第5話「リリア様、町内会デビュー!」
◆朝・市長の家(隣は実家の老舗旅館)
ひまわり市の朝は、季節のわりに涼しい。山から下りてくる風が、庭先の朝顔の葉をさわさわ揺らし、旅館の裏口からは味噌汁の匂いが少しだけ漂ってくる。隣の老舗旅館は市長の実家で、朝の仕込みが始まる時間帯だけは、家と職場の境界がふんわり溶ける。
その“ふんわり”に、真っ向から異議を申し立てる音が鳴った。
ピンポーン。
遠慮を知らない玄関チャイムが、静けさの芯を正確に割った。
市長は靴下のまま廊下を歩き、ドアを開ける。そこに立っていたのは、真紅のドレスに寝ぐせ気味の髪をそのまままとめた、背の低い魔族の少女だった。角は控えめに飾られているのに、視線の圧は控えめではない。
魔王領ガルドネアが誇る第二魔王、リリア。
「……この世界のベッド、柔らかすぎるわ。沈むの。沈むってことは、支配されてるってことじゃない?」
「支配はされてない。寝具に。たぶん」
市長が淡々と返すと、リリアは口を尖らせたまま一歩踏み込んできた。
ふわりと甘い香水の気配が混ざる。旅館の味噌汁と真紅の香り。朝の町が一瞬だけ、どこか別の劇場みたいになる。
「魔界では石の寝台が普通よ。硬いほうが、威厳が保てるの。背筋が、びしっと……」
「背筋は確かに伸びるだろうけど、肩も伸びるな。あと首も」
市長が苦笑を浮かべると、リリアは“苦笑の意味”を測りかねるように眉をひそめ、しかし反論はしなかった。負けた気がする、という主張だけは捨てないまま、じっと市長の顔を見上げる。
「それで。今日の予定。『町内会』って何。聞き慣れない響きだわ」
「この町の、生活を回す仕組みの一つだよ。役所が全部やれれば楽だけど、現実はそうもいかない。だから住民同士で助け合って、掃除したり、連絡網回したり、訓練したりする。今日は清掃と、温泉掃除と、昼食会だ」
「昼食会がセットなのは合理的ね。褒美がない労働は続かないもの」
「褒美というより、コミュニケーションの場……と言いたいけど、まあ、実際お昼があると人は集まる」
玄関の向こうで、旅館の女将(市長の母)が顔を出し、リリアのドレス姿を見て目を丸くしたあと、すぐに“接客の表情”に切り替えた。さすが老舗。驚きと日常の切り替えが早い。
「おはようございます、リリアさん。お茶、あとで飲みます?」
「……飲む。飲むわ。あ、でも、今日はその前に“町内会”なのよね」
「ええ。軍手はありますよ。手袋も。サイズが合うか分からないけど、まあ、ちょっと大きいくらいなら」
「軍手……武具?」
「武具というより、生活の装備かな」
市長が言い終えるより早く、外から軽い足音が近づいてきた。
「おはようございます、市長! ……って、もう起きてる。すごい」
「おはよう、市長。……あ、リリアさんも、おはようございます」
勇輝と加奈が、資料の入ったファイルと、町内会で配る名札ケースを持って現れた。加奈は喫茶ひまわりのエプロンではなく、今日は動きやすい服にスニーカーだ。
「おはよう。今日は“デビュー戦”だね、リリアさん」
勇輝が穏やかに言うと、リリアは鼻を鳴らした。
「戦ではないと聞いたけれど?」
「戦じゃない。けど、初めての場は緊張するから、ちょっと戦っぽい気分になる、って意味」
「ふん。緊張はしないわ。ただ、ルールが分からないのは不快よ。説明して」
「了解。じゃあ先に言っておく。ひまわり市の町内会は、命令口調じゃなくて“声掛け”が基本。あと、分別は真剣だ」
「分別……?」
「ゴミを分けるやつ。燃える、燃えない、プラ、資源。異界の人が増えてからは、さらに細かい」
「ゴミに格式があるのね」
「格式というか、処理の都合。……まあ、町のルールと思っておいて」
加奈が名札ケースを取り出し、リリアの名前が書かれた紙を見せた。
「これ、今日つけてもらえます? “リリア”って、初対面の人に伝わりやすいように」
「名札……身分証?」
「身分証というより、“呼び名の橋”かな。知らない人同士でも、声を掛けやすくなるでしょ」
加奈の言葉に、リリアはほんの少しだけ目を細めた。橋、という比喩が好きなのか嫌いなのか。判断しかねている顔だ。
「……ふうん。じゃあ、付けるわ。変なあだ名を付けられるよりはまし」
「安心して。今日の町内会、あだ名文化は薄い。みんな忙しいから」
勇輝が笑うと、市長も軽くうなずいた。
「行こう。まずは河川敷だ」
◆午前・河川敷(町内清掃)
川は陽を受けて細かくきらめき、草むらにはまだ朝の湿り気が残っている。町内会の集合場所には、色とりどりの帽子と軍手の列ができていた。町外れの河川敷清掃は、毎年この時期の恒例で、観光客が増えると落ちるゴミも増える。異界の来訪者が混じるようになってからは、“見慣れない素材”のゴミが落ちることも増えた。金属っぽいのに軽い。布っぽいのに水を弾く。触るとぬるい。そういう“説明しづらい日常”が増えるほど、こういう清掃は地味に効いてくる。
「はい、今日もよろしくお願いします! 最初に注意事項いきます!」
町内会長が拡声器を持ち、手際よく話を始める。鋭い目つき、声の通り、手元の名簿の扱い。誰がどこに配置されるべきかを、迷いなく決めるタイプだ。ひまわり市の住民は、こういう人に弱い。弱いというより、任せられる。
「燃えるゴミは赤い袋! プラは青い袋! 缶は黄色! あと、最近増えてる“異界素材”は白い袋に入れて、最後にまとめて役所に渡してくれ!」
その声の勢いに、リリアが一瞬だけ眉を動かした。
「……誰に命令しているの?」
低く、冷えた声。空気が一拍だけ止まる。
それを止めたのは、加奈の早いフォローだった。
「リリアさん、会長さんは“命令”じゃなくて、みんなに聞こえるように言ってるだけだよ。こういう作業って、声が小さいと逆に危ないから」
「危ない……?」
「川沿いは足元が滑ることもあるし、車も通るし。だから最初に全員が同じルールを共有するの」
勇輝も、急がずに言葉を重ねる。
「あと、町内会長って、役所とは違う立場だけど、今日は現場の責任者なんだ。困ったらこの人に聞けばいい。そういう意味で、頼る相手でもある」
リリアはしばらく黙り込んだあと、会長の顔を改めて見た。
そして、名札の胸元を指で押さえるようにして、短く言う。
「……分かったわ。では、今日の責任者。あなたの指示は聞く」
会長は一瞬、目を丸くした。何せ相手が真紅のドレスだ。しかも角がある。だが、驚きの次の瞬間には、町内会長としての“受け止め”に切り替わった。
「お、おう! じゃあ、リリアさんは……見た目はすごいけど、ゴミ拾いは普通にやってくれよ!」
「見た目に触れるな」
「す、すまん! いや、悪気は……」
加奈が慌てて間に入る。
「会長さん、ありがとうございます。リリアさん、ここ、草むらのほうが缶が落ちてること多いから、足元気をつけてね」
「……気をつけるわ」
リリアが軍手をはめようとする。だが、軍手が大きい。指先が余って、ふにゃっと折れた。
それを見て、近くの小学生がくすっと笑い、母親が「こら」と小声でたしなめる。
リリアはその笑いに反応して、冷たい目で見下ろした。小学生が固まる。
しかし、次の瞬間、リリアは軍手の指先を自分で折り返して結び、気にせず立ち上がった。
「……笑いはいい。だが、私がこの“装備”を使いこなすのは時間の問題よ」
小学生は恐る恐るうなずき、母親はなぜか少し安心した顔になった。
清掃は淡々と進んだ。
缶、ペットボトル、紙くず、タバコの吸い殻。観光地らしい落とし物が多い。
リリアは最初こそ「なぜ拾うの?」という顔をしていたが、勇輝が「拾うと町が綺麗になる。綺麗だと人が来る。人が来るとお金が落ちる。お金が落ちると整備ができる」と“行政の因果”で説明すると、納得したように黙々と拾い始めた。
「……つまり、これは“魔力回路”みたいなものね。流れを整えると、循環する」
「うん、だいたいそんな感じ。町の循環」
「なら、理にかなっている」
その言葉の直後、リリアは草むらの奥から、黒く光る小さな袋を見つけた。
触ると妙に冷たい。口がほどけて、中から金属片のようなものが覗く。
「これは……“異界素材”?」
「白い袋だね。触っても大丈夫?」
「大丈夫。たぶん。……たぶん、よ」
リリアは白い袋に入れようとして、ふと指先に魔力を灯した。
火花のような光がちらっと走る。
「リリアさん、待って」
勇輝が一歩近づき、声の調子だけで止めた。叱るでもなく、焦るでもなく、手を出さずに止める。
「ここ、燃やしたり溶かしたりすると、逆に危ないかもしれない。異界素材って何が起きるか分からないから。あと、ひまわり市は“勝手に処分しない”が基本。ルールで決めてる」
「……勝手に処分しない?」
「うん。処分すると責任が発生する。責任ってのは、後で困った人を出さないための線引きだ」
リリアは眉を寄せたまま、魔力を引っ込める。
「責任……面倒ね」
「面倒だから、ルールがいる」
加奈が横で笑う。
「ね。面倒を減らすために面倒なことを先に決める。町内会って、そういうの得意なんだよ」
リリアは小さく息を吐いた。
「……人間の生活、回りくどい。でも、回りくどいから回るのね」
清掃が終盤に差しかかるころ、暑さが増してきた。
帽子のつばの影が短くなる。川面の光が眩しい。
リリアの額にも、細い汗が浮かんでいた。真紅のドレスは涼しい素材ではない。
「ふぅ……太陽が近いわ。魔界の火山より、刺さる」
「近くはないけど、刺さるのは分かる。水分とろう」
勇輝が差し出したのは、町内会のクーラーボックスから出した麦茶だった。
「……これは?」
「麦茶。カフェインなしで、飲みやすい。あと、町内会の定番」
リリアは警戒しつつ一口飲み、目を細めた。
「……香ばしい。これは、悪くない」
「よかった。悪くない、は最高の褒め言葉だよ」
加奈が笑うと、リリアは少しだけ視線を逸らした。照れを隠すタイプだ。
最後に、会長が名簿にチェックを入れながら、全体に声を掛ける。
「はい、お疲れ! 袋、ここに集める! 異界素材は白い袋だけ別にね! それと、今日初参加の人、リリアさん、どうだった?」
いきなり振られて、リリアが一瞬だけ固まる。
だが、すぐに胸元の名札に触れ、言葉を選んだ。
「……労働は嫌いではない。ただ、命令は嫌い。けれど、今日のは命令ではなく、連携のための声だった。理解した」
会長が「お、おう!」と頷き、周囲から小さな拍手と笑いが起きた。
笑いは、さっきの“恐る恐る”ではなく、少しだけ親しみのあるものになっている。
リリアはその笑いを受け止め、最後にぽつりと言った。
「……それと、白い袋のやつ。勝手に燃やさないで正解ね」
勇輝が「そうだね」と頷く。
町のルールが、ほんの少し、異界の少女の中に入った瞬間だった。
◆午後・温泉郷(裏方清掃)
昼前の温泉郷は、客の出入りが最も多い時間帯を迎える。
のぼり旗が風を受けて鳴り、駐車場には県外ナンバーが混じる。異界からの客が増えてからは、馬車のようなものや、よく分からない浮遊具が停まっていることもある。観光地は、盛り上がるほど裏方が忙しくなる。
清掃の集合場所は、温泉施設の裏手だった。
ホース、ブラシ、桶、洗剤の匂い。湯気が薄く漂い、濡れた床がきらりと光る。
青年団、旅館の従業員、市役所の生活環境課の職員まで混じっている。異世界経済部の面々も、今日は“見守り兼連絡役”として入っていた。
「リリアさん、ここではドレス汚れるから、これ着ます?」
加奈が差し出したのは、作業用の羽織とエプロンだった。旅館の備品らしく、丈夫で、しかし柄はひまわりが控えめに入っている。
「……この布、強いわね。魔界の戦装束みたい」
「戦装束じゃなくて、掃除装束」
勇輝がさらっと言い換えると、リリアは「ふん」と言いながらも、素直に着た。
そして、彼女はバケツを見つめていた。
真剣に。まるで未知の魔道具を鑑定する学者のように。
「この“バケツ”という器、底が抜けてないのね。便利だわ。無詠唱で水が運べる」
「運んでるのは、あなたの腕です」
「腕で運ぶ? つまりこれは……筋力魔法?」
「筋力は魔法じゃないけど、鍛えると強いのは同じ」
青年団の一人が、こらえきれず笑ってしまった。
リリアが振り向き、耳をぴくりと動かす。
「聞こえてるわよ」
「す、すみません。でも、その言い方、なんか……」
「なんか?」
「いや、可愛いっていうか……」
言ってしまった。周囲が「言うな」と目で合図する。
リリアは一拍置き、ふっと口角を上げた。
「……可愛いは、侮辱と褒め言葉の境界が曖昧ね。今日は許すわ。働いてるから」
許す条件が素直で、周囲の緊張がほどける。
これもまた、“生活の場”の力だった。
掃除は工程が多い。
排水溝の網を外し、髪の毛や葉を取り、ブラシでこすり、消毒して戻す。
床は滑りやすいので、動線を確保して作業する。
異界の客が増えたことで、毛の長い種族や、鱗が落ちる種族が利用することも増え、排水溝の負荷が上がっている。そういうことを、生活環境課の職員が淡々と説明している。
「鱗、落ちるのね」
「落ちる。ドラゴンは特に」
勇輝が答えると、リリアは腕を組み、少しだけ納得した顔になった。
「なら、排水溝の設計を変えるべきよ。詰まるなら、詰まらない構造に」
「そこまで言うなら、役所に提案書出して」
美月が背後から現れて、作業用メモを片手に言った。今日は珍しく、SNSの端末ではなく、紙のメモだ。
「提案書?」
「うん。改善案。図があると助かる。……っていうか、もう書いてくれたら速い」
美月の目は“忙しい広報”ではなく“改革の目”になっている。
リリアは少し驚いたように瞬きをした。
「……あなた、私を部下みたいに扱うのね」
「扱ってないです。頼ってます。異界の視点、貴重だから」
美月は言葉を柔らかく置いた。
「それに、今日の目的は“体験”でしょ? 体験して、改善点を見つけて、制度に落とす。これ、ひまわり市のやり方です」
リリアはその説明を聞き、少しだけ顎を上げた。
「……なるほど。支配じゃなく、仕組みで回す。やはり人間の町は面白い」
その後、リリアは本当に排水溝の網を持ち上げ、詰まりやすい箇所を観察し、ブラシを持ってこすった。
湯気の中で、真紅の少女が黙々と掃除をする光景は、どうしても現実感が薄い。
だが、桶の音は同じだ。ホースの水は冷たい。床は滑る。作業は、現実の手触りで進む。
「リリアさん、そこ危ない。足、ちょっと内側に」
加奈が声を掛けると、リリアは素直に足の置き方を変えた。
「……あなた、よく見ているのね」
「人が転ぶの、見たくないから」
「……優しいのね」
「優しいっていうより、町内会の性格。怪我が出ると後が大変でしょ」
加奈の言い方は現実的で、だからこそ柔らかい。リリアはそのバランスに、少しだけ納得している顔になった。
作業がひと段落した頃、旅館の若い従業員が差し入れの冷たいおしぼりを配った。
リリアは受け取り、手のひらに当てて目を閉じる。
「……冷たい。これも魔道具?」
「ただの濡れタオル」
「濡れタオルが、こんなに嬉しいなんて……人間、ずるいわね」
「ずるいは褒め言葉?」
「今日は、そういうことにしておく」
湯気の向こうで、小さな笑いが起きた。
◆昼・町内会館(昼食会)
町内会館の畳は、陽が当たると少しだけ青く見える。
古い建物なのに、掃除が行き届いている。ここもまた、町内会の力が見える場所だ。
テーブルの上には、焼きそば、おにぎり、漬物、とうもろこし饅頭、そして麦茶。観光地の“イベント飯”であり、家庭の“昼の味”でもある。
リリアは座布団に正座しかけて、途中で足がしびれる気配を察し、さりげなく崩した。
それでも背筋は伸びている。威厳は捨てていない。
「これが……人間界の“供物”ね」
「供物じゃなくて昼食だよ」
市長が落ち着いて訂正する。
「ふん。じゃあ“宴”?」
「宴でもいいけど、今日のは“みんなで食べる昼ごはん”」
「言い方が弱いわね。でも、弱い言い方ほど本当っぽい。いい」
リリアは焼きそばを箸でつまみ、慎重に口へ運んだ。
一口目で、目が止まる。
二口目で、視線が遠くを見る。
三口目で、箸が止まらなくなる。
「……なにこれ。魔界の滋養スープより、力が入る」
「力が入るのは、ソースの香りと塩分だと思う」
勇輝が真面目に返すと、周囲が笑った。
リリアは笑いを気にせず、もう一口。
「文明って、こういうところに隠れているのね。恐ろしいわ」
隣に座っていたおばあさんが、にこにこしながら声を掛ける。
「お嬢ちゃん、足りなかったら言いな。おにぎりもあるから」
「……お嬢ちゃん?」
「だって小さいじゃない。可愛いし」
周囲が“それは危ない”という顔をする。
しかし、リリアは意外にも、ゆっくりと頷いた。
「……食べ物をくれる人を、私は敵だと思わない。おにぎり、ひとつもらうわ」
「はいはい。梅と鮭、どっちがいい?」
「……梅」
その選択が妙に慎重で、また笑いが起きる。
美月は端末を見ずに、紙のメモに何か書き留めていた。
「……“異界来賓への食文化導入は、最初にソース”」
「それ、資料にする気?」
勇輝が聞くと、美月はさらっと頷いた。
「する。だって、実績が出るから。今日のリリアさん、明らかに顔が柔らかい」
「顔が柔らかい……」
加奈が小声で繰り返し、リリアの表情を盗み見た。
確かに、眉間の皺が少し薄い。口角が、ほんの少しだけ上がっている。
「……あなたたちの町は、魔力で回っているわけじゃないのね」
リリアがぽつりと言った。
市長が箸を置き、相手の言葉を待つ。
急かさない。これが市長の得意な間だ。
「……掃除も、温泉も、昼食も。誰かが誰かのために動いている。
それが当たり前みたいに繋がっていて、私は少しだけ、理解できない」
「理解できないのは普通だよ」
加奈が優しく言った。
「でも、分からないものを分からないって言えるの、すごい」
「すごい?」
「うん。分からないって言えない人も多いから」
勇輝が、役所の人間らしく補足する。
「町は、人の顔が見える範囲だと回りやすい。大きすぎると制度が必要になるけど、うちはまだ“顔”が効くサイズだ。だから、つながりがエネルギーになる」
「……つながり」
リリアはその単語を舌の上で転がすように繰り返した。
「魔界にも“つながり”はあるわ。でも、怖さで結ぶ。忠誠で結ぶ。あなたたちは……食べ物で結ぶの?」
「食べ物だけじゃないけど、食べ物は強い」
市長が静かに言う。
「人は、同じテーブルにつくと、相手のことを少しだけ“敵じゃない”と思える。今日みたいに」
リリアは黙り、麦茶を飲んだ。
香ばしさが喉を通る。
その時間が、彼女の中で何かを緩めていくのが、周囲にも分かった。
食後、会長が立ち上がり、軽く手を叩いた。
「はい、午後は解散! だけど、最後に一つだけ。今日、清掃と温泉掃除に参加した人は、ここに名前書いてってくれ。記録は残す。来年の予算にも関わるからな!」
「予算!」
美月が反射で反応し、勇輝が「そこ大事」と頷く。
リリアは“予算”という言葉に、少しだけ目を細めた。
「……記録するのね。見えない努力を、数字にする」
「そうしないと、次が続かないから」
勇輝が答える。
「続くようにするのが行政。町内会も、結局そこに繋がってる」
リリアは名簿の前に立ち、ペンを受け取った。
書こうとして、止まる。
「……人間の文字、まだ慣れてない」
「ひらがなでいいよ」
加奈がそっと言う。
「“りりあ”って書ければ十分。読めるから」
リリアは少しだけ唇を結び、慎重に書き始めた。
り。り。あ。
丸い字だ。威厳は字にも難しいらしい。
しかし、書き終えたあと、リリアは小さく胸を張った。
「……書けた」
「書けた。すごい」
加奈が笑うと、リリアはまた少しだけ視線を逸らした。
◆夕方・商店街(寄り道という名の文化衝突)
解散のあと、市長は「せっかくだから町を少し案内しよう」と言った。
リリアは一瞬迷ったが、結局ついてきた。好奇心が、ほんの少し勝っている。
商店街は夕暮れの色に染まり、昭和っぽい看板が並ぶ。新しい店も混じっているが、全体の雰囲気は“生活が先”だ。
「この棒状の食べ物……『うまい棒』。貴族の称号みたい」
「称号じゃない。ただのお菓子」
「安いのに、こんなに種類がある……。選ぶ時間が楽しいって、ずるい」
リリアは売り場の前で真剣に悩み、最終的に“たこ焼き味”を選んだ。
袋を開け、ひと口齧る。
ぱきっと軽い音。
「……軽い。なのに味が濃い。矛盾してるのに成立してる。これは……」
「文化」
勇輝が言うと、リリアは頷いた。
「文化ね。魔界にも欲しいわ。これ、侵略の武器になる」
「侵略に使わないで」
加奈が即座に言い、リリアは「冗談よ」と肩をすくめた。
冗談、と言えるようになったことが、今日の一番の変化かもしれない。
商店街の人たちは、最初こそ遠巻きだったが、市長が「リリアさん、今日町内会参加してくれたんだ」と普通に紹介すると、じわじわ距離が縮まった。
花屋の店主がひまわりの小さな束を差し出す。
「よかったら。飾ると部屋が明るくなるよ」
リリアは受け取り、花を見つめる。
「……黄色い。強い色ね」
「ひまわり市の色だよ」
市長が言う。
リリアはふっと笑い、束を胸に抱いた。
「……強い町。色まで強い」
◆夜・市長の実家旅館(静かな質問)
夜。旅館の一室。
畳の匂い、障子越しの灯り、テレビの音が小さく流れている。
リリアは浴衣を着ていた。真紅のドレスとは違う、柔らかい布の感触に、最初は落ち着かなさそうにしていたが、今は意外と似合っている。
市長は座卓にお茶を置き、向かいに座った。
勇輝と加奈、美月は一度引いた。今日のリリアは疲れているし、ここから先は“来賓”というより“一人の客”の時間だろうと、暗黙に察したのだ。
リリアはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「ねえ、市長。あなたたちは、どうしてこんなに頑張るの?」
市長はすぐには答えない。
窓の外の虫の声を一度聞き、湯気の残り香を吸い込み、言葉を選ぶ。
「誰もが誰かの顔を知ってるからだよ」
「顔……」
「顔を知ってると、適当なことができない。逃げられない、って意味でもあるけど、同時に守りたいって思える。町は、そういう小さな繋がりの積み重ねで動いてる」
リリアはお茶を飲み、湯飲みの温かさを確かめる。
「魔界は、怖さで人を動かす。あなたたちは、顔で動く」
「怖さは速い。顔は遅い。でも、遅いから壊れにくい」
「……遅いのが、強いのね」
リリアは窓の外を見た。
ひまわり市の灯りが、遠くで静かに滲んでいる。
今日の河川敷の光、温泉の湯気、商店街の看板、花束の黄色。
それらが一日分の“情報”として彼女の中で整理されていく。
「……私はね、正直に言うと、この町を試しに来たの」
「試しに?」
「魔王領の観光協定。あれは政治。言葉だけならどうとでもなる。だから、実際に見て、触って、弱点を探すつもりだった」
市長は驚かない。
「で、見つかった?」
「……見つかったわ」
リリアは真面目な顔で言った。
「あなたたちは、回りくどい。ルールが多い。勝手に燃やさない。名簿を書く。予算に繋げる。面倒」
「うん」
「でも、その面倒のせいで、今日私は……安心した。誰かが勝手に決めない。誰かが勝手に処分しない。だから、怖くない」
市長は静かに頷いた。
「それが、町内会の強さだと思う」
リリアは小さく息を吐き、花束を見つめた。
「……ひまわりは、強い花ね」
「日があるほうを向くからね」
「なら、私も……少しだけ向いてみようかしら」
その言葉は、照れ隠しみたいに軽かった。
だが、軽いからこそ本音が混じる。
市長はそれを受け止め、穏やかに笑った。
「無理しなくていい。向きたいときに向けばいいよ」
リリアは「ふん」と言いながら、湯飲みを両手で包んだ。
威厳の置き場を探しているようで、でも、その探し方がもう“生活の中”だった。
こうして、魔王の妹リリアは町内会デビューを果たした。
異界と現実の境目に、また一枚、薄い橋が掛かる。橋は目立たない。けれど、目立たないからこそ、毎日踏める。




