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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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14/2310

第14話「空の許可証とドラゴン観光課」

◆ひまわり市役所・異世界経済部 朝


 庁舎の朝は、まだ誰かのコピー機の音も遠慮がちで、廊下に漂うのは紙とコーヒーの匂いだけだった。

 早番の職員が窓を開け、少し涼しい風を通していく。夏の終わりが近い。空は高いのに、湿度はまだ手を抜いてくれない。


 美月はマグを机の端に置き、椅子の背に軽く手を添えた。

 やっと座れる、という顔になった瞬間、その瞬間に限って、外から庁舎全体を一度だけ揺するような衝撃が走った。


 ドガン、と音がして、窓ガラスがふるふる震える。

 紙束が机の上でずれて、ペン立てが倒れそうになり、コーヒーの表面が波打った。


「……え、今の何?」


 美月の声に、加奈が廊下から顔を出す。手には回覧の束。いつもなら「おはよう」の一言が先に出るはずなのに、今日は目だけで状況を探っていた。


「美月、窓……見て。たぶん、外……」


 加奈が指さす方向へ、二人で窓に近づく。

 駐車場のアスファルトが、見事に、という言い方が不謹慎なくらい見事に沈んでいた。円形のへこみ。その中心に、赤い鱗がある。


 巨大な紅蓮のドラゴンが、そこに着陸していた。


 翼がゆっくりと畳まれるたび、熱を含んだ風が上へ押し上げられ、庁舎の壁をなでる。遠くの植え込みがざわっと揺れ、駐車場の白線が半分隠れている。


「……朝から、空が近い」


 美月が思わずつぶやくと、加奈は一瞬だけ真顔のまま頷いた。言葉が追いつかないとき、人はこういう確認の仕方をする。


 そのまま二人が固まっているところに、少し遅れて勇輝が入ってきた。資料のファイルを抱え、眠気と仕事のスイッチを同時に入れたような顔だ。


「おはよう……って、なんだ、この振動。地震? 工事?」


 視線が窓に向いた瞬間、勇輝の動きが止まる。止まるというより、身体の中の「常識」が一拍遅れて停止した。


「……あのドラゴン、どこかで見たような……」


 そこへ、市長がバインダー片手に現れる。歩幅がいつも通りで、声量もいつも通りで、なぜか落ち着いているのが逆に不安を増やした。


「おはよう。あ、来たんだね。予定通り」


「予定……って、何の予定ですか。こっちの心の準備が追いついてないんですが」


 勇輝の問いに、市長はバインダーの予定表を開き、指先でトントンと叩いた。


「“観光大使の来庁・空域運用に関する協議”。昨日、メール回ってたでしょ」


「回ってましたけど……このサイズが来るとは聞いてないです。あと、駐車場が凹んでます」


 美月が半分泣きそうな声で付け足す。


「いや、凹んでるっていうか……これは“着陸痕”っていうか……」


 市長は凹みをちらりと見て、「あとで施設管理に電話しとく」と軽く言った。軽く言ってしまうところが、市長の怖いところでもある。


「大丈夫。穴は埋めれば直る。空のルールは、埋めても戻ってこないからね」


 加奈が息を吸った。市長がこう言うときは、だいたい“もう決めた”の意味が含まれている。


「……市長。もしかして、ドラゴンに行政指導する気ですか」


「もちろん。ひまわり市の空域は、ひまわり市のものだよ」


「言い切った……」


 美月が小さく呻いたが、市長はもう窓から離れて歩き出していた。


「行こう。まずは“受付”からだ。相手が大きくても、手続きの入口は同じ」


 勇輝は、コーヒーを一口だけ飲み直してから、ファイルを抱え直した。

 朝の役所は静かで、だからこそ、非常識が入り込む余地も大きい。今日の非常識は、翼付きで、しかも礼儀正しそうだった。


◆市役所前・駐車場 午前


 玄関を出た瞬間、熱気が頬を撫でた。紅竜の身体が放つ熱だけで、空気が少し揺れて見える。

 しかし、近づくほどに、ただの“怖さ”だけではないものが混じってくる。香り。乾いた岩と、遠い火山の匂い。異界の空気だ。


 紅竜は、庁舎の前で、ゆっくりと首を下げた。動きが丁寧で、周囲にいる人間の距離を計っているのが分かる。威圧ではなく、配慮。


「我、竜族観光組合よりの使いなり。名は……クリムゾンドレイクと呼ばれておる」


 声が、胸の奥まで響いた。低く、重く、それでも荒々しくない。言葉の端に、律儀さがある。


 市長が名刺入れを取り出し、胸元で一度整えてから差し出す。相手の指が爪でも、やることは同じ、という顔で。


「ひまわり市長です。ようこそ。今日は“飛行許可証”の申請ということで」


「うむ。空を行くことは我らの誇り。ゆえに、貴市の“空の取り決め”もまた、誇りとして尊重したい」


 その言い方だけで、周囲の職員が少しだけ息を吐いた。話が通じる、という安心は、想像以上に大きい。


 勇輝が一歩前に出る。声を荒げず、しかし逃げない声で。


「飛行許可証……その、ドラゴンも“航空”の制度に従うんですか。正直、ここまで律儀だとは思ってませんでした」


 紅竜は目を細めた。怒ったわけではなく、質問の意図を確かめるように。


「空は自由だ。だが、自由であるほど、互いの翼がぶつからぬように“道”が要る。道を定める者があるなら、翼はそれを無視せぬ。……そう学んだ」


 加奈が、そっと頷く。

 その言葉の中に、竜族観光組合という組織の歴史が感じられた。空を飛ぶ者同士の事故だって、きっと何度もあったのだろう。


 市長が笑顔で言う。


「いいですね。うちの交通安全課、喜びます。空の道を作るの、たぶん好きです」


「市長、好き嫌いで仕事を増やさないでください。今日はまず“受理”から片付けたいんです」


「増やすんじゃない、整えるんだよ。整えておけば、慌てずに済むからね」


 ただ、問題が一つだけあった。

 紅竜が玄関の前に立つと、玄関のサイズが、どう考えても合わない。


 職員たちが視線を交わす。

 “中に入ってもらう”が無理なら、“外を受付にする”しかない。役所は、現場で形を変える。


 市長が即決した。


「じゃあ、臨時窓口を外に作ろう。玄関横の庇、あそこに机を出す。会議室はあとで、屋上か、駐車場にテントだ」


 美月がタブレットを構えながら、すでに記事のタイトルを頭の中で組み立てている顔になった。


「“ドラゴンも手続きは窓口から”。……いや、まずい。バズりすぎる」


「バズるかどうかは置いといて、混乱しない導線を先に」


 加奈がすぐに動く。庁舎内の連絡網へ、短い文を流す。


『臨時受付:駐車場側庇下。関係部署:交通安全課、観光課、施設管理。一般職員は見学に出ないこと(安全確保)』


 文章は短いのに、内容は優しい。見学に出ないで、は叱るためじゃなく、守るための言葉だ。


 勇輝は紅竜に向き直り、なるべく丁寧に、しかし曖昧にしないように言った。


「こちらの準備ができるまで、少しだけお待ちいただけますか。日陰を作ります。……あと、駐車場のへこみ、後で直しますので」


 紅竜は鼻先を少し下げた。


「承知。着陸の重みは、我の都合であった。貴市の地を傷めたのなら、詫びよう。……修繕に必要なものがあるなら言え」


 その一言で、施設管理の職員が遠くから「ほんとに言った……」という顔をしていた。補償の申し出を、ドラゴンから受ける日が来るとは思わない。


 市長が小さく手を振った。


「気持ちだけで十分です。代わりに、これから“安全に飛ぶ”を一緒に作りましょう」


 紅竜の瞳が、わずかに柔らかくなった気がした。


◆臨時受付・庇下 昼前


 折りたたみ机が二つ並び、上には「臨時受付 竜族飛行申請」と手書きの札が置かれた。誰が書いたか分からないが、最後の一筆だけ妙に力が入っている。

 その横で、交通安全課の滝本が、いつものように分厚いファイルを机に置いた。昔、陸運支局に勤めていたという噂の、“様式”に強い男だ。


 滝本は紅竜を一度見上げ、次に申請書を見た。眼鏡の奥の目が、すぐに仕事のモードへ切り替わる。


「では、申請の受付を開始します。まず、氏名……いえ、個体名称。次に、識別番号」


 紅竜は、あっさりと答える。


「名はクリムゾンドレイク。識別は……竜族観光組合の刻印が翼の裏にある」


 翼の裏、という単語に、美月のカメラが一瞬だけ反応しそうになり、加奈が肘でそっと止めた。広報にも、守るべき距離がある。


 滝本は頷き、淡々と続ける。


「個体番号欄は“刻印番号”として扱いましょう。次、年齢……」


「千五百年ほど。季節で言うなら春頃であった」


 滝本の手が一瞬止まり、ペン先が宙で固まる。だが、そこで絶望しないのが滝本だ。顔の筋肉が微動だにしないまま、別の紙を引き出した。


「では、生年月日は“推定”として申告。欄外に“暦不一致につき便宜上の記載”と注記します。役所は注記で戦う」


「戦うって言わないでください」


 勇輝が小声で言うと、滝本は聞こえたか聞こえなかったか分からない顔で、次の質問へ移った。


「翼幅」


 紅竜は、翼を少しだけ広げた。影が庁舎の壁を一瞬だけ覆う。


「およそ……三十と少し」


「単位が不明なので“メートル”でよろしいですか」


「うむ。貴市の単位に合わせよう」


 滝本が記入する。翼幅三十数メートル。書類の文字が急に現実味を帯び、周囲の職員が思わず背筋を伸ばす。


 次に滝本が口にしたのは、役所らしい、しかしこの場には少しだけ可笑しい項目だった。


「火気の使用有無」


 紅竜は、真面目な顔で答えた。


「火は吐ける。だが、吐かぬ」


「……吐けるけど吐かない、ですね。備考に“緊急時を除き不使用”と記載。緊急時とは……」


 滝本が顔を上げると、勇輝が先回りした。


「災害時の消毒、凍結解除、悪天候下の救助……あたりは協力いただけると助かります。ただし、必ず事前連絡。勝手にやると別の部署が慌てます」


 市長が横から補足する。


「その“別の部署”が、だいたい広報と議会です」


 美月が即座に頷いた。


「はい。勝手に火を吐かれると、記事のタイトルがすぐに“事件”になります」


 紅竜が小さく息を吐いた。煙ではなく、熱い風が流れるだけだ。


「承知。貴市の言う“連絡”とは、誇りを守る術でもあるのだな」


 滝本が次の紙を差し出す。ここからが、本題だった。


「飛行ルートの申請です。ひまわり市の空域を“観光飛行”として利用する場合、次の三つを定めます。高度、時間帯、そして通過区域」


 机の上に、地図が広げられる。人間の道路地図に、加奈が昨夜急いで引いた“空の線”が重ねられている。温泉街上空は観光ルート、学校上空は時間帯制限、役所と病院の上は緊急飛行専用の回廊。


 紅竜は地図を覗き込み、爪先で遠慮がちに指し示した。


「この線は、川沿いか」


「はい。落下物のリスクを考えると、最初は川沿いが安全です。万一の着陸も、河川敷なら広い」


「河川敷……あの、草の道か。良い。風が素直だ」


 加奈が、少し安心した声で言う。


「観光客にも説明しやすいです。川と温泉街を繋ぐルートなら、“見どころ”がはっきりしますし」


 美月はその言葉を逃さず、メモに落とす。行政の話を、ちゃんと“町の楽しさ”へ繋げる役目が、美月にはある。


 勇輝が地図の端を指で叩いた。


「ただ、ここだけ。商店街の上は、時間を区切りたい。日中は人が多いし、屋台の煙で視界が悪くなる」


 紅竜は頷く。


「ならば、夕刻以降の“夜景飛行”に回そう。翼は、夜の光に弱くない」


 市長がぱちんと指を鳴らした。


「夜景飛行、いいね。観光課、パンフ作れる?」


 勇輝が肩をすくめた。


「やめてください、市長。いま“書類”を片付けようとしてるところなんです。ルールを作らずにパンフだけ作ると、明日困ります」


「書類は片付ける。夢は増やす。両立できるのが自治体だよ」


 滝本が咳払いを一つして、話を戻す。戻せる人がいるのが、現場の救いだ。


「では、許可条件を確認します。第一、飛行高度は原則五百メートル以上。第二、学校区域上空は授業時間を避ける。第三、温泉街上空は湯気が濃い時間帯は速度を落とす。第四、緊急時の連絡先を定める。第五……」


 滝本が紙を一枚めくる。


「第五、着陸場所の指定。駐車場への着陸は……」


 全員の視線が、朝のへこみへ向いた。

 市長が軽く咳払いをして、笑ってごまかさない程度の真面目さで言う。


「次からは、河川敷か、温泉街裏の空き地にしてもらえると助かります。駐車場は、車が……あと、地面が」


 紅竜は、ゆっくり頷いた。


「了承。以後、貴市の“地面の事情”を尊重しよう」


 それは、妙に温かい言い方だった。

 地面の事情。役所の事情。町の事情。そういうものに気を配れる相手なら、話は進む。


 最後に、滝本が小さな箱を取り出した。中には、金属のプレートと、細い紐。プレートには、まだ刻印がない。


「これが“許可証”です。空から見ても、地上から見ても識別できるように。首ではなく、翼の根元に取り付けてください」


「翼に札を付ける……それが貴市の“証明”か」


 紅竜は、少しだけ誇らしげに言った。


「良い。誇りに誇りを重ねるのは、嫌いではない」


 美月が、思わず笑った。


「すごい……許可証が、なんかかっこいい」


 勇輝が、苦笑しながら言う。


「かっこいいけど、これ、全部“公文書”だからね。失くしたら再発行手数料が出るからね」


 紅竜が、きっぱり答える。


「失くさん。翼は、失くさぬ」


 こうして、受付は成立した。

 庁舎前の庇下で、ドラゴンの飛行申請が、普通に受理されたのだ。


◆庁内・即席の制度設計 昼過ぎ


 臨時受付で最低限の申請が受理できたところで、勇輝たちはいったん庁舎内に戻った。

 戻った、と言っても、紅竜は玄関から入れない。代わりに、玄関ホールの扉を開け放ち、外の庇下と中のカウンターを“ひとつの窓口”として繋いだ。

 受付の職員が走り回り、コピー機が唸り、庁内放送がいつもより一段だけ丁寧な声になる。


『本日、庁舎前に竜族観光組合の来訪があります。安全のため、業務上必要のない職員は窓際に集まらないようお願いします』


 最後の「窓際に集まらないよう」が、いかにも切実だった。


 会議室では、滝本が机を叩くわけでもなく、しかし迫力だけは十分に放ちながら言った。


「制度は、今日この瞬間に必要です。明日作る制度は、明日困る人を救いますが、今日困っている人は今日しかいません」


 いつもより少しだけ熱い。滝本が熱いときは、だいたい“様式が足りない”ときだ。


 市長が頷き、ホワイトボードに大きく書いた。


【暫定:ひまわり市 空域運用ルール(竜族観光)】


「まず“空”を、道路と同じように考えよう。通学路があるなら、空にも通学上空がある。救急車ルートがあるなら、空にも緊急飛行のルートが要る」


 勇輝が手元のメモを見ながら、現実側の要素を積み上げていく。


「規制って言うと反発されやすいので、表現は“お願い”に寄せたいです。だけど、お願いだけだと守られない。だから、“お願い+許可証+安全講習”の三点セットでいきましょう」


 加奈がすぐに整理する。


「観光客向けは、パンフと掲示で。竜族向けは、組合経由で伝達。町民向けは、広報と回覧板。あと、苦情窓口の一本化。影が落ちる、風が強い、洗濯物が飛ぶ、家畜が驚く……そのあたり、今後必ず来ます」


 美月が、苦情という単語にだけ反応したように顔を上げる。


「来ますね。絶対来ます。……でも、来るなら先に“よくある質問”を作っちゃった方が勝ちです。『ドラゴンが飛ぶときのお願い』『洗濯物は室内干し推奨』『窓を閉めるタイミング』って、生活の言葉で」


「生活の言葉、いいね」


 市長が言うと、勇輝は頷きながらも、少しだけ顔をしかめた。


「生活の言葉にすると、逆に“守るべきライン”がはっきりするんですよね。曖昧な“気をつけて”より、具体的な“この時間帯は避けて”の方が、相手も動きやすい」


 滝本が、ここで一枚の様式を出した。紙の上には、すでに番号が振られている。


「申請書は、ひま-27号として整理します。名称は“竜族観光飛行申請書(暫定)”。欄は増えますが、最初から増やしておいた方が後で楽です。あと、チェックボックスを多めに」


 美月が思わず笑った。


「チェックボックスって、世界を救うんですね」


「救います。少なくとも、役所の夜更かしは減らします」


 そのやり取りの間にも、電話が鳴っていた。

 総務課が受けた市民からの問い合わせが、次々と転送されてくる。


『さっき空が暗くなったけど、日食ですか』

『駐車場に赤いのがいるけど、イベントですか』

『子どもが見に行きたいって言ってるんですけど、近づいて大丈夫ですか』


 加奈が一本ずつ、落ち着いた声で返す。


「はい、来訪は事実です。ただし、見学は危険ですので距離を取ってください。市としても安全確保の上で対応しています。……はい、撮影は構いませんが、庁舎敷地内の立ち入りは禁止です」


 その隣で、美月が自治体公式の短い告知文を作っていた。短いけれど、言葉は硬すぎない。


『本日、竜族観光組合より来訪があります。市内の空域運用に関する協議を行っています。安全確保のため、庁舎周辺では職員の誘導に従ってください。見学目的の接近はご遠慮ください』


 勇輝は、その文章を見て、少しだけ肩の力を抜いた。

 こういうとき、美月の“言葉の速さ”は、町を守る速さになる。


 市長が最後にまとめた。


「よし。今日のゴールは三つ。暫定ルールを作る。許可証を発行する。町民の不安を増やさない。……そして、可能なら、観光の芽も潰さない」


「最後の一個が、市長の本音ですね。そこは隠さないんだ」


「本音だよ。だって、町は生きてるから」


 滝本が時計を見て、淡々と立ち上がった。


「では、テスト飛行に移ります。安全講習は、飛びながらやります。現場で覚える方が、だいたい早い」


 勇輝は苦笑しつつ、ペンを握り直した。

 今日の役所は、空に向かって仕事をする。


◆市役所屋上・臨時管制 午後


 青空の下、屋上は臨時の管制塔になっていた。

 双眼鏡、無線機、魔導端末、そしてなぜか段ボールで作った簡易の“風向き旗”。誰かが「こういうの、あると気分が出る」と言ったらしい。気分で仕事をするのは良くないが、気分で守れるものもある。


 加奈は端末を握り、画面の数字を一つ一つ読み上げる。


「高度、四百八十……五百。速度、時速百二十前後。風向き、北東。通信リンク、安定」


 勇輝は屋上の縁から空を見上げ、思わず肩の力を抜いた。


「……意外と、ちゃんと飛ぶな。って言い方は失礼か。こっちは地上の常識しか知らないから、つい」


 紅竜が、屋上の少し先からゆっくり翼を広げる。大きいのに、暴れない。風を切るというより、風と一緒に動いている。


『ひまわり市の空、清し。風、甘く、人の気配に温もりあり』


 無線越しの声が、詩みたいに聞こえた。

 市長が、目を潤ませそうな顔をして言う。


「観光大使、向いてる。うちの空に、言葉が似合う」


 美月はカメラを構え、連写する。シャッター音が小気味よく続き、仕事の速さが本領を発揮し始めている。


「これ……素材が強すぎる。編集する私が負けそう」


「負けなくていい。勝たなくていい。ちゃんと伝えてくれれば、それで町は助かる」


 勇輝がそう言うと、美月は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑って頷いた。


 紅竜は、川沿いに沿って大きな弧を描く。翼の影が市庁舎を横切り、地面に一瞬だけ夜のような陰を落とす。その陰が消えると、またいつもの昼が戻る。

 ただ、戻った昼は少しだけ違って見えた。空が“町の一部”になったのだ。


 加奈が無線に向かって言う。


「クリムゾンドレイクさん、次、温泉街上空に入ります。湯気が濃いので速度落としてください。見学の方が多いです」


『承知。翼を、ゆっくりにする』


 その返事を聞いて、滝本がぽつりと言った。普段は感想を言わない男が。


「……相手が誰でも、ルールは通じるものですね」


「通じさせるために、言葉を選ぶのが役所ですから。相手が大きいほど、こっちの説明も丁寧にしないといけない」


 勇輝の返しは、少しだけ自分に言い聞かせているようでもあった。


◆役所前・着陸と交付 夕方


 テスト飛行のあと、紅竜は河川敷に着陸した。今度は地面がへこまない場所だ。草が揺れ、土が少し舞っただけで済む。近くで見ていた子どもたちが、遠巻きに拍手した。

 拍手は、怖さを追い払うには案外よく効く。


 役所前に戻ると、滝本が証書を掲げた。厚紙の書類に、金色の印。ひまわり市章と、“竜族観光飛行許可証”の文字。


「これにて正式発行。許可期間は一年。更新は、原則、事前申請。飛行ルート逸脱の場合は……」


 滝本が視線を落とし、淡々と告げる。


「行政指導、及び罰金。金額は五万円。……ただし、緊急避難は除く。緊急の場合は報告を」


 紅竜は、ゆっくり頷いた。


「心得た。翼は誇り。誇りは、約束を破らぬ」


 加奈が、そっと笑う。


「守るためのルールって、飛ぶための力になるんですね」


 勇輝も頷き、静かに言った。


「止めるためじゃなく、続けるために作るのが、うちのルールだよ。続けるから、観光にもなるし、暮らしにもなる」


 市長が、満足そうに腕を組む。


「よし。次は、看板とパンフと、緊急連絡網の整備だ。観光課と防災課、あと広報。……あ、予算案も作ろう」


「市長、勢いがあるときに予算の話を挟まないでください。職員が現実に戻っちゃう」


「戻らないといけないよ。夢は、現実の上にしか立たない。だから現実を整えるんだ」


◆展望台・夜


 仕事がひと段落したころ、勇輝は高台の展望台へ行った。ここは、温泉街と商店街と、川沿いの光が一度に見える場所だ。

 街灯の列は、川のように伸びていて、今日はいつもより少しだけ明るく見えた。気のせいではない。空に“目印”が増えたから、地上の光も輪郭を持つ。


 紅竜は、そこにいた。巨体は闇に溶けるはずなのに、鱗の赤が夜景に反射して、景色の一部みたいに馴染んでいる。

 勇輝が近づくと、紅竜は首を少しだけ傾けた。


「人の作る光は、静かだな。燃えず、焦がさず、ただ道を示す」


「街灯って、そういうものです。誰かの帰り道のための光で、派手じゃないけど、なくなると困るやつ」


 紅竜は夜景を見下ろし、ゆっくり言った。


「我らの時代には、空は暗かった。暗い空は、翼を強くする。だが、強さだけでは足りぬ夜もある。……この町の光は、強さとは別の力だ」


 勇輝は、少しだけ笑った。


「別の力、って言い方は好きですね。こっちも、翼はないけど、別の力でやってます。たぶん、毎日の積み上げです」


「それが“行政”か」


「そう。行政は、飛べない代わりに、道を引く。……書類で」


「書類で道を引く。面白い。翼で風を読むのと、似ておるな」


 その言葉に、勇輝は妙に救われた気がした。

 異世界に来てから、仕事が増えたとか、想定外が多いとか、そういう嘆きはたくさんあった。

 でも、誰かがそれを“意味のあるもの”として言い換えてくれると、肩の力が少しだけ抜ける。


 紅竜が、夜空を見上げた。


「この町の空を、しばらく守ろう。貴市の許可証は、我の翼に似合う」


「ありがとうございます。……似合うって言ってもらえると、役所の仕事も報われます。たぶん明日から、問い合わせが増えますけど」


 紅竜は小さく息を吐き、少しだけ冗談みたいに言った。


「ならば、次は“空の観光祭”を開こう。翼と、地上の光を合わせる祭だ」


「空の観光祭……市長が聞いたら、すぐ企画書を作りそうだな」


「作るであろう。あの者の目は、空を見ておる」


 勇輝が苦笑した、そのとき、下の温泉街から花火が一発だけ上がった。

 異界祭の余韻か、誰かの誕生日か。理由は分からない。

 だが、ひまわり色の光が夜空で咲き、川面にも、鱗にも、少しだけ映った。


 紅竜は、その光の中を翼でゆっくりくぐるように身を起こした。

 翼の端が夜風を切り、花火の残り香を散らしていく。


「小さな光で、空が変わる。……この町は、そういうことをするのだな」


「派手じゃなくても、続けていけば、景色は変わりますから。今日は、空の道がひとつ増えただけでも十分です」


 勇輝の言葉に、紅竜は一度だけ頷いた。


 下では、誰かが「きれい!」と声を上げ、別の誰かが「明日も仕事だよ!」と笑っていた。

 騒がしさと、落ち着きと、日常が混ざった音。

 空の上にも、地上にも、同じリズムが流れている気がした。


 こうして、ひまわり市は“空の行政”に一歩踏み出した。

 飛べる者と、飛べない者が、同じ空を扱うために。

 許可証はただの紙ではなく、町が町であり続けるための、小さな約束になった。


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