第3話「王女殿下、ふるさと納税に興味を持つ」
〜制度が国境を越えるとき、行政は静かに忙しくなる〜
◆朝 ひまわり市役所 正面ロビー
異世界に転移してから一週間。
数字で言えば、たった七日だ。体感で言えば、七年くらいの濃さがある。
それでも市役所の朝は、驚くほど「いつも通り」を装っていた。
開庁のベルは鳴る。来庁者用のスリッパは並ぶ。掲示板には「今月の広報」が貼られる。
ただし、貼られている紙の右上に小さく「異界対応版」と朱字があるあたりが、もういつも通りではない。
ロビーの端には臨時の案内板が立ち、係員の職員がペンで数字を書き直していた。
【異界対応窓口 現在の待ち時間】
およそ 2時間45分
「……二時間四十五分って、テーマパークの人気アトラクションみたいだな」
異世界経済部主任の勇輝は、思わず声に出してしまい、近くにいた職員と目が合った。
職員は笑いそうになって、すぐ真面目な顔に戻る。笑ってはいけない、というより、笑う余裕がまだ残っていることが救いだった。
「おはようございます、勇輝。今日も列が育ってるよ」
喫茶ひまわりの看板娘で、いまはなぜかボランティア窓口の常連になっている加奈が、ファイルを抱えながら寄ってくる。
彼女の声はいつもの調子で、ロビーの緊張を少しだけ柔らかくする。
「育てなくていい。誰が育てたんだ、その列は」
「朝いちで来た人たちが、待ってる間に情報交換して増殖したみたい。ドラゴンのお客さんの温泉マナー講座まで始まってたよ」
「講座……」
勇輝が遠い目になっているところへ、観光課改め異世界経済部の若手、美月がタブレットを抱えて駆け込んできた。
走っているのに、転ばない。最近の美月は「走りながら整理する」技術だけが妙に伸びている。
「主任、朝イチで一件、ちょっとだけ格が違う案件が来ます。いや、もう来てます」
「格が違うって、何が来るんだ。竜族の団体予約か。温泉卵の追加発注か」
「それより上です。窓の外、見てください」
勇輝はロビーのガラス窓に目を向けた。
庁舎前の広場に、白馬が並んでいた。
いや、白馬の「ように見える」生き物が並び、その脇に鎧姿の騎士が整列している。
旗には金色の百合の紋章。昨日、レフィアから見せてもらった王国の公式印と同じ柄だ。
「……本当に来たのか」
勇輝が小さく呟くと、加奈が息を吸って背筋を伸ばした。
美月はタブレットを抱え直し、画面をちらりと確認してから、もう一度深呼吸する。
そこへ、市長がロビーの奥から現れた。
スーツの襟を整え、いつもの早歩き。表情は落ち着いているが、目の奥だけが忙しい。
「おはよう。今日は開庁直後に応接室を押さえてある。勇輝、加奈、美月、同席でいいな。レフィアさんも呼んである」
「呼んである、って……もう段取りできてるんですか」
「できてないと、来賓が玄関で迷う。迷わせると、そこで物語が生まれて余計な誤解が増える」
市長の言い方は冗談みたいで、実務そのものだった。
騎士が先導し、馬車の扉が開く。
降り立ったのは、金髪に小さなティアラを戴いた少女だった。年齢は十代前半くらいに見えるが、所作が静かで、空気の重さが違う。
広場の砂利を踏む音すら、儀式の一部みたいに整っていた。
「この地が、ひまわりの都……」
少女は周囲を見回し、目を細める。
夏の朝の光が髪に反射して、確かに「都」と呼びたくなる輝きがあった。庁舎の外壁がちょっと古いことまで、逆に歴史に見えてしまうから不思議だ。
レフィアが一歩前に出て、丁寧に紹介する。
「ひまわり市の皆様。こちらがアスレリア王国第一王女、リゼリア殿下です」
王女は小さく頷き、まっすぐ市長を見る。
「余は視察に来た。異界の経済と、税の仕組みを学びたい」
「……税」
その単語が出た瞬間、勇輝の脳内に「相談件数」「苦情」「納期限」「条例」の四文字が一斉に点灯した。
加奈も同じ反応をしたらしく、ファイルを握る手に力が入っている。
美月に至っては、タブレットのメモ欄を開いたまま固まっていた。今日の議事録係は、彼女しかいない。
市長は、落ち着いた声で頭を下げる。
「ようこそ、ひまわり市へ。ご視察、歓迎いたします。まずは応接室でお話を。……靴は、こちらでお履き替えください」
王女は足元を見て、少し首を傾げた。
「履き替えるのか。室内に土を入れぬための礼儀、か」
「そういうことです。こちらの文化では、わりと大事です」
「面白い。では、余も礼に従おう」
騎士団が一斉に靴を見て戸惑う気配を出すが、レフィアが小声で手早く指示を出し、全員がスリッパに履き替える。
鎧にスリッパ。光景は強い。強いが、誰も笑わない。今は笑うと後で絶対ややこしくなる。
◆午前 市役所 応接室
応接室には、紅茶とクッキーが用意されていた。
クッキーは市民ボランティアが朝から焼いてきてくれたものらしく、形が少し不揃いで、そこが逆に温かい。
王女リゼリア、市長、勇輝、美月、加奈。そして外交顧問として同席するレフィア。
席順も、いまのひまわり市にしては妙に整っている。職員たちが背中で必死に調整した結果だ。
リゼリアは紅茶の香りを確かめるようにカップを持ち上げ、少しだけ目を見開いた。
「良い香りだ。茶は王国でも嗜むが、これは……少し甘い香りがする」
「香りづけです。果物の皮を乾かしたものを少しだけ。喫茶ひまわりの定番で」
「ほう。民の店がこの味を持つのか。豊かだな」
加奈が頷きながら説明し、勇輝は内心で「そこ褒められると照れる」と思いつつ、背筋は伸ばす。
本題は、王女が切り出した。
「税の仕組みを学びたい、と言ったが、余はまず聞きたい。『ふるさと納税』とは何だ」
美月のペン先が止まる。勇輝の視線が、反射的に市長へ飛ぶ。
市長は、少しだけ間を取ってから、落ち着いて頷いた。
「ひとことで言うなら、応援したい自治体に寄付をして、そのお礼として地元の品を受け取れる仕組みです。税の控除が絡むので、正確には制度設計がありますが」
「応援、寄付、お礼。……それは、よいな」
リゼリアの瞳がきらりと光った。
この光り方は、観光パンフレットを見た子どもと同じだ。好奇心が真っ直ぐに刺さる。
「余も寄付をしたい。ひまわり市は、異界に落ちてもなお民が落ち着いている。余はそれを称えたい」
「ありがとうございます。……ただ、金額には上限の考え方がありまして」
勇輝が口を挟むと、リゼリアは素直に頷く。
「上限。なるほど、王国の献金にも限度がある。ならば、余は限度いっぱいを」
「ええと、限度の計算は所得と住民税の関係で……」
説明を続けようとした勇輝の言葉を、リゼリアがさらりと遮った。
「金貨一千枚を納めよう。王国会計局に命じる。余の名で」
応接室の空気が、ぴたりと止まった。
止まったのは時間ではなく、職員たちの思考だ。
美月のペンが、静かに机の上に落ちる。
加奈が計算アプリを開こうとして、スマホの画面が固まる。いつもなら固まらないのに、今日だけ固まる。
勇輝は、脳内で軽トラを数え始めてしまい、すぐにやめた。やめても数が残る。
市長だけが、少し困ったように笑って、そして真面目に言った。
「……大変ありがたいお話です。ですが、ひまわり市の会計処理の枠の中で、その金額は、いくつか確認が必要になります」
「確認とは?」
「寄付の性質です。目的が支援なのか、対価なのか、協定なのか。言葉が違うと、記録の分類が変わります」
リゼリアは一瞬考え、首を傾げた。
「余は、支援だ。困っているなら助ける。それが王族の務めだ」
勇輝は、その言い方が一番危ないと直感した。
「支援」は善意だが、異界の言語体系では「援軍」「同盟」「保護」といった政治語彙に一瞬で乗る。
レフィアが、さりげなく補足する。
「殿下。ひまわり市は国ではなく、町の自治体です。軍は持ちません。……助ける、という言葉が強い意味にならないよう、表現を整えたほうがよろしいかと」
「町。自治体。……不思議な仕組みだな」
リゼリアは興味深そうに頷き、そしてまた素直に言う。
「では、余は『応援』として納める。これで良いか」
「はい。応援寄付、という表現なら安全です」
勇輝が即答し、加奈が小さく頷く。美月はペンを拾い直し、文字を書き始めた。
市長はその場でメモを取る。
『語彙の定義を最初に。異界行政は言葉の翻訳から』
その瞬間、ノックの音が響いた。
◆午前 応接室前 廊下
扉の外にいたのは、王国会計局の急使だった。
息が上がっている。服は整っているのに、顔色だけが走ってきた人のそれだ。
「失礼。緊急報告。殿下のご寄付は、会計上『同盟援助金』として記録されました」
「同盟……?」
勇輝の声が低くなる。市長が一瞬だけ眉を動かし、レフィアが小さく息を吸う。
急使は続けた。
「王国の帳簿上、『ひまわり市は援助対象であり、対価として友好条約を結ぶ』と整理されております。……つまり、軍事的な同盟と解釈されかねません」
美月が顔を上げ、加奈が口元を押さえる。
リゼリアは、きょとんとした。
「軍事同盟? 余はそんなことを言っていない」
「殿下の善意が、帳簿の言葉に変換された結果です。帳簿は便利ですが、時々、強すぎる言葉を好みます」
勇輝は、どう言えば角が立たないかを一瞬で探し、できるだけ丁寧に言った。
「すみません、殿下。こちらの制度は、贈与でも条約でもなく、あくまで寄付という枠です。『同盟』という言葉が出ると、町としては誤解が広がります。広がると、いろいろな方面から問い合わせが来ます」
「問い合わせ?」
「とてもたくさん来ます。電話が鳴り続けます」
美月が真顔で頷いた。説得力がある頷きだ。
リゼリアは少し考え、そして小さく頷く。
「ならば、帳簿の言葉を直せばよい。余が命じる」
「命じていただけるなら助かります。ただ、こちらも同時に、受け入れの手続きを整えます。双方で同じ言葉を使うのが一番です」
市長が、すっと立ち上がった。
「では、臨時の整理会議に移ります。殿下には、少しお待ちいただけますか。ご迷惑をおかけしますが、誤解が大きくならないうちに、こちらで形にします」
リゼリアは頷き、むしろ楽しそうに言った。
「よい。余は見学してもよいか。町の行政が、どう動くのか興味がある」
「……見学」
「民の仕組みは、民の場で学ぶのが一番だろう」
勇輝は「それ、見せていいやつだっけ」と心の中で一瞬迷う。
だが、いまのひまわり市は、見せないで済む段階を超えている。見せながら安全に回すのが、現実的な答えだ。
「では、会議室の端で。危ない言葉が出そうなときは、レフィアさんが先に止めます」
「承知した」
レフィアが小さく頷き、急使にも短く指示を出す。
ここまでが、五分。ひまわり市役所の「会議を始める速さ」は異界でも通用しそうだった。
◆正午 市役所 財務課臨時会議室
会議室のホワイトボードには、もう太字で書かれていた。
【異界版 ひまわり応援寄付(暫定)】
目的:観光・交流・生活支援(非軍事)
性質:寄付(対価性なし)
返礼:謝意としての贈呈(在庫と上限あり)
記録:受領証明書を発行(異界語併記)
「……誰が先に書いたんですか」
勇輝が呟くと、市長がさらりと答えた。
「朝の時点で、こういう話になる予感があった。予感というか、昨日のドラゴンの金貨が予告編だった」
「予告編で済ませないでください」
美月がタブレットを机の中央に置き、既に書き始めていた議事メモを共有する。
「まず、今日のリスクは三つです。ひとつ、王国側の帳簿で『同盟』扱いになっていること。ふたつ、こちらの会計で『寄付』として受け取る根拠が曖昧なこと。みっつ、返礼品が一気に増えた金額に見合うと思われると、供給が破綻すること」
加奈が頷きながら、もう一つ付け足す。
「四つめ。町の人たちが『金貨一千枚』って聞いたら、勝手に盛り上がって、勝手に噂が走る。噂は止められないから、先に正しい説明を出す」
「それは本当に大事だ」
勇輝は深く頷いた。噂のスピードは、ネットがなくても速い。人が集まる場所がある限り、情報は走る。
会議室の端では、リゼリアが興味深そうに椅子に座り、レフィアが小声で通訳しながらメモを取っている。
王女が「会議を見学している」光景が、すでに事件だが、今は事件を増やす暇がない。
市長が話をまとめに入る。
「結論から決めよう。受け取るか、受け取らないか」
勇輝が即答する前に、財務課の担当者が手を挙げた。
「受け取らないのは現実的ではありません。拒否すると、王国側の面子問題になりかねません。受け取った上で、用途と性質を明確にし、監査に耐える形にしたいです」
美月が頷く。
「受け取る前提で、言葉を作りましょう。『同盟』を『応援寄付』に置き換える。王国側にも同じ文言を使ってもらう」
加奈も続ける。
「そして返礼品は、金額に比例させない。『寄付額に応じて豪華になる』が過ぎると、対価に見える。そこは『謝意の範囲』って言葉にする」
勇輝は、ホワイトボードの「返礼:謝意としての贈呈」を指でなぞりながら頷く。
「あと、受領証明書。これが生命線だ。日本のふるさと納税も、紙が出るから制度になる。紙がないと、全部噂になる」
市長がペンを取り、太字で書き足した。
【受領証明書に必ず入れる文言】
この寄付は、軍事同盟・保護条約・援軍要請を意味しない
返礼品は謝意であり、対価ではない
用途は観光・交流・生活支援に限る(具体例を併記)
問い合わせ窓口(ひまわり市役所 異界対応窓口)
「文言、強くないですか」
財務課の担当者が慎重に言うと、勇輝が首を振った。
「強く見えるけど、異界の政治語彙に引っ張られるともっと強くなる。最初に線を引いておくほうが、後が楽です」
加奈が、少し笑って言う。
「線を引くと安心する人、いっぱいいるよね。『ここまでは大丈夫』って分かるから」
美月は、タブレットに大きく一行入れる。
『これは観光と交流の応援寄付です。軍事の意味はありません』
「まずはこれを、ロビー掲示と口頭説明のテンプレにします。職員が同じ言葉で言えるように」
市長が頷き、次の論点に移る。
「用途はどうする。一般財源に入れると曖昧だ。特定財源にするか」
勇輝が手を挙げた。
「特定財源にしたほうがいい。『異界対応基金』として別枠化。用途を見える化して、市民にも説明できるようにする」
「基金。名前は?」
「ひまわり異界交流応援基金。……長いけど、誤解が減る」
美月が小さく笑い、加奈が頷く。
「長いの、たまに大事。短いと、勝手に別の意味が入るから」
リゼリアが、端から小さく手を挙げた。
「質問してもよいか」
「もちろんです、殿下」
市長が答えると、リゼリアは真剣な顔で言った。
「返礼とは、何を贈るのだ。余は、ひまわり市の『味噌まんじゅう』が気に入った。あれは入るのか」
一瞬、会議室の空気が和らいだ。
勇輝は、思わず口元が緩みそうになって、すぐに真面目な顔に戻す。戻したが、声は少し柔らかくなる。
「入ります。ただし、量に上限を設けます。味噌まんじゅうだけで一千枚分を埋めると、町の味噌が枯れます」
リゼリアが目を丸くする。
「枯れるのか。味噌は木ではないのに」
「比喩です。材料が足りなくなる、という意味で」
レフィアが通訳しながら、肩を震わせている。笑いを堪えているのが分かる。
加奈が、現実的に提案する。
「殿下には『特別枠』として、温泉年間パスと、季節の詰め合わせ。味噌まんじゅうは、十個くらいがちょうどいいと思う。多すぎると、逆にありがたみが薄れるし」
美月がメモを取り、すぐ確認する。
「年間パス、条例上の扱いはどうします。現金換算に見えると危ないので、『施設利用券』として発行して、転売禁止を入れましょう」
勇輝が頷く。
「返礼品も、制度として整える。今日だけの思いつきにしない。今日の思いつきが、明日のトラブルになる」
市長が、短く言った。
「よし。やることが見えた。次は、王国側の帳簿を直すための文面だ。レフィアさん、殿下の名義で『応援寄付』という表現を使ってもらえるか」
レフィアが頷く。
「可能です。会計局には、正式な文書が必要でしょう。こちらの受領証明書の写しを添えれば、言葉の統一ができます」
「写しを用意します。勇輝、美月、加奈。ロビー対応も動く。いまこの瞬間から、庁舎内の噂が走る前に、掲示と職員向け周知を出す」
「はい」
返事が重なる。短いが、冷たくない。忙しいときほど、言葉は短くなる。そこに変な硬さが出ないよう、勇輝は意識して、声の温度を落としすぎないようにした。
◆午後 市役所 ロビー 異界対応窓口
ロビーに戻ると、列は本当に育っていた。
待っている人が、持っている紙の種類が多い。温泉の利用案内、宿泊税の説明、異界通貨の換算表、そして「金貨ってどこで換えるの」という質問票。
「主任、さっき『王女が金貨千枚持ってきた』って噂が走りかけました」
案内係の職員が小声で言う。勇輝は即座に頷く。
「走る前に、こっちが走る。掲示、出します」
美月がタブレットで作った文章を、プリンタに送る。
加奈はその場で、文面を口に出して確認し、言い回しを少しだけ整える。
市長はロビー中央に立ち、職員に短く指示を出して回る。大声ではない。言い切りすぎず、でも迷わせない。
掲示が貼られた。
【お知らせ】
本日、アスレリア王国より「ひまわり市への応援寄付」の申し出がありました。
これは観光と交流の支援を目的とする寄付であり、軍事同盟等の意味はありません。
詳しい説明は、異界対応窓口でご案内します。
掲示を見た人たちは、最初に驚いた顔をし、次に少し安心した顔になった。
太字の一行が、余計な物語の前に立っているだけで、空気が違う。
列の中にいた年配の男性が、隣の人に言った。
「同盟じゃないって書いてあるなら、まあ、よかったな。うちは旅行で食ってる町だしな」
その言葉を聞いて、勇輝は内心で少しだけ肩の力が抜けた。
町の人が、自分たちの町を理解している。それが一番強い。
一方で、問い合わせはもちろん来る。
「応援寄付って、誰が受け取るの」
「返礼品って、ドラゴンにも出るの」
「王女さん、温泉入るのかい」
美月がタブレットを見ながら、丁寧に答える。
「寄付は市が受け取ります。返礼品は謝意としてで、金額に比例して増えるものではありません。温泉については、今のところ視察が主なので、入浴は未定です」
加奈は、子どもを連れた母親の質問に、目線を合わせて言う。
「もし王女さまが温泉に行くことがあったら、混まないように時間を調整するよ。みんなの普段が崩れないようにするのが、役所の仕事だからね」
その言い方は、優しいだけではなく、現場を知っている人の落ち着きがあった。
◆夕方 市役所 臨時翻訳室
庁舎の一角に、急ごしらえの翻訳スペースができていた。
普段は会議資料の山が置かれている倉庫に、テーブルと椅子を並べただけの部屋だが、いまここが一番大事な場所になっている。
机の上には、日本語の文面と、アスレリア語の草案が並び、レフィアが赤ペンで修正を入れている。
王国の言葉は美しいが、政治語彙が強い。美しいだけに、誤解すると怖い。
「この『援助』はだめ。ここは『応援』に寄せる。王国の文書で『応援』に当たる言葉は……」
レフィアが呟き、美月がすかさず提案する。
「ニュアンスは『励ます』『背中を押す』ですよね。『保護』じゃなくて」
「そう。保護は上下ができる。ひまわり市は対等な交流を望む、と書きたい」
勇輝は、受領証明書の文言を見つめながら、ふと気づく。
「『非軍事』って、強い言葉だな。こっちの文化では必要だけど、王国側には刺さりすぎないか」
「刺さるくらいでいいです」
美月が真顔で言い切り、加奈が穏やかに頷く。
「刺さるってことは、覚えてもらえるってことでもあるよ。大事なところは、少し硬くていい」
市長も同意した。
「硬い言葉は、いざというときの盾になる。普段は邪魔だが、必要なときは必要だ」
そのとき、リゼリアが机の端から身を乗り出す。
「余にも、その文言を見せよ。余の名で出すなら、余も理解したい」
「もちろんです」
勇輝は、受領証明書の要点を指で追いながら、ゆっくり説明した。
「ここに『軍事同盟ではない』と書いてあります。これは、あなたを疑っているわけではなくて、周りの人が勝手に話を広げないようにするためです」
「周りの人、とは」
「王国の官僚も、ひまわり市の住民も、そして異界の別の国の人もです」
リゼリアは真剣に聞き、静かに頷いた。
「理解した。余は、誤解で誰かが困るのを望まぬ。ならば、最初に言葉で防げばよい」
その言葉に、勇輝は少し救われた。
偉い人ほど、意外と話が早い。問題は、その周辺の仕組みだ。仕組みは、人の数だけ遅い。
◆夜 市役所 ロビー 突然の来訪
受領証明書の写しが完成し、王国会計局の急使が受け取って帰っていく。
ロビーの列も、少しだけ短くなっていた。職員の顔にも、ほんの少しだけ「今日の山場は越えたかもしれない」という気配が出る。
そのとき、庁舎の空気が変わった。
扉の隙間から、冷たい風が滑り込んでくる。
外は夏のはずなのに、肌に当たる風だけが、井戸水みたいに冷たい。
「……今の、何?」
加奈が小さく呟く。美月はタブレットを抱え直し、勇輝は反射的に入口へ視線を向ける。
市長も、歩みを止めた。
玄関の影の中に、黒い外套の男が立っていた。
背は高く、姿勢は整っている。顔立ちは端正だが、表情が薄い。薄いのに、視線だけがはっきりしている。
周囲の音が、ほんの少しだけ遠のく。これは「魔力をまとった人」の気配だ。
男は帽子を取って一礼し、低い声で名乗った。
「幽界省、監査局。調査官、白影。ひまわり市に流入した王国資金について、確認に参りました」
勇輝の脳内で、今日の議事メモが全部ひっくり返りそうになる。
美月が息を呑み、加奈が一歩だけ前に出る。市長は、先に言葉を置いた。
「ようこそ。監査局の方ですね。……こちらとしても、誤解が広がるのを避けるため、記録を整えたところです。確認は歓迎します」
白影と名乗った男は、淡々と続ける。
「王女の資金が、町に移動した。帳簿上の名目が『同盟援助』となっていた。悪意の有無はまだ不明。ゆえに、確認が必要です」
「悪意はないです」
勇輝は、できるだけ落ち着いた声で言った。
強く否定すると、逆に怪しくなる。行政の現場で、強い否定は時々逆効果だ。
「誤解です。こちらは『応援寄付』として受け取り、軍事の意味はないと明記しました。受領証明書も作りました」
白影は、視線を少しだけ動かし、貼られている掲示を見る。
太字の一行を読み、ほんの僅かに眉が動いた。表情の薄い人の変化は、小さいほど大きい。
「……文言は、妥当。だが、資金の流れと用途が一致しているかが重要だ」
市長が頷き、すぐに指示を出す。
「財務課、基金口座の開設手続き状況を。異世界経済部、寄付の説明資料を。広報課、掲示と周知の履歴を。全て、ここでお見せします」
職員たちが動く。ロビーの列の人たちが、ざわつく。
だが、白影は手を上げた。
「一般の方々の動揺は不要です。確認は静かに行う。……騒ぎを生む者は、私ではない」
その言い方は冷たいのではなく、事務の匂いがした。
加奈が、少しだけ肩の力を抜く。
「じゃあ、別室に移りましょう。ここ、人が多いから」
白影は頷き、市長の後について歩き出した。
◆夜 市長室 確認と、ひとつの約束
市長室では、資料が机に並べられた。
受領証明書、基金の設計案、返礼品の上限設定案、そして「用語集」の草案。
ひまわり市が、たった一週間で増やした紙の量が、ここに凝縮されている。
白影は黙って目を通し、時々、質問を投げる。
「返礼品の在庫管理は誰が」
「商工会と連携して、発注と配布のルートを固定します。勝手に増やさない。増やすときは議決を取る」
市長が答えると、白影は頷く。
「寄付金の支出は誰が決裁」
「基金の支出は、市長決裁の上で、議会報告を必須にします。透明性を確保します」
勇輝が答えると、白影は頷く。
「王国側の帳簿修正は」
「レフィアが文面を整え、殿下名義で出しました。急使が持ち帰りました。写しはここです」
レフィアが答えると、白影は頷く。
頷きが三回続いたところで、加奈が小さく息を吐いた。
美月はタブレットに打ち込みながら、最後に確認する。
「白影さん、結論として、いまのところ『詐取』ではない、でいいですか」
白影は少しだけ視線を上げた。
「現時点では、詐取の可能性は低い。……ただし、制度が走り始めたばかりだ。走りながら形を整えるのは危うい。継続的な確認は必要になる」
市長が、落ち着いて頷く。
「それは、こちらも同意します。監査は、敵ではなく、町の安全装置です。必要なら、定期的に見ていただきたい」
白影は一瞬だけ迷うように目を伏せ、そして短く言った。
「……了解。ひまわり市が誤解で沈むのは望まぬ。私は、誤解の芽を摘みに来た」
勇輝は、そこで初めて気づく。
この人は冷たいのではない。余計な情緒を挟まないことで、現場を守ろうとしている。
それは、役所の中にもいるタイプだ。説明は短いが、責任は逃げない人。
市長が、少しだけ笑って言った。
「それなら、こちらも約束します。異界との協定は、言葉から整える。勢いで『同盟』を増やさない」
「増やさないでください。監査が忙しくなる」
白影の返しに、ほんの少しだけ場が和らぐ。
美月が小さく頷き、加奈がほっとした顔をする。
◆深夜 喫茶ひまわり 灯りの下
閉庁後。喫茶ひまわりの灯りだけが、いつも通りに落ち着いていた。
カウンターに並ぶカップの音。コーヒーの香り。外は異界でも、この店の中は少しだけ地上のままだ。
勇輝は椅子に腰を下ろし、今日のことを思い返す。
一千枚の金貨、帳簿の言葉、受領証明書、監査局。
たった一日で、町の制度がまた一段増えた気がした。
加奈が、カップを置きながら言う。
「今日、殿下が『誤解の芽を摘く』って言ったの、ちょっと良かったね」
「言ったのは白影さんだけどな。……でも、あの人が来たのは、悪いことばかりじゃない」
美月がタブレットを閉じ、背伸びをする。
「監査が入るってことは、ひまわり市が『ちゃんと扱われる』ってことでもありますよね。なんか、異界の舞台に上がった感じがします」
「上がりたくて上がってるわけじゃないんだけどな」
勇輝がそう言うと、市長が遅れて店に入ってきた。
疲れた顔をしているのに、歩き方は軽い。仕事が増えるのが分かっていても、逃げない人の歩き方だ。
「みんな、今日は助かった。……そして、次の手を打つ」
「次、って?」
加奈が訊くと、市長はコーヒーの香りを吸い込み、静かに言った。
「王国だけじゃない。魔王領も、竜王領も、天界も、幽界省も、全部がこの町を見始めた。言葉がズレれば、次はもっと大きくズレる。だから、こちらから出向く。協定の言葉を、先に揃えに行く」
美月が目を丸くする。
「出向くって……どこへ」
「魔王領だ。観光協定を結ぶ。『同盟』ではなく、『観光』として」
勇輝は息を吸い、ゆっくり吐いた。
怖い、というより、忙しい未来が見えた。
「出張費、異界レートで落ちるんですか」
「そこは、ちゃんと落とす。落とせないと、帰ってから別の意味で揉める」
市長の返しに、加奈が小さく笑った。
「うん。揉めるのは、なるべく一回でいい」
勇輝も頷く。いまのひまわり市は、揉めるときに黙っていられない町だ。
だからこそ、言葉を整える。制度を整える。余白で心を守り、柱で生活を回す。
窓の外には、金色に近い月が浮かんでいた。
その光は、地上の月より少しだけ近い。町が異界にいることを、静かに思い出させる。
そして勇輝は、カップの縁に指を置きながら、明日の予定を手帳に書き込んだ。
「異界版 応援寄付 運用開始」
「用語集 第一版 配布」
「魔王領出張 準備」
書いてしまえば、仕事になる。仕事になれば、回る。
ひまわり市は今日も、そうやって前に進む。




