第34話「温泉まんじゅう戦争勃発!」
~甘くて熱い、異界商戦開幕!~
◆朝・温泉街メインストリート
湯けむりと甘い匂いが混じりあう朝は、たいてい平和だ。
たいてい、という言い方がもう怪しいのだけれど、ひまわり市に転移して以来、「たいてい平和」がどれほど貴重かを勇輝は身に染みて知っていた。
魔王温泉が開いてから数日。町のあちこちで湧いてしまった湯は、規制線と誘導と段階開放で、ようやく「事故が起きにくい温泉街」という形を取り戻しつつある。石畳の隙間から上がる湯気は、昨日より少し薄い。足元の滑り止め砂も、今朝は乾いている。誰かが夜のうちに撒き直してくれたのだろう。
湯けむりがふわりと揺れるたび、甘い匂いが混ざってくる。
温泉街の入り口にある老舗の蒸し器。湯の熱を借りて蒸し上げる温泉まんじゅうの香りが、通りの空気を丸くする。湯気と甘味の匂いが一緒に鼻をくすぐると、人はつい笑ってしまうらしい。
「見てください、勇輝さん。朝から列ができてます。温泉も、足湯も、まんじゅうも。ちゃんと、楽しい感じの混み方です」
加奈は紙袋を抱えて、歩幅を合わせながら目を細めた。喫茶ひまわりの差し入れだけじゃなく、今日は「現場の空気を確かめる」目的もある。温泉街が賑わうのはいい。賑わうほど、道路の導線やゴミやトイレが追いつかなくなる。そういう小さな穴から、暮らしは乱れる。
「ここまでは順調だ。観光課が作った導線マップも、意外と効いてる。足湯は『短時間』の札が効いたし、湯上がり客がそのまま商店街に流れるのも、店にとってはありがたい」
勇輝がそう言ったところで、美月が少し遅れて合流してきた。広報の腕章をつけたまま、片手にスマホ、もう片手にクリップボード。表情は仕事の顔だが、温泉街の匂いがするとつい頬が緩む。ほんの一瞬だけ。
「主任、朝の投稿、控えめにしておきました。昨日の『温泉街、静かに育てます』が効いてます。煽らないと、逆に好感持たれるんですね。あと、ひまリスくんは今日は庁舎前の撮影対応で、温泉街には来ません。過労は避けたいので、交代制にしてます」
「そこ、ちゃんと管理してるの偉い。マスコットも勤務表が必要な町だしな」
加奈がくすっと笑う。笑いが出るのは、今日がまだ平和だという証拠だ。
その平和が、音で崩れた。
ぼふっ。
蒸し器の湯気とは違う、黒い煙が、通りの奥から立ち上がった。湯けむりの白に混じる黒は、目立つ。しかも、香りが甘い。甘いのに、どこか刺激がある。焦げた砂糖の匂いというより、もっと深くて、少しだけ危険そうな甘さだ。
勇輝は眉をひそめ、加奈と美月の視線が自然に同じ方向へ揃う。
「……やっぱり問題、来たな」
「早いですね。まだ朝なんですけど」
「朝だから来るんだよ。人が動き始める前に、既成事実を作りたい人がいる」
口にしてから、勇輝は自分で思う。既成事実を作りたい人、という言い回しが役所っぽい。けれど、今のひまわり市では、だいたい当たる。
◆午前・商店街特設ブース
黒煙の根元にあったのは、臨時ブースだった。昨日までそこは「休憩スペース」としてベンチが置いてあったはずだ。今は、ベンチが端へ寄せられ、代わりに巨大な垂れ幕が掲げられている。
『魔界銘菓〈血のまんじゅう〉 本日より販売』
文字が濃い。装飾が多い。しかも、妙に上品だ。悪趣味に振り切れていないのが、逆に強い。
並んでいるまんじゅうは、真紅というより、深い赤褐色。艶があり、光を吸う。湯気までほんのり赤い気がする。温泉街の白い湯けむりに、赤い湯気が混じると、空気の温度が一段上がったみたいに錯覚する。
ブースの前では、魔界商人ロッソが胸を張っていた。服装は黒を基調にしているが、襟元や袖口に赤い刺繍が走っている。商売人の顔で、客の顔色をよく見ている。人間に慣れているタイプだ。
「ようこそ、ひまわり市の温泉街へ。魔界の深紅糖を使った甘味、どうぞ一口。湯上がりの身体に、熱が戻ります。甘いのに、芯が立つ。そういう味です」
言い方が丁寧で、押しつけがましくない。だからこそ、人は寄る。
観光客が試食用の小さな欠片を口に入れた瞬間、目を丸くした。
「え、なにこれ……甘いのに、辛い? 辛いのに、甘い? 舌が迷子になるのに、もう一口いきたくなる」
隣の客も頷く。頷き方が、すでに買う人のそれだ。列が一気に伸び始める。
その様子を少し離れた場所で見ていたのが、地元老舗〈ひまわりまんじゅう本舗〉三代目の古田だった。湯の熱で蒸し上げる、あの素朴な温泉まんじゅうを守ってきた人だ。顔は職人らしく真面目だが、今日は頬が強張っている。
「冗談じゃない。うちは温泉街と一緒に生きてきた。湯が戻ったなら、まんじゅうだって戻るはずだったのに……」
古田が呟くと、隣で手伝いをしていた若い従業員が小声で言う。
「親方、向こう、めちゃくちゃ売れてます。SNSでもう回ってます」
「回るのは分かる。でも、回り方が早すぎる。あれは、味だけじゃない」
勇輝は、そこに引っかかった。味だけじゃない。つまり、仕掛けがある可能性が高い。魔界の甘味が全部危険とは言わない。けれど、今は「安全確認が済んでいないもの」が温泉街のど真ん中で売られている。それだけで、役所の案件になる。
「美月、観光課に連絡。臨時出店の許可、出てるか確認して。加奈、市民交流課に“食の文化交流”枠で話が来てないかも確認」
「了解。あと、私は保健所の担当にも投げます。食品は一発で炎上しますから、ここは丁寧に線を引かないと」
美月が即座に動く。加奈も頷いた。
「ロッソさん、でしたっけ。すみません、ひまわり市役所です。出店の手続き、確認させてください。町のルールがいくつかあって、みんなが安心して食べられるようにしたいんです」
加奈の声は柔らかい。柔らかいのに、逃げ道を残しすぎない言い方だ。
ロッソは、にっこりと笑った。笑うのに、目が冷たくない。
「もちろん。手続きは嫌いではありません。商売は、ルールがある方が長続きしますから。許可証なら、こちらです」
差し出された紙は、魔界式の印章が押されている。けれど、ひまわり市の「臨時出店許可」の様式とは違う。つまり、向こうの世界では通っているが、こちらではまだ整理されていない類だ。
勇輝は、深く息を吐く。怒鳴らない。責めない。ここで強く出ると、客の前で揉めてしまう。揉めると、町が損をする。
「ありがとうございます。いま確認します。販売は止めろとは言いません。ただ、確認が済むまで“試食は控えめ”と、“一人あたりの購入数制限”をお願いできますか。食べ過ぎて具合を悪くしたら、あなたも困るでしょう」
ロッソは、少しだけ目を細めた。試されている。そういう間だ。
「なるほど。あなたは客の安全を優先する。その上で商売を続けたい。悪くない交渉です。購入数制限、受けましょう。試食も、小さく切り直します。こちらとしても、騒ぎは望みません」
そこへ、古田が一歩前に出た。拳を握りしめているが、声は震えていない。
「魔界の菓子が悪いと言うつもりはない。けれど、温泉街の顔は、うちのまんじゅうだ。ここで負けて、黙って引っ込むわけにはいかない」
ロッソが肩をすくめる。
「勝負は自由です。あなたがあなたの味を出すなら、私は私の味で勝つ。それだけの話です」
そのやり取りの背後で、観光客が「え、なに、対決?」と面白がり始めた。面白がりが増えると、煽りが生まれる。煽りが生まれると、事故が生まれる。
勇輝は内心で、嫌な予感の形が具体化していくのを感じた。
これは、ただの菓子の話では終わらない。温泉街の“顔”の奪い合いになる。顔の奪い合いは、町の分断につながる。
◆昼・ひまわり市役所 庁舎会議室
結局、会議室の机の上が「まんじゅう」で埋まった。
甘い香りが濃すぎて、窓を少し開けても抜けない。まんじゅうが山積みという光景は平和そうに見えるのに、議題が議題だと空気が重い。異界経済部、観光課、保健所(生活衛生)、商工担当、消費生活相談員、そして広報の美月。いつものメンバーに、今日は“菓子の匂い”が加わっている。
勇輝は資料の束を整え、まずは順番を守って口を開いた。
「観光課、状況の整理を。被害とか勝ち負けとか、言葉が荒れると現場が荒れる。数字で、静かに」
柳田が涙目になりかけながらも、タブレットの画面を見せた。
「はい……。魔界銘菓の投稿が、朝だけで二万件。温泉街の写真と一緒に回ってます。うちの“ひまわりまんじゅう”は、午前中の売り上げが前週比で半減。試食客がそっちへ流れています。あと、客足そのものは増えているので、温泉街全体としては賑わってます。だからこそ、悔しいという声が強いです」
「売上が落ちた店が出ると、温泉街の雰囲気が変わる。変わった雰囲気は、観光に跳ね返る。悔しさが揉め事に変わる前に、手を打ちたい」
加奈が手元のメモを見ながら、ゆっくり言った。
「ロッソさん、手続きには協力的でした。購入数制限も了承してくれました。ただ、許可の様式が魔界式なので、こちらの臨時出店許可との整合が必要です。ここを曖昧にすると、別の屋台も“向こうの許可でいい”と言い出してしまいます」
「そこは重要だな。手続きの穴が広がると、後で取り締まりがきつく見えてしまう。きつく見えると、町が嫌われる」
保健所の担当が、試験紙の結果と簡易分析のメモを出す。
「魔界の深紅糖、いまのところ一般的な毒性は確認できません。ただし、摂取後に体温が上がる、興奮が強くなる、睡眠が浅くなる、といった報告が出ています。あと、これは……報告の書き方が難しいのですが」
担当が言い淀むと、美月がそっと助け舟を出す。
「“身体的変化が一時的に起こる場合がある”くらいの言い方にします? 具体例は窓口で個別に」
「そうですね。具体例としては、軽微な発光、軽微な羽毛の発生。つまり、翼が……」
そこで、会議室に沈黙が落ちた。
加奈が目をぱちぱちさせ、柳田が「え」と声を漏らし、美月がペンを止める。
勇輝が先に言う。冷静に、でも誤魔化さない。
「程度は?」
「“少しだけ”です。背中がむず痒い程度。羽毛が薄く生える程度。数時間で落ち着く。ただし、個人差があるので、摂取量の目安と、注意喚起が必要です」
ミーネが、会議室の端でにっこりと手を挙げた。彼女は今日、協力者として呼ばれている。異界素材の扱いを「怖い」だけで終わらせないために。
「補足しますわ。深紅糖は“興奮と活性”の方向に寄ります。温泉で身体が緩んだところに、甘味で活性が乗るから、気分が上がりやすい。だからこそ人気が出たのでしょう。でも、上がりすぎると落ち着かない。摂取量の目安を決めれば、危険は抑えられます」
勇輝は頷いた。ミーネの言葉は軽く聞こえる時があるが、今日は理屈がある。
「よし。摂取量の目安、表示、アレルギー表示相当の“異界素材表示”も追加。販売は止めない。ただし、町のルールに合わせる。観光課は煽らない導線。商工担当は地元店の支援策。消費生活は苦情窓口を一本化。広報は、言葉を丁寧に」
美月が頷く。
「はい。『珍しいから食べよう』を止める言い方はしません。『珍しいからこそ、少しずつ楽しもう』にします。あと、対決構図を煽る投稿が出始めてます。そこだけは、公式が火を付けないようにします」
柳田が弱々しく手を挙げた。
「でも、主任……地元の古田さん、かなり燃えてます。今日の午後、向こうに対抗して“秘伝温泉蒸し二段仕込み”をやるって」
「燃えるのはいい。火が客に向かないようにする。勝負が店同士で終われば、町は面白がれる。客同士の争いになったら、町が疲れる」
勇輝は、まんじゅうを一つ手に取った。ひまわりまんじゅう。ふつうの茶色。素朴で、安心する色だ。これが「負ける」日が来るなら、負け方を整えなきゃいけない。勝ち方も同じだ。
◆昼過ぎ・保健所仮設ラボ
会議が終わると、勇輝は保健所担当とミーネに連れられて、庁舎の一角に急造した簡易ラボへ向かった。
普段なら「そこは倉庫」と言い切れる場所に、今日は白いテーブルクロスと試験器具が並び、注意書きが貼られている。異界に来てから、こういう“仮の場所”が増えた。仮でも、仕事は進めなければならない。
テーブルの上には、深紅糖の小瓶と、まんじゅうの皮のサンプル、そして「食べた人数」「食べた量」「体調変化」のメモ。
数字が揃い始めると、見えてくるものがある。
「この糖、甘味としては強いです。でも問題は“甘さ”より“興奮の方向”ですね。舌の刺激があると、人は『効いてる』と感じやすい。だからSNSに乗りやすい」
保健所担当が、淡々と分析を口にする。淡々としているのに、言っていることが怖い。効いてる、という感覚が売れる。売れるものほど、管理が必要だ。
ミーネが指先で小さな魔法陣を描き、糖の粒をふわりと浮かせた。
「見てください。粒が“熱”を溜めます。温泉の湯気と同じ方向に寄るの。だから湯上がりに合う。でも、合いすぎると、体のテンションが上に引っ張られます」
「上に引っ張られる……つまり、翼」
勇輝が言うと、保健所担当が苦笑した。
「はい。翼は、たぶん“上に引っ張られる”象徴なんでしょうね。実害は少ない。でも、驚く人は出ます。驚いた人が転んだり、焦って走ったり、そういう二次的なことが怖い」
そこへ、ラボの奥から声がした。
「すみません、これ……私、背中が……」
若い職員が、上着の背中を押さえている。見れば、白い羽毛がほんの少し、ふわふわと覗いていた。誰よりも先に体験するのが役所の人間というのは、ひまわり市の妙な伝統になりつつある。
加奈が慌てて近づき、そっと上着を掛け直す。
「大丈夫です。落ち着いて。ひやっとすると余計びっくりするので、まず座りましょう。水、持ってきますね」
勇輝は、職員の表情が怖がっていないことを確認してから言った。
「何個食べた」
「試験で……小さいのを、三つ……」
「試験って便利な言葉だな」
勇輝が小さく笑うと、職員も少し笑って頷いた。
「味が、気になって……すみません」
「謝らなくていい。こういうデータが要る。けど、表示に書くぞ。“目安は一日一個まで”。あと、“続けて食べない”」
美月がラボに飛び込んできて、すかさずメモを取る。
「表示文、作ります。『深紅糖は刺激が強いので、少しずつお楽しみください』。羽毛の件は……うーん。煽らないけど、隠さない。『体質により、背中がむず痒くなる場合があります』で、窓口案内につなげます」
保健所担当が頷いた。
「具体的に“翼”と書くと、面白がりが過剰になります。けれど、隠すと不信になります。曖昧さの設計ですね」
「曖昧さを設計するのが行政、って言ったら怒られるかもしれないけど……今日は、そういう仕事だ」
勇輝は、深紅糖の瓶を見つめた。透明な瓶の中で、赤い粒が小さく光っている。危険ではない。けれど、扱い方で危うくなる。温泉と同じだ。良いものほど、丁寧に使う。
◆午後・温泉街 現場巡回
午後の温泉街は、湯けむりがいっそう濃くなる。気温が上がり、湯の匂いが強くなり、人の熱も混ざる。甘い匂いが二種類になって、通りは文字通り“甘い空気”だ。
古田の店の前には、いつもより長い列ができていた。古田が自ら蒸し器の蓋を上げ、湯の熱を逃がさないように手際よくまんじゅうを並べていく。蒸気がふわっと立ち上がり、香りが広がる。人が「やっぱこれだよね」と言いながら買う。
その少し先では、ロッソのブースが“魔力蒸気機関”と呼ばれる装置を回していた。装置は派手だ。黒い金属、赤い管、魔法陣の微かな光。だけど、やっていることは蒸しだ。蒸しという同じ行為を、違う見せ方でやっている。その違いが、客を動かす。
「見てください、主任。トングが武器みたいに見えます」
美月が冗談めかして言うが、目は真剣だ。トングを握った人たちが右往右往すると、ぶつかって転ぶ。転ぶと湯気の中で見えづらくなる。見えづらいところで転ぶと、誰かが踏む。
加奈が周囲の足元を見て、すぐに判断した。
「ここ、マットが足りません。列が道路へはみ出してます。あと、ゴミ箱の位置が偏ってて、紙が風で飛んでます」
「よし。環境の担当に連絡。ゴミ箱増設と、回収頻度を上げる。導線担当に列の蛇行柵。消防にも一応、通路確保の確認を。今日は火を使ってる店も多い」
勇輝が指示を出している間にも、対決の掛け声が飛ぶ。
「魂を熱くするなら、深紅だ」
「心を落ち着かせるなら、湯の蒸しだ」
どちらも、言い方は意外と上品だ。だからこそ、客が“乗れる”。乗れると、盛り上がる。盛り上がると、声が大きくなる。大きくなると、別の人が嫌になる。嫌になった人が、苦情を言いに来る。その苦情が、店ではなく町へ来る。
案の定、通りの端で年配の住民が職員の腕章を見つけて歩み寄ってきた。
「すみません、あの……賑わうのはいいんだけど、ちょっと音が大きくて。家が近いから、昼寝してた孫が起きちゃって」
「ごめんなさい。すぐに音量の調整をお願いしてきます。賑わいは守りたいので、暮らしも一緒に守ります」
加奈が丁寧に頭を下げる。こういう一件一件を軽く扱わないのが、ひまわり市の癖になりつつある。異界の派手さに負けない、地味な強さ。
勇輝は、ロッソと古田の双方に声をかけた。
「二人とも。勝負は歓迎だ。ただ、拡声器の音量は少し落としてほしい。近隣の方が困ってる。あと、列が道路を塞ぎかけてる。事故が起きたら、勝ち負けの前に終わる」
古田は悔しそうに唇を噛んだが、すぐに頷いた。
「……分かった。うちは口より蒸しで勝負する。音で勝っても、後味が悪い」
ロッソも頷く。
「こちらも同意します。魔界の商売人が“迷惑”で覚えられるのは、本意ではありません。熱は味で出しましょう」
そのやり取りに、周囲の客が「おお」と小さく拍手した。拍手が大きくないのがいい。大きい拍手は、次の煽りになる。小さな拍手は、場を落ち着かせる。
それでも、対決の火は消えない。消えないなら、火が客に向かないように、火の置き場所を整える必要がある。
加奈は列の間を縫って歩きながら、小さな子どもに目を留めた。小学生くらいの兄妹が、両手に一個ずつまんじゅうを持って迷っている。親は後ろで苦笑している。
「どっちを食べるか、迷ってるの?」
加奈がしゃがんで声をかけると、兄が真剣な顔で言った。
「うん。だって、こっちは“魂が熱い”って書いてあるし、こっちは“心が落ち着く”って書いてある。両方いったら、どうなるの?」
真面目な疑問だ。しかも、かわいい。
「たぶんね、どっちも美味しいって気持ちになる。だから、半分こが一番いい。今日はね、温泉街は“分け合う日”にしようって、みんなで決めようとしてるんだよ」
兄妹が顔を見合わせて、頷いた。親がほっとした顔になる。その小さな安心が、温泉街の空気を少しだけ軽くする。
◆夕方・庁舎臨時ブース前 加奈の提案
夕方、ひまわり市役所が温泉街に設けた臨時案内ブースの前で、加奈が勢いよく手を挙げた。勢いがあるのに、声は落ち着いている。彼女の中で何かがまとまった時の合図だ。
「勇輝さん。今日の流れ、危ないです。店同士の競争は面白い。でも“どっち派か”みたいな空気が出始めてます。観光客は遊びで言ってても、地元の人は生活が絡む。ここが割れると、温泉街の空気が疲れます」
勇輝は頷いた。現場を見ているから、同じ結論にたどり着く。
「統一の象徴がいる。対立の真ん中に、笑って立てるやつ」
「はい。なので……作りました」
加奈が言って、背後の大きな袋をずるずる引きずり出した。袋の素材が分厚い。中身が大きい。嫌な予感の“かわいい版”が近づいてくる。
美月が目を細める。
「加奈さん、その袋、まさか……」
「公式じゃないです。まだ。提案です。だから、今から公式にします」
「順番が逆だよ」
勇輝がそう言うと、加奈は一瞬だけ申し訳なさそうに笑った。でも引かない。
「だって、今日の夕方が山なんです。明日だと、対立が固まります。固まる前に、柔らかいものを置きたい」
袋が開かれた。
出てきたのは、まんじゅう型の着ぐるみだった。丸い。丸すぎる。手足が短い。頭にタオルを巻いていて、胸には大きく「湯」の文字。目がつぶらで、口元がほんのり笑っている。湯けむりのモコモコが背中に付いているせいで、後ろ姿も丸い。
名札には、太い字でこう書かれていた。
『まんまるん』
「……圧が、強いな」
勇輝が言うと、美月がすぐメモを取る。
「“圧が強い”は表に出さない。公式は“安心感のある丸み”」
「そこ、変換するの上手いな」
加奈が説明を始めた。説明が長くなるのが、今の加奈らしい。勢いだけで押し切らない。
「まんじゅうは一つ、町も一つ。って言いたいんです。どっちが勝つかじゃなくて、温泉街が“甘くて楽しい場所”として一つであること。だから、まんじゅうの形にしました。ひまリスくんは市全体の顔。温泉街の今の顔は、まんじゅうでいいと思うんです。期間限定で、温泉街の案内役にする。写真スポットに立って、列を落ち着かせて、双方の店に“ありがとう”って言える役」
勇輝は、まんまるんの目を見た。目が真っ直ぐすぎる。だが、真っ直ぐなものは、人を落ち着かせる時がある。
「着ぐるみの中身は誰がやる」
加奈が即答する。
「交代制で、職員と、商店街の希望者で。無理のない範囲で。安全講習もします。転倒防止の歩き方、視界の注意、熱源に近づかないルール。ひまリスくんの時に作ったマニュアルがあります」
美月が頷いた。
「それなら出せます。『まんまるん、温泉街の案内係として期間限定デビュー』。対決を煽らずに、フェスの導線に落とし込める。あと、写真撮影が集中する場所を固定できるので、人の流れが読みやすくなります」
勇輝は、最後に現場の空気を思い出して、決める。
「よし。やろう。ただし、今夜だけじゃない。明日以降も見据えて“合同イベント”に落とす。競争は残すが、舞台は共有にする。名前……『まんまるフェス』とか」
加奈がぱっと笑った。
「それ、いいです。まんまるんが主役っぽいけど、主役は温泉街です。だから、みんなで丸く」
◆夜・合同イベント「まんまるフェス」 温泉街中央広場
夜の温泉街は、昼よりも魔法が似合う。湯けむりが灯りをぼかし、提灯の光が輪郭を柔らかくする。今日はそこに、合同イベントの装飾が加わった。派手すぎない。けれど、ちゃんと特別な夜だと分かる程度に。
ステージ脇に「まんじゅう試食は少しずつ」「異界素材の表示を確認」「体調が悪い時は無理しない」という札が並ぶ。こういう札が並ぶフェスは、たぶんひまわり市くらいだ。だが、それがあるから安心して笑える。
まんまるんが登場すると、広場が一気に和んだ。丸いものには、人の声を丸くする力があるのかもしれない。
「かわいい。写真撮っていいですか」
観光客が近づいても、誘導スタッフが自然に列を作る。まんまるんはゆっくり手を振り、ゆっくりお辞儀する。派手な動きはしない。転ぶと危ないからだ。転ばないかわいさ、という新しい概念が生まれている。
ロッソが、少し離れた場所でそれを見て、静かに言った。
「人間界、やるではないですか。競争を“喧嘩”にしない工夫。魔界では、たまにそれが難しい」
古田が腕を組んだまま、ふっと笑う。
「うちも、負けてられん。味で勝負するのは変わらんが、町を疲れさせて勝っても意味がない。……だから、提案がある。ロッソさん、深紅糖、少し分けてくれないか」
ロッソが目を見開く。魔界の商人として警戒するかと思ったが、彼はすぐに商売人の顔で笑った。
「面白い。条件は、表示と、摂取目安の札を付けること。それと、こちらの名もどこかに残してほしい。共同開発なら、魔界も人間界も“顔”が立つ」
「顔は大事だ。うちの顔と、そっちの顔が並ぶなら、温泉街の顔が増える」
勇輝は、そのやり取りを見て、内心で肩の力が抜けた。勝ち負けを超える地点に、ようやく道ができた気がする。
ミーネが試作を手伝い、保健所担当が表示内容を確認し、美月が発信文を整える。加奈はフェスの司会台に立ち、言葉を選びながら客を誘導する。役所がフェスの裏側で動いているのに、表では“自然”に見える。理想はだいたいこうだ。
試作第一号が、蒸し器から出てきた。
茶色の皮に、ほんのり赤い艶。香りは素朴なのに、後から刺激が来る。
「名前はどうする」
古田が聞くと、加奈がすぐ答えた。
「“ひまわり深紅まんじゅう”……だと強いですか。じゃあ、“ひまわり湯けむり紅まんじゅう”。紅は控えめ。湯けむりが主役」
美月が頷く。
「いい。『紅』が入るだけで写真映えする。しかも煽りになりにくい。タグは……『#湯けむり紅』くらいなら落ち着いてる」
観光客が試食して、目を丸くした。
「これ、さっきの魔界のやつほど強くない。でも、後味がすごく好き。温泉上がりにちょうどいい」
別の客が「こっちも買う」と言い、さらに別の客が「両方買って食べ比べる」と言う。対立が、食べ比べに変わっていく。食べ比べは、喧嘩になりにくい。むしろ、会話になる。
ロッソのブースも、古田の店も、売り上げが戻り始めた。戻るどころか、伸びる。客が増えれば、両方売れる。商戦の熱は残しつつ、町の空気が丸くなる。その落としどころが、今夜は見えた。
勇輝は、試作品を一つ手に取って、半分だけかじった。甘い。少し刺激がある。でも、温泉の匂いに馴染む程度の強さだ。
「……結果としては、うまくいったな。うまくいったけど、これ、明日からが勝負だ。今日の熱を“日常の形”にしないと、また別の火種になる」
加奈が穏やかに微笑んだ。笑い方が、今日一日で少しだけ大人になった気がする。
「“甘い競争”なら、町を壊さずに済みます。壊さずに済むように、ルールを作って、続けていきましょう。温泉も、まんじゅうも、町の暮らしも」
美月がスマホを見て、そっと息を吐く。
「タグ、荒れてません。『食べ比べ楽しい』『まんまるん可愛い』『温泉街、優しい』。こういう時、広報は静かに勝てます」
「勝てるって言い方、今日は褒め言葉だな」
◆ラスト・湯けむりの路地
イベントが終わり、片付けの時間になっても、温泉街の湯けむりは消えない。提灯の灯りが少しずつ落ち、店先の蒸し器が蓋を閉めていく。通りの音が小さくなると、湯気の音が聞こえる気がする。しゅう、という、静かな呼吸。
路地の奥を、まんまるんがゆっくり歩いていく。丸い背中に、タオル。背中の札に、今日のテーマを詰め込みすぎた文字が見える。
『異界友好・商魂温泉』
書いたのは、たぶん観光課だ。詰め込みがちなのは分かる。でも、まんまるんの丸さが、その強い文字を少し柔らかくしていた。
勇輝は、湯けむりの向こうの背中を見送りながら、心の中で言葉を整える。
町が動くのは、人が熱いからだ。熱さは時にぶつかる。ぶつかるなら、ぶつかっても折れない形を用意する。その形が、今日はまんじゅうだった。
加奈が隣で、小さく言った。
「今日の湯けむり、甘いですね。温泉の匂いだけじゃなくて……人の気持ちも混ざってるみたいです」
「そうだな。甘い匂いは、たぶん明日も残る。残るなら、いい匂いにして残そう。町の記憶になるように」
湯けむりが揺れ、路地の灯りが滲む。
ひまわり市の温泉街は、今日も生き物みたいに呼吸していた。
◆夜更け・ひまわり市役所 異世界経済部
温泉街から戻ると、庁舎の廊下がやけに静かに感じた。外の湯けむりのざわめきが、壁の外に置いてきた荷物みたいに遠い。
勇輝は机の上に、今日一日で増えたメモを並べ直した。購入数制限、表示文、苦情窓口の一本化、蛇行柵の追加依頼、清掃回収の増便。細かい。けれど、この細かさが、明日の温泉街の空気を守る。
美月がデータを整理しながら言う。
「主任、まんまるんの背中の札、明日直しません? “商魂温泉”が強いです。あと、今日の注意書き、翻訳版も要ります。魔界語、天界語、竜族の文字……」
「分かった。詰め込みは一回で十分だ。札は“異界友好・温泉街”くらいで丸くしよう。翻訳は、明日朝イチで手配する」
加奈が、机の端に小さな紙袋を置いた。
「喫茶から。今日、頑張った分です。甘いの、少しだけ。……食べ過ぎ注意、って自分で言うの、変ですけど」
「変じゃない。町が変だから、言葉で整えるんだ」
そう言って笑った瞬間、机の上に薄紫の封筒が落ちた。いつの間にか、投函箱に入っていたらしい。封蝋は黒く、そこに小さな角の紋章。
封筒の表には、やけに整った文字でこう書かれている。
『ゆるキャラ選挙 出馬のご挨拶』
勇輝は、封蝋を見て、静かに息を吐いた。
「……明日、来るな」
美月が覗き込み、目を輝かせる。
「来ますね。絶対、来ますね。魔界推薦、マオーン様」
加奈は苦笑したが、どこか楽しそうだった。
「明日も、丸く収めましょう。まんじゅうみたいに」
庁舎の外では、まだ温泉街の湯けむりが夜空に薄く漂っている。
熱は消えない。だからこそ、形にして残す。ひまわり市の仕事は、たぶんずっとそれだ。




