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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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15/2308

第15話「異界温泉と湯けむり協定」

◆朝・ひまわり温泉郷


 山間に朝霧がゆっくり満ちていく。川沿いの温泉街は白い蒸気に包まれ、木造旅館の軒先から立ちのぼる湯気が、のぼり旗の赤や黄色をふわりと滲ませていた。

 通りの入口には、手書きの案内板がいくつも増えている。


『異界開通記念・温泉まつり』

『本日の混雑状況:大変にぎわっています/譲り合ってご利用ください』

『足湯の湯の花は持ち帰りできません(販売所があります)』


 最後の一枚だけ、墨が新しい。書いたのはたぶん、今朝だ。


 観光案内所の前で、加奈は両手いっぱいにパンフレットを抱えながら目を丸くした。紙の束はずしりと重いのに、表情は軽い。わくわくと不安が、同じ顔の中で同居している。


「見てください勇輝さん。今日は本当に、通りが……歩く場所が足りないくらいです」


 視線の先には、通りを埋め尽くすように流れる旅人たち。耳が長く、髪色は銀、淡金、翡翠、夜の森のような深緑まで混ざっている。衣装も様々で、薄い外套の者もいれば、織物のローブを重ねた者もいる。けれど、共通しているのは目だ。

 みんな、湯けむりを見上げる目がきらきらしている。


 勇輝は、思わず息を吐いた。驚きの息と、現実の息が半々だ。


「……全員、耳が尖ってる。いや、もちろん知ってるんだけど、こう……数で来られると、風景が一気に変わるな」


 隣で微笑むマルコが、誇らしげに胸を張る。今日は商人の顔というより、案内役の顔をしていた。


「エルフ界では『湯に浸かる』文化が希少でね。水は水でも、森の泉は冷たいし、長居すると身体がこわばる。ところが、この町の湯は違う。温かいのに、息苦しくない。肌が柔らかくなる水だと噂が回った」


「噂の回り方が速いな……」


 勇輝が言うと、マルコは肩をすくめた。


「森で暮らすと、情報は鳥と風で飛ぶ。噂は『良い匂い』がついている方が強い。温泉はその点、最強だ。湯気だけで勝ってしまう」


 その会話の後ろから、市長が駆け寄ってきた。足取りが軽く、バインダーを抱えた腕も軽い。声も弾んでいる。


「加奈さん、勇輝くん、見た? 今朝の宿泊受付、昨日の同時間の三倍だって。旅館の人たち、目が輝いてたよ」


「輝いてるのはいいんですが、市の水源、持つんですかこれ。湯量って『気合い』で増えませんよね」


 勇輝が落ち着いた声で釘を刺すと、市長は頷きながらも笑みを崩さない。


「もちろん、増えない。だからこそ、今日は“楽しい日”と同時に“整える日”。観光と資源管理、どっちも外さない」


 その言い方が、珍しく行政っぽい。市長が嬉しいときほど、言葉の芯が真面目になる。


 美月は少し離れたところで、タブレットを抱えたまま立ち尽くしていた。画面に視線を落とし、指が高速で動く。たぶん、公式アカウントの状況確認だ。


「美月、大丈夫? 顔が……仕事の顔になってるけど」


 加奈が声をかけると、美月は顔を上げ、笑っているのに目が笑いきっていない。


「だいじょぶ……って言いたいんですけど、今この瞬間もアクセスが増えてます。異界魔導ネットの拡散速度、こっちの想定より二段階上。サーバーの係、起きてるかな……起きてて……」


「祈りが急に現実的」


 勇輝がぽつりと言うと、市長がさっと割って入った。


「予算の話、後でするよ。今日は落とせない日だ。落ちるのは湯だけで十分」


「縁起でもない言い方しないでください」


 加奈が即座に止め、三人の視線が自然と足湯コーナーへ向いた。


 足湯の縁には、白いふわふわとしたものが浮いている。湯の花だ。普段なら「ほわっとしてるね」で終わる景色が、今日は違う意味を持っている。

 エルフの若い旅人が、しゃがみこんで瓶を取り出した。透明な小瓶。中には、すでに少し白い欠片が入っている。


「お、お客様……それは……」


 案内所の臨時スタッフが困って声をかけるより早く、加奈が前に出た。声は柔らかいのに、距離はしっかり守る。相手の手元に触れない位置で止まり、目線を合わせる。


「すみません。湯の花は、湯の成分の一部で、ここでは持ち帰りをご遠慮いただいているんです。代わりに、組合の販売所でちゃんと加工されたものを用意しています。お土産にするなら、そちらが安心ですよ」


 エルフの旅人は驚いた顔をし、そして恥ずかしそうに瓶を隠した。


「禁じられているのか。知らなかった。『森の香りを持ち帰る』のと似ていると思っていた」


 マルコがすぐに補足する。


「森の香りは減らないが、湯の花は減る。減るものを持ち帰るには、取り決めがいる。人の町はその取り決めが得意だ」


 得意、という言葉に、美月が小さく笑った。


「得意っていうか……放っておくと、明日困るから、今決めるしかないだけなんですけどね」


 勇輝がスタッフに目配せする。


「案内板、もう一枚増やしましょう。言葉は優しく、でも意味ははっきり。あと、多言語で。マルコ、短く訳せる?」


「任せて。『湯の花は湯の息。持ち帰りは販売所で』。これなら伝わる」


 市長が頷き、加奈に言う。


「加奈さん、組合会館に連絡して。いまの動き、すぐ広がる。こっちの対応が一拍遅れると、町の雰囲気が荒れる」


「はい。すぐに」


 加奈はパンフレットの束を抱え直し、走らず、しかし迷いなく動いた。走ると周りをぶつける。混雑の中での移動は、技術だ。


◆昼・温泉組合会館


 昼になっても温泉街の熱は引かなかった。むしろ、湯気に混じる話し声が増え、通りの空気そのものが賑やかさを帯びている。

 温泉組合会館の扉が開いたとき、勇輝は「来るな」と思った。役所で鍛えた予感は、当たるときほど静かだ。


 現場責任者の古市支配人が、顔を赤くして駆け込んできた。額に汗。背広の襟元が少し湿っている。客の対応で走り回ったのが見て取れる。


「市長! 湯の花が、湯の花が足りません。あの、耳の長いお客様方が……瓶詰めにして持ち帰ってまして!」


 言い切った瞬間、古市支配人は「言っちゃった」という顔になった。責めたいわけじゃない。ただ、現場が崩れそうなのだ。


 市長は一度だけ瞬きをしてから、ゆっくり息を吐いた。


「瓶詰め……。それ、売ってるの? それとも……」


「足湯から、です。露天の縁からすくう方もいる。『白い雪みたいでかわいい』って。かわいいのはいいんですが、湯の花は泉質のバランスそのものです。減ると、湯が軽くなる」


 加奈が頷き、古市の言葉を受け取る。


「このままだと、湯が“売り”じゃなくなる。温泉街としては、笑えないですね」


 勇輝は机の上に広げられた帳簿を見た。入湯客数、湯量、湯の花の回収量、浴槽の清掃頻度。数字が並ぶ。数字は嘘をつかないし、嘘をつかないから怖い。


「今日だけで、このペース。明日も続いたら、回復が追いつかない。しかも、これが“悪意”じゃなくて“お土産感覚”だとすると、注意の言い方を間違えると反発が出る」


 美月がタブレットを置き、珍しく真面目な声で言う。


「だから、広報で先に言葉を整えたいです。『禁止』って言うと一気に壁になるので、『守るためのお願い』にします。たとえば……『湯の花は温泉の調子を整える大切な成分です。町の湯を長く楽しむために、採取はご遠慮ください』みたいに」


 古市支配人が眉を下げた。


「それで止まるといいんですが……皆さん、熱量がすごくて。湯の花を見つけると、宝石でも拾ったみたいな顔をするんです」


 マルコが困ったように笑う。


「エルフは“白いもの”に弱い。森の月光、花の蜜、冬の霜。湯の花はその全部に似ている。持ち帰りたい気持ちは分かる。分かるが、分かるだけでは湯は守れない」


 市長が頷き、会議室のホワイトボードに書いた。


【課題:湯の花の持ち去り(悪意ではなく、文化差・お土産感覚)】

【影響:泉質の変化、浴槽管理負担増、風評リスク】

【必要:ルール化+説明+代替手段】


 勇輝が指を折りながら言う。


「対策は三段階でいきましょう。まず現場の負担を下げる“即効”。次に、お土産需要を受け止める“代替”。最後に、異界の側とも共有できる“約束”。この順番なら、角が立ちにくい」


 加奈が即効案を出す。


「足湯と露天の縁に、見回りスタッフを増やします。注意の台詞も統一して、責める言い方は避ける。あと、瓶や袋を見つけたら、売店への誘導に変える」


 美月が代替案を続ける。


「“湯の花を持ち帰りたい”をゼロにするのは無理です。だったら、組合と一緒に公式商品にします。瓶詰めじゃなくて、石けん、入浴剤、香り袋。『温泉街が責任を持って加工したもの』として出せば、欲しい人はそっちを買う。買うなら税収にもなるし、資源の保全基金に回せます」


 古市支配人が、少しだけ顔色を戻した。


「……作れます。湯の花は、清掃で回収した分もありますし、加工ラインは旅館の共同作業場で。問題は、誰が“公式だ”と保証するかで」


 市長がすぐに言う。


「市が保証する。保全基金も作る。名前も決めよう。『湯の花守りの会』とか……」


「市長、ネーミングは後で。先に、法的根拠の形を作ります」


 勇輝がやんわり止めると、市長は「はいはい」と頷いた。止められるのも、役所の呼吸だ。


 マルコが顎に手を当てる。


「最後の“約束”は、難しいね。エルフ界の旅人に、町の条例は効きにくい。『守るべき理由』を、向こうの言葉で渡す必要がある」


 加奈がふと、温泉街の奥を思い出すように言った。


「……温泉神社。あそこ、湯気の流れが違う気がします。昔から“湯を守る神さま”がいるって、旅館の人が言ってました」


 古市支配人が即座に頷いた。


「います。正直、普段は静かなんですが、湯が荒れると……空気が変わる。昔、採取がひどかった時期に、一度だけ“叱られた”って話も」


 美月が小さく息を呑む。


「神さま相手に、役所の説明って通じるんですか……?」


 勇輝は一拍置いてから言った。


「通じるかどうかじゃなくて、通じる形に整えるのが、こっちの仕事だよ。行こう。協定が必要なら、協定を結ぶ。相手が神さまでも、約束は約束だ」


 市長が頷き、いつもの明るさを少しだけ抑えた声で言う。


「湯が守れない温泉街は、町の顔が曇る。今日は、ちゃんと“守り方”を作ろう」


◆午後・温泉神社(湯けむりの奥)


 温泉街の奥、湯気に包まれた石段を登ると、古びた鳥居が静かに立っていた。木の色は長い年月で灰に近く、けれど朽ちてはいない。足元の石は湿っているのに滑らず、誰かがずっと手入れしているのが分かる。

 鳥居をくぐった瞬間、空気の温度が変わった。温かいのに、肌にまとわりつかない。湯気が“水”ではなく“気配”に近い。


 勇輝、加奈、美月、そしてマルコが、言葉を少なくして進む。

 神域で大声は似合わないし、何より湯気が音を吸い取ってしまう。


 社の前に立ち、加奈が深く一礼した。美月も真似をする。勇輝は少し遅れて頭を下げ、手を合わせた。役所の人間が神社に来るとき、形式はむしろ助けになる。何を言えばいいか迷う前に、やることが決まっているからだ。


 湯気が、ふわりと渦を巻いた。

 白いヴェールが一か所に集まり、人の輪郭に変わっていく。湯の流れが、言葉になるように。


 そこに現れたのは、透きとおる湯をまとった女神のような存在だった。

 肌は湯の光を帯び、髪は湯気が形になったように揺れる。足元は地面に触れているのに、濡れていない。


「人の町よ。湯を乱す者を、放っておくでない」


 声は静かだった。静かだからこそ、耳の奥まで届く。

 加奈が息を呑み、背筋を伸ばす。


「湯は大地の息。命のめぐり。奪えば、町は枯れる。湯は怒らぬが、黙って痩せる」


 美月が、思わずタブレットを抱き直した。撮るのではなく、守るように。

 勇輝は一歩前に出た。目を逸らさず、しかし睨まない目で。


「湯津比売さま、ですね。温泉神として、この湯を見守っている。……お話は理解しました。湯の花の持ち去りが増えて、泉質に影響が出る。だから、共通のルールが必要だと」


「左様。湯けむりの協定を結べ。人と異界とが湯を分かち合うなら、分かち合う作法がいる」


 マルコが一歩だけ前に出て、丁寧に頭を下げた。


「湯津比売さま。エルフの旅人は、湯の花を“森の贈り物”と似たものと誤解している。悪意は薄い。だが、誤解は湯を削る。ならば、誤解を解く言葉と、守る約束が必要だ」


 湯津比売の視線が、マルコに向いた。

 次に、加奈へ。加奈は迷わず頷き、言葉を繋ぐ。


「私たちは、観光で町を元気にしたい。でも、元気にするために湯が痩せたら、長く続かない。だから、湯を守りながら、みんなが楽しめる形にしたいです。……協定、結びます」


 湯津比売は、ほんの少しだけ表情を和らげた。優しくなった、というより、見定めが一段階終わった感じだ。


「ならば、記せ。言葉は、湯の流れと同じ。乱せば濁る。整えれば澄む」


 社の脇に置かれていた巻物が、勝手にひらいた。紙というより、薄い布に近い。そこに、湯気の粒が集まり、文字を形作っていく。筆も墨もないのに、読みやすい字だ。役所の文書のように整っているのが、妙に可笑しい。


 勇輝が思わず、口元だけで笑った。


「神さまの協定書、読みやすい……ありがたい」


 湯津比売が、少し首を傾けた。


「読めぬ協定は、守れぬ。守れぬ約束は、ただの音だ」


 美月が小さく頷いた。


「……SNSで読めない文章、炎上しますもんね。読めるの、正義」


 加奈が肘でそっと美月をつつく。「今は真面目な場だよ」と言わなくても伝わる程度の、やさしい合図だ。


 巻物には、条項が並んでいく。


『第一条 湯の花は湯の調子を整える成分であり、資源として守る』

『第二条 採取は、組合が回収した分に限り、加工販売の形でのみ認める』

『第三条 足湯・露天等の施設からの持ち帰りを禁ずる(違反は退去・以後の利用制限)』

『第四条 保全のため、売上の一部を湯守り基金に充てる』

『第五条 異界の旅人にも理解できる言葉で周知し、誤解の解消に努める』


 勇輝は、第四条のところで頷いた。基金。制度の背骨になる。

 市長がここにいないのが惜しいが、あとで見せれば喜ぶ。喜びそうな顔が浮かんでしまうのが、悔しい。


 最後に、巻物が止まった。余白が一行分だけ残っている。


 湯津比売が言った。


「最後は、印だ。そなたらの“印”を押せ。湯は紙よりも、人の姿勢を読む」


 勇輝が少し困った顔になる。印鑑、という意味なら役所にはある。しかし、神域に市の公印を持ち込むのは妙に大げさだ。


 加奈が小さく手を挙げた。


「市章のスタンプなら、持ってきています。案内所のパンフに押す用に……」


 美月が「さすが加奈さん」と目で言った。加奈は必要なものを、必要になる前に持っている。


 加奈が取り出したのは、市章が彫られた小さなスタンプだった。インクではなく、押すと金色の粉がふわっと浮く仕様。異界転移後に、ドワーフ商会から買ったやつだ。

 加奈が巻物の余白にそっと押すと、金色の市章が浮かび、湯気の文字と馴染んでいく。


 湯津比売は、静かに頷いた。


「よい。これで、湯けむりの協定は結ばれた。守れ。守れば、湯は応える」


 その言葉と同時に、勇輝と加奈の手の甲がほんのり温かくなった。淡い紋章が浮かび、すぐに消える。焼けるような熱ではない。湯に浸かったあとの、身体の芯が落ち着く温度だ。


 美月が、小さく息を吐いた。


「……これ、説明するとき、どう言えばいいんでしょう。『神さまが承認しました』って」


 勇輝は首を傾け、少しだけ笑った。


「言い方は工夫しよう。『温泉神社の協力を得て、資源保全のルールを整備しました』。嘘じゃない」


 マルコが頷く。


「それなら、エルフにも伝わる。神を“権威”として押しつけるのではなく、守る理由として置ける」


 湯津比売が最後に言った。


「言葉を柔らかくしても、芯は曲げるな。湯は、曲がった言葉を嫌う」


 勇輝は深く頭を下げた。


「はい。守ります。町の湯を、今日だけじゃなく、明日もその先も」


◆夕方・温泉街広場(締結式)


 温泉街中央の広場には、地元住民と異界の客が入り混じっていた。提灯が揺れ、屋台からは甘い香りと香ばしい香りが混ざって流れる。

 “温泉まつり”という言葉が、今日はいつもより現実味を持っている。観光イベントであり、同時に行政の節目だ。


 仮設の壇上には、勇輝、加奈、市長、マルコ、古市支配人。

 そして、湯津比売は姿をはっきり出さず、湯気の流れとして広場の端に佇んでいた。見える人には見えるし、見えない人にも「なんか空気が違う」と分かるくらいの存在感。


 市長がマイクを取る。いつもの調子で明るく、でも今日は言葉がちゃんと丁寧だ。


「みなさん、ようこそひまわり温泉郷へ。今日は嬉しいニュースと、大事なお知らせを一緒にお届けします。嬉しいニュースは、見ての通り。この町の湯が、異界の皆さんにも楽しんでもらえていること。大事なお知らせは、楽しむためには“守り方”が必要だということです」


 ざわめきが、少し落ち着く。

 市長は続ける。


「温泉の湯の花は、見た目がきれいで、お土産にしたくなる気持ちは分かります。でも、あれはこの町の湯を支える成分です。たくさん持ち帰ると、湯の調子が変わってしまう。だから、今日から“湯けむり協定”を結びました」


 マルコがすぐに異界語へ言い換える。短く、分かりやすく、怒らない言葉で。

 エルフたちは頷き、耳がふわりと揺れる。理解のサインが、身体の動きに出るのが分かりやすい。


 勇輝が協定書の要点を読み上げる。役所の読み上げは固くなりがちだが、今日は少しだけ柔らかくする。相手は住民であり観光客であり、異界の隣人だ。


「採取は禁止、というより、施設から持ち帰らないでください。代わりに、温泉組合が回収して加工した公式商品を販売します。売上の一部は、湯を守るための基金に入れます。つまり、買ってくれた人も“湯守り”の仲間になります」


 古市支配人が一歩前に出て、深く頭を下げた。


「旅館としても、泉質を守るのは生活そのものです。皆さんに長く楽しんでいただくために、どうかご協力ください。……あと、公式商品、けっこう自信あります。香り袋、いい出来です」


 最後の一言で、笑いが起きた。

 堅い話の中に、現場の温度が混ざると、空気がほどける。


 美月は壇上の横で、配信のコメント欄を見ながら必死に頷いていた。画面には、いろんな言語の反応が流れる。


『ルールがあるの、安心』

『公式が出すなら買う』

『湯守り基金って何、それ良い』

『温泉神社、雰囲気すごい』


 美月は小声で呟く。


「炎上じゃない……今日はちゃんと、いい流れ……」


 加奈が横から笑う。


「美月、もう少しだけ肩の力抜いて。今日は“守れた日”だよ」


「抜きたいですけど、コメントが速い。速いってことは……人が見てるってことだから……うん、嬉しいんですけど」


 市長が杯を掲げる。中身はもちろん、温泉街の名物、甘酒の冷やし版だ。異界の人にも飲みやすいように調整したもの。


「では、乾杯。異界と人界、湯けむりのもとに、楽しく、長く。みんなで守って、みんなで楽しみましょう」


「カンパーイ!」


 声が山に反射して広がり、提灯の灯りが揺れる。

 その瞬間、湯の花が花火みたいに空へ舞った。虹色の湯気が一筋、夜空に弧を描く。派手すぎない。けれど、記憶に残る。


 美月が、顔を上げたまま言った。


「……これは、勝手に観光資源になるやつだ」


 勇輝が苦笑する。


「勝手に、って言うな。今日のところは“協定のご褒美”ってことにしとこう」


 マルコが、湯気の弧を見上げて目を細めた。


「湯は、守られると機嫌がいい。森の木と同じだね」


◆夜・露天風呂(静かな湯)


 式典の後、加奈と美月は、温泉街の少し奥にある小さな露天へ入った。混雑の中心から外れた場所で、風が通り、星が近い。

 湯面に映る夜空が揺れ、遠くの広場からは笑い声が薄く届く。近くの竹がさらさらと鳴り、その音だけで時間がゆっくりになる。


 加奈が肩まで浸かり、ふう、と息を吐いた。今日一日の汗と気持ちが、湯にほどけていく。


「忙しかったですね。でも……楽しかった。役所の仕事って、書類だけじゃないんだって、また思いました」


 美月は湯に顎を少しだけ沈め、天を仰いだ。目の下にうっすら疲れはあるのに、笑い方は晴れている。


「今日の私は、配信とコメントと翻訳と、たぶん人生で一番“湯の花”って単語を打った日でした。文字を打つだけで、湯が守れるなら、いくらでも打つけど」


「守れたよ。美月の言葉が、あの場の雰囲気を作った。『禁止』じゃなくて『守るため』って、ちゃんと届いてた」


 加奈が言うと、美月は少し照れたように湯面を指でなぞった。


「届いたのは、みんなが同じ方向を向いてたからですよ。現場の旅館の人たちも、マルコさんも。市長も、珍しく言い切りが優しかったし」


「珍しくって言わないで。市長は、嬉しいときほど真面目になるから」


「それは分かる。分かるんですけど……真面目になった市長、たまに怖い。勢いで“次の企画”を生やすから」


 加奈がくすっと笑った。


「でも、企画が生えるのは、町が元気になってる証拠でもあるよ。生やすなら、ちゃんと根っこを守りながら」


「根っこ。今日で言うと、湯の根っこは湯の花……って、言い方かわいいな」


 美月が笑い、湯気がその声を柔らかく包む。


 そこへ、湯気がふわりと流れ、耳元に微かな声が乗った。

 湯津比売のものだ。叱る声ではない。見守る声。


『忘れるな、人の子よ。湯は心を映す鏡なり。欲で濁せば、町の顔も曇る。守る心で澄ませば、笑いは長く続く』


 美月は湯面を軽く叩き、星空を見上げた。


「はいはい。明日も、協定の周知ポスター作りますよ。『湯の花は持ち帰りできません』じゃなくて、『湯を守るお願い』って書きます。……たぶん、明日の自分が感謝する」


 加奈が目を閉じ、湯の温かさを確かめるように言った。


「明日の自分に優しい仕事、いいね。町にも、異界の人にも、優しい」


 少しの沈黙。

 湯気の向こうで、夜の山が黒く静かに立っている。温泉街は賑やかなのに、ここだけは落ち着いている。

 加奈はその静けさを味わうように、ゆっくり言った。


「“湯けむりの町”って、やっぱりいい響きだね。湯気は見えない壁じゃなくて、境界を柔らかくするものみたい」


「境界を柔らかくする……それ、記事の締めに使いたい。加奈さん、言葉がずるい」


「ずるくないよ。今日そう思っただけ」


「じゃあ、明日もそう思えるように、私は明日も文字を打つ。……温泉で誓うの、ちょっと格好いいかも」


 加奈が笑った。


「誓うなら、湯気に溶けるくらいで。大げさじゃなくて、続ける感じで」


「うん。続ける感じ、得意。だって、広報ってそういう仕事だし」


 湯面が揺れ、星が揺れた。

 湯が守られ、町が守られ、楽しさが続く。今日の協定は、そのための小さな背骨になったのだと思う。


 湯気がふわりと流れ、温泉街の灯りが遠くで瞬いた。


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