第32話「異界からのふるさと納税」
~寄付額爆増、でも受け取っていいの!?~
◆朝・ひまわり市役所 財務課
役所の朝は、紙の匂いとコーヒーの湯気で始まる。庁舎の廊下を歩くと、どこかの課でプリンターが回り始めた音がして、どこかの窓口ではシャッターが上がる金属音がして、机の引き出しが同時多発的に開閉している。平和というより、今日も回る、という音だ。
その音の中に、今日はひとつだけ、明らかに場違いな音が混ざった。
「大変だぁぁぁっ! 異界からの納税申請が殺到してるッ!!」
財務課の佐伯課長が、めずらしく走ってきた。走る課長は珍しい。走ったうえで、抱えている紙束がさらに珍しい。紙束の角が揃っていない。つまり、提出されたままの状態で、とにかく持ってきた。
課長の髪が少し乱れているのを見て、勇輝は先に心の中で「今日の会議は長い」と結論を出した。
「……朝イチの悲鳴って、だいたい悪い知らせだよな」
勇輝がそう言いながら受け取った束は、手に取った瞬間、ずしりと重い。紙の重量だけじゃない。封筒の中に、薄い板状の魔石が混ざっている。申請書を紙で出してくる層と、異界式の署名結晶を添付してくる層が、同じ窓口に並んだ結果だ。
加奈が追いかけてきて、課長の横に回り込みながら息を整える。
「課長、窓口から電話も来てます。『納税って何ですか』と『返礼品は本当に温泉付き別荘ですか』が、同じ回線で交互に来てます」
課長は、顔の汗を袖で拭いながら、震える声で続けた。
「ネット記事だ! 誰かが書いたんだよ! “地上最強の返礼品、温泉付き別荘”って!」
勇輝の眉が、寄りたい方向にしか寄らない。
「……温泉付き別荘。うち、そんな在庫あったっけ」
「ありませんよ。いったい誰がそんな広報を……!」
課長が声を上げる。上げたあとで、すぐ自分で「まずい」と顔を引き締め直す。財務課は、声を荒げても数字が消えない部署だと知っている。
美月が遅れて広報課のファイルを抱えて現れた。眠そうな目をしているのに、指だけは速い。もう通知を追っている。
「今、出回ってるのは記事だけじゃないです。切り抜き画像が飛んでます。“ふるさと納税で異界別荘が当たる”って、完全に宝くじ化してます」
「当たる仕組みじゃない。寄付だ」
勇輝が言い切ると、加奈が小さく頷いた。そこが揺らぐと、制度が崩れる。楽しさは必要だけど、根っこは変えられない。
佐伯課長が紙束を机に置き、深呼吸して、財務課らしく順番を整えようとする。
「とにかく、まず現状確認だ。申請書の件数、寄付額、送り主。あと……受け取れるかどうか。そもそも法的根拠が……いや、ここ異界だから法律って言い方も変だが……」
「条例の立て付けなら、前に『異界支援寄付受入要綱(暫定)』は作ってます。観光協定の後に、寄付の申し出が増えた時に」
加奈がすぐ資料を引いた。こういう時、加奈の強みは、先に焦らずに紙を出せるところだ。
「ただ、今回の額は想定外です。正直、桁が……」
「桁が、暴れてる」
美月が呟く。言い回しだけは軽いのに、目は真剣だ。
勇輝は机の上の一番上の申請書を開く。宛名欄の文字が、すでに現実を超えている。
『魔界大公 デスガルド』
『天界財務使者代理 リュミナ宛 写』
『深海都市ナギル 潮流評議会』
『竜王領 護り手会計局』
『幽界省 記録保全課(寄付は記録のため)』
「……これ、ひまわり市が受け取っていいんだよな」
誰に言うでもなく呟いた勇輝の声に、課長が苦笑いで返した。
「受け取るかどうかを決めるのが、今日の仕事だよ。で、決めた瞬間に、また仕事が増える」
その予感だけは、全員一致で確信だった。
◆午前・市庁舎 会議室
会議室の長机いっぱいに、申請書の束が並べられていく。紙の束だけじゃない。木箱に入った果実、封蝋が溶けないように冷やされた深海の書状、熱を発している赤い石を入れた耐熱ケース。財務課の会議なのに、物流会議みたいな景色になっていた。
「……この会議室、いま何課ですか」
美月が本気で分からなくなった顔をしている。加奈は「財務課です」と答えながらも、視線は赤い石のケースに吸い寄せられていた。あれは危ない。危ないものほど、説明が要る。
勇輝は、寄付額一覧の紙を見て、静かに息を吸った。息を吸ってから、口に出す言葉を選ぶ。選ばないと、場が硬くなる。
「……まず、寄付額の上限って、うち決めてたっけ」
佐伯課長が、半分泣きそうに笑った。
「決めてない。そんな発想がなかった。普通は“上限を決めるほど来ない”からな」
加奈が、数字の欄を指でなぞる。
「この魔界大公デスガルド様、寄付額……ゼロが十六個あります」
勇輝が目を細めて数える。数えたくないけど、数えるのが仕事だ。
「……一、十、百、千……いや、途中で置いていかれる。これ、ざっくり言うと、うちの年間予算どころか、国の何かに近い……?」
「言い方がふわっとしてるのに、怖さだけが増す」
美月がぽつりと言う。怖さの種類が、日常の苦情とは違う。多すぎる善意は、扱いを間違えると圧力になる。
勇輝は、議題の順番をホワイトボードに書き出した。
1 受入可否(制度の根拠と条件)
2 寄付目的の確認(見返り要求の有無)
3 通貨換算と資金管理(換算レート、保管、監査)
4 返礼品の範囲(公平性、地元への影響、配送)
5 広報(誤解防止、問い合わせ対応)
「五つ書いたけど、実際は全部つながってる。ひとつ崩れると他も崩れる」
加奈が頷き、美月が同じタイミングで頷いた。課長は頷きながら頭を抱えている。
「まず一番。受け取れるか。要綱の暫定版では、『市の施策に賛同し、無償で支援する意思がある場合』に限る。つまり、政治的な見返りとか、特定の便宜供与の要求があるなら受け取れない」
勇輝が読み上げると、課長が補足する。
「いや、受け取った瞬間に“要求される可能性”もある。そこまで含めて考えろ。あと、相手は異界だ。善意の形が、こちらの常識と違う」
その言葉に、会議室の空気が少しだけ引き締まる。ひまわり市は異界で生きているが、それでも「行政として守る線」を持っている。
美月がタブレットを見ながら言った。
「広報的には、“温泉付き別荘”の誤情報は今すぐ落ち着かせたいです。『返礼品は地元産品・体験の範囲』って、早めに出したい」
「出そう。ただし、返礼品の範囲が決まってから。決まってないことを断言すると、後で必ず揉める」
勇輝が慎重に言うと、加奈がメモに追記する。
「返礼品は“過度にならないように”。地元の負担を増やさない範囲で。あと、異界側の希望が強い場合……どう折り合いを」
そこに、ひとつ目立つ添付書類があった。魔界大公の申請書に、別紙が付いている。字がやたら丁寧だ。
『返礼は要らぬ。ただ、礼として“魔界の温もり”を贈る。受領の可否は貴市に委ねる』
美月が顔を上げた。
「……返礼品を要らないって書いてあるの、逆に怖くないですか」
「怖いけど、少しだけ安心もする。少なくとも“交換条件”にはしてない」
勇輝は別紙を閉じ、ゆっくり言った。
「だから、まず本人に聞こう。目的を確認する。魔法通信を繋ぐ。天界も、深海も、竜王領も。各界で寄付の文化が違うなら、同じ言葉で受け取ったら危ない」
課長が頷き、加奈が即座に準備に走り、美月がその場で「発信はまだ」と自分に言い聞かせる顔をした。
会議室の空気は重い。重いが、沈んではいない。重いものを運ぶ時の、踏ん張りの重さだ。
◆昼・異界経済部ミーティング(魔法通信)
異界経済部の会議スペースに移動すると、机の中央に魔法水晶が置かれ、周囲に小さな通訳魔石が配置される。相手の発音が違う時、言葉が「近い意味」に変換される。完全じゃない。だからこそ、こちらの言い方も丁寧にしないといけない。
最初に接続したのは魔界だった。
水晶の向こうに映ったのは、炎を背景にした玉座。そして、黒い衣をまとった大柄な男。角は控えめだが、存在感が控えめじゃない。魔界大公デスガルド。
画面越しでも空気が熱い気がする。もちろん気のせいだ。気のせいだと思いたい。
「ひまわり市の者か。繋がったな」
声が低い。低いのに、乱暴ではない。胸に響くのは迫力のせいで、怒りではない。そこが余計に読みにくい。
勇輝は背筋を伸ばして、礼をする。礼をしても、相手が椅子に座っているだけで格が違うように見えるのは、座り方の問題ではない。
「ひまわり市役所、異界経済部の勇輝です。本日は、寄付のお申し出について、目的と条件の確認をさせてください。こちらとしては大変ありがたいのですが、額が大きく……制度の線引きが必要で」
言い方は、できるだけ角を立てない。拒否ではなく、確認。相手を疑うのではなく、こちらの手続きを守るため。
デスガルドは、ふっと口元を緩めた。
「用心深いのは嫌いではない。目的か。単純だ。貴市の温泉パンが気に入った。あれを焼く店が、続けばいいと思った。それだけだ」
「……温泉パン、ですか」
加奈が思わず復唱する。勇輝も驚いた。国家級の寄付に見える額が、入口としてはパンなのか。いや、入口がパンでも、額は額だ。
デスガルドは続ける。
「魔界では、気に入ったものがある場所に、資金を落とす。そうすると、その場所は守られる。守られれば、次も楽しめる。循環だ。貴市の言葉で言えば……心のふるさと、だったか」
美月が小さく息を吸う。画面の隅で炎が揺れるせいで、言葉が妙に詩的に聞こえるのが悔しい。
「ありがとうございます。こちらとしても、町の継続に繋がる支援は歓迎です。ただ、寄付によって特定の便宜を求める、例えば条例を変えてほしい、特定の施設を優先的に使いたい、そういう条件が付く場合は受け取れません」
勇輝が言うと、デスガルドは首を横に振った。
「求めぬ。だが、ひとつだけ言う。返礼として別荘を寄越せなどとは言わぬ。それを言い出した者がいるなら、貴市の敵だ。気をつけろ。悪意は、善意の顔をして近づく」
その一言で、会議室の空気がさらに引き締まった。相手が言うと、説得力の種類が違う。魔界は善悪の線引きが曖昧だと思い込んでいたが、少なくともこの大公は「悪意を悪意と言う」タイプらしい。
「情報、ありがとうございます。返礼については、こちらの公平性の観点で、範囲を決めます。寄付額に応じて特別扱いはしません。よろしいですか」
「当然だ。礼は礼として受け取れ。無理に返そうとすれば、別の歪みが出る。貴市は貴市のやり方で整えろ」
そこで通信が一瞬だけ揺れた。炎が強くなったように見える。デスガルドが、少しだけ真顔になって言う。
「ただし、受け取るなら、胸を張れ。受け取っておいて怯えるのは、贈る側も疲れる。礼とはそういうものだ」
勇輝は、ゆっくり頷いた。
「分かりました。受け取るなら、制度として整えて、説明して、透明にします」
デスガルドは満足そうに目を細めた。笑み、というより納得の表情だ。
次に繋いだのは天界だった。
水晶の向こうに広がったのは、白い雲の海と、光の柱。その中に、純白の翼を持つ女性が立っている。天界財務使者、リュミナ。持っている帳簿が金色で、ページが勝手にめくれている。怖い。怖いけど、優しそうに見えるのがさらに怖い。
「ひまわり市の皆さま。接続ありがとうございます。天界からの寄付は、基本的に“透明性と公益性”の確認が前提です。今回、異界間で資金が動くと聞き、当方としても記録の整合性を取りに参りました」
言い方が、もう監査の入口だ。
「……参りました、って、来るんですか」
美月が思わず口に出す。リュミナはにこりと笑う。
「はい。近いので。翼がありますし」
翼があるから近い、という理屈は、妙に反論しづらい。
加奈が、丁寧に確認する。
「天界の寄付は、どういう目的で?」
「“善行の循環”です。ひまわり市が異界で多種族を受け入れていることは、天界でも評判になっています。寄付は“応援”であり、同時に“見守り”でもあります。受け取る側が誠実なら、寄付は増えます。誠実でないなら、寄付は止まります。だから、監査は敵意ではありません。安心のためです」
勇輝はその言葉に、少しだけ救われた。監査は嫌われがちだが、嫌われる役割を引き受ける人がいるから、制度は長持ちする。
深海都市ナギルは、通信の映像が青く揺れて見えた。声は落ち着いているが、水の音が混ざる。
「我らが寄付するのは、潮の流れを守るため。ひまわり市の排水と温泉利用が、海へ影響しないよう、設備投資に役立ててほしい。返礼は要らぬ。報告書がほしい。年に一度、潮の書状で」
竜王領は、堅実だった。寄付は防災と橋梁の補強に使ってほしい、と具体的だ。幽界省はさらに具体的で、寄付の目的が「記録保存庫の耐湿化」。何その使い道。いや、必要だ。異界の紙は湿気で傷む。
それぞれの界が、それぞれの理由で寄付をしてくる。善意だけではない。関心と、責任と、距離の取り方。ひまわり市が“異界の結節点”になっているからこそ、流れ込んでくるものがある。
通信を切ったあと、会議室はしばらく沈黙した。誰もが頭の中で、同じ問いを回している。
受け取ることは、支援を得ること。
受け取ることは、関係を結ぶこと。
美月が、沈黙を破るように言った。
「……これ、もう“税”って言葉だけだと誤解されます。寄付は寄付だけど、異界側には“関係の宣言”にも見えてる。だから説明は、ちゃんと温度を持って出したいです」
「うん。制度の線引きと、人の気持ちの線引き、両方が要る」
勇輝が頷き、加奈が資料を揃える。
「じゃあ、次。地元説明会、どうするか。市民が一番不安になるのは、“知らないところで決まる”ことです。受け取るにしても、受け取らないにしても、理由を出して、選択肢を示して」
佐伯課長が、机に肘をついて言った。
「そして、返礼品の範囲を決める。温泉付き別荘は無理だ。無理って言い切るのは簡単だが、代わりに何を出すかが難しい」
勇輝は、頭の中に「地元の負担」と「地元のチャンス」を並べる。どちらも大きい。大きいから、丁寧に仕切らないといけない。
◆午後・市民センター 説明会
市民センターのホールには、思った以上に人が集まっていた。年配の人も、子育て世代も、異界から来た商人も、角のある魔族も、翼のある小型種もいる。ふるさと納税という言葉が、もう地上だけの制度ではないことを示している。
壇上に立った勇輝は、まず深呼吸した。声を張るより、言葉を揃えることが大事だ。今日の説明会は、盛り上げる場じゃない。納得に近づける場だ。
「本日は、異界からの寄付、いわゆる“ふるさと納税”に似た仕組みについて、現状と、ひまわり市としての対応方針を説明します。最初に結論から言います。温泉付き別荘は、返礼品として存在しません」
会場がどっと笑った。笑いが出た時点で、ひとつ緊張がほどける。笑いは逃げではなく、確認の合図だ。
続けて勇輝は、ホワイトボードに大きく書いた。
『寄付は寄付。買い物ではない』
『返礼は“お礼の範囲”。寄付額で特別扱いしない』
『受入は、条件を満たすものだけ。目的と透明性を確認する』
『使い道は公開する。報告する』
加奈が横で、資料を配りながら補足する。
「異界からの寄付は、額が大きいものもあります。ただし、受け取ったお金をどう使うかは、ひまわり市が決めます。寄付者の希望が“提案”として来ることはありますが、義務にはしません」
前列の男性が手を挙げた。地元の商店街の人だ。
「魔界の金でも税金は税金だろ? つまり、市の財源が増えるってことだよな。なら、早く道路直してくれ。あと、祭りも増やしてくれ」
正直だ。正直な声はありがたい。
勇輝は頷いてから、すぐに言葉を続けた。
「道路も、生活も、優先です。ただ、寄付は“毎年同じ額が来る保証”がありません。だから寄付を前提に、恒常的な人件費を増やすとか、固定費を膨らませるのは危険です。寄付は、まず“投資”に回す。設備を整える、仕組みを作る、リスクを減らす。その上で、生活の改善につなげる」
会場の空気が、ふっと真面目になる。耳が、ちゃんとこちらを向く。
別の場所から、獣人の女性が手を挙げた。
「返礼品はどうするの? 温泉券で足りるの? 異界の方が求めるもの、違うでしょう?」
加奈が一歩前に出た。
「そこが、いま整えているところです。返礼品は“地元の産品と体験”の範囲にします。温泉券もあります。ただ、温泉券を増やしすぎると現場が回らないので、受入れ可能数を決めます。異界の方が求めるものについても、こちらから提案していきます。例えば、天界には保存性の高い干菓子、深海には塩分管理した出汁素材、竜王領には鍛冶の耐熱器具……と、相手の文化に合わせたものを」
それを聞いた美月が、会場の後ろでメモを取りながら、少しだけ眉を上げた。加奈の説明は、ただの夢じゃない。現場の負担まで含めて、具体だ。
すると、会場の中ほどで、年配の女性が小さく声を上げた。
「天界から来た果実、甘すぎて孫が浮いたぞ」
浮いた、という表現に周囲が笑う。勇輝は笑いながらも、そこに危険があると察した。食品だ。アレルギーも、体質も、文化もある。
「果実の件、受け取った方、体調は大丈夫でしたか。甘味が強い場合は、量の目安を付けて配ります。あと、異界の返礼品が市民に流通する場合も、食品表示と注意書きを整えます。体に合わないものは無理して食べない。ここは地上でも異界でも同じです」
そう言うと、年配の女性は頷いた。孫が浮いたと言った口で、ちゃんと納得の顔になるところが、この町の良さだ。
最後に、美月がマイクを持った。広報は、ここからが勝負だ。
「今、ネットで“別荘が当たる”みたいな話が出ていますが、うちの返礼品はそういう方向ではありません。ひまわり市は、地元の商いと暮らしを守りながら、異界の方とも仲良くするために、制度を整えます。皆さんにお願いしたいのは、不確かな情報に乗らないことと、困ったら役所に聞いてほしいことです。答えられないことは『まだ整えていない』と言います。そのかわり、整えたらちゃんと出します」
会場が静かに頷く。派手な言葉ではない。でも、信頼はこういう言葉で積み上がる。
説明会が終わる頃には、ざわめきは不安から相談へ変わっていた。人は、分からないと怖い。少し分かると、次は「どうしたらいい」が出てくる。そこまで来れば、行政の仕事は始められる。
◆夕方・財務課会議(受入基準と監査)
庁舎に戻ると、財務課の空気がさらに硬い。説明会でひと息ついた分、机の上の現実が戻ってきたからだ。寄付額は変わらない。申請書は増えている。窓口の電話は鳴り続けている。
そこへ、会議室の扉が静かに開いた。
光が差し込む。夕方の西日ではない。澄んだ、薄い光だ。
純白の翼を持つ天界財務使者リュミナが、金色の帳簿を携えて入ってきた。笑顔が柔らかい。柔らかいのに、帳簿が硬い。帳簿の硬さは、紙ではなく意思の硬さだ。
「皆さま。先ほどの通信の通り、監査のために来庁しました。ご迷惑ではありませんよね?」
迷惑です、とは言えない。言う必要もない。監査は迷惑ではなく、整えるためのものだ。そう分かっていても、目の前に“監査が翼で来る”と、心の準備が追いつかない。
「……ええ。助かります。正直、こちらも手探りなので」
勇輝が言うと、リュミナは頷いた。
「では、まず“透明性の最低ライン”を引きましょう。寄付の受入条件、換算方法、使途の公開。返礼品のルール。これらが曖昧だと、善意が疑いに変わります。疑いが増えると、寄付は武器になります。武器にしてはいけません」
言葉がやさしいのに、切れ味がある。美月が横で「うちの広報文にそのまま入れたい」と顔に出しかけて、ぐっと堪えていた。
リュミナは帳簿を開き、指先でページを軽く叩く。
「次に、異界資金の流入は、天界の基準では“循環監査”の対象です。魔界との資金循環が、住民生活に悪影響を与えないか。例えば、物価の急騰、土地の投機、特定の業者への偏り。これらが起きると、寄付は祝福ではなく負担になります」
佐伯課長が、真面目な顔で頷いた。
「物価の急騰は怖い。寄付で景気が良くなるのはいいが、家賃や食材が上がったら住民が困る。地上でも、そこは問題になる」
リュミナが微笑んだ。
「良いですね。地上の経験が、異界でも役に立つ。だからこそ、受け取っていいのです。受け取るには、守る準備が要る。それだけ」
加奈が、資料を差し出す。
「こちら、暫定の受入基準案です。寄付の目的確認、返礼品の上限、寄付者の意向は“提案”として扱う、特定の優遇は禁止。あと、寄付金の使途は三分類に分け、定期的に報告する」
リュミナは目を通し、ページをめくる速度が速い。速いのに、雑ではない。監査の人は読むのが速い。これは地上でも異界でも同じらしい。
「良いです。追加するとしたら、苦情窓口と、異界側への説明窓口を分けましょう。寄付者からの問い合わせは、住民の電話回線と混ぜると混乱します。相談は受け止めても、行政機能は守る」
美月がすぐ頷いた。
「広報窓口も、別にします。SNSの問い合わせは、まとめてFAQにして、回答を一本化します」
勇輝はホワイトボードに書き足した。
6 窓口分離(住民向け/寄付者向け/広報向け)
「……仕事が増えた」
佐伯課長が小さく呟く。だが顔は少し落ち着いている。増えた仕事が、見える形になったからだ。見えれば、割り振れる。
リュミナが最後に、穏やかに告げた。
「本日中に、受入の暫定決定を出しましょう。受け取らない選択もありますが、通信の内容を見る限り、寄付は“関係を結びたい”という意思でもあります。拒否すると、相手の顔を潰す場合があります。受け取るなら、条件を示し、誠実に扱う。これが一番摩擦が少ない」
勇輝は深く頷いた。
「受け取ります。ただし、条件付きで。返礼は範囲内。使途は公開。監査を受け入れる。寄付額で特別扱いしない。その上で、地元の暮らしを守る」
その言葉に、加奈が安心したように息を吐き、美月が「よし、文章にする」と目で言った。
◆夜・庁舎屋上(通貨換算と覚悟)
夜の屋上は、風がやわらかかった。昼の喧騒が嘘みたいに静かで、遠くの温泉街の湯気が、薄く揺れて見える。二つの月が空に浮かび、ひまわり市の灯りがその下で瞬いている。
勇輝と加奈は、屋上のベンチに報告書を並べていた。机じゃないのは、屋上のほうが頭が整理されるからだ。人の声が少ない場所は、数字の怖さを少しだけ薄めてくれる。
「異界通貨換算報告書……これ、タイトルだけで肩が凝りますね」
加奈が苦笑しながらページをめくる。ひだまり銭、魔石換算、天界の光貨、魔界の黒貨、深海の潮貨。通貨は違うのに、数字の怖さは同じだ。
「でも、換算できるようになったのは進歩だ。最初は“価値って何だ”で止まってた」
「止まってましたね。パン一個が、魔石三粒と同じかどうか、みんなで真剣に議論して」
加奈が笑うと、勇輝も笑った。議論した時間は無駄じゃない。無駄じゃないから、今こうして数字を扱える。
勇輝は夜景を見下ろしながら、静かに言った。
「寄付が増えたら、町の財政は少しは楽になる。設備も整えられる。人も守れる。でも……依存したら終わる。異界が機嫌を変えたら、町の骨格ごと揺れる」
加奈は資料を閉じ、風の音を一度聞いてから答えた。
「だから、寄付は“町の体力をつける”ほうに使うんですね。今のうちに、地上の稼ぎも、異界の観光も、どっちも整える。片方が止まっても、もう片方で支えられるように」
「そう。寄付はありがたいけど、背骨にはしない。背骨は、住民の暮らしと、地元の仕事と、役所の信用だ」
加奈が頷き、少しだけ声を柔らかくする。
「それでも、受け取るって決めた勇輝さん、すごいと思います。怖いのに、逃げなかった」
「逃げたら、もっと怖くなる。分からないまま放置して、噂が先に制度になるのが一番まずい」
勇輝が言うと、加奈は「確かに」と笑った。
「じゃあ、明日からは“噂に負けない書類”を作りましょう。制度が先に立つように」
「うん。書類で世界を殴らない程度に、ちゃんと守る書類を」
その言い方に、加奈が小さく笑った。屋上の夜は、疲れを隠さない笑いが似合う。
そこへ、庁舎の下から職員の声が聞こえた。
「主任! 宅配が……いや、配送が来ました! 差出人が……魔界です!」
風が、一瞬だけ冷たくなった気がした。気のせいだ。気のせいだと思いたい。
◆夜・庁舎前(魔界大公からの“返礼品”)
庁舎前に降りると、確かに巨大な黒い箱が置かれていた。箱というより、棺に見えるサイズだ。表面はつるりとしていて、触ると冷たい。なのに、箱の隙間から、ほんのり湯気が漏れている。湯気が漏れる箱は、普通は鍋だ。役所に届く鍋は、だいたい差し入れだ。これは差し入れのサイズじゃない。
箱の上に、メモが添付されている。字が丁寧だ。丁寧すぎて逆に怖い。
『寄付の証として、ささやかな贈り物。
“魔王温泉(持ち運び可)”を贈る。
受領は貴市の判断に委ねる。 デスガルド』
美月が、横で目を丸くした。
「……持ち運び可、って何ですか。温泉は持ち運ばないですよね」
「普通はな」
勇輝は箱の周りを一周する。加奈はすぐに安全札を取り出し、佐伯課長は「資産計上どうするんだこれ」と頭を抱え始めている。リュミナは、少し離れた場所で帳簿を開き、光の羽ペンで何かを書き始めた。監査の人が書き始めた時点で、これはもう“物”として扱われる。
勇輝は、箱に耳を当てた。ごごご、という音がする。中で湯が沸いている音に近い。いや、沸いているというより、呼吸している。
「……落ち着かない予感しかしない」
言った瞬間、箱が小さく震えた。まるで返事だ。怖い。
加奈が、落ち着いた声で指示を出す。
「距離を取ってください。子どもが近づかないように、バリケードを。湯気は吸い込みすぎると気分が悪くなる可能性があるので、換気も。あと、温泉って言ってる以上、熱源があります。消防にも連絡します」
言い方が冷静で、だからこそ周囲が動ける。勇輝は加奈の横で頷き、手元の無線を取った。
「総務、警備。庁舎前、臨時規制。市民には“当面の対処”として、近づかないよう案内。美月、発信は……」
「します。けど、煽らない文にします。“現在、異界からの贈り物を安全確認中です。近づかないでください”で。写真撮りたい人が増える前に」
美月が言い切った瞬間、箱の隙間から湯気が勢いよく噴き上がった。音は大きいが、破裂ではない。ただ、湯気の量が多い。多すぎる。
湯気が夜の空気に広がり、ふわりと甘い香りが混ざる。温泉の硫黄ではない。少しだけ、甘い香り。魔界の温泉は、香りまで演出してくるのか。
湯気の中で、箱の蓋がゆっくりと開いた。
中には、小さな石の桶が入っていた。桶の底に、黒い液体が揺れている。液体は湯のはずなのに、光を吸い込むみたいに黒い。だが、黒いのに怖すぎない。なぜか、湯気の温度がちょうどいい。近づいた職員が思わず手を伸ばしそうになる、その程度に心地いい。
「……これ、誘惑が強いな」
勇輝が呟くと、リュミナが帳簿から顔を上げた。
「“心地よさ”が強いものは、依存を生みます。扱いに注意してください。特に、公共の場で無制限に開放すると、生活が崩れます」
言い方が怖い。天界の人は、優しく怖い。
加奈が、桶の縁に貼られた小さな札を読んだ。
『魔王温泉:疲労回復、士気向上、決裁速度上昇(個人差あり)』
美月が顔を上げる。
「決裁速度上昇って書いてあります。やめてください。絶対やめてください」
勇輝も同時に頷いた。決裁が早くなる温泉は、行政の倫理に触れる匂いがする。匂いはいいのに、倫理が重い。
佐伯課長が、遠くから震える声で言った。
「これ、返礼品じゃなくて、寄付者からの贈答……つまり、受領すると“寄付とは別枠の資産”になる。資産になると……管理が要る。管理が要ると……担当が要る」
「担当を増やす前に、まず安全確認だ」
勇輝が言い切ると、加奈がすぐ頷いた。
「とりあえず、桶は封印札で一時封じます。湯気の拡散を止めて、成分確認。深海都市にも相談して、水質への影響を見てもらう。天界には……監査の観点で、記録の取り方を」
「はい。記録します。受領の経緯、確認事項、保管場所、使用目的。全部、光の帳簿に」
リュミナが穏やかに言い、帳簿に羽ペンを走らせる。その羽ペンの音が、なぜか心強い。
美月が、スマホを見ながら小さく呟く。
「もうタグが出始めてます。“#魔王温泉”……早い」
勇輝は、湯気の向こうに庁舎の灯りを見た。今日は長い。長いけれど、逃げる日じゃない。
「……よし。これも含めて、制度にする。寄付は寄付。贈答は贈答。受け取るなら、扱いを決める。決めないまま放置すると、町が先に温泉に飲まれる」
加奈が、封印札を手に取る。手は震えていない。たぶん震える暇がないのだ。
「じゃあ、当面の対処を。今夜は安全確保。明日、正式に“異界贈答物取扱要領(暫定)”を作りましょう」
「暫定が増えていく」
美月が苦笑する。その苦笑は、嫌味じゃない。町が生きている証拠だ。
湯気はまだ残っている。夜の空に、魔界の温もりが混ざっている。それが怖いのに、どこかあたたかい。ひまわり市は、そんな矛盾を抱えたまま、今日も前に進む。




