第81話「水道が聖水認定!? ただの水が神格化した日」
◆早朝・朝霧公園の水飲み場
夜の冷えを少しだけ残した空気の中で、金属の蛇口は朝の光を鈍く返していた。朝霧公園の水飲み場は、ふだんなら犬の散歩帰りの人が手を洗ったり、ジョギングを終えた学生が顔をしかめながら水を飲んだりするだけの、ごく普通の設備だ。子ども向けの遊具の近くにあり、植え込みの向こうでは小さな花壇がまだ露を抱えている。役所が管理し、市民が何も考えずに使い、壊れれば水道課へ連絡が入る。その程度の存在で、だからこそ町の暮らしにしっかり組み込まれている。
その蛇口の前に、今朝は静かな列ができていた。
列といっても、怒号や押し合いがあるわけではない。むしろ妙なくらい整っている。白い外套の裾をきちんとそろえて立つ者、銀の縁取りが入った瓶を両手で抱える者、陶器の壺に布をかけ、何か大切なものを受け取るような顔で順番を待つ者。その横には、町の住民らしい主婦が買い物袋を抱えたまま遠巻きに様子を見ていて、犬を連れた老人が「どういうことなんだ」と首を傾げている。
蛇口の前へ立った異界の巡礼者は、誰に命じられたわけでもなく一度だけ目を閉じ、それから両手の器へ水を受けた。流れ込んだ水はふつうの水道水と同じ透明さで、そこに光の輪が見えるわけでもなければ、虹が立つわけでもない。それでも受け取る側の表情は真剣で、口をつけたあとには小さく息を吐き、何かを確かめたように頷く。次の者は瓶へ詰め、その次の者は掌へひとすくいして額へ触れた。
勇輝は少し離れた歩道の上で立ち止まり、しばらくその列を眺めていた。水道課からの連絡で飛び出してきたときは、もっと分かりやすい混乱を想像していたのだ。バケツを抱えた人が群がり、蛇口の周囲に水がこぼれ、誰かが揉めているような光景を。ところが、目の前にあるのは、混乱というより誤解のよく整ったかたちだった。丁寧に信じられているぶん、乱暴に止めると余計にこじれそうな空気がある。
隣に立った水道課の佐伯課長が、書類の角をぎゅっと握ったまま低い声で言った。
「六時過ぎからです。最初は三人でした。それが、投稿を見た方が地図を回し始めて、七時前には十人を超えました。いまは公園のほかに、駅前の手洗い場と庁舎裏の外水栓にも人が流れています」
「まだ開庁前なのに、動きが早すぎるな」
「『朝一番の水ほど清らか』という理屈らしいです。理屈と呼んでいいのか分かりませんが」
佐伯課長は真面目な人で、異界絡みの騒動に対しても毎回きちんと資料を揃えてくる。ただ、その几帳面さは時々、目の前の現象の妙さに一拍遅れて置いていかれる。今日もそうだった。彼は「通常使用量の変動」と「公園施設の連続占有」という言葉で現象を捉えようとしているのに、現場では銀の器が朝日を受け、誰かが「祝福の巡り道」と呼んでいる。
「水圧は」
「この時点では大きく落ちていません。ただ、公園の設備は大量採水を前提にしていません。順番が長引けば周辺利用者に影響が出ますし、衛生面でも、蛇口へ容器の口を押し当てる使い方が増えるとよくない」
「そうだな」
勇輝は一歩前へ出た。列の先頭近くにいた女性が、手にした透明な瓶を大切そうに胸へ抱えたままこちらを見る。表情は敵意より期待に近い。この町の役所が、この水の価値を正式に認めに来たとでも思っているのかもしれない。その期待を真正面から蹴れば、たぶんその場で「隠している」という物語が始まる。
だから勇輝は、まず水の話ではなく、場所の使い方から入った。
「おはようございます。こちらは市の公園設備ですので、列は右側へ寄せてください。犬の散歩や通学の方も通ります。容器は蛇口に直接つけず、少し離して受けてください。水がこぼれたら滑りやすいので、その場で拭いてもらえると助かります」
巡礼者たちは一斉に頷いた。拍子抜けするくらい素直だ。誰も騒ぎたいわけではなく、ただ尊いものを受け取りたいだけなのだろう。問題は、その尊さの対象が市の水道であることだった。
列の中ほどにいた壮年の男性が、かなり丁寧な共通語で話しかけてきた。
「失礼いたします。この水は、こちらの町で正式に守られている聖なる水場ではないのですか」
「正式には、市の上水道です。浄水場で処理し、各家庭と公共施設に送っている飲用水です」
「では、守られているのですね」
「守られてはいます。水質基準と設備管理で」
勇輝がそう答えると、男性は妙に納得した顔をした。違う、そういう納得ではない、と言いたくなるところだが、ここで細かく言い直しても意味は薄い。
公園の外側から、自転車を止めた高校生たちが面白がるように様子を見ていた。その一人が「え、あれ水道だよな」と小声で言い、もう一人が「うち毎日それ飲んでるけど」と返す。住民から見れば、状況の奇妙さはその一言に尽きる。いつもの水なのだ。夕飯の味噌汁になり、喫茶のコーヒーになり、掃除の雑巾をすすぐ、その水が朝から瓶詰めされている。
美月から着信が入り、勇輝は少し離れて受けた。
「現場どうですか」
「まだ静か。でも増える」
『こっち、もう完全に拡散してます。最初の投稿したの、異界の『聖泉の巡礼団』ってアカウントなんですけど、そこへ別の旅日記アカウントが乗って、『街じゅうに祝福が走る蛇口の町』ってまとめ始めました』
「強いな、言い回しが」
『すごく強いです。あとコメント欄がだいぶ危ないです。『本庁前の水が一番格が高い』とか、『給水塔が神殿に見える』とか、『今のうちに持ち帰れ』とか』
「最後が一番困る。買い占める対象じゃないんだよ」
『市長ももう知ってます。あと加奈さんから、『店の前で空ボトル持った人が道を聞き始めた』って』
勇輝は空を仰いだ。朝の空はよく晴れている。こういう日はだいたい、騒ぎが余計に広がる。
「分かった。対策会議をやる。水道課も入れる。現場は、まず列と衛生だけ守る」
『了解です。あ、課長じゃなくて主任って今から言ったほうがいいですか』
「そこは今どうでもいい」
電話を切ると、蛇口の前では小さな布袋が置かれかけていた。誰かが「感謝のしるし」と刺繍された札を添えようとしている。勇輝はすぐ近づき、やわらかい口調のまま手を止めた。
「それは置かないでください。公園設備の前に金品や箱を設置するのは、市の管理上困ります」
「寄進ではありません。感謝です」
「感謝でも置かないでください。誰が管理するか分からなくなるので」
相手は驚いたように箱を引っ込めた。争いは起きない。だが、この調子で町じゅうの蛇口へ意味が乗っていくと、止めるほうの負荷だけが静かに積み上がる。勇輝は佐伯課長に向き直った。
「まず、採水は公園と公共外水栓を無制限に使わせない。現時点では『列が伸びたので場所を限定する』で整理できますか」
「できます。衛生と設備保全の名目なら、水道課としても動けます」
「よし。役所へ戻りましょう。宗教論争には入らない。その代わり、供給、衛生、採水場所、販売禁止、この四つを先に固める」
佐伯課長は深く頷いたが、その顔はまだ少し青い。市の水が突然「聖水」になったと聞かされて、落ち着ける水道課長のほうがたぶん珍しい。
◆朝・異世界経済部 水道課 合同対策会議
会議室へ戻ると、美月はすでに壁のモニターへ関連投稿を並べ、水道課は給水量の速報と施設配置図を広げ、市長は窓際で腕を組んだまま資料を眺めていた。慌ただしいのに机の上が妙に整っているのは、役所が混乱するときの特徴でもある。片づいているように見せないと、余計なものまで崩れるからだ。
加奈も喫茶ひまわりのエプロンの上に薄い上着を羽織って顔を出していた。紙袋の中からは、何やらラベルのない空のボトルが覗いている。
「何その袋」
「店の前で『正式な容器ありますか』って聞かれた時の見本。売るためじゃないよ。聞かれ方の傾向を見るため」
「そこまで来てるのか」
「来てる。あと、『聖水で淹れたラテはありますか』も来た。断った」
「断ってくれてありがとう」
「一瞬だけ、『いつもの水で淹れてます』って言いそうになったけど、今日はそれも燃えそうだったからやめた」
その判断は正しい。ふざける余地があるようで、今日はまだない。
美月がモニターの画面を切り替えた。金色の縁取りが付いた瓶、給水塔を背景にした自撮り、路上の蛇口へ白い花を一輪置いた写真、それに「呪いが薄れた」「胸が澄んだ」「眠りが軽くなった」といった感想が並ぶ。全部を嘘と切って捨てるのは簡単だが、たぶん簡単だからこそ失敗する。体験談は、否定されるほど固くなる。
「現状、二つの流れがあります」
美月は指で画面を示しながら説明した。
「一つは、普通に面白がって広めてる人たち。『町の蛇口が全部聖水ってすごい』みたいな観光ノリです。もう一つは、巡礼団や信仰系のコミュニティで、『きちんと敬意を持っていただくべき水』として共有してる人たち。後者は、否定すると拗れます」
「否定文の案は」
「作ってません。作ると燃えるので」
「えらい」
勇輝は水道課の資料へ視線を移した。
「供給はどうです」
佐伯課長がすぐ答える。
「現時点で全市的な供給には余裕があります。ただし、公園や駅前の小規模設備で採水が続くと、本来の利用者が使いにくくなります。また、容器の口を直接つける行為、長時間の占有、排水口周辺の滞留は衛生と管理の両面で問題です。住民からの苦情も、すでに二件入っています」
「内容は」
「『散歩のあと犬に水を飲ませたいのに待てない』、『子どもが手を洗えなかった』です」
市長が短く息をついた。
「そこは最優先だね。住民の普通の生活を、急に信仰の動線へ巻き込むわけにはいかない」
「はい。なので、まず市内のあらゆる蛇口を採水ポイント化させないことが必要です」
勇輝は会議室の空気を見回した。
「方針を決めます。『聖水かどうか』には行政として触れません。触れた瞬間、解釈の争いへ入る。代わりに、市が言えることだけを出す。ひまわり市の水道水は安全基準に基づいて管理された飲用水であること。採水は指定の案内所で行ってもらうこと。公共設備の長時間占有、寄付箱や奉納物の無断設置、無許可の販売は認めないこと。この線で行きます」
加奈が頷く。
「『信じるな』じゃなくて、『町として守るべきことはこれです』で出すんだね」
「そう。信仰や感想までは掴めない。でも、蛇口の使い方と水の管理はこっちの仕事だ」
市長はそこで一つだけ懸念を挟んだ。
「指定の案内所はどこに置く。役所の玄関に列を作らせるのは避けたいし、浄水場へ直接流すのも危ない」
佐伯課長が資料の地図を開いた。
「水道課の広報スペースなら可能です。庁舎別棟の脇に、小規模な見学対応用の給水設備があります。もともと水質説明会で使う設備なので、容器へ安全に受けられますし、排水と清掃もしやすい」
「いいですね。あそこなら車道を塞がないし、誘導もしやすい」
「ただし」と佐伯課長は言葉を継いだ。「あくまで『管理された採水案内所』です。特別な効能を市が保証する場ではない。その表示は徹底したい」
美月がすぐメモを打ち込む。
「文言、大事ですね。『聖水配布所』は絶対に駄目。『市の飲用水ご案内所』は硬すぎる。『ひまわり市上水道 採水案内所』くらいなら、向こうの解釈を刺激しにくくて、市の立場も守れます」
「それでいこう」
加奈は紙袋から空ボトルを一本取り出した。
「量の制限も要るよね。一人で大瓶何本も持っていかれたら、また別の騒ぎになる」
「もちろんです」
佐伯課長は別の紙を差し出した。
「一人あたり一リットル程度を想定しています。生活用の給水ではなく、あくまで少量の持ち帰り。営業目的の採水と再販売は禁止。保存方法の注意書きも必要です」
市長がそこで少しだけ口元を緩めた。
「つまり、町としてはこう言うわけだな。『水は大切に。信じるのは各自の自由だが、蛇口は占領しないでください』と」
「乱暴にまとめるとそうです」
「でも、核心は外していない」
勇輝はモニターへ映る投稿群を見た。どれも大げさで、どれも少し可笑しい。だが、その可笑しさだけで処理してしまうと、水を毎日守っている人たちの労力まで軽くなる気がした。浄水場で働く人、配水管を点検する人、冬の凍結で夜中に呼び出される人。彼らが維持してきた「ただの水」が、今朝は突然、金色の言葉で包まれている。悪いのは神格化そのものではなく、その神格化が管理の現実を飛び越えてしまうことなのだろう。
「もう一つ」
勇輝は会議机へ手を置いた。
「巡礼団の代表と話したい。相手が何を見て『聖』と言っているのか、そこを聞かないと、全部が的外れになる」
美月が目を丸くした。
「喧嘩しにいくんじゃなくて?」
「しない。たぶん、あっちはあっちで筋がある。そこを聞かずに正面否定すると、ただの無理解になる」
加奈が小さく笑った。
「いいね、その感じ。役所が勝つためにじゃなくて、町が崩れないために話すの」
「そういう日だ」
◆午前・広報文の一行で燃える世界
対策会議が終わったあとも、実際にはそこで仕事が始まったに過ぎなかった。現場で列を整えることと同じくらい、いや場合によってはそれ以上に、今日は文面が重要だった。町の水をどう呼ぶか。何を言って、何を言わないか。その一行で、現場の負担も拡散の向きもまるで変わる。
異世界経済部の端の机には、水道課、広報広聴、生活衛生担当が集まり、珍しく湯気の立たない真面目な空気ができていた。美月は普段なら勢いよく案を出すところだが、今日はさすがに一度ごとに勇輝の顔色を見ている。
「まず最初の案です」
彼女が読み上げた文面は、かなり慎重だった。
「『本市水道水は、異界で言われるいわゆる聖水ではありませんが、安全基準に基づく飲用水として管理されています』」
佐伯課長が即座に首を振る。
「最初の一文が駄目です。『聖水ではありません』だけが切り取られます」
生活衛生の職員も頷いた。
「対立の構図に見えますね。市が信仰を否定した、という読み方をされると、こちらの本来の意図から外れます」
美月はすぐ次の案へ切り替える。
「では、『本市水道水は、毎日の点検と水質管理により、安全に飲用できる水として供給されています』」
「そっちはいい」
勇輝は頷いた。
「ただ、現場対応の文としてはまだ足りない。今必要なのは、感想の訂正じゃなく、行動の整理だから。採水場所、量、衛生、販売、この順で続けたい」
加奈はテーブルの端でメモを見ながら言った。
「あと、読んだ人が『じゃあどこへ行けばいいの』って迷わないようにしたいね。駄目です、だけだと、別の蛇口を探し始める」
「その通り」
勇輝は赤ペンで文をつなぎ替えた。
「最初に『本市の水道水は安全基準に基づき管理された飲用水です』。次に『採水を希望する方は臨時案内所をご利用ください』。そのあとで、『公園・駅前・庁舎外水栓など公共設備の長時間利用はご遠慮ください』『容器の口を蛇口へ直接つけないでください』『無許可の再販売はできません』。最後に『日々の管理を担う職員と市民利用への配慮をお願いします』」
市長も途中から加わり、文面を覗き込んだ。
「いいと思う。『ご遠慮ください』ばかりではなく、なぜそうするのかが見える。町の都合だけで押していない」
「理由がないと、向こうの善意も動きませんから」
美月はそこで、もう一つだけおずおずと案を出した。
「説明欄の端に、『この水は奇跡を保証するものではありません』って入れるのはどうでしょう」
部屋が少しだけ静かになった。間違ってはいない。だが、この騒動の最中では、その正しさが余計な角を持つ。
勇輝は考えてから答えた。
「今回は入れない。奇跡を保証しない、は事実だ。でも、保証という言葉を出した瞬間、『では個人的体験はどうなんだ』って別の議論が始まる。行政が言えるのは、水質と利用方法まででいい」
「分かりました」
美月は素直に引いたが、その表情はむしろ納得していた。伸びる言葉と、場を守る言葉は違う。今日はその違いを、彼女自身もかなり深く理解しているらしい。
完成した文面は、驚くほど普通だった。普通であることが、今日は美しかった。
『ひまわり市の水道水は、安全基準に基づき管理された飲用水です。
採水を希望される方は、臨時の上水道採水案内所をご利用ください。
公園・駅前・庁舎外水栓など公共設備での長時間採水、寄付箱や奉納物の設置、無許可での再販売はご遠慮ください。
衛生管理と市民利用のため、ご理解とご協力をお願いいたします。』
印刷された紙を見て、加奈が小さく息をついた。
「すごいね。こんなに普通の文なのに、今日の町に必要なことがちゃんと全部入ってる」
「普通の文が一番難しいんだよ」
勇輝はそう言って紙を受け取った。派手な言葉に追いかけられている日にこそ、普通の言葉は役に立つ。言いすぎず、逃げず、必要なところだけを支える一文は、それだけで小さな設備みたいなものなのだろう。
◆昼・喫茶ひまわり前と巡礼団の代表
喫茶ひまわりの前には、昼前の時点で小さな人だかりができていた。騒々しいほどではないが、普段の観光客より少し身なりの整った人が多い。外套や巡礼帽の形がさまざまで、手にする容器も、木の樽めいたものからガラス瓶、金属の水筒まで幅がある。彼らは喫茶そのものより、通りの先にある給水塔や、公園の地図を見ているらしい。
加奈は店先へ「当店の飲み水は市の上水道を適切に使用しています。採水案内は市の指定場所をご利用ください」という控えめな札を置いていた。商売に乗らない代わりに、混乱も煽らない絶妙な線だ。
「さすがに『聖水ラテ』は書かなかったな」
「書いたら一瞬で終わるもの、いろんな意味で」
店の中では、いつもの常連が面白半分に「うちの麦茶も今ならありがたくなるのかな」と言っていたが、加奈はそこもきちんと笑いに流していた。軽口を完全に消す必要はない。ただ、公の顔で乗らないことが大事なのだ。
巡礼団の代表は、思ったより若かった。三十代半ばほどの、落ち着いた声の女性で、白と青の衣の上に旅塵を払った跡がある。名前はセレナと名乗った。彼女は市からの面談申し入れに対して過剰に身構える様子もなく、むしろ「説明の機会をいただけるならありがたい」と言った。
喫茶の奥の席で向かい合うと、セレナは最初に深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしているなら、お詫びいたします。私たちは町を荒らしたいわけではありません。ただ、あの水を見過ごせなかったのです」
「こちらも、信仰や感想そのものを踏みにじるつもりはありません」
勇輝は率直に言った。
「ただ、市の水道が突然巡礼先になると、供給や衛生や、住民の通常利用に影響が出ます。そこは管理者として守らないといけない」
セレナはまっすぐ頷いた。その態度が、話せる相手だという安心につながる。
「分かります。ですから、まず私たちがなぜ『聖水』と呼んだかをお話しします」
彼女は手元の杯を見つめるようにしながら、静かに続けた。
「私たちの国では、聖なる水とは、光を放つ水や病を瞬時に癒す水だけを指しません。むしろ、長く清く保たれ、誰もが差別なく口にでき、乱れた身体を静かに整える水を尊びます。山の奥に隠された泉より、町の中で人々の暮らしを支える水のほうが、ずっと高い徳を持つという考えもあります」
勇輝は少し意外に思って顔を上げた。もっと分かりやすい奇跡や神話を語られるかと思っていたのだ。
「では、うちの水を『聖』と呼んだ理由は、味や魔力ではなく」
「管理です」
セレナははっきりと言った。
「透明で、匂いが少なく、口当たりが安定していて、どの蛇口でも同じ品質で出る。しかも、誰か特権を持つ者だけのためではなく、町じゅうへ平等に配られている。私たちから見ると、それは奇跡というより、日々の誠実さの結晶に見えます」
加奈が思わず息をのんだ。
「それ、なんだか……水道課の人が聞いたら泣きそうな褒め方だね」
「本当にそう思っています」
セレナは少しだけ表情をやわらげた。
「昨日、宿で出された水も、広場の水飲み場の水も、駅前で飲んだ水も同じでした。誰かが毎日守っているからだと聞いて、なおさら尊く感じました。ですから『聖水』という言葉を使いましたが、そちらの制度や管理を乱す意図はありません」
そこまで聞いて、勇輝の中でいくつかの線が繋がった。彼らは蛇口から光が出たから騒いでいるわけではない。町のインフラそのものを、信仰の語彙で賞賛しているのだ。ならば、全面否定はたしかに悪手だっただろう。否定すれば、毎日水を守る実務まで「尊ぶに値しない」と言っているように聞こえかねない。
「理解しました。こちらが困っているのは、『聖』という言葉そのものより、その言葉で公共設備の使い方が変わってしまうことです。列ができる、寄付箱が置かれる、勝手に採水地点が共有される、販売しようとする人が出る。そこは止めたい」
「当然です」
セレナはすぐ応じた。
「代表として、巡礼団には案内できます。敬意を示すなら、なおさら管理者の定める方法に従うべきだと」
美月がそこで目を輝かせた。
「それ、投稿してもらえますか。『真に尊ぶなら蛇口を占有しない』みたいな」
「言い方はもう少し整えましょう」
勇輝が挟むと、セレナは小さく笑った。
「整えます。ですが趣旨は同じです。私たちにとっても、町の水を乱すことは不敬です」
その言葉は、今日初めて役所側と相手側の論理が重なった瞬間だった。守るべきものの名前が違うだけで、やりたいこと自体は案外近いのかもしれない。
◆午後・上水道採水案内所
庁舎別棟の脇に設けられた臨時の採水案内所は、思ったより落ち着いた立ち上がりを見せた。青いテントの下に簡易の給水台を置き、その横には水道課が急いで用意した説明板が並ぶ。「ひまわり市上水道 採水案内所」「本市の飲用水は安全基準に基づき管理されています」「採水は一人一リットルまで」「無許可の再販売はご遠慮ください」「公共設備への寄付箱・奉納物の設置は禁止です」。文言は硬いが、硬いからこそ市の立場がぶれない。
その一方で、説明板の最後には、勇輝の提案で短い一文が添えられた。
『この水は、多くの職員・技術者による日々の管理で保たれています。どうぞ無駄なく、敬意をもってご利用ください。』
信仰に寄せすぎず、しかし感情を切り捨てもしない、そのぎりぎりの文だった。
佐伯課長は給水設備の前で、いつも以上に背筋を伸ばして立っていた。採水する人へ「容器の口はつけずに」「ふたは別の台で閉めてください」と丁寧に案内する姿は、半分は水道課長、半分は神殿の司祭めいて見えなくもない。本人に言ったら困った顔をするだろうから、誰も口にしなかったが。
列はできた。しかし、公園の蛇口前にできていたときとは質が違う。順番が見え、量が決まり、受け取り方も統一されている。巡礼団の側もセレナが先頭で「ここでは管理の流れに従ってください」と声をかけているため、妙な独自儀礼が増えない。布袋も花も出てこない。寄付箱を置きたがる者には、彼女の側から「それは町のやり方ではありません」と止めてくれた。
市長は案内所の少し後ろで様子を見ながら、住民から声をかけられていた。
「市長、これ結局、うちの水おいしいって話なんですか」
「それは胸を張っていい話です」
「でも聖水は困るでしょ」
「困る部分は整えます。おいしいことと、勝手に神格化されることは別ですから」
返答は軽いが、放りっぱなしではない。その距離感が、今日はよかった。
加奈は喫茶のほうへ戻ったり案内所を覗いたりしながら、住民と観光客の反応を拾っていた。彼女が持ち帰った声には、思ったより好意的なものが多かった。
「『ちゃんと案内所があるなら安心』って言ってる人、結構いるよ。住民も、『公園の蛇口がふさがらないなら別にいい』って。問題はやっぱり、生活の場所が急に別の意味で使われることだったんだね」
「そうだろうな」
勇輝は列の後ろを見た。そこには、金色の瓶を持った巡礼者の隣に、面白半分で並んでいるらしい若い観光客もいたし、「そんなに違うなら私も飲んでみようかしら」と言う地元の婦人もいた。町の水は、昔からそこにあったのに、今日は誰もが少しだけよそよそしく見ている。その視線の変化が可笑しくもあり、少し誇らしくもあった。
ただし、騒動はまだ終わっていない。美月が端末を抱えて駆けてきた。
「主任、ひとつ新しい火種があります。個人商店の一部で、『聖水瓶あります』『持ち帰り用に最適』みたいな札を出しかけてます」
「早いな」
「早いです。でも、まだ『聖水そのものを売る』じゃなくて、容器を売る段階なので、止めるなら今です」
市長が聞いて、顔をしかめた。
「それはやめさせよう。町が騒動に便乗しているように見えたら、一気に品が悪くなる」
「はい。商工会経由で文言の自粛を回します」
加奈もすぐ頷いた。
「店の人たちも、多分ちゃんと説明すれば分かるよ。水を売るんじゃなくて、町の水のおいしさを普通に紹介する方向ならまだしも、『聖』の看板で煽るのは後で絶対面倒になる」
「その線で行こう。水道水のおいしさは言っていい。効能や格付けは言わない」
言葉をどこまで許すか。その調整も、今日の大事な仕事だった。
◆夕方・浄水場の見学通路
午後の後半、水道課の提案で、希望者向けに短時間の浄水場見学が組まれた。大規模な公開ではない。安全上立ち入れる範囲は限られているし、設備の詳細を全部見せるわけにもいかない。それでも、「この水がどう管理されているか」を目で見せることには意味があると佐伯課長は言った。
勇輝もその判断に賛成した。神秘としてだけ広がるより、日々の管理として理解されるほうが町は守りやすい。
見学通路から見下ろせる沈殿池の水面は、夕方の光を受けて静かに明るかった。劇的なものは何もない。ただ、流れがあり、機械が動き、点検の人影が小さく行き来する。その地味さにこそ、毎日の水が含まれている。
佐伯課長は説明板の前で、いつもよりゆっくりした口調で話した。
「本市の水道水は、取水、浄水、消毒、水質検査、配水管の維持管理を通じて、毎日同じ状態で届くよう整えています。特別な力を保証するものではありません。しかし、安全に飲めること、安定して供給されること、それを守るための仕事は、ここで毎日行われています」
巡礼団の人々も、観光客も、住民も、その説明を黙って聞いていた。誰かが拍手をするような場面ではない。けれど、聞き終えたあとの空気は、朝とは少し違っていた。得体の知れない聖泉を見る顔ではなく、見えなかった手入れの厚みを見た顔になっている。
セレナは通路の手すりに指を置いたまま、小さく言った。
「なるほど。私たちが尊いと感じたものの半分は、この場所にあったのですね」
「半分ですか」
「ええ。残り半分は、町じゅうへ平等に流れていくことです」
市長がそれを聞いて、簡潔に返した。
「なら、その尊さを壊さないためにも、町の決まりには従ってください」
「もちろんです」
セレナは笑った。
「今日は、巡礼団の側にも案内を出します。『ひまわり市の水を尊ぶなら、まず管理の流れを乱さないこと』と」
その言い方が、思った以上によかった。否定でも迎合でもなく、町の実務を価値の中へ入れ直してくれたからだ。
見学が終わるころ、夕方の光は少し傾いて、浄水場の金属の手すりまで淡くあたためていた。何の奇跡も起きない場所だ。けれど、この何の奇跡も起きない場所があるから、町の蛇口から毎日同じ水が出る。異界の人がそこへ祈りを見ても仕方ないのかもしれないと、勇輝は少しだけ思った。問題は、その祈りが生活の邪魔をしない線まで戻せるかどうかで、今日はそこを何とかつなげた気がする。
◆夜・庁舎の給湯室
夜の庁舎は、昼間より少し広く見える。人が減り、廊下の足音が遠くなり、窓に映る室内の明かりだけが妙にくっきりするからだ。給湯室の蛇口から流れる水は朝と同じ音で、やかんの底を打ち、湯沸かし器の横を静かに濡らしている。何も知らなければ、ただの一日の終わりの音だ。
勇輝は紙コップへ水を注ぎ、そのまま一口飲んだ。いつもの味しかしない。少し冷えていて、癖がなくて、仕事の合間に何も考えず飲んでいる水の味だ。それなのに今日は、その「いつもの」が少し厚く感じられた。
加奈がマグカップを持って入ってきて、同じように水を受けた。
「落ち着いたね」
「うん。完全には消えないだろうけど、町じゅうの蛇口が巡礼地になる流れは止まった」
「美月がさっき、『聖水』って言葉の勢い、少し落ち着いて、『管理された清い水』って言い方が増えてきたって」
「それなら十分だ。うちが言いたかったことに近い」
加奈はコップの水を見つめて、少し笑った。
「でも不思議だね。ただの水なのに、急にみんな見方が変わると、本当に昨日までと違うものみたいに見える」
「違うものになったわけじゃない。見えてなかったところが急に見えただけなんだと思う」
「水道課の人たちの仕事とか」
「そう。毎日飲めて当たり前って思ってたものの後ろに、手入れしてる人がいるってこととか」
そのとき、美月が勢いよく入ってきたが、昼間ほどの爆発力はもうなかった。疲れているが、満足そうでもある。
「主任、最終報告です。無断寄付箱は全部撤去、採水案内所は明日も限定運用、商工会から『効能や聖性をうたう表示は控える』の連絡済み。あと巡礼団の公式投稿、すごくよかったです」
「なんて」
美月は端末を見ながら読み上げた。
「『ひまわり市の水は、日々の誠実な管理によって保たれている。敬意を持つ者は、まずその流れを乱さず、定められた案内に従うべし』」
「いい文だな」
「強いけど、変に燃えない強さでした。コメント欄も、『管理を乱すのは不敬』でだいぶ統一されてます」
市長も遅れて給湯室の入口に顔を出した。今日一日、あちこち動いていたはずなのに、姿勢はあまり崩れていない。
「お疲れさま。今日は観光資源が勝手に生まれた、などと軽く言ったことを少し反省している」
「少しなんですね」
「少しは、だ。だが、町の水が誇らしいのは本当だろう」
それには誰も反論しなかった。
市長は続けた。
「誇らしいものを、誇らしいまま暮らしの中へ置き直せたなら、今日の対応は悪くなかった」
「はい。神格化を消したわけじゃありません。でも、神格化が生活を乗っ取る形は避けられたと思います」
「それで十分だ」
給湯室の小さな窓の外では、もう夜の色が濃い。役所の外では、たぶん今も、昼に汲んだボトルを宿で大事に棚へ置く人がいて、家へ帰った住民は夕飯の鍋に同じ水を使っている。そのどちらも、もう喧嘩しなくて済むだろうと思えた。
美月が紙コップを掲げて、半分だけ冗談の調子で言った。
「じゃあ今日は、ひまわり市の上水道に乾杯ということで」
「大げさにするなよ」
「でも、たまにはいいじゃないですか。毎日あるからって、毎日えらいわけじゃないとは限らないですし」
その言い方が妙にしっくりきて、勇輝は少しだけ笑った。
「そうだな。毎日あるからこそ、雑に褒めるより、ちゃんと守るほうが先なんだろうけど」
「その上で、おいしいって言うくらいは許してほしいですね」
「それは許す」
加奈がその言葉に安心したように頷く。
「よかった。じゃあ明日から喫茶でも、『当店の水はひまわり市の上水道です』くらいは言っていい?」
「それは普通に言っていい」
「『聖水ラテ』は」
「だめだ」
「分かってる。今日はさすがに分かった」
四人の間に小さな笑いが落ちた。昼間までの張りつめた感じとは違う、やっと仕事の終わりに着地した笑いだった。
勇輝はもう一口、水を飲んだ。胸が澄む、とまでは言わない。魂が軽くなる、というのもたぶん違う。ただ、喉が潤って、頭の奥の乾いたところが少し元へ戻る感じはある。それで十分だろうと思う。奇跡でなくても、毎日ちゃんと飲める水は、それだけで相当えらい。
庁舎のどこかでコピー機が最後の一枚を吐き出す音がして、遠くで誰かが戸締まりの確認をしている。いつもの役所の夜だ。そのいつもの中へ、今日だけ少しだけ違う見え方が混ざった。町じゅうへ当たり前に配られているものが、ある日突然、別の言葉で呼ばれることがある。呼ばれたことで面倒も起きる。けれど、その面倒をほどきながら、当たり前の後ろにある手間や人の手つきを見直せるなら、悪いことばかりでもないのかもしれない。
ただの水が、勝手に神格化した日だった。けれど最後に役所へ残ったのは、神話でも奇跡でもなく、蛇口をひねれば同じように水が出ることの頼もしさだった。
その頼もしさを明日も保つために、また誰かが早番で浄水場へ入り、また誰かが配水管の数字を見て、また誰かが公園の蛇口の緩みを締める。町はそうやって続くのだと、紙コップの底に残ったわずかな水を見ながら、勇輝は静かに思った。




