第82話「消防訓練なのに火が消えない。褒めると消える火」
翌朝のひまわり市役所。
昨日の“聖水騒動”の余韻が、まだ廊下の隅に転がっている気がした。
――いや、転がっているのは余韻だけじゃない。
「主任、これ、見てください……」
水道課の佐伯課長が、目の下にクマを作って現れた。
手には、何かの申請書が一枚。
「“聖水採取許可申請”……?」
「はい。しかも、提出者が“巡礼団代表・聖務官”です……」
「役所を何だと思ってるんだ……」
勇輝が頭を抱えた、その瞬間。
「課長ーーっ! 今日は消防訓練ですよ! 忘れてませんよね!?」
美月が元気よく、訓練計画書を机にドンと置いた。
「忘れてない。忘れてないけど、タイミングが最悪だ」
「最悪のときほど、訓練が生きるんです! 防災は!」
「その理屈だけ正しいのが腹立つ!」
そこへ加奈が、いつものマイペースで紙袋を置く。
「差し入れ。訓練だし、みんな水分ね」
「……加奈、今日は“水”って言葉が地雷だ」
「あ、そっか。じゃあ“飲み物”」
「それで頼む」
市長はすでにヘルメットを被っていた。
妙に似合うのがまた腹立つ。
「よし。今日は“防災の見える化”だ。異界の住民にも見学してもらう」
「見学って、誰が来るんですか」
「エルフの商会と、ドワーフ連合の代表、それと――」
市長が指を折る。
「魔族の安全管理官も来る。火の扱いにうるさいそうだ」
「うるさいのは怖いな……」
勇輝は嫌な予感を飲み込み、訓練会場――市役所駐車場へ向かった。
駐車場には、赤い消防車が一台。
ひまわり市消防団の制服がずらりと並び、いつもより空気が引き締まっている。
その横で、異界側の見学者がきらきらしていた。
エルフは「美しい規律ですね」と微笑み、
ドワーフは「消火器って武器か?」と真顔で言い、
魔族の安全管理官は――黒い外套を翻し、鼻で笑った。
「フン。火災対策を“水と砂”で済ませる文明。……興味深い」
「煽りから入るのやめてもらえます?」
勇輝が言うと、市長が肩をぽんと叩いた。
「まあまあ。交流だ」
「交流の刃が鋭いんですよ!」
消防署の隊長が前に出て、拡声器で説明を始める。
「本日は、庁舎内火災を想定した避難訓練を行います。
初期消火、通報、避難誘導――役割分担を守って行動してください!」
美月はスマホを構え、すでに撮影モードだ。
「訓練の様子、広報に使いますね!」
「いいけど、余計な煽り文句を付けるなよ」
「“市役所、燃えるほど熱い防災魂!”」
「消せ!」
加奈は見学者の間にいて、通訳っぽく笑いながら説明している。
こういうときの加奈は、役所職員より役所職員っぽい。
「火事のときは落ち着いて、出口を……あ、翼は畳んでね」
「翼の話は今いらない!」
訓練が始まった。
「火事だー! 火事だー!」
館内放送(係:市長)が、やけに迫真で響く。
庁舎の裏手に用意された訓練用の火――煙筒と、小さな炎が点いた。
消防団員が消火器を構える。
「初期消火、開始!」
シュッ! シュッ!
白い粉が噴き出し、炎を覆う――はずだった。
……なのに。
炎が、消えない。
「え?」
消防団員がもう一度噴射する。
それでも、炎はふわりと揺れて、むしろ元気になった。
しかも、なんか……動いてる。
炎が“こっち見てる”感じで、ぷいっとそっぽを向いた。
「……今、火が拗ねた?」
加奈がぽつりと呟く。
魔族の安全管理官が、腕を組んで笑った。
「ほう。これは“承認欲求炎”だな」
「なにそれ!?」
「叱るほど燃え、無視すると増える。燃える理由が“寂しいから”という、最も厄介な火だ」
「厄介の方向性がメンタルなんだよ!」
隊長が焦って指示を飛ばす。
「追加噴射! 水バケツも持ってこい!」
「水、ダメなんですか?」とエルフ。
「水は万能じゃないです!」と勇輝。
バシャッ!
水がかかる。
――ジュウッ! と音がして、火が一瞬縮んだ。
……と思ったら、次の瞬間、ふわぁっと大きくなった。
炎が、水滴をまとってキラキラしている。
なんか、楽しそうだ。
「おい! 水かけたらテンション上がったぞ!」
「聖水扱いされた翌日に、火に水で遊ばれるって何の罰ですか!」
美月が叫ぶ。
「SNSで“火が消えません!”って投稿していいですか!?」
「ダメ! 絶対ダメ! それは燃料!」
市長が隊長の横に立ち、冷静に言った。
「避難誘導は継続。
初期消火は一旦中止。安全距離を取れ」
庁舎から職員が整列して出ていく。
訓練なのに、雰囲気が一気に“本番”になった。
勇輝は炎を睨みつけた。
「……どうする。魔族さん、その火、止め方あるんだろ」
「ある。だが貴様らには難しい」
「煽り口調を消してから言ってください」
「褒めろ」
「……は?」
「褒めれば消える。承認欲求炎は“認められる”と満足して成仏する」
「火が成仏って何だよ!」
ドワーフが頷いた。
「つまり、火にも敬意が必要ってことか」
「敬意はいいけど、まず消えてもらわないと!」
勇輝が唸ると、加奈が前に出た。
「じゃあ、やってみるね。……危なくない距離で」
加奈は深呼吸して、炎に向かってやさしく声をかけた。
「えっと……今日、すごく頑張ってるね」
炎が、ぴくっと揺れた。
「ちゃんと目立ってるよ。みんな見てる」
炎が、ふわっと小さくなった。
「でもね、頑張りすぎると、みんな困っちゃう。
だから、もう“十分すごい”ってことで、休もう?」
炎が、しゅん……と縮んで、消え――
ない。
消えないが、明らかに迷ってる。
魔族の安全管理官が舌打ちした。
「足りん。褒めが具体的でない。火は評価に敏感だ」
「火、評価シート欲しいの!?」
市長がすっと前に出た。
そして、なぜか持っていた一枚の紙を掲げた。
「――ひまわり市長名で、感謝状を出す」
「市長、何持ってきてんですか!?」
「こういう時のために、役所には“定型文”がある」
市長は真顔で読み上げた。
「『あなたは本日、訓練において非常に良い存在感を示し、
防災意識の向上に多大な貢献をしました。
よってここに感謝します。――ひまわり市長』」
炎が、ゆらぁ……と揺れ、
まるで照れたみたいに、小さく丸まった。
そして――
ふっ。
消えた。
その場が、一瞬静まり返る。
次の瞬間、消防団員から拍手が起きた。異界側も拍手している。
「……消えた」
隊長が呆然と呟く。
美月が叫んだ。
「課長! 今の、最高に映えました!!」
「映えじゃない! 命がけの褒めだ!」
加奈はほっと息を吐き、苦笑した。
「火にも、褒められたい日があるんだね」
「あるな! そして今日がその日だった!」
魔族の安全管理官は、腕を組んで満足げに頷いた。
「まあ、悪くない。人間の行政も、意外と柔軟だ」
「柔軟っていうか、褒めるしかなかったんですけど!」
市長は淡々とヘルメットを直した。
「本日の教訓。
火災対策は“物理”だけでなく、“心理”もある」
「教訓が広すぎる!」
勇輝は、訓練計画書の余白にメモを取った。
――承認欲求炎、対応:感謝状(市長名)有効。
書いていて、自分がどこにいるのかわからなくなる。
だが、役所は今日も、通常運転だ。
「よし。訓練の総括会議、午後。
そして、魔族さん――次は“勝手に火を連れてこない”でお願いします」
「フン。連れてきたのは貴様らの噂だ。“聖水の町”にふさわしい火が寄ってきただけだ」
「関係ない! 絶対関係ない!」
美月が小声で囁く。
「でも課長、“褒めて消える火”って、ちょっと可愛くないですか?」
「可愛くても火は火だ!」
加奈がさらっと言った。
「じゃあ次は、褒める練習もしとく?」
「防災訓練の項目に“褒め”を入れるな!」
市長が締めの一言を放つ。
「いいじゃないか。地域活性化には、褒めが必要だ」
「議論が全部そこに着地するの、やめてください!」
こうして、ひまわり市の消防訓練は、
“感謝状で鎮火する火”という新しい伝説を残して終わった。
――異界対応マニュアルのページ数だけが、また一枚増えた。
次回予告
異界食材の試験導入で、給食がやたら強化!
食べた先生が机を片手で持ち上げ、児童が腕相撲大会を始める。
「給食が強すぎる:異界食材で全員ムキムキ」――栄養の暴走、止まるのか!?




