第2話「温泉街にドラゴン客、来襲!」
◆昼前・ひまわり温泉郷
山あいの温泉郷は、昼に近づくほど人の気配がふくらむ。旅館の軒先で湯気がゆっくりほどけ、川沿いの遊歩道を歩く観光客の足音が、石畳に乾いたリズムを残す。夏の終わりかけの陽射しは柔らかいのに、湯の匂いだけは濃く、鼻の奥にじんわり居座る。
いつものひまわり温泉郷なら、ここで聞こえるのは「次は饅頭だ」「あっちの足湯寄ってから戻ろう」みたいな声だ。たまに迷子放送が入っても、だいたいは平熱の小さな慌ただしさで済む。
ところが、その日の空気は最初から妙だった。旅館の前で立ち止まる人が多い。遠巻きの輪がいくつもできていて、笑い声とざわめきが混ざって、ひとつの大きな音になりきれず漂っている。
喫茶ひまわりの看板娘、加奈は、手に持った納品の紙袋を胸に抱えたまま、露天風呂の門の手前で足を止めた。湯気の向こう、視界の奥に、山の影とは違う「赤い塊」がある。最初は岩に見えた。次に、岩が息をしているように見えた。
「……勇輝、見える?」
隣にいた勇輝は、返事の前に一度まばたきをした。目を閉じて開けば、消えてくれるタイプのトラブルを、彼はこれまで何度も願ったことがある。たぶん、人生で十回くらいは成功している。残りは全部、失敗している。
「見える。見えるし……ええと、あれ、入ってるよね」
加奈は、ゆっくり頷いた。頷きながら、目だけは逸らせない。
露天風呂の湯船に、巨大な赤鱗のドラゴンが、どん、と腰を下ろしていた。湯は半分以上溢れ、湯気は勢いを増して空へ登り、川の水位までわずかに上がっている。湯の表面は、波というより、湖のうねりだ。
「ふぅ……ここの湯は良いなぁ。硫黄の香りが、尾の先まで沁みる」
低い声が山肌に反響して、温泉街全体のスピーカーみたいに響いた。ところが、驚くべきことに、洗い場の端にいた地元の老人客たちは、逃げるどころか、笑いながら手を叩いている。
「おお、でっけぇなぁ! 観光客さんかい?」
「温泉は初めてかね、旦那! 熱かったら水も入れなよ!」
「水を入れるなよ。源泉に怒られるだろ」
そこへ、別の年配の男性が、湯桶を肩に乗せたまま、普通に話しかける。
「ここはな、かけ湯してから入るのが礼儀でな。まぁ今日は……ええ、体が大きいから難しいか」
ドラゴンは目を細め、いかにも満足そうに鼻先から湯気を吐いた。
「礼儀は守ろう。だが我は、入った瞬間に全身が礼儀になった。熱い」
「それは分かる」
地元の対応が、妙に手慣れている。昨日まで「異世界に転移したかもしれない」という話で騒いでいたはずなのに、温泉が絡むと、体が勝手に接客モードに入るのがひまわり市の怖いところだ。
加奈は小さく息を吸って、勇輝の横顔を見た。彼は眉を寄せているけれど、声は落ち着いている。現場がどんなに大きく見えても、今やるべき作業を細かく切り分ける癖がある。
「……とりあえず、旅館の人、困ってるよね。湯も溢れてるし」
「うん。誰も怒鳴ってないのが逆に怖い。怒鳴れない規模だよ」
そんな会話をしている間にも、露天風呂の入口のあたりで、旅館のスタッフがあたふたと動いている。タオルを抱えて右往左往し、電話を握っては、誰かにかけようとしているのに、まだ慣れないのか、指が止まる。
勇輝は加奈に「市役所へ戻ろう」と目配せした。その瞬間、湯船のドラゴンが、彼らの方をゆっくり見た。
「……おお。人の子。宿の者ではないな。香りが違う。おぬしら、何者だ?」
声は大きいのに、敵意がない。観光客が「案内所ってどこですか」と聞くのと同じテンションで、ただ声量だけが山サイズだ。
勇輝は、首をすくめる代わりに、胸の前で手を軽く上げた。落ち着け、という合図は言葉より先に伝わる。
「市役所の者です。今、状況の確認に……ええと、温泉、気に入っていただけたみたいで何よりです」
「うむ。気に入った。だから、長居している」
それは宣言だった。丁寧に言い換えれば「最高だから帰りたくない」。現場にいる旅館側が言い出せない一番困るやつを、本人がさらっと口にする。
「……ありがとうございます。では、宿泊の件と、支払いの段取りを、フロントで確認させてください。温泉は、あと……危なくない範囲で」
勇輝の「危なくない範囲で」は、本人にも旅館にも、周りの客にも、同時に向けた言葉だった。ドラゴンは軽く頷いた。
「よい。人の子の段取りに従おう。我は旅の者だ。争いに来たのではない」
争いに来てない、という言葉が出た時点で、争いの可能性が存在するのが怖い。加奈は笑顔を作り、怖がらせないように、でも誤解を生まないように頷いた。
「ありがとうございます。あと……その、湯の量が少しだけ溢れてるので、足元気をつけてくださいね」
「溢れているか? この程度、我の故郷では、嬉しい溢れだ」
「嬉しい溢れ……」
加奈の口から、感想が漏れそうになったが、ぐっと飲み込んだ。今はツッコミより、段取りだ。
◆午前・ひまわり市役所 異世界経済部(仮)
市役所の空気は、温泉街の湯気とは別の意味で乾いていた。コピー用紙の匂い、古い空調の風、そして人の緊張。昨日から臨時の体制が続いていて、どの部署も「通常業務を回しながら、未知への対応を重ねる」という二重運転をしている。
名札の棚の横に、急ごしらえの紙が貼られていた。
『異世界経済部(仮)』
観光課、商工振興、企画、財務の一部が寄せ集めになって、窓口が一本化されている。誰かが冗談で「仮のまま十年いくやつ」と言ったが、笑えない。役所の「仮」は案外長い。
美月が、息を切らせて駆け込んできた。片手に書類、もう片手にタブレット。顔は興奮と焦りの混ざった、いつもの「面白いのにまずい」顔だ。
「主任! 温泉にドラゴンの……ええと、ドラゴンのお客様が、入浴中です!」
勇輝は頷いた。さっき見てきたので、情報が頭に入る速さが違う。
「確認。ドラゴン一体。敵意なし。地元の人が拍手してた。旅館は困ってる」
「拍手が一番こわい」
美月が真顔で返すと、加奈が「確かに」と小さく笑った。笑っているのに、足元は逃げていない。加奈は、こういうときに明るさを落とさないのが強い。
「で、そのドラゴンさん、宿泊もするって。支払いもするって言ってた」
勇輝が言うと、美月の指がタブレットの画面を滑った。すでに「宿泊」「支払い」「換金」「税」みたいなキーワードが脳内で並んでいるのが分かる。広報の人間は、危機のときほど情報の流れを追う。
「金貨、って聞きました。しかも二枚」
「聞いた」
勇輝は昨日、アスレリア王国の外交官レフィアから聞いた話を思い出していた。あちらの基準はまだ曖昧だが、大ざっぱな換算でも「安くない」のは確実だ。
「レフィアさんの話だと、金貨一枚で……軽トラックが買えるくらい、って」
室内が、ふっと静かになった。軽トラはこの町のリアルな象徴だ。田畑、建設、配送、移動。軽トラ一台分と聞くと、誰でも具体的になる。
「二枚って……一泊二食で……?」
美月が声を小さくする。喜びより先に「責任」が来る。市役所の人間の反射だ。
「正確には、宿側が提示したわけじゃなくて、ドラゴンが言ってた。宿泊代の概念が、こっちとズレてる可能性もある」
「ズレてても困るんだよなぁ……」
加奈が苦笑して、机の端に置いてあった「臨時対応メモ」を取った。加奈は役所の職員じゃないのに、いつの間にか会議の道具を扱うのが自然になっている。喫茶のカウンターで鍛えた、場を回す手だ。
そこへ、市長が入ってきた。昨日と同じ、肩肘張らない歩き方。なのに、目はちゃんと周りを見ている。落ち着いているのが「強い人」に見えるのは、こういうときだ。
「報告は聞いた。ドラゴンが温泉に来たんだって?」
「来ました。入ってます。気に入ってます」
勇輝が淡々と答えると、市長は一度だけ頷いた。喜ぶでも慌てるでもなく、事実を受け止める頷き。
「よし。まず安全確認。次に、旅館が困らない段取り。最後に、町のルールを作る。順番はこれでいこう」
市長が「最後にルール」と言った瞬間、勇輝は少しだけ救われた気がした。こういう人がトップだと、現場はやりやすい。勢いだけで走らない。
「それと、金貨の扱いは財務と相談する。勝手に換金すると、あとで揉める」
「はい」
美月が勢いよく頷き、すぐにタブレットで連絡先を探し始める。勇輝は、その動きの速さに感心しつつも、別の爆弾を思い出していた。
「あと、入湯税です。通常、百円。……だけど、ドラゴンにどう適用するか、説明してないと、揉める気がします」
「揉める気がするって、揉める前提だよね」
加奈の声は柔らかいが、内容は的確だ。市長は「説明が先」という顔で頷いた。
「税は額より納得だ。説明がないと、誇りが傷つくタイプの相手もいるだろうしな」
勇輝はメモを取った。誇り。そこは大事だ。相手が大きいほど、言葉が重要になる。
「じゃあ、行きましょう。温泉街へ。現場で、本人と話します」
◆午後・温泉フロント前
温泉旅館のフロントは、普段なら木の香りが落ち着く空間だ。だが今日は、落ち着くどころか、人の体温が上がっている。スタッフの動きが速い。電話が鳴る。廊下を行き交う足音が、畳の上でさえ忙しい。
そして、フロントの前に「影」が落ちる。影というより、壁だ。ドラゴンが、湯から上がって、入口の梁をすれすれに避けながら、首を縮めて入ってきた。旅館側が用意したらしい大判のタオルが、背中に掛かっている。サイズが足りてないのは仕方ない。
「湯は堪能した。宿の者よ、礼を言う」
ドラゴンは、さっきよりもご機嫌に見えた。湯は偉大だ。
「そ、それは、なによりでございます……!」
旅館の女将が、笑顔を崩さないまま、目だけで周囲に助けを求めている。隣のスタッフは、金庫の鍵を握ったまま硬直している。勇輝は、女将の視線を受け取って、すぐに前へ出た。
「市役所です。お支払いの前に、確認したいことがあります。まず、宿泊の条件と、金貨の扱い」
「金貨なら、これだ」
ドラゴンが、爪の間からそっと二枚の金貨を出した。光が強い。見た瞬間、フロントの空気が一段、きらっとする。いや、物理的にきらっとした。
美月が思わず一歩前に出そうになって、勇輝の目線で止まった。広報担当が「映える」を追いかけるのは本能だが、今は段取りが先だ。
「これは……本物ですか?」
女将が恐る恐る聞くと、ドラゴンは首を傾げる。
「偽物を持ち歩いてどうする。旅の者にとって、金は信用だ」
信用、という単語が出たのは大きい。ここを外すと、揉める。勇輝は頷いてから、言葉を丁寧に選んだ。
「ありがとうございます。こちらの町では、金貨をそのまま使う文化が、まだ整っていません。なので今日は、一度お預かりして、役所が責任を持って換算の手続きをします。宿には、別の方法で、確実に支払います」
ドラゴンは、目を細めた。疑うような視線ではない。確認する視線だ。相手が本気で交渉している証拠。
「役所が責任を持つ、と言ったな。ならば良い。だが、我の金が、途中で消えるような話は嫌いだ」
「消えません。記録も残します。受領証も発行します」
勇輝が言うと、隣で加奈がさっと紙を取り出した。旅館で使う伝票の束だ。加奈はフロントのスタッフに軽く声をかけ、すぐに「仮の受領書」の形を作り始める。こういうとき、喫茶の看板娘の手が早いのは、日々のやり取りの積み重ねだ。
市長は、ドラゴンに向かって、真正面から微笑んだ。媚びない、でも硬くない。町の代表としての距離感。
「ようこそ、ひまわり市へ。まず一つ、謝らせてほしい。入湯税の説明が遅れた」
ドラゴンが翼を軽く畳んだ。
「税は構わぬ。だが、我は誇り高き竜族。取られるなら、理由を聞きたい。誰のための金か。何に使われるのか。そこが分からぬと、気持ちが悪い」
勇輝は、内心で「やっぱりそこだ」と思った。額が問題じゃない。納得が問題だ。ここを踏むと、町の信用が飛ぶ。
「入湯税は、温泉街の設備維持に使います。清掃、温度管理、配管の修繕、あと……今日は、湯が溢れた分の調整も」
「溢れた分」
ドラゴンが少しだけ気まずそうに目を逸らした。あのサイズで湯に入ったら、溢れない方が難しい。勇輝は追い詰めないように言葉を柔らかくした。
「それも含めて、受け入れるのが町の仕事です。ただし、受け入れ続けるには、設備の強化が必要です。そのための資金だと考えてください」
加奈が、すっと横から補足する。接客の言葉の置き方が上手い。
「温泉って、気持ちよさを守るために、裏でいろんな人が動いてるんです。湯が熱すぎないように、床が滑りすぎないように、タオルが足りるように。そういうところに使います」
ドラゴンは、加奈の言葉に耳を傾けた。人間の「裏方」の話は、意外と誇りに響く。
「なるほど。湯を守る者たちの働きに、金が行くのだな」
「はい。だから、説明します。今後は、最初に」
勇輝が頷くと、美月がタブレットを掲げた。
「今から、簡単な案内を作って、宿と温泉の入口に貼ります。日本語と……レフィアさんにお願いできれば、王国の言葉でも」
そこで、フロントの奥から、淡い緑の瞳のエルフが姿を見せた。レフィアだ。昨日の橋で名乗った外交官。町の人たちが「エルフだ」と言うより先に「翻訳できる人だ」と見るあたり、ひまわり市の優先順位が面白い。
「この場に呼ばれたのは正解ね。あなたたち、いつも動きが早い」
レフィアは軽く笑い、状況を一瞬で把握した視線をドラゴンへ向けた。
「竜族の方。あなたが湯を楽しんだなら、王国としても喜ばしい。でも、町のルールを尊重して」
「尊重する。だが、敬意も欲しい」
「敬意は、説明と同じくらい大事よ」
レフィアの言葉に、ドラゴンは満足げに鼻先を鳴らした。言葉が通じるだけで、空気が整う。
市長は、その流れを逃さなかった。
「では提案だ。入湯税の説明書きを整える。さらに、竜族の方が安心して入れるように、専用の時間帯を設ける。サイズの問題で、一般の浴槽だと危ない。旅館と協力して、湯船の選定をする」
勇輝は、その提案に頷いた。行政の提案として現実的だ。禁止ではなく、受け入れの形にする。観光立市の町らしい。
「専用時間帯……」
ドラゴンは考えるように目を閉じた。やがて、ゆっくり頷く。
「良い。小さき者を踏み潰すのは本意ではない。我も湯は独り占めしたいわけではない。だが、我の体は大きい。それを責められるのは嫌だ」
「責めません。段取りを変えます」
加奈が即答した。声が明るいのに、軽くない。安心させる言い方だ。
旅館の女将が、ようやく息を吐いた。「段取り」という言葉が、どれほど現場を救うか。役所の言葉は、こういうときだけは魔法だ。
◆夕方・市役所 臨時ミーティング
市役所の会議室には、湯気の代わりに紙が立ち上っていた。議題が増えるほど、紙は増える。増えた紙の束が、だんだん「町が動いている証拠」に見えてくるのが不思議だ。
ホワイトボードに、勇輝が大きく書く。
『異界観光 緊急対応メモ(ドラゴン客)』
項目は、こうだ。
1)安全:浴槽・動線・専用時間帯
2)支払い:金貨受領と換算、領収証
3)税:入湯税の説明と使途、表示
4)広報:撮影・拡散のルール、誤情報対策
「四番、重要です」
美月が真剣に言った。さっきまでの「映える」顔ではない。広報の現実の顔だ。
「温泉街で撮影してる子がいます。もうタグ付けの準備までしてます。ネットが不安定でも、どこかで繋がった瞬間に一気に拡散します。勝手に顔が写ると揉めますし、ドラゴンさん本人が嫌がったら、外交問題にもなります」
市長が頷く。
「撮影はルール化しよう。観光は見せ方が命だが、見せ方で信頼を落としたら終わる」
加奈が、紙にメモしながら言う。
「温泉って、そもそもプライベートだからね。すごいお客さんが来たって言っても、全部を見せるのは違う。見せていい場所と、だめな場所を、先に決めた方がいい」
勇輝は「よし」と頷き、ボードに追記した。
5)温泉の撮影禁止区域の明確化
6)異界客向けの簡易ルール(多言語)
そこへ、財務課から電話が入った。担当の声が、どこか落ち着かない。
『金貨の扱い、今のうちに確認してくれ。物が強すぎる。保管と換算の基準を作らないと、税の計算もできない』
「分かりました。今日中に暫定ルールを作ります」
勇輝が答えると、会議室の全員が小さく頷いた。役所は「暫定」で走り始める。走りながら整える。それしかない日がある。
レフィアが、椅子に座ったまま手を挙げた。
「私から提案。金貨の価値を、王国の基準で説明できる。ただし、あなたたちの世界の物価とズレるから、あくまで目安。あと、王国の金貨は“信用の証”だから、扱いは丁寧に。雑に触ると、失礼になる文化もある」
「丁寧に扱います。受領の場で、説明と記録をセットにします」
勇輝が言うと、市長がふっと笑う。
「役所が得意なやつだな。記録と説明」
「得意って言えるように、ちゃんとやります」
美月が、突然タブレットを掲げた。
「それと、もうひとつ。さっき温泉街で、中学生がスマホ見てました。圏外表示だったのに、いきなり『魔力通信ON』って出たって」
全員が「え」となる。昨日からずっと繋がらないと思っていたのに、突然「ON」。それが意味するものは大きい。
「……魔力通信?」
市長が問い返す。美月が頷く。
「通信インフラが、異界側に調律されつつあるってことかもしれません。つまり、SNSが復活する可能性が高い。復活した瞬間、今日のドラゴンが一気に“世界初の映像”になります」
加奈が、少しだけ眉を寄せた。
「世界初の映像って、聞こえはいいけど……生活の人たちが巻き込まれそう」
「巻き込まれない段取りを作る」
勇輝が即答する。きつくない。淡々と、決める。
「温泉街の撮影ルール。旅館の協力。本人の許可。これを明文化して、貼る。あと、広報の出す公式情報を早めに出す。変な噂が先に走ると、止めるのが大変になる」
美月が、ぱっと表情を明るくした。仕事の方針が決まると、彼女は急に元気になる。
「了解。公式の第一報、短くまとめます。『ドラゴンのお客様が温泉を利用。安全確保のため一部時間帯調整。撮影は禁止区域あり』みたいな」
「それなら、怖がらせすぎない」
加奈が頷く。怖がらせない。でも隠さない。ちょうどいい温度。
◆夜・温泉通り 静かな路地
会議が終わって外に出ると、夜の温泉街は、昼間の騒ぎが嘘みたいに静かだった。湯気は相変わらず上がっているのに、空気は落ち着いている。人は、慣れるのが早い。良いことでもあり、怖いことでもある。
川面には街灯の光が揺れていた。昨日までの電気の灯りと似ているのに、どこか違う。揺れ方が柔らかい。レフィアはそれを見上げ、静かに言った。
「あなたたちの町は、不思議ね。恐れより先に、段取りが出る」
美月が照れたように笑う。
「段取り、って言うと地味なんですけど……段取りがないと、全部が倒れるので」
「地味が強いのよ」
レフィアがそう言って、加奈の方を見る。
「あなた、喫茶の人だったわね。それでも自然に会議にいる。どうして?」
加奈は少し考えてから、肩をすくめた。
「店ってね、困ってる人が来る場所なんだよ。注文の仕方が分からないとか、道に迷ったとか、財布落としたとか。今日はたまたま、相手がドラゴンだっただけで」
「たまたま、のサイズじゃないけどね」
勇輝が苦笑すると、加奈は笑って返した。
「でも、来たのは現実だし。だったら、こっちの平常心で迎えるしかないよ」
その言葉を聞いて、勇輝は胸の奥が少しだけ軽くなる。彼はいつも「行政の責任」を背負いがちだ。加奈の「迎えるしかない」は、その重さを半分にしてくれる。
遠くで、低い羽ばたきの音がした。ドラゴンが、夜空へ上がっていく音だ。旅館の屋根の上を越えて、月の方へ向かう。金色の月が、異界の空でゆっくり流れている。
市長が、少し離れたところで空を見上げながら言った。
「観光は、予想外から始まる。だが、予想外を楽しめるだけじゃ足りない。支える仕組みがいる」
勇輝は、その言葉に頷いた。市長が、ちゃんと現実に足をつけていると分かる言い方だった。
「明日、ルールを紙にして、回覧板に回します。旅館にも配ります。現場に貼れる形にします」
「頼んだ」
市長が短く言う。その短さが、信頼に聞こえる。
美月がタブレットを閉じ、息を吐いた。
「今日のドラゴンさん、結果的には、いいお客様でしたね。段取りさえ整えば、異界観光の象徴になる」
「象徴になる前に、現場が燃え尽きないようにね」
加奈が笑って言う。疲れがあるのに、優しい声だ。
勇輝は最後に、温泉街の入口に貼られた臨時の掲示を見た。大きな字で、こう書かれている。
『本日は混雑のため、露天風呂は一部時間帯を調整します。ご理解ください』
その下に、加奈がさっき書き足した一文があった。
『困ったことがあれば、フロントか市役所へ。必ず案内します』
短いのに、ちゃんと温かい。こういう言葉が、町を守る。
異界に浮かぶ町、ひまわり市。観光立市の看板は、今日も揺れていない。揺れているのは、空の色と、世界のルールの方だ。
だから、直す。段取りで。言葉で。明日も生活が回るように。




