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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第4話「魔王領との観光協定を結べ!」

 ◆開庁前 異世界経済部フロア


 ひまわり市役所の一階は、朝がいちばん正直だ。空調が本気を出す前の、少し湿った空気。コピー機が温まっていないせいで、紙がやけに頼りなく感じる音。窓際の植木だけが元気で、葉っぱのつやが「今日もよろしく」と言っているみたいに見える。

 その穏やかな朝の机の上に、ひとつだけ場違いなものが鎮座していた。


 黒く光る封書。

 真っ黒な封蝋。

 さらに言うなら、封筒自体が「わたしは普通の郵便ではありません」と顔に書いてあるような存在感。書留だの個人情報保護だの、そういう役所の常識を横目に、圧だけで勝負してくるタイプだ。


「主任、これ、見てください!」


 美月が封書を両手で支えながら、机の横にそっと置いた。置き方は丁寧なのに、声だけが少し早い。いつもなら元気が先に立つのに、今日は警報の色が混じっている。


「魔王領からの公式通達です。ええと……封蝋、黒です。黒いです。あの、黒いです」


「黒いのはもう分かった。二回言ったら黒が増えるわけでもないし」


 勇輝はコーヒーをひと口飲んだまま固まり、ゆっくりとカップを机に置いてから封書を見た。見たくないのに見る、というより、見ないと仕事が始まらないのが役所の宿命だ。


「魔王領……ガルドネア、だよな?」

「はい。昨日の王国の件が、ちゃんと伝わっちゃったみたいです」


 加奈も資料の束を抱えて近づき、封蝋を覗き込む。喫茶ひまわりの看板娘なのに、最近はすっかり庁内の空気に馴染んでしまっているのが怖い。


「封蝋が黒いと、なんかこう……開けるだけで契約になりそう」

「契約になるタイプの紙は、なるべく財務課に回してから開けたい」


 勇輝が真面目に言うと、美月が「それ分かる」と勢いよく頷いた。分かるのか。分かってしまうのか。


 そこへ、市長が早足でフロアに入ってくる。スーツの襟を整えながら、机の上の黒い封書を見て、少しだけ足を止めた。

 驚いていない。驚いていないように見える。市長のすごいところは、驚きを職員に見せないことだ。


「来たか。魔王領は情報が早い」


「市長、来たかって……まだ開けてません」

「封蝋が黒いなら、だいたい要件は二択だ。苦情か、招待か」


「二択が重いんですよ」


 加奈が小声で言い、美月が封書の角をつまんで慎重に封を切った。封蝋がぱきっと割れる音が、やけに大きく聞こえる。


 中から出てきた紙は、黒いインクで整った文字が並び、文面だけ見れば厳粛そのものだった。だが、中央の余白に、なぜか小さな観光地マークみたいなアイコンが押されている。城のシルエットに、湯気。湯気。湯気なのか、それ。


 美月が読み上げる。


『ひまわり市がアスレリア王国と軍事同盟を結んだとの報、当方に到達せり。

 当領は観光競争上の不均衡を憂う。

 よって代表者を派遣し、貴市との友好観光協定の締結を求む。

 なお、協定締結までの間、当領の観光資源の正当なる評価を妨げる宣伝行為を慎むこと。

 魔王領ガルドネア 観光府 印』


 読み終えた瞬間、フロアの空気が少しだけ緩んだ。

 戦争ではない。少なくとも、今この紙面は戦争の話ではない。


「……観光協定、って書いてある」

「軍事同盟じゃなくて、観光競争のバランスの話なんだ……」


 加奈がほっとしたように言い、勇輝は額を指で押さえた。頭が痛い、とは言わない。言わないが、そこに手を当てたくなるくらいには、情報量が多い。


 美月がタブレットを開きながら、息を吐く。


「つまり『王国だけ仲良くしてるみたいでズルい』ってことですよね。観光の世界、反応が早すぎる」


「早い。早いけど、方向が観光で助かった。いや、助かったと言っていいのか」


 市長は紙を受け取り、文面を最後まで確認してから、机に置いた。


「まず誤解を正す。王国との話は、応援寄付であって同盟ではない。そこは昨日整えた文言で押し切れる」


「押し切るって、言い方が強いです」

「言葉は、線を引かないと混ざる。混ざると、次に困るのは現場だ。現場を守るための線だと思えば、強くていい」


 その言い方は乱暴じゃない。むしろ、責任の置き方がまっすぐで、勇輝は頷いた。


「で、魔王領の要求は協定締結。……行くしかないですよね」

「うん。行く。こちらから出向く」


 美月が反射で声を上げる。


「え、行くんですか。魔王領に。市長が」

「市長が行く。観光立市のトップが、自分の足で挨拶に行く。信頼は書類でも作れるが、最初の一回は顔を見せたほうが早い」


「早いの方向がすごい」


 加奈が呟くと、市長は肩をすくめた。


「心配するな。危険に突っ込む気はない。危険を避けるために行く。魔王領の『不均衡を憂う』は、裏を返せば『話し合いの余地がある』だ」


 勇輝は、少しだけ救われた気がした。怖いものを怖いと言えるうちに、手を打てる。それは行政の強さでもある。


 ◆朝 出張準備 ロビーと総務課の境目


 出張が決まると、役所は一気に「紙の生き物」になる。

 総務課が出張命令の決裁ルートを確認し、財務課が旅費の枠を開き、庶務が公用車の点検表を引っ張り出し、広報課が「誰がどこへ行くのか」を言い方ごと整え始める。

 異界対応が始まってから、この流れだけは妙に早くなった。慣れは怖いが、頼もしくもある。


 ロビーでは、出張用の資料が段ボールに詰められていた。紙、紙、紙。間にタブレット。最後に、なぜか味噌まんじゅうの箱。


「これは?」


 勇輝が指さすと、加奈がさらりと言った。


「手土産。交渉って、甘いものがあると空気が柔らかくなることがあるから」

「外交顧問が言いそうなこと言うな」

「喫茶の娘、最近いろいろ学んでるんだよ」


 美月はタブレットを見せてくる。


「出張の名目、こうします。『魔王領ガルドネアへの観光協定協議(誤解解消を含む)』。目的は『軍事同盟誤解の否定』も入れたいけど、そこは本文で。タイトルに入れると逆に広がるので」


「分かってるね」


 勇輝が頷くと、美月は少しだけ胸を張った。


「あと、予算。日帰りで申請してます」

「日帰り?」

「日帰りです。宿泊を入れると、異界レート換算でいろんな項目が増えて、決裁が遅くなります。今回はスピード優先です」


 市長が、その会話を聞いて頷いた。


「いい判断だ。日帰り圏内かどうかは、こちらで確かめる。……最悪、帰りが遅くなっても、宿泊は現地で追加申請する」


「追加申請って、魔王領から電話します?」

「魔力通信があるらしい。昨日、ロビーで『魔力通信ON』って表示を見た。役所の通信環境が異界仕様に寄ってきてる」


 勇輝はため息をつきかけて、やめた。やめたところで現実は変わらない。現実は、会計と書類で回る。


「同行者は、私と美月と加奈、レフィアさん。それでいいですか」

「いい。危険を煽らないためにも、少人数。役割は明確に。勇輝が協定の骨格、美月が広報と記録、加奈が現場目線と生活文化、レフィアさんが翻訳と外交のニュアンス調整」


「加奈、生活文化担当って何」

「靴を脱ぐ文化と、バケツの使い方と、温泉卵の正しい食べ方かな」


「それ、結構大事だよ」


 美月が真顔で言う。勇輝は否定できなかった。


 ◆移動 魔王領ガルドネアへの道


 公用車は、軽バンだった。

 ひまわり市役所の庶務車両。見慣れた白い箱。後部座席には段ボール。助手席には書類ケース。運転席には市長。

 市長が運転するのは珍しい光景だが、今日は「到着した瞬間に話を始めたい」らしい。スピードより、段取りが優先されている。


 レフィアが窓の外を眺め、静かに言った。


「魔王領ガルドネアは、見た目ほど乱暴な国ではありません。魔族は誇りを重んじますが、誇りは理屈に寄り添うこともあります」


「理屈に寄り添う誇り、いいですね」


 加奈が少し笑う。美月はタブレットで「魔王領の観光資源」のメモを読み上げ始める。


「ええと、魔炎の沼、黒曜の峡谷、夜市、闇の劇場、霧の展望台……名前は怖いけど、写真は案外きれいです。あと、名物が『黒蜜餅』。甘味がある」


「甘味があるのは強い」


 勇輝が言うと、市長がハンドルを握ったまま頷いた。


「甘味は、平和の入口だ。議会でも、菓子折りがあると空気が変わる」

「それ、議会がだいぶ可愛いことになりますね」

「可愛い方がいい。怖い言葉が出る前に、可愛いものを置け」


 勇輝は「それ、どこかで聞いたな」と思い、昨日の受領証明書を思い出した。言葉の順番を整える。余計な物語を先に生まない。やってることは同じだ。


 車が境界に近づくにつれ、景色が少しずつ変わる。

 山の緑が深くなり、空の青が濃くなり、空気がひんやりしてくる。道路の端に立つ標識が、いつの間にか二言語併記になっていた。日本語と、見慣れない文字。その下に、なぜか小さく「速度注意」とある。異界でも速度注意は重要らしい。


 ◆魔王領 国境門 来訪記録所


 巨大な城門がそびえていた。

 黒い石で組まれ、霧が門の上をゆっくり流れている。威圧感はあるが、整っている。雑な怖さではなく、管理された怖さだ。

 門の前に立つ魔族の門番たちは、鎧を着ているのに動きが静かで、目がよく利いている。


 軽バンが停まると、門番のひとりが近づき、車体を見て首を傾げた。


「これは……鉄の箱車か。異界の儀礼車両か?」


 市長が窓を開け、丁寧に頭を下げる。


「ひまわり市長です。本日は観光協定の件で参りました。こちらは庁用車です。燃費はほどほどですが、冷房が効きます」


 門番が一瞬だけ目を瞬かせた。冷房、という単語が刺さった気配がある。


「冷房……文明の魔術か」

「魔術ではなく、電気です」

「電気……なるほど。魔導馬車より、静かだな」


 門番は車よりも、市長が運転席から降りて自分で名乗ることに驚いているようだった。

 次に驚いたのは、勇輝が差し出したのが「名刺」だったことだ。


「名刺。身分証明と連絡先です。あと、こちらが本日の用件の概要」


 紙を差し出すと、門番は恐る恐る受け取る。受け取った瞬間、紙の軽さに少し安心した顔になった。武器じゃない。紙は武器ではない。たぶん。


 レフィアが補足する。


「彼らの文化では、事前に要件を文書で示すのは礼にかないます。安心して下さい」


 門番は頷き、門の横にある小屋へ案内した。小屋の中は、意外にも「来訪記録所」と書かれた札があり、帳簿が積まれている。

 どの国でも、入口には帳簿がある。帳簿がある国は、話が通じることが多い。勇輝はその法則を、今日また一つ確認した。


 美月がタブレットで写真を撮ろうとして、加奈に袖を引かれた。


「いきなり撮ると誤解されるかもしれない。先に許可」

「分かった。今日の私は、許可の人になる」


 美月は一度タブレットを閉じ、門番に丁寧に尋ねる。門番は少し考え、レフィアを通して「記録目的なら可、顔は控えめ」と答えた。美月が深く頷く。こういう積み重ねが、後で効く。


 ◆魔王城 謁見の間


 城の中は、広い。廊下の天井が高く、壁の装飾が幾何学模様で整っている。怖いモチーフが少ない。怖いのは色と影だ。

 その先、謁見の間の扉が開き、巨大な玉座が見えた。


 玉座に座るのは、青年だった。

 若い。だが、目が落ち着いている。静かな威圧と、言葉を選ぶ知性が同居している。

 魔王ヴァルゼン。ガルドネアの主。


「異界の町、ひまわり市。貴様らが観光立市を名乗ると聞いた。……そのうえで、王国と同盟を結んだとも」


 市長が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。


「本日はその誤解を正すために参りました。王国との件は、応援寄付であり、軍事同盟ではありません。こちらに受領証明書の写しと、文言の統一案がございます」


 勇輝が書類を差し出し、レフィアが訳して添える。

 魔王は書類を受け取り、目を通し、短く頷いた。


「なるほど。言葉を整えたか。誤解を放置せぬのは賢い」


 その評価が、意外と素直で、勇輝は少し肩の力が抜けた。

 魔王は、次に別の話題へ滑らかに移る。


「では観光協定だ。王国だけが貴市の温泉を知り、我が領の客が取り残されるのは、競争上よろしくない」


「競争上……」


 勇輝が思わず復唱すると、魔王の口元がわずかに緩んだ。笑った、とは言い切れないが、敵意ではない。


「我が領にも癒やしはある。だが、温泉という概念は特殊だと聞く」

「特殊というか、うちはだいぶ温泉で回ってます」


 加奈が穏やかに言うと、魔王の視線がそちらに向く。


「貴殿は市の者か」

「市役所の者ではないんですけど、喫茶をやっていて、最近は窓口のお手伝いもしています。生活側の目線で、困ることがないようにしたくて」


 魔王は少しだけ考え、頷いた。


「生活側。良い。協定は生活を動かす。生活の者が同席するのは理にかなう」


 市長が話を進める。


「魔王領の観光資源についても、こちらで勉強しました。魔炎の沼、黒曜の峡谷、夜市、闇の劇場。どれも、言葉の印象は強いですが、魅力は伝わります」


 魔王の背後に控える魔族の観光府大臣が、少し誇らしげに胸を張った。


「我が領の夜市は、闇に光が浮かぶ。客はそこで、日々の憂いを忘れる」

「うちの温泉通りも、夜の灯りがきれいです。湯気と灯りが混ざると、疲れが抜けるって言う人が多い」


 勇輝が言うと、魔王がわずかに身を乗り出した。


「湯気……なるほど。温泉とは、湯が熱いだけではないのだな」

「そうですね。湯気があると、人の気持ちが少し柔らかくなることがあります。もちろん、維持管理はちゃんと必要ですけど」


 言いながら、勇輝は「維持管理」という単語をわざと入れた。観光は夢だけで回らない。掃除と点検と予算で回る。その現実を、最初から共有しておくほうが後で楽だ。


 魔王は頷き、観光府大臣に視線を送る。大臣が資料を開いた。


「ひまわり市の入湯税とは何だ?」


 勇輝が答える。


「温泉に入るときに、少額を納めていただく税です。温泉地の環境整備や、観光案内、清掃、施設の維持に使います。税なので、目的外に使わないように枠を決めます」


「目的外に使わぬ、か。魔界でも必要だな」


 大臣が真面目に頷き、魔王が一言添える。


「我が領の『魔炎の沼』は、沸騰していて入れぬ。だが、入れぬなら別の癒やしを用意すべきだ。客は命がけの体験だけを求めるわけではない」


 美月が思わず目を丸くする。魔王の口から「命がけはほどほどに」という話が出るのは、少し意外だ。だが、その意外さが信用に変わることもある。


 加奈が、生活目線で質問する。


「沸騰してると、危ないですよね。観光資源として見せるだけにするなら、距離とか柵とか、案内の言葉が大事かも」

「ほう。案内の言葉」

「『近づくと危ない』を、怖がらせすぎず、軽くしすぎずに伝える言い方ってあるんです。うちも、温泉で転倒しないように掲示を工夫してきたので」


 魔王が少しだけ目を細めた。興味の目だ。


「その掲示の工夫、後で教えてもらえるか。魔族は強がる者が多い。強がる者ほど、掲示を読まずに近づく」

「分かります。強がる人ほど、転びやすいんですよね」


 加奈が穏やかに返し、美月が小さく頷いた。これ、同じ世界の人たちだ。文化は違っても、困り方が似ている。


 ◆協定案の詰め 結論を先に置く


 会談は、驚くほどスムーズに進んだ。

 もちろん、魔王の城で話しているのだから緊張はある。それでも、相手が「話を聞く姿勢」を最初から見せてくれると、こちらも行政の呼吸に戻れる。

 勇輝はホワイトボードの代わりに、持参した大判のメモ用紙を広げ、協定の骨格を書き出した。


「協定書は二層にします。Aが公式。Bが広報用」


 美月が即座に補足する。


「最初に結論箱。何を合意したかを、先に一行で出します。後で読み返しても迷わない形にします」


 魔王が頷く。


「余計な修飾で迷わせぬのは良い。ガルドネアの法文も、結論が先だ」


 観光府大臣が興味深そうに身を乗り出す。


「広報用のBは、どこまで自由か」

「事実の枠は固定します。その上で、紹介の言葉は各国の色を出していい。ですが、生活情報を埋めない。迷う客は、不満になるので」


 加奈が言うと、大臣は真面目に頷いた。


「客は迷うと、怒る」

「迷ったら、たぶん帰ってしまいます」

「帰られるのは困る」


 会議の価値観が、観光で揃っているのが面白い。怖い国のはずなのに、議論が現実的で、地に足がついている。


 魔王が言う。


「では、協定の柱は何だ」


 勇輝は、持参した資料から一枚を取り出した。ひまわり市の観光基本方針。異界転移前から使っていたものに、異界対応の文言を足した版だ。


「相互送客。安全基準の共有。通貨と税の説明の統一。苦情対応窓口の設置。あと、文化摩擦が起きたときの『言葉の調整会』を定期開催」


「言葉の調整会」

「はい。言葉のズレが、争いの入口になるので。先にズレを小さくする場を作ります」


 魔王は、しばらく黙ってから頷いた。


「良い。争いを望まぬ者ほど、言葉を整える。貴市は、その覚悟があるようだ」


 市長が穏やかに言う。


「うちは観光で食べてます。争いで食べてません。だから、争いの芽は最初に摘みたい」


 魔王の視線が、市長に真っ直ぐ刺さる。数秒の沈黙。だが、その沈黙は測っている沈黙で、突き放す沈黙ではなかった。


「ふむ。では、締結しよう」


 ◆署名 友好観光協定


 協定書のタイトルは、正式にはこうなった。


『友好観光協定 ひまわり市 魔王領ガルドネア』


 Aの公式文書には、結論箱が先頭にある。


【結論】

 両者は観光交流を促進し、安全と情報の統一を図る。軍事同盟ではない。


 その下に、条項が並ぶ。

 送客ルート、案内表示の統一、税と料金の説明、苦情窓口、定期会合。

 文章は硬いが、硬いだけで終わらないように、具体例も添えた。


 Bの広報版は、魔王領の観光府が得意な美しい言い回しを入れつつも、最初の一行だけはひまわり式に太字で固定した。


『温泉と夜市、湯気と灯り。ふたつの癒やしが行き来する』


 美月が「いいですね」と小声で呟く。こういう余白は、残していい。順番さえ守れば、生活は迷わない。


 署名の場で、魔王がペンを取り、静かに名を書いた。

 市長も、同じように署名する。


 そして最後。

 魔王領の印が押される。

 黒い印章が、紙に重く沈む。


 続いて、ひまわり市の印。

 本来なら公印だが、ここは異界。持ち出しに制限もある。

 代わりに、市長が持参した「臨時の協定スタンプ」を取り出した。役所の庶務が、夜なべして作ったやつだ。


 スタンプの柄は、ひまわりと、温泉マークと、小さなひまリス。

 ひまリスが、ここでも仕事をしてしまう。


「……この小動物は何だ」


 魔王が尋ねると、市長が真面目に答えた。


「うちのゆるキャラです。市民の気持ちが硬くなりすぎないように、存在しています」

「ゆるキャラ」

「ゆるい象徴、です」


 魔王が、少しだけ考え、頷いた。


「象徴で気持ちを整えるのは、政治の基本だな。よし、認めよう」


 美月が「認められた」と小声で言い、加奈が「よかったね」と返す。何がよかったのか分からないのに、確かに良かった気がする。


 ◆帰路 軽バンの中


 城を出るとき、門番たちが礼をし、観光府大臣がわざわざ見送りに出てきた。

 大臣は市長に向かって、真面目に言う。


「貴市の温泉、視察したい。こちらから代表を送る」

「歓迎します。日程調整は、窓口で」


 勇輝が言うと、大臣が頷き、次に魔王が一言添えた。


「代表は、我が妹を派遣する。第二魔王、リリア」


 車のドアを開けようとしていた市長の手が、一瞬止まった。

 勇輝と美月と加奈の視線が、同時に市長へ向く。レフィアも、少しだけ目を瞬かせた。


「妹……ですか」

「我が領の観光政策は、妹が熱心だ。人間の町を見たいと言っている」

「歓迎します。……ただ、受け入れ体制は整えますので、日程の相談を」


 市長は落ち着いた声で返した。返したが、声の裏側に「受け入れ体制って何をどう整えるんだ」が詰まっているのが分かる。


 魔王は淡々と続ける。


「滞在は一か月を希望している。研修だ」


 美月が、タブレットを握り直した。


「一か月……」


 加奈が小さく呟く。


「ホームステイ、ってやつだね」


 勇輝は、心の中でスケジュール表を開いた。開いたが、空白がない。空白がないのに、これから一か月分の枠が増える。数字が足りない。


 市長は、最後まで丁寧に頭を下げた。


「承知しました。帰り次第、正式に受け入れの連絡を差し上げます」


 軽バンが走り出し、城が霧の向こうに消える。

 車内は、しばらく静かだった。静かすぎて、美月が先に口を開く。


「主任、質問していいですか。今の、受け入れ先……どこにするんですか」

「宿泊施設、って言いたいけど、魔王の妹を旅館に入れると、旅館側の心臓が忙しくなる」

「じゃあ、市長宅?」


 加奈がぽつりと言い、市長が前を見たまま答えた。


「市長宅だ。こちらの責任で受ける。外に投げると、噂が先に走る」


 勇輝は、思わず言いそうになった言葉を飲み込み、代わりに現実の確認をした。


「一か月の受け入れは、生活面の調整が要ります。町内会、近隣、ゴミ出し、風呂、来客対応、あと……防災計画にも入れないと」

「入れる。今日のうちに枠を作る」


 市長の返しが早い。早いが、雑ではない。危険を減らす方向の早さだ。


 美月が、タブレットに書き込む。


「『第二魔王リリア受け入れプロジェクト(仮)』。仮が外れるの、いつだろう」


 加奈が笑って、でもすぐ真面目になる。


「リリアさんがどんな人かにもよるよね。観光政策に熱心、って言ってたけど」

「熱心な人ほど、現場を見たいと言う。そして現場に来た瞬間に、現場を増やす」


 勇輝の言い方は冗談っぽいが、半分は本当だ。美月が「分かる」と頷く。うなずきが揃うと、現実が一段だけ近づく気がした。


 ◆翌日 ひまわり市役所 朝


 役所に戻ると、いつもの紙の匂いが少し安心する。

 庁舎は庁舎で、昨日の魔王城よりもずっと小さいのに、ここにも別の意味で威圧がある。書類の山という名の威圧が。


 美月が出張報告書を机に置き、勇輝が協定書の写しを回覧に回し、市長が庁内会議で要点を短く共有した。

 職員たちは驚きつつも、きちんと受け止める。

 異界対応の一週間で、役所全体が「驚いても仕事を止めない」筋肉を手に入れてしまった。


 だが、問題はそれだけでは終わらなかった。


「主任、魔王領から追加連絡です」


 美月がタブレットを見せる。画面の文字が、やけに丁寧だ。丁寧なときほど怖い。


『第二魔王リリア、視察の意欲高し。予定を前倒しす。三日間の先行滞在にて、貴市の空気を知りたし』


「先行滞在」

「前倒し」


 勇輝が復唱し、加奈が「三日間なら……」と言いかけて止まる。三日間でも大変だ。三日間だから油断すると、三日間で問題が凝縮する。


 市長が、落ち着いて言った。


「三日間の先行滞在なら、受け入れの手順を試せる。試して、改善して、一か月に備える。これはチャンスでもある」


「市長、チャンスって言葉が強い」

「強い言葉を使わないと、こちらの気持ちが折れる。だからチャンスだ」


 勇輝は納得してしまい、黙って頷いた。現場の心の持ち方も、行政の仕事だ。


 ◆同日 昼 庁舎前 空が割れる前兆


 昼前、庁舎前の空気がざわついた。

 風が逆向きに吹く。音が遠のく。電柱の影が薄くなる。

 異界に転移してから「こういう前兆」が増えている。慣れたくないが、前兆があるだけマシだ。いきなり来るより、心の準備ができる。


 庁舎前の広場に、黒い雲が渦を巻くように集まり、ゆっくりと魔法陣が描かれていく。

 文字は読めない。だが、描き方が丁寧だ。丁寧な魔法陣は、たぶん礼儀だ。


「……来るね」


 加奈が小さく言い、美月はタブレットを抱え直した。勇輝は深呼吸して、職員に短く指示する。


「ロビーの一般来庁者は奥へ誘導。窓口は一時停止。案内板に『来賓対応のため』を出す。言い方は柔らかく」

「はい!」


 返事が揃う。揃うと心強い。


 魔法陣の中心から、影が落ちた。

 次いで、真紅のドレスの裾がふわりと揺れ、そこから小柄な少女が現れた。

 角は控えめに飾られ、瞳は赤に近い。肌は白く、表情は堂々としている。

 背後に続いて、護衛らしき魔族が二人。だが、武器を振りかざす気配はない。視線は周囲の安全確認に向いている。


 少女が、ゆっくりと周囲を見回し、口元を少しだけ上げた。


「ここが人間の町。……噂どおり、妙に落ち着いた匂いがするわね」


 市長が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。


「ひまわり市へようこそ。第二魔王リリア殿。お越しを歓迎します」


 少女は頷き、視線を市長から勇輝たちへ滑らせる。


「ふうん。あなたたちが、観光立市の役人?」

「役人、という言い方で合ってます。市役所の異世界経済部主任の勇輝です」

「喫茶ひまわりの加奈です。今日は案内のお手伝いもしますね」

「広報担当の美月です。滞在中の連絡と案内資料、全部まとめてあります」


 美月がさらりと言って、資料ケースを持ち上げた。準備してきた自分を褒めたい顔をしている。今日は褒めていい。


 リリアは、資料ケースよりも、庁舎の建物を見上げた。


「意外と……普通の建物ね。もっと、塔とかあると思った」

「塔はありません。予算が通らないので」


 勇輝が真面目に答えると、リリアが目を丸くしてから、小さく笑った。


「予算、って言葉が出るの、いいわね。うちの城は、予算って言うと空気が凍るの」


 加奈が思わず言う。


「凍るのは困るね。空気は、ほどほどがいい」


 リリアはふっと息を吐き、指先で髪を払った。


「三日間、お世話になるわ。先に確認したいことがあるの」


 勇輝が頷く。


「何でしょう」


 リリアの瞳が、きらりと光った。昨日の王女と似た光り方だ。嫌な予感ではない。好奇心の光だ。好奇心は可愛いが、現場を増やす。


「ふるさと納税。あれ、仕組みを教えてちょうだい。魔王領にも導入したいの」


「また納税……」


 美月が小さく呟き、すぐに口元を押さえた。言ってはいけないわけじゃないが、今は言い方を選びたい。


 市長が、落ち着いて笑う。


「歓迎します。制度の説明は、得意です。……ただし、誤解が生まれやすいので、今日は結論から話しましょう。ふるさと納税は軍事同盟ではありません」


 リリアが「そこ?」という顔をして、次に肩を揺らして笑った。


「分かった分かった。あなたたち、誤解で苦労したのね。じゃあ、結論から聞くわ。寄付したら、何が返ってくるの?」


 加奈が、すっと一歩前に出る。喫茶の娘の顔で、でも行政の空気も読んだ声で。


「ひまわり市だと、温泉の券とか、はちみつとか、味噌まんじゅうとか。生活の中で嬉しいものが返ります。ただ、返礼が豪華すぎると『買った』みたいに見えるから、そこは調整が必要です」


 リリアは頷き、真面目な顔になる。


「なるほど。誇りのためにも、買ったと思われるのは嫌ね。あくまで、応援。だから、嬉しい余白」


 勇輝は、その理解の早さに少し驚いた。魔王の妹という肩書きに引っ張られそうになるが、目の前の彼女は「観光政策の人」だ。理屈が通じる。


 美月がタブレットを開き、提案する。


「じゃあ、滞在中に『制度の誤解が生まれない説明テンプレ』を一緒に作りませんか。魔王領向けに、言葉を整えて」


 リリアが面白そうに目を細めた。


「いいわ。あなた、頭が回るのね。名前は?」

「美月です」

「美月。覚えた」


 市長が頷く。


「では、まず庁舎内をご案内します。窓口の動きと、制度の説明の作り方を見てもらう。次に温泉通り。観光協定の実物を見てもらう。最後に、町内会への挨拶。生活側の受け入れが、観光の土台なので」


 リリアが少しだけ眉を上げた。


「町内会?」

「はい。町の人たちが、普段の暮らしを守るために動いている組織です。観光客が増えると、生活も変わりますから」

「面白い。魔王領にも、似た仕組みはあるけど……うちはだいたい夜に集まるの」

「夜の集会、ちょっと怖そう」

「怖くないわ。お茶と甘味が出るの」


 加奈が「甘味、大事だね」と笑い、リリアが小さく頷いた。


 ◆締め 役所の仕事は、言葉の置き場所


 庁舎のロビーには、いつもの列ができていた。

 来庁者は、魔法陣から来た少女を見て、最初は驚いた顔をした。だが、市長が先に案内板を出していた。


【お知らせ】

 本日、魔王領ガルドネアより来賓が来庁しております。

 窓口は通常通りですが、一部ご案内に時間がかかる場合があります。

 ご理解とご協力をお願いいたします。


 太字の一行が、余計な物語の前に立っている。

 それだけで、人は落ち着ける。ひまわり市は、そのことをこの一週間で何度も学んだ。


 勇輝は、リリアを案内しながら、心の中で確認する。

 観光協定は結んだ。誤解も一旦ほどけた。

 だが、これからが本番だ。制度は走り出すと、人の生活を動かす。動かすなら、迷わせない言葉が必要だ。


「主任、次回予告どうします?」


 美月が小声で聞いてくる。

 勇輝は少し考え、加奈を見る。加奈は「町内会だね」と目で言う。

 市長は「生活が土台だ」と頷いている。


 リリアは、庁舎の掲示板を見上げながら呟いた。


「人間の町って、面倒だけど、面白い。面倒を面倒のまま放置しないから」


 その言葉に、勇輝は小さく頷いた。

 面倒を放置しない。だから役所がある。だから観光が回る。だから、異界でも町が生きる。


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