第33話「魔王温泉・爆誕!」
巨大木箱、ついに開封!
◆朝・ひまわり市役所 庁舎前
朝日が庁舎のガラスを薄く照らし、玄関前の石畳にまだ夜の冷たさが残っている。その冷たさの中心に、今日の主役が鎮座していた。異界仕様の巨大木箱。いや、木箱と言い切っていいのか迷う。表面は黒檀みたいに艶があり、角には魔界の金属が打ち付けられていて、触れなくても「頑丈です」と言ってくる存在感がある。
側面には魔界の紋章。線が細いのに圧が強い。描かれた紋が、目で追うほど熱を帯びているように見えるのは、たぶん気のせいではない。実際、箱の周囲だけ空気がぬるい。
勇輝は額に手を当てて、短く息を吐いた。昨日までに、財務課と異界経済部と総務課と警備と消防と、いろいろな人が「受け取るなら安全確認を最優先で」と言い合い、やっとこの場にたどり着いた。たどり着いたのに、箱は相変わらず「中身は秘密です」と沈黙している。
「……よし。今日は、勢いじゃなくて手順でいこう。開封手順は確認した。周囲の規制線も張った。万が一の時の退避ルートも確保した。ここまで整えたんだから、変なサプライズは……」
言い終える前に、加奈がタオルを抱えたまま、きゅっと唇を結んだ。笑顔のまま緊張している。喫茶ひまわりの店内で「温泉の話」は盛り上がるのに、役所前で「正体不明の温泉の箱」は盛り上がり方が別だ。
「勇輝さん、落ち着いてるようで落ち着いてませんよね。大丈夫です。たぶん……ちゃんと温泉、出てきます」
「その“たぶん”が一番怖いんだよ」
美月は少し離れた場所で、広報の腕章をつけたままタブレットを抱えていた。カメラは向けない。まだ向けない。昨日の教訓だ。出せる情報と、出しちゃいけない情報の境目を、最初に踏み外すと後が取り返しづらくなる。
「主任、周囲の人だかり、増えてます。『開ける瞬間だけ見たい』って気持ちは分かるんですけど、近づかれると危ないので、警備さんに誘導お願いしてます。あと……もうタグが作られてます。“#魔王温泉”」
「作られるの早いな……」
そこへ、金属を引きずる音が近づいてきた。ずん、と地面が少しだけ沈むような足取り。振り向けば、ドワーフ技師ドランが巨大工具を抱えてやってくる。工具だけで腕が二本増えたみたいに見える。作業服は煤で汚れているのに、顔の表情が明るいのが余計に不安を呼ぶタイプだ。
「いやぁ〜、待たせたのう。おう、これが件の箱か。紋の刻みが深い、魔力脈が箱そのものに通っとるじゃろ。つまり中身は“湯”だけじゃなく、仕組みごと入っとる。よし、開け方を間違えると噴き上がり方が荒くなるからのう、ワシの手順で行くぞ。心配するな、暴れそうなら先に抑える」
ドランは言い切ったあとで、わざとらしく胸を張らない。代わりに工具をゆっくり床へ置き、規制線の位置を確認して、地面の傾きを測る。豪快というより、手が早い。頼れるのはそこだ。
勇輝が改めて頷く。
「ドラン、準備は?」
「できとる。あと、これだけは言わせてくれ。開ける時に“音”がするのは正常じゃ。びっくりして飛び退くと転ぶから、転ばないように腰を落として呼吸しろ。怖さは分かるが、手順が味方じゃよ」
加奈がタオルを握り直し、そっと言った。
「……温泉が、普通の温泉でありますように」
「願い方が現実的で助かる」
勇輝がそう返すと、ドランがレバーに手をかけた。工具の先端が箱の留め具に噛み合い、金属がかすかに鳴る。
そして、ゆっくり、ゆっくりと。
ぼんっ。
鈍い破裂音というより、深い呼気みたいな音がした。箱の隙間から、魔力混じりの蒸気がむわっと噴き出す。白ではない。赤紫がかった湯気が、朝日に当たって薄い葡萄色に見える。
「うわ……!」
加奈が一歩下がり、タオルで口元を押さえる。美月は反射で一歩前に出かけて、すぐ止まった。撮りたいより、守りたいが先に来た顔になる。
勇輝は、規制線の外側を確認しながら叫ぶのではなく、指示を飛ばす声を選んだ。
「警備、規制線を二重に! 消防、待機位置そのまま! 総務、臨時対応本部の立ち上げを今! ドラン、蒸気の圧、まだ上がるか!」
「上がるのう。だが“爆ぜる”類じゃない、地脈が呼吸しとる。よし、ここで焦って閉めると逆に暴れる。蒸気の道を作ってやる。ほれ、風向き見ろ、逃がす方向を整えるぞ」
ドランが工具の角度を変え、蒸気が一方向へ流れる。湯気が拡散する前に、まるで通路を作るみたいに誘導されていく。その瞬間、箱の内側から、低い温度の湯気がもう一段、広がった。
そして、遅れて気づく。
湯気の匂いが、町のあちこちに触れている匂いだということに。
◆午前・ひまわり市 町中
庁舎前の蒸気が風に乗り、角を曲がり、商店街のアーケードへ滑り込み、公園のベンチの足元へ絡みつき、図書館裏の植え込みの中へもぐり込み、地下へ続く階段の冷気にまで入り込んでいく。
それは、ただの湯気じゃない。町の隙間を探して、潜り込んで、そこで何かを起動している。
最初に上がったのは、市役所前の植え込みの端だった。ふつ、という小さな音。次に、公園の水飲み場の横。次に、商店街の側溝の蓋の隙間。
次々と、湯が湧いた。
「……え、ちょっと待って。庁舎前だけじゃないの?」
勇輝が目を見開く。
加奈は、目の前の湯気と遠くの湯気を交互に見て、声が追いつかない。
「わ、わぁ……! あっちも上がってます。こっちも……あ、図書館の裏も、湯けむりが……」
美月がタブレットに地図を出し、湧出報告をプロットしていく。色の点が増える速度が、明らかに人の手より速い。町が勝手に書き換わっていく。
「主任、位置情報、もう追いきれません。住民からの通報が同時に来てて、“足湯が勝手にできた”“庭がぬるくなった”“犬がそこから動かない”……これ、全域です」
「全域、って言葉が軽く聞こえないのが嫌だな……」
勇輝は深呼吸して、すぐに切り替える。怖がるのは後でいい。今は事故を防ぐ。
「総務、消防、生活安全、環境。噴出地点ごとに“危険度”を分ける。温度が高いところは近づかせない。低いところでも滑って転ぶ。まず、転倒とやけどを止める。加奈、町内放送、できる?」
「できます。文面、作ります。煽らないように、でも“近づかない”ははっきり言います」
加奈が走り出す。走りながら、頭の中で言葉を整えている顔だ。
ドランは、地面にしゃがんで、湧き出る湯の色を見ている。赤紫。きれいだが、きれいは安全と同義ではない。
「おう、これは魔力泉じゃな。普通の温泉成分に、魔界の魔力が薄く溶けとる。薄いからこそ広がる。広がるからこそ、制御を間違えると厄介じゃ。よし、まずは地脈の“出口”を数箇所に集約してやる。町中で勝手に湧くのは、便利そうに見えて、事故のもとじゃからのう」
「集約、できるのか」
「できるようにするのが職人じゃよ。だが急ぐな。急ぐと地面が拗ねる。地面は拗ねると面倒じゃぞ」
その言い方が妙にリアルで、勇輝は笑えないまま頷いた。
そこへ、魔導錬金士ミーネが、白衣の裾を翻して現れた。いつもはきらびやかなのに、今日は手袋とゴーグルで完全に“研究者”だ。手には採取管と、色の変わる試薬紙。
「皆さま、採取しますわ。湯の性質を調べないと、利用も規制もできませんもの」
「頼む。まず健康被害の有無だ。刺激が強いなら、近づくのを止める」
勇輝が言うと、ミーネは頷き、しゃがみこんで採取管を湯面へ差し入れた。
その時、ミーネの視線が一瞬だけ「味見」の方向へ行った。行ったが、勇輝の視線が先に止めた。
「……ミーネ、今日は“舐める”のはなしで。頼む」
言い方に棘を入れないようにしたつもりでも、切実さは出る。ミーネは少しだけ口を尖らせたあと、すぐに笑って引き下がった。
「分かってますわ。今日はちゃんと手順で参ります。ええ、手順で。……でも、香りだけでも成分が分かる気がしますのよね」
「気がするで突っ走らないのが、今日の約束だ」
ミーネが試薬紙を浸し、色の変化を見て目を輝かせた。
「普通の温泉成分に、魔界由来の活性化因子が混ざっています。身体の循環を促す方向。ですが、強すぎると眠れなくなったり、落ち着かなくなったりする可能性もありますわ。つまり……使い方次第です」
「使い方次第、が一番難しいんだよな」
勇輝が呟くと、ドランが肩を揺らして笑った。
「いやぁ〜、分かるぞ。道具は全部そうじゃ。便利なものほど、使い方の札を付けにゃならん。札を付けるのは役所の仕事、ワシは札が守れるように形を整える。役割分担じゃな」
町のあちこちから湯気が上がる景色は、確かに派手だ。派手で、喜びが先に立ちそうになる。
けれど勇輝は、派手さの裏で必ず事故が起きることも知っている。だから、喜びの前に、線を引く。
その線引きの第一弾が、町内放送だった。
『こちらひまわり市役所です。現在、市内の複数地点で温泉の湧出が確認されています。安全確認が完了するまで、湧出地点には近づかないでください。小さなお子さまやペットから目を離さないでください。職員が順次、現地確認と案内を行います』
声が流れると、町が少しだけ落ち着く。完全には止まらない。止まらないけれど、「何をしたらいいか」が見えるだけで、人は動ける。
◆昼・臨時記者会見 庁舎前
落ち着く時間は短かった。
正確には、町の中は“動き方”が落ち着いたが、外からの目が一気に増えた。
庁舎前には、地上のメディアだけじゃない。異界新聞の記者が羽根ペンを構え、天界通信が光の記録石を浮かべ、魔界放送が黒い水晶を回し始めている。
それぞれの「録り方」が違うのに、向けられるレンズの圧だけは同じだった。
勇輝は、用意した原稿を持って立つ。横には市長がいる。市長はいつも通り落ち着いていて、空気の重さを「まあ、そういう日もある」と受け止める顔をしている。大げさに笑わない。驚きすぎない。こういう時、普通に強い。
「本日、庁舎前に届いた魔界由来の贈答物の開封に伴い、市内の複数地点で温泉の湧出が確認されました。現在、市としては安全確認を最優先に、湧出地点の規制と成分調査、温度確認を進めています。現時点で重大な健康被害の報告はありませんが、確認が完了するまで近づかないようお願いいたします」
市長が一歩前に出て、続けた。
「ひまわり市は、異界に浮かぶ町として、日々新しい課題に向き合っています。今回の件も、驚きはありますが、だからこそ丁寧に整えます。市民の暮らしを守りながら、この出来事が“町の力”になるよう、手順を踏みます」
言葉が短くない。けれど長すぎない。
この人は、場を落ち着かせる言葉の長さを知っている。
質疑が始まると、すぐに質問の方向が分岐した。
天界通信の記者が、翼を折り畳みながら手を挙げる。
「天使も入浴できますか。羽への影響、光の純度の変化などは」
勇輝は、答えを急がない。今、断言するのは危ない。断言した瞬間に、誰かが羽を浸けて確かめに行く。
「天使の方の入浴については、成分調査と温度管理が終わってから、専用の試験浴槽で確認します。羽の扱いは繊細だと聞いていますので、まず安全を確かめます」
魔界放送が続けてくる。声が低いが、挑発ではない。純粋に興味だ。
「魔族用の混浴は。魔界では温泉は交渉の場でもある」
加奈が顔を赤くしてマイクを取る。赤いのに、逃げない。
「混浴の扱いは、いまの市の条例だと“公衆浴場の区分”の整理が必要です。異界の文化も尊重したいので、関係者と協議してルールを作ります。今日の時点では、無理に進めません」
地上メディアが、すぐ現実の方向へ切り込む。
「資金は魔界大公の寄付だと聞いています。受け取ったお金の使い道は。返礼品は。温泉が増えたことで地価は上がるのか」
美月が、すっと前に出た。こういう時の広報は、曖昧に笑ってはいけない。だが怖がらせてもいけない。線を引き、安心の材料を出す。
「寄付金の使途は、生活インフラの整備、安全対策、観光整備の三つに分類し、定期的に公開します。返礼品については“地元産品と体験”の範囲に限定し、特別扱いはしません。地価や物価の影響についても、監視項目を設定し、必要なら対策を取ります。まずは安全確認が先です」
勇輝は、美月の言葉に小さく頷く。
派手なニュースほど、守るべきものは地味な項目に並ぶ。
質疑の最中、誰かが「異界温泉都市に認定された」と口にした。どこから出た言葉かは分からない。だが言葉は勝手に走る。
勇輝は、走る言葉の前に“止める札”を置くように、穏やかに言った。
「認定の話は、現時点では市から出していません。必要があれば、関係機関と協議して正式に発表します。先に“町が安全に使える温泉”にすることが、いちばん大事です」
市長が隣で頷いた。
報道陣は熱い。けれど、熱さに引っ張られない人が前に立っていると、場は壊れない。
◆午後・温泉街建設会議 市長室
市長室の壁が、いつもより賑やかだった。地図、ゾーニング案、導線計画、仮設の浴槽配置、そして“湯気の流れ”の矢印。矢印が多いほど、現場が走っている証拠だ。
机の上には、湯気の出る小さなサンプル模型が置かれている。模型なのに湯気が出るのは、ミーネが「見える化は大事ですわ」と言って持ち込んだからだ。見える化は大事だが、湯気が出る模型は会議室の湿度を上げる。すでに紙が少し波打っている。
「地元旅館組合が再建協力を申し出てくれました」
加奈が目を輝かせる。昨夜まで「どう説明するか」で眉を寄せていたのに、今日は「どう活かすか」で目が前を向いている。そういう切り替えの速さが、加奈の強さだ。
勇輝は頷きながら、地図の温泉街跡地を指でなぞる。
「温泉地再生プロジェクト……まさか魔界由来の湧出で現実になるとは思わなかった。だけど、だからこそ“勢いで作る温泉街”は危ない。導線、衛生、排水、緊急時対応。ここは地上の温泉街より丁寧にやる」
市長が椅子にもたれず、机に手を置いて言う。
「観光を伸ばすのは賛成。でも“暮らしの場所”が先。住民が疲れる温泉街は、長続きしない。だから、夜間の騒音や交通も含めて、最初から規程に入れましょう」
「市長、助かります。最初にその視点があると、後から揉めにくい」
ドランが、図面を覗き込みながら唸る。唸り方が職人だ。考えている音がする。
「おう、温泉の出口を集約すれば、配管で回せる。回せば熱が取れる。熱が取れれば、電力と暖房の補助になる。冬の夜が楽になるぞ。だがのう、魔力泉は“使い残し”が出ると、変な淀みが生まれる。淀みが生まれると……まあ、面倒なものが湧くことがある」
ミーネがにっこりする。にっこりが軽いのが怖い。
「ええ、温泉魔獣が出ることがありますわ。湯の活性化が行き場を失うと、温泉の形をした元気すぎる存在になります。かわいい時もありますけど、放置すると大きくなります」
勇輝がペンを止める。止めたペンが紙の上で小さく鳴った。
「かわいい時もある、って言い方は優しいのに、後半が不穏すぎる」
美月が横で、すでに“想定問答集”に書き足している。
「温泉魔獣が出た場合の対応。名称は“温泉由来の魔力生物”の方がいいですね。魔獣って言うと怖がられます」
「言葉って大事だな……」
勇輝が頷くと、市長が頷き返す。
「怖がらせない言葉にする。でも隠さない。隠すともっと怖くなる。ここ、ひまわり市の基本ね」
会議の終盤、名称案が出た。観光課が作った派手な案が並ぶ。
「“ひまわり魔泉郷”はどうでしょう! 異界らしさとインパクトが」
加奈が目を輝かせつつも、勇輝を見る。勇輝が即座に否定しないのは、加奈も分かっている。否定する前に、運用を考える人だから。
「名称は悪くない。ただ、住民が日常で呼べるかどうかも大事だ。“魔泉郷”って言うと、初めて来た人は身構えるかもしれない。逆に、身構えるくらいの方が安全意識が働く、という考え方もある」
市長が首を少しだけ傾ける。
「じゃあ二段にしましょう。正式名称は“ひまわり魔泉郷”。住民向けの案内や生活の中では“ひまわり湯けむり街”。場面で使い分ければいい。行政は言葉を選べる」
美月が「それ、いい」と目で言った。
勇輝も、心の中で拍手した。市長は、決め方が上手い。
「よし。名称はそれで進めよう。次は、開湯式の範囲だ。町中の湧出は全部開放しない。危険がある。安全確認済みの場所だけ、まずは足湯と試験浴から。段階的にやる」
加奈が頷き、ドランが頷き、ミーネが「段階、大事ですわ」と笑った。
派手に見える温泉の爆誕を、地味に段階で整える。ひまわり市らしい落とし方だ。
◆夕方・開湯式 ひまわり湯けむり街(仮設広場)
夕方、空が少しだけ橙に傾く頃。
仮設の足湯スペースに、人が集まっていた。市民も異界の人も、観光客も、誰もが湯気に引かれている。けれど、近づき方が違う。今日は、ちゃんと列ができている。足元には滑り止めのマット。注意書きは大きく、難しい言葉は避けてある。
『温度を確認してから入ってください』
『長く入りすぎないでください』
『気分が悪くなったらすぐに職員へ』
こういう地味な文字が、今日の主役かもしれない。
湯けむりは、光の角度で虹色に見えた。魔力が混ざっているせいだろう。空には薄いオーロラみたいな揺らぎが走り、異界の空らしさが顔を出す。
それでも、足湯に浸かる人の表情は、地上の温泉街と同じだった。肩が落ちる。目が細くなる。息が長くなる。
加奈が、少し離れた場所でその光景を見て、胸に手を当てた。今日は走りっぱなしだったのに、その瞬間だけ、時間がゆっくりになる。
「町が……また、元気になりますね。嬉しいです。嬉しいけど、ちゃんと守らないと、って思うのも同じくらい強いです」
勇輝は頷いた。
湯気の向こうで笑う人たちを見ていると、仕事の理由がはっきりする。守るべきものが、いつも目の前にある。
「ああ。たぶん、ここからが本番だ。喜びが広がるほど、事故も揉め事も起きる。だから、喜びを止めないまま、危ないところだけ止める。そういうやり方でいこう」
ドランが、足湯の配管を見ながら言う。声が大きいわけじゃない。けれど、頼もしさがある。
「おう、その考え方が一番じゃ。湯は人を緩める。緩めた人は、つい判断も緩める。だからこそ、仕組みが先に立つ。ワシは配管を整える。お前さんは札と規程を整える。加奈は言葉を整える。美月は誤解を整える。よし、全員働き口があるのう」
「最後のまとめが、妙に嬉しくないな」
勇輝が苦笑すると、加奈が笑った。
笑いが出るのは、余裕が戻ってきた証拠だ。
開湯式の簡単な挨拶を市長が行い、拍手が起きる。拍手は大きくない。けれど、手の温度が伝わる程度にあたたかい。
その拍手の中で、美月はスマホを見た。タグが増えている。増えているが、荒れていない。今日はちゃんと、発信が“守り”の方へ動いている。
「……よし。今日の広報、勝てそうです」
美月が小さく呟く。勇輝は「勝ち負けじゃない」と言いかけて、飲み込んだ。美月にとっての“勝ち”は、炎上しないことじゃない。町の顔を守ることだ。なら、勝ちでいい。
◆夜・源泉区域 立入制限区画
夜。
開湯式が終わっても、仕事は終わらない。むしろ、人が寝始めた頃に、別の問題が顔を出すことが多い。勇輝はそれを知っている。だから、ひとりで源泉区域へ向かった。立入制限区画。規制線の奥。看板の文字が、夜風で小さく揺れる。
湯気は昼より濃い。夜の冷気にぶつかって、白く広がる。足元は湿っているが、滑り止めの砂が撒かれている。誰かがもう先回りして整えている。こういう見えない手が、ひまわり市の強さだ。
源泉の中心には、赤い魔石があった。湯の底で、どくん、と脈動している。
心臓みたいに見えるのが嫌だった。嫌なのに、目が離せない。
「……これが箱の中身、ってわけじゃないよな。箱はきっかけで、こいつが町の地脈に繋がった……」
勇輝がしゃがみ込み、魔石の表面に浮かぶ文様を見つめた。魔界の紋章と似ている。似ているが、少し違う。
通信の符号だ。
「通信用……?」
口に出した瞬間、湯面が静かに揺れた。泡が浮かぶ。泡が弾ける。
その弾けた場所に、映像が浮かんだ。
魔王デスガルド。
いや、正確には“魔界大公”だ。昨日の通信と同じ顔。だが今回は、画面越しじゃない。湯が鏡になっている。湯気の向こうから声が来る。
「気に入ってもらえたようだな、勇輝殿。湯は人を緩める。緩めた者同士は、言葉の角が落ちる。だから、温泉は交渉に向く」
勇輝は、背筋を伸ばしたまま返す。怒鳴らない。脅しに乗らない。だが、線は引く。
「町中に湯を湧かせる贈り物は、さすがに規模が大きすぎます。目的を聞かせてください。この温泉、ただの贈答じゃない。通信の仕組みが入ってる」
デスガルドは、笑った。声は低いのに、不思議と嫌味がない。むしろ、こちらの警戒を“正しい”と認めている笑い方だ。
「見抜いたか。あの温泉は次元を繋ぐ門でもある。門と言っても、軍が押し寄せる類ではない。言葉が通る。取引が通る。行き来の相談が通る。魔界の者が、貴市を訪れる口になる」
「つまり、ひまわり市を“魔界港”にする気ですか」
勇輝がそう言うと、デスガルドは一拍置いた。湯面が少しだけ揺れ、月光が歪む。
「港、という言い方は地上の感覚だな。だが近い。貴市は異界の結節点になりつつある。天界も、深海も、竜王領も、幽界も、皆が貴市へ話を持ち込む。ならば魔界も同じようにしたい。公平だろう」
「公平、は分かります。でも、町は暮らしの場所です。港にするなら、ルールが必要です。通るもの、通らないもの。受け入れる数。安全確認。住民の合意。勝手に増えるのは困る」
勇輝は、言葉を一つずつ置く。
相手が大きいほど、こちらは丁寧に言うしかない。
デスガルドは、湯面の向こうで目を細めた。
「よい。そういう顔をする男だから、贈った。湯に浸かれば人も魔も同じ、などと綺麗事を言うつもりはない。だが、同じ場所で肩の力が抜けるのは事実だ。貴市がその場を作れるなら、争いの芽は減る。減らす努力は、価値がある」
勇輝は、そこで少しだけ息を吐いた。
強引な押し付けではない。だが、期待はある。期待は、重い。重いけれど、悪意ではない。
「……分かりました。門を完全に閉じるかどうかは、こちらで判断します。使うなら、役所の管理下に置きます。勝手に使える“抜け道”にはしません」
「抜け道ではなく、正門にせよ、ということか。よい答えだ」
デスガルドは、最後に一言だけ残した。
「湯は癒しだ。だが癒しは、弱さではない。癒した後に立ち上がれる者が強い。貴市が立ち上がり続けるなら、魔界は友になる。立ち上がれぬなら……他の者が狙う。気をつけろ」
映像が、ふっと薄くなる。湯面がただの湯に戻っていく。
残ったのは、湯気と、夜の音だけだった。
勇輝は立ち上がり、規制線の外側へ戻る道をゆっくり歩いた。
気づけば、手のひらが少し湿っている。汗だ。怖さの汗ではない。責任の汗だ。
◆ラスト・庁舎屋上
屋上に戻ると、夜風が頬を撫でた。湯気の香りが町全体に薄く残り、月明かりがその香りに輪郭を付けている。
そこに、加奈がいた。タオルを抱えて、少し息を切らしている。走ってきたのだろう。怒ってはいない。心配が先に立っている顔だ。
「勇輝さん、風、冷たいです。湯気があるからって油断すると、体が冷えますよ。今日は……ずっと外ですし」
勇輝は、タオルを受け取りながら、うまく言葉を選んだ。心配させすぎたくない。でも、何も言わないのも違う。
「ありがとう。……源泉、見てきた。やっぱり、ただの温泉じゃない。通信の仕組みが入ってた。町を繋ぐ門になり得る」
加奈は、驚きより先に、静かに頷いた。今日一日で、加奈も分かっている。派手な出来事には、必ず裏側の仕組みがある。
「怖いです。でも、今日の昼の笑顔も、嘘じゃないです。あの人たち、肩が軽くなってました。だから……門になるにしても、怖いものだけじゃない気がします」
「そうだな。怖いから拒む、じゃなくて、怖いから整える。それが役所のやり方だ」
加奈は、少しだけ笑った。湯気の向こうで笑った人たちと同じ笑い方だ。
「“みんなが笑顔で入れるお風呂”なら、私は信じたいです。信じたいから、ちゃんとルールも一緒に作ります。勇輝さんが前に立つなら、私も隣で支えます」
勇輝は、屋上の縁から町を見下ろした。湯気が薄く揺れ、灯りが滲む。
この町は生き物だ。生き物は、勝手に変わる。けれど、変わる方向は、手で整えられる。
「……ありがとう。明日から忙しいぞ。温泉の規程、通貨の扱い、監査対応、観光導線、生活の静けさ。全部、同時に守る」
「はい。いつものことです。いつものことにするために、今日をちゃんと終わらせましょう」
夜風が湯気を押し流し、満月がひまわり市の新しい温泉街をやさしく照らしていた。




