市長が読み上げた即席感謝状の控えまで置かれている。紙に残ると、ますます現実感が変になる。


 だが、変だからといって総括を曖昧にすると、この町ではだいたい次に同じ目に遭う。勇輝はそういう経験をもう十分積んでいた。


「まず、訓練全体としては、避難誘導の継続判断と点呼の切り替えは良かったです。初期消火班も、異常を見てすぐ再噴射から安全距離確保へ移行できた。ここは本当に助かりました」


 隊長が頷く。


「訓練だと思い込みすぎず、変だと感じたら一旦切り替える。それだけは普段から言っている。今日、それが機能したのは収穫だ」


 水道課の佐伯課長まで会議へ残っているのは、午前中の聖水申請騒ぎと訓練の影響がまだ薄く繋がっているからだった。彼はメモを見ながら、おそるおそる口を開いた。


「……防災と直接は関係ないかもしれませんが、今日の件で『町の注目度が異界現象を呼ぶ可能性』は考えたほうがいいかもしれません。昨日の水の騒ぎから今日の火まで、全く無関係とは言い切れないなら」


 ラギールがそれを拾った。


「完全に無関係ではないだろう。承認欲求炎は、目立つ場、語られる場、意味づけが増えた場に寄りやすい。噂と期待は、ときに燃料の代わりになる」


「つまり、町が話題になると、それに釣られた厄介物が寄ってくる可能性がある、と」


 勇輝が整理すると、ラギールは静かに頷いた。


「そういうことだ。人気が出ると変な客も増える。火も似たようなものだ」


「火を客みたいに言わないでほしいですが、感覚としては分かります」


 加奈が、会議室の片隅でメモを取りながら言った。


「でも今日の一番大きかったところって、変な火を前にしても、訓練を全部放り投げなかったことじゃないかな。避難も点呼も続けて、最後は総括までちゃんとやってる。そこが、この町っぽくていいと思う」


「同感です」


 市長が続ける。


「珍現象を笑い話で終わらせるのは簡単だ。だが、笑って終わると次回の現場が困る。今日は困ったぶん、ちゃんと残そう」


 その言葉を受けて、勇輝は総括シートの新しい欄に見出しを書いた。


『感情反応型火災現象への初期対応』


 書いた瞬間、会議室の何人かが遠い目をした。自分たちが何の職種なのか、一瞬だけ分からなくなる見出しだったからだ。だが、必要なことでもある。


「項目としては三つです。まず、物理消火が効きにくい場合でも、通常の避難と点呼は継続する。次に、異界見学者や関係者の知見をすぐ聞ける位置に置く。最後に、感情反応型である可能性がある場合、叱責や過剰な刺激を避け、評価の与え方を含めて対処を検討する」


 美月が思わず手を挙げた。


「“評価の与え方”って、正式に書くんですか」


「書く。ぼかすとあとで誰も信じない」


「でも、消防マニュアルに『必要に応じて褒める』って入るんですよね」


「正確には、『対象の性質に応じた声かけを行う可能性がある』だ」


「逃げましたね」


「逃げてない。役所文にした」


 会議室に小さな笑いが落ちる。それくらいの緩みは、むしろ必要だった。午前の現場は本当に緊張したし、皆それをまだ身体に持っている。笑いで雑に軽くしたくはないが、強張ったままでは次の判断が鈍る。


 ラギールは、そのやり取りを見ながら腕を組んだまま言った。


「一応言っておくが、褒めれば何でも鎮火するわけではない。今日の火は『認められたい』型だった。もし『勝ちたい』型なら競争相手を用意する必要があるし、『悲劇でありたい』型なら哀悼の儀礼が要る」


「分類が増えるの、やめてください」


 勇輝が即座に返すと、ラギールはわずかに肩をすくめた。


「増えるものは増える。安全管理とはそういうものだ」


 隊長がそこで喉を鳴らして一言だけ挟んだ。


「今日のところは、まず『変だと思ったら訓練でも本番対応へ切り替える』、それと『知らんものが出たら知ってるやつに聞く』、この二つを徹底してくれれば十分だ」


「それは本当にその通りです」


 勇輝は深く頷いた。変な火が出たときに備えて、褒め言葉の文例を部ごとに配るわけにもいかない。だが、異常に気づいたときの切り替えと、知見の借り方だけは普遍的だ。役所の運用へ落とすなら、そこからだろう。


◆夕方・駐車場の片づけ(火が消えたあとに残るもののほうが、たいてい大事だ)


 訓練器材の片づけが始まるころには、駐車場は朝よりずっと疲れた顔をしていた。消火器の白い粉がまだ少し地面に残り、水槽の表面には使われたバケツの波紋が細く揺れている。三角コーンが回収され、ホースが巻かれ、訓練用の看板が静かに外される。騒ぎそのものは終わったのに、現場はその後始末でようやく本当に終わっていく。


 勇輝は安全区画の端に立ち、火元だった受け皿が冷えているのを確認した。まるで最初から何もなかったみたいに、ただの金属皿に戻っている。そのあっけなさが少し可笑しい。あれだけ皆を振り回した炎が、あとには紙一枚の感謝状と、余白の増えたマニュアルしか残していないのだから。


 加奈が紙コップの差し入れを持ってやってきた。


「はい。今度こそ、普通の飲み物」


「助かる」


「訓練より、そのあとの総括のほうが疲れた顔してる」


「現場だけならまだいいんだよ。現場は目の前に火がある。でも総括は、その火を次の町の手順にする作業だから、妙に頭を使う」


 加奈は頷きながら、消えた火元を見た。


「でも、今日の火って、なんだか変だったけど、ちょっとだけ分かる気もした」


「何が」


「目立ちたいとか、ちゃんと見てほしいとか、役に立ったって言ってほしいとか。火にそんなのがあるのかは知らないけど、人にはあるでしょう。だから、完全に遠い話じゃないなって」


 勇輝はコップを持ったまま少し黙った。たしかに、その感覚は分からなくもない。だからこそ厄介だったのかもしれない。まったく理解できない現象なら、もう少し突き放して扱えた。妙に人間くさいから、笑えもしないし無視もしにくい。


「だからって、毎回感謝状で消えてもらうのは困るけどな」


「まあね。でも今日の市長、ちょっと格好よかったよ」


「認めたくないけど、否定しきれない」


 その市長は、少し離れたところで隊長と話していた。ヘルメットを外しても姿勢が崩れず、今日の判断の流れを丁寧に確認している。変な火が出たからといって、責任の位置を曖昧にしない。ああいうところはやはり頼れるのだと思う。


 一方、美月は片づけの途中でもう総括用の写真整理に入っていた。とはいえ、今日はいつもの軽さで編集する気分ではないらしく、端末を見つめる目はかなり真剣だ。


「何を残す?」


 勇輝が聞くと、美月は画面を見せた。そこには整列する消防団、避難する職員、遮蔽板を広げる隊員、そして安全線の手前で感謝状を読み上げる市長の横顔まで写っている。全部載せれば話題にはなる。だが、それをそのまま外へ出していいかは別だ。


「悩んでます。面白い絵はたくさんあるんですけど、今日は『市役所の訓練で消えない火が出た』の部分だけが独り歩きするとよくない。だから、出すなら避難と初期対応の切り替え、見学者への安全確保、総括の様子まで含めて、防災対応の話としてまとめたいです」


「それがいい」


「ただ、感謝状の写真だけは……少し惜しいです」


「惜しがるな」


「でも、映えはあるんですよ」


「今日は映えより信用だ」


 美月は素直に頷いた。そういう切り替えができるようになってきたのは、この町で鍛えられた結果なのだろう。


 ラギールは帰り際、駐車場の入口で勇輝に向き直った。最初と同じように口調は刺さるが、朝ほどの棘はなかった。


「今日の人間側の対応、悪くなかった。少なくとも、変な現象を見世物にするより先に安全線を引いた」


「褒めてます?」


「事実を述べている」


「あなたの口からだと、かなり高評価に聞こえます」


 ラギールは鼻で笑ったが、否定はしなかった。


「次に同種が出たら、最初から『何を求めている火か』を見ろ。力で押し切れない相手ほど、性質の見極めが先だ」


「分かりました。……できれば、次は出ないでほしいですけど」


「出ないことを祈るのは勝手だ。だが準備はしておけ」


 そのまま黒い外套が夕方の光へ溶けるように去っていく。厄介な言い方ばかりするが、知見そのものは確かだった。異界と付き合うとは、こういうことなのだろう。腹の立つ助言でも、町を守るなら拾わなければいけない。


◆夜・異世界経済部(ページ数が増えるたび、町の守り方も少しずつ増える)


 業務の終わりが近づいた庁舎は、昼間の騒ぎが嘘みたいに静かだった。窓の外はすっかり暗くなり、会議机の上では、今日一日の紙だけがまだ熱を持っているように見える。訓練計画書、点呼表、総括メモ、広報保留案、そして新しく差し込まれた一枚。


『補足事項 感情反応型火災現象について』


 勇輝はその紙を前に、椅子へ深く座り直した。書けば書くほど、普通の自治体の文書から遠ざかっていく。だが、遠ざかっていく先にいまのひまわり市の現実があるなら、そこへ文書を伸ばすしかない。現実のほうへ書類を寄せる。それが役所の仕事だ。


 美月が向かいの席で、ようやく笑える調子を少しだけ取り戻していた。


「今日の見出し、どうします? 庁内共有用ですけど」


「そのままでいい。変にぼかすと後で検索できなくなる」


「検索しやすさ優先なんですね」


「こういうのは後から『あの時の変な火、何て名前でしたっけ』って必ずなるから」


 加奈は差し入れの空き袋をまとめながら、テーブルに置かれた感謝状の控えを見て肩を揺らした。


「本当に残すんだ、それ」


「残します」


 市長がきっぱり言った。もうヘルメットは脱いでいるが、声は昼間と同じく落ち着いている。


「即席だったが、公文書として残す価値はある。現場でどういう言葉が有効だったか、その記録だからな」


「感謝状が証拠資料になる日が来るとは思いませんでした」


 勇輝が言うと、市長はわずかに笑った。


「私もだ。だが、こうして一枚ずつ増やしてきたのがこの町だろう」


 その言い方には反論しにくい説得力がある。異界に来てからというもの、ひまわり市の文書棚には、ふつうの自治体なら絶対に並ばない紙が少しずつ増えてきた。影の横断歩道、静けさゾーンの音漏れ、聖水と呼ばれる水道水、そして今日の、褒めると消える火。それでも全部、実際に起きたことばかりで、起きた以上は残しておくしかない。


 勇輝はペンを持ち、今日最後の一文を書き足した。


『訓練中であっても想定外の現象が発生した場合は、手順を中断するのではなく、本来の安全行動へ速やかに切り替えること。珍現象の分析は、その後で行う。』


 書き終えてから、それを皆へ見せる。


 隊長はいないが、もし見たらたぶん頷くだろう。今日の核はそこだった。火が変だったことより、変な火の前でも足が止まらなかったこと。避難、点呼、安全線、確認。その基礎が生きていたから、褒めるという変則にも最後まで飲み込まれずに済んだ。


 美月が椅子にもたれながら、ぽつりと漏らした。


「でも、ちょっとだけ思いました。褒められたい火って、変だけど、なんか可哀想でもありました」


「可哀想でも火は火だぞ」


「分かってます。可愛いとは別です」


「そこを一緒にしないでくれ」


 加奈が笑って、そのあとの言葉を拾った。


「でも、今日みたいにちゃんと見て、ちゃんと名前を呼んで、ちゃんと終わらせるっていうのは、相手が火でも人でも、たぶん大事なんだろうね」


「そうかもしれないな」


 勇輝は窓の外を見た。夜の駐車場はもう空っぽで、朝に並んでいたコーンも消防車もない。何もなかったみたいに静かだ。だが、その静けさの裏に、今日の訓練と騒ぎと総括がきちんと折りたたまれている。明日になればまた普通の来庁者が歩き、職員が出入りし、駐車場はただの駐車場へ戻る。それでいい。その普通を明日も維持するために、今日みたいな変な日が役に立てば十分だ。


「よし、今日はここまで。広報は訓練対応中心でまとめる。感謝状の写真は庁内資料限定。マニュアルは追記案として関係部署に回す。あと」


 勇輝はそこで美月を見る。


「『褒める訓練』とかいう見出しを勝手に作るなよ」


「作ってません」


「今、一瞬考えたろ」


「一瞬だけ」


「消して」


「消しました」


 市長が最後に立ち上がり、机の端へ置かれた感謝状の控えを一度見てから言った。


「本日の教訓は単純だ。防災は物理だけでは足りない。現場の判断、人の声、未知の性質への対応、それらを全部含めて町を守る」


「教訓としては正しいです。でも、毎回そこまで広げると現場が追いつきません」


「では、こう言い換えよう。まず逃がし、次に見極め、必要なら褒める」


「最後だけ急に変な標語にしないでください」


 会議室に小さな笑いが広がった。やっと一日の終わりらしい笑いだった。


 異界対応マニュアルのページ数は、今日もまた一枚増えた。増えたぶんだけ、この町の守り方も少し増えたのだと考えるしかない。そうでないとやっていられない、という消極的な理由もある。けれど、それだけでもないのだろうと思う。変な火が出ても、役所が役所のまま働けるなら、町はまだちゃんと町でいられる。


 その頼もしさを、勇輝は机上の紙の厚みの中に少しだけ見た。


◆夜・庁舎を出る前(消えた火より、残った手順のほうが明日の役に立つ)


 帰り際、勇輝は廊下の突き当たりの窓から、もう一度だけ駐車場を見下ろした。昼間はあれほど人がいて、声が飛び、白い粉と水と妙な火の気配で落ち着かなかった場所が、いまは信じられないくらい静かだ。街灯が白線の上に薄く落ちて、風が吹くたび木の影が揺れる。それだけの景色なのに、今日は少し違って見える。


 普通の訓練が、途中で普通ではなくなった。だが最後には、避難も点呼も総括も、ちゃんと普通の仕事として回収された。そのことが妙にありがたかった。異界の現象は、うっかりすると「変だった」で記憶を全部上書きしていく。けれど、今日の本当の収穫は、変な火の性質よりも、変な火の前で現場の筋肉が残っていたことだ。


 加奈が先に靴を履きながら振り返る。


「明日も訓練の話、まだ続きそう?」


「少しは続くだろうな。庁内共有もあるし、消防団とも文面を詰める」


「じゃあ、差し入れは甘いものにしよっか。今日はなんだか、皆ずっと気を張ってたから」


「助かる。火に褒めるより、そっちのほうがずっと現実的だ」


「でも、次に承認欲求炎が出たときのために、勇輝も褒め言葉の引き出し増やしといたほうがいいかもよ」


「やめてくれ。防災研修の自己課題にそんな項目を増やしたくない」


 美月がすぐ横から顔を出した。


「でも今日の市長、読み上げ上手かったですよね。私はちょっと感動しました」


「そこは認める」


 勇輝がそう言うと、市長はもう廊下の先を歩きながら、聞こえていたのかいないのか分からない調子で片手を上げた。ああいうところまで含めて、たぶん今日の鎮火は成立したのだろう。真顔で感謝状を読むべきときに笑わない人が前へ出る。その地味な胆力が、役所には案外必要だ。


 庁舎の外へ出ると、夜気はかなり冷えていた。昼の熱が嘘みたいに引いていて、肺の奥がすっと静まる。火の出た日の夜にこんなに冷たい空気を吸うと、少しだけ現実へ戻った気がする。


 勇輝は立ち止まり、無人の駐車場をもう一度見た。火は消えた。だが、今日いちばん役に立ったのは消えた事実より、その前後で残った判断と手順なのだろう。明日また別の妙なものが出たとしても、まず避難を回し、点呼を取り、安全線を引き、分かる相手に聞き、必要なら新しい対応を文書へ落とす。その繰り返しでしか、この町の行政は続いていかない。


 面倒だし、時々本当にどこまでが役所の仕事なのか分からなくなる。けれど、分からなくなりながらも仕事の形へ戻していくのが、結局はいちばん町を守る。


 火が褒めで消える日があっても、役所は役所のまま終業する。ひまわり市は、そういう町になってしまったのだと思う。そして、その変な頑丈さは案外嫌いではない、と勇輝は夜の空気の中で静かに思った。

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