第1225話「想定外は想定内:研修旅行シミュレーション訓練」
◆朝・ひまわり市役所 多目的ホール
庁舎の多目的ホールに入った瞬間、勇輝は足を止めた。
視界の中にあるのは、会議でも展示でもなく、どう見ても“国境ごっこ”の準備である。
壁際に並ぶ貼り紙が、ありえないくらい堂々としていた。
「ここから先:アスレリア王国(仮)」
「ここから先:天空国アルセリア(仮)」
「ここから先:魔王領ガルドネア(仮)」
「ここから先:妖精界(仮)」
ぜんぶ“仮”。
なのに、文字の太さと貼り方が本気だ。
貼った人の「ここで間違えたら現地で詰む」という緊張まで、紙から伝わってくる気がする。
入口の正面には、さらにでかい注意書きが掲げられていた。
研修旅行 予行演習(庁内訓練)
※笑っていいのは失敗が判明するまで。
※失敗が判明したら原因分析。
※原因分析が終わったら改善策。
※改善策が終わったらもう一回。
「……最後、永久機関みたいになってません?」
勇輝が思わず口にすると、隣の加奈が腕を組んで頷いた。
笑っているのに、目が真面目だ。喫茶ひまわりの看板娘の顔というより、町の中で一番“住民の空気”を掴んでいる人の顔になっている。
「でも、こういうのって大事だよ。現地で“しまった”ってなるより、ここで一回でも“しまった”を出しておいた方が、あとが楽だもん」
「それは、まあ……そうだな。楽って言い方は違うかもしれないけど、助かるのは確かだ」
ホールの中央には長机がいくつも並び、訓練用の小道具が整然と置かれている。
整然としているのが逆に怖い。役所は、こういうときだけ異様に段取りが良い。
・研修携行証明書(ラミネート済みの試作品)
・封蝋(練習用、色違いも数種類)
・押印具(ドラン製、持った瞬間に「重っ」と声が出るやつ)
・手土産候補(温泉まんじゅう/乾燥ひまわり茶/ひまわり油)
・「失礼になりそうな言い回し」一覧(レフィア作/ページ数が多い)
そして、ホワイトボードの真ん中に、太字で一行。
想定外は想定内
それを背にして、腕を広げている人物がいる。
市長だ。朝から機嫌がいい。よく動く。声も軽い。
軽いのに、こういう“段取りの核”に、しれっと立っているのが厄介だった。
「よし! 今日の訓練はね、まず“崩れる前提”でやろう。崩れたら、その場で直して、また通す。直す癖を付ける。大丈夫、失敗してもここは庁舎だから」
「失敗しないための訓練なんですけどね……」
勇輝が返すと、市長は悪びれずに笑う。
「失敗しない、って目標は立派だよ。でもね、現地は相手のある世界だから、“こっちが失敗しないつもり”だけでは足りない。だから今日は、想定外をこっちで先に作って、慣れておく」
言ってることはちゃんとしている。
言い方が、観光パンフみたいに明るいだけで。
会場の端で、美月が端末を胸に抱えながら、そわそわしていた。
撮りたい顔をしている。撮りたいのを我慢している顔でもある。
「訓練の雰囲気、記録に残したいんですけど……庁内で共有するやつに。だめですか?」
美月の言い方が、今日は最初から“逃げ道”を用意してある。
この数日で学習している。主に怒られ方と、言い換え方を。
そこへ、いつの間にか静かに立っていたレフィアが、一歩だけ前に出た。
落ち着いた佇まい。けれど、鞄は小さく、靴は歩きやすそうで、今の彼女は「外交官」より「現場にいる人」に見える。
「庁内限定の共有であれば、可能です。ただし、撮影範囲を決めます。背景に資料、名札、座席表、携行証の番号が映らないように。位置情報は付けない。音声は入れない」
言い終わる頃には、美月の顔から“撮りたい熱”が少し引いて、代わりに“条件を守る顔”になっていた。
「……音声もですか。うぅ。了解です。あと、外に出すのは……」
「禁止です」
即答。
美月が「ですよね」と小さく息を吐き、勇輝は内心で、よしよしと言いたくなるのを堪えた。
ここで変に褒めると、別の方向に弾けるタイプだ。
「じゃ、始めるよ。今日のメニュー、レフィアさん、お願い!」
市長がホワイトボードの前から、体ごとレフィアにバトンを渡す。
レフィアは頷き、さらさらと文字を書き足した。
訓練メニュー
1)入国手続き(身分証提示/目的説明/言い換え)
2)儀礼動作(挨拶/距離/視線/姿勢)
3)失礼発言の回避(禁句→代替表現)
4)緊急時対応(迷子/体調/誤情報)
5)SNS事故対応(模擬投稿→対応手順→文面作成)
最後の項目で、美月の肩がぴくっと動いた。
自分の出番だと思ったのか、思わない方がよかったのか、判断に迷っている顔だ。
「……美月さんは、訓練の中では“発信担当”です。意図せず誤解を生む投稿をした、という想定で進めます」
「想定で、ですよね? 想定で……!」
「想定です。ここで一度、想定を経験しておくと、現地で焦りません」
勇輝が「焦らないのは大事だな」と頷くと、美月は泣き笑いみたいな顔で頷き返した。
「がんばります。今日は、ちゃんと“訓練の失敗”だけにします……!」
市長が拍手を一回。
「いいね。じゃ、まず一個目。アスレリア王国(仮)入国手続き!」
◆午前・入国手続き(アスレリア王国(仮))
“アスレリア受付”と書かれた札の前に、段ボールで作ったゲートが置かれている。
ガムテープが妙に丁寧に貼られていて、作った人の几帳面さが出ていた。
そして、その向こう側――受付席に座っているのは、市長だった。
「なんで市長が受付係なんですか」
勇輝が思わず聞くと、市長は胸を張る。
「この役はね、“一番やっかいな人”がやるべきなんだよ」
「やっかいって自分で言います?」
「うん。僕、雰囲気で通しちゃうでしょ。現地で一番困るのって、雰囲気で通す人だから。訓練では、雰囲気で通しそうになった瞬間を潰す!」
言いながら、市長は机を軽く叩いた。
「さあ、来訪目的は?」
勇輝は携行証明書を出し、呼吸を整える。
書式は整えた。言い方も、この数日で何度も確認した。
それでも、口に出すときは妙に緊張する。言葉が“その国の空気”に触れるからだ。
「ひまわり市役所、都市運営担当の勇輝です。行政運用の研修目的で来ました。受け入れ担当の方へ、事前に連絡済みです」
言い終えた瞬間、レフィアが小さく頷いた。
合格の合図に見えるのが、ちょっと救いだった。
市長は、わざと首を傾げる。
「研修? 視察? 遊びじゃなくて?」
ここで引っかかる。
言い返し方で、相手の印象が変わる。
勇輝は、短く言い捨てないように気を付けながら言葉を選ぶ。
「遊び、ではありません。行政の運用を学び、ひまわり市の運営に反映させるための研修です。現地の制度や慣習を尊重し、必要な範囲のみ確認します」
「温泉は?」
市長の質問が、わざと軽い。
軽いからこそ、こちらの言葉が雑になると危ない。
レフィアが、わずかに視線を送ってくる。
“言い換え”の合図だ。
「……温泉は、地域文化の運用を学ぶ対象の一つです。礼節や、安全管理も含めて、制度として学びます」
市長が満足げに頷いた。
「よしよし。じゃ、入国審査官のひと言。――その言い方なら、ちゃんと“研修”に聞こえる」
横で、美月が小声で感動している。
「温泉を制度で言い切るの、強い……! なんか、かっこいい……!」
「かっこよくしなくていい。安全に聞こえればいいんだ」
勇輝が返すと、レフィアが淡々と補足した。
「安全に聞こえる、というのは“相手の安心”を作ることです。研修が受け入れられる土台になります」
美月が「はい……」と背筋を伸ばす。
言い方一つで、空気が締まるのが不思議だった。
◆午前・儀礼動作(天空国アルセリア(仮))
次の札の前には、なぜか椅子が高い位置に置かれていた。
段ボールの台座で二段ほど持ち上げられていて、座ったら確実に偉くなった気分になる。
「天空国は、空に近いほどえらい! っていうイメージで作りました!」
美月が説明した瞬間、レフィアが静かに首を横に振った。
「天空国では、相手より視線が上になることが失礼に当たる場合があります。特に、初対面の儀礼では」
「えっ、逆なんですか」
「逆です。高い場所は“見下ろす”と同じ意味に取られます。座る位置は、相手に合わせる方が無難です」
美月が「無難……」とメモを取る。
加奈が台座を見て、首を傾げた。
「じゃあ、これ、最初から失礼になってる……?」
「訓練用です。失礼を先に出して潰します」
レフィアの答えに、市長が楽しそうに頷いた。
「そうそう。失礼は、出したら“原因分析”で直せる」
加奈が、勢いよく手を挙げた。
「じゃあ私は、失礼にならないように、低く低く……って、こう?」
言いながら加奈が、床に手をついた。
勢いが良すぎて、膝が軽く音を立てる。
それを見た瞬間、勇輝は「待って」と声を出したが、もう遅い。
「……土下座」
レフィアが小さく息を吸い、言葉を探してから、落ち着いた声で続けた。
「土下座は、国によっては“降伏”や“全面謝罪”の意思表示です。天空国の儀礼では、相手を動揺させる可能性があります」
加奈が固まったまま、顔だけ上げる。
「えっ。挨拶のつもりだったんだけど……」
「挨拶にしては、覚悟が強すぎます」
勇輝がそう言うと、市長が吹き出しかけて、咳払いで誤魔化した。
「いい例だよ、加奈さん。こういう“やりすぎ”が、現地だと誤解を生む。だから、ちょうどいい角度を決めよう」
レフィアが、ホワイトボードの端に小さく図を書いた。
頭を下げる角度。目線。手の位置。
それを見ながら、加奈がゆっくり立ち上がる。
「なるほど……“気持ち”は同じでも、出し方が違うんだね。じゃあ、こう。背筋を残して、目は相手の胸元くらい……」
「それで十分です。丁寧で、落ち着いて見えます」
レフィアの評価に、加奈がほっと笑う。
美月が横から、こっそり実況してきた。
「加奈さん、降伏から復帰しました……!」
「実況しなくていい!」
勇輝が言うと、美月は「すみません」と言いつつ、嬉しそうに笑っている。
訓練なのに、場が少し明るくなる。
その明るさを保ったまま、レフィアが次の札を示した。
◆午後・失礼発言の回避(魔王領ガルドネア(仮))
“魔王領ガルドネア(仮)”の札の前には、黒い布がかけられた机。
雰囲気だけはしっかり出ている。
そしてその机の向こうに、腕を組んで立っているのは――ドランだった。
「配役、雑じゃないですか」
勇輝が言うと、ドランは「いやぁ〜」と笑って、胸をどんと叩いた。
「おう、雑でええ。雑な配役で崩れるなら、現地じゃもっと崩れるじゃろ。訓練ってのはな、ちょいと無理を混ぜて、どこが折れるかを見るもんじゃ」
言いながら、ドランは机の上の押印具を軽く持ち上げる。
軽く、のつもりだろうが、重い。金属の存在感が“職人の本気”として机に居座っている。
「ワシは今日、魔王領役じゃ。……ほれ、来訪目的を述べよ」
演技に入った瞬間、声が低くなる。
でも、怖さではなく、背中の太さで圧が出るタイプの低さだ。
勇輝は、さっきより丁寧に息を吸う。
ここは、言い間違えると一気に空気が凍る想定だ。
そして、凍るのは役所の空気だけじゃなく、相手国の受け止め方も同じだ。
「ひまわり市の都市運営担当として、行政運用の研修で参りました。貴領の制度と慣習を尊重し、必要な範囲で学ばせていただきたい」
「ふむ。……その言い方なら、角は立たん」
ドランが満足げに頷いた、その瞬間だった。
美月が、うっかり口を挟む。
訓練の“うっかり役”が、今日は本当に仕事をしてしまった。
「魔王領って、なんか……こわ――」
言いかけて止まる。
止まったのは偉い。でも、止まった時点で空気が一段変わる。
ドランが、演技をやめた目で美月を見る。
目が笑っていないわけじゃない。むしろ、職人が“素材の失敗”を見つけたときの目だ。
「お嬢ちゃん。今のはな、“相手を測る言葉”じゃ。測られる側は、気分が良くない。知らんうちに距離ができる」
美月が、顔から血の気を引かせながら頷く。
「ご、ごめんなさい……! 訓練だと思って、つい……」
レフィアが、美月の横に立つ。
その動きは静かだが、間に入るタイミングが完璧だった。
「言い換えます。『威厳がある』、あるいは『格式が高い』。『怖い』は『危険』と繋がりやすく、危険は『敵意』と結び付けられます」
勇輝が、美月に目だけで合図する。
強く言わない。焦ってるのは分かるから、先に息をさせる。
「美月、今のを“言い直す”だけでいい。落ち着いて」
美月は深呼吸して、言葉を作り直す。
「魔王領は……威厳があります。名前も、重みがある感じがして……すごいです。失礼がないように、ちゃんと学びたいです」
ドランが「よし」と頷き、わざとらしくなく笑った。
「それでええ。言葉はな、刃物みたいに見えることがある。刃物は、向け方を間違えたら怪我する。じゃが、扱いを覚えれば頼りになる」
ドランの例えが、珍しくその場にすっと馴染んだ。
市長が「うんうん」と頷き、加奈が「今の分かりやすい」と小さく拍手する。
美月は小声で、勇輝に耳打ちした。
「……外交って、ほんと手強いですね」
「手強いけど、手強い相手ほど、こっちが丁寧にやる意味がある。今日みたいに“ここで”直せるなら、なおさらだ」
勇輝がそう返すと、美月は「はい」と頷いた。
たぶん、今の「はい」は、ただの返事じゃなくて、ちゃんと腹に落ちたやつだ。
◆午後・緊急時対応(迷子)
次のメニューで、ホールの端から「わぁーっ!」という声がした。
声の主は、人ではない。
ひまわりのマスコット着ぐるみだった。目がきらきらして、動きがやたら元気で、そして――妙に機敏だ。
「……それ、どこから来たんですか」
勇輝が聞くと、市長が胸を張る。
「商店街。協力的だろう?」
「協力の方向性が独特すぎます」
着ぐるみは、ホールの端へ一直線に走っていく。
加奈が反射で追いかけようとして、同時に美月が端末を構えかけて、勇輝が止めようとして、現場が一瞬で“ごちゃっ”とした。
その瞬間、レフィアが短く言った。
「役割分担」
声は大きくない。
けれど、その一言で、全員の足が止まる。
止まるのは、慣れだ。レフィアの指示が“短いほど迷いが消える”と、もう体が知ってしまっている。
「加奈さんは目視追跡。勇輝主任は庁内連絡。美月さんは記録を止めて、周囲に情報が漏れないよう配慮。私は受け入れ先へ説明する文面を用意します。市長閣下は――」
そこでレフィアが一拍置き、市長を見る。
「……今回の迷子役の“動きの癖”を把握してください。現地で同じ動きをした人がいた場合、追い方を変える必要があります」
市長が「おお、そこを見るのか」と感心した顔で頷いた。
「了解。迷子のクセを読む。僕、こういうの得意」
「得意なの、そこですか……」
勇輝は言いながらも、スマホで庁内連絡網を開く。
訓練用の番号。訓練用の文言。
準備しておいてよかったと思う。現場の混乱は、準備があるほど静かに収束する。
加奈は走る。
走り方が、速いだけじゃない。視線が一定で、距離の詰め方が上手い。
喫茶の店内で転びそうな子どもをさりげなく止めるときの動き、そのままだ。
「こっちだよー。……うん、そこで止まってくれたら助かる!」
着ぐるみが、ぴたっと止まった。
止まり方が素直で、逆に笑える。
加奈がそっと腕を取って、ホール中央へ戻してくる。
市長が拍手をして、満足そうに言った。
「よし。現場対応、合格!」
「迷子役が素直すぎて、参考になるのかどうか分かりませんけどね」
勇輝が返すと、レフィアが淡々と付け足した。
「素直な迷子もいます。素直でない迷子もいます。だから、次は“素直でない迷子”も用意しましょう」
美月が「次もあるの!?」と目を丸くし、加奈が「うん、必要だね」と真面目に頷いてしまう。
ホールの空気が、ちょっとだけ“訓練に慣れてきた”空気になる。
◆午後・SNS事故対応(模擬投稿→対応手順)
最後のメニューに入った瞬間、場の温度がほんの少し下がった気がした。
笑いが消えたわけじゃない。
ただ、“ここは慎重にやる”という共通認識が、全員の呼吸の取り方を揃える。
レフィアがホワイトボードに、事故例の紙を貼っていく。
事故例1:背景に機密資料が映る
事故例2:位置情報が入る
事故例3:行き先を匂わせる(余計な一言)
事故例4:現地文化を軽く扱う表現になる
事故例5:コメント欄で不用意に断定する
美月が恐る恐る手を挙げた。
「事故例3、私……余計な一言、出やすいです……」
「自覚があるなら、対策が立てられます」
レフィアが頷く。
責めるような感じがないのが救いだった。責められると、美月は勢いで逆方向に跳ねる。
市長が、机の上の紙をひらひらさせる。
「じゃあ、模擬投稿は僕が作ってきた! “こういうの、つい書きたくなるよね”ってやつ!」
「市長、それは“つい”を増やす人のセリフです」
勇輝が言うと、市長は「うん、増やす」と素直に認めた。
認めるな。
レフィアが、模擬投稿文を読み上げる。声は平坦なのに、内容が生々しい。
『今日は天空国の偉い方と面会の可能性あり。
儀礼は大変そうだけど、学びが多い一日になりそう。
準備中の情報は後日共有します。』
美月が呻いた。
「……これ、ぎりぎりセーフに見えて、ぎりぎり危ないやつだ……」
加奈も頷く。
「“偉い方”って書くと、相手が誰か探し始める人が出るよね」
勇輝は、そこであえて言葉を足す。
「それに、“可能性あり”って書くと、外から見た人は“ほぼ確定”って受け取る場合がある。期待が先に走ると、噂が噂を呼ぶ」
市長が指を鳴らした。
「いい分析。じゃ、対応手順を回そう。レフィアさん、いつものやつ」
「はい」
レフィアがホワイトボードに番号を書く。迷いなく、線がまっすぐだ。
1)投稿の取り下げ(即時)
2)事実確認(何が書かれ、何が読み取れるか)
3)関係者連絡(受け入れ先/外務ルート/庁内)
4)説明文作成(テンプレ/必要なら追加説明)
5)再発防止(チェック項目の追加/運用の修正)
美月が、紙を見つめながら呟く。
「取り下げ、って……やっぱり心臓に悪い……」
勇輝は、そこで言い方を変える。
ここで強い言葉を使うと、美月の肩が固くなる。
「取り下げは、失敗の証明じゃない。誤解を広げないための動作だ。後でちゃんと説明できる形に整えるための、最初の一手」
美月がゆっくり頷いた。
レフィアも頷く。そこに余計な感情は乗せない。乗せないからこそ、みんなが動ける。
「では、模擬で回します。美月さんが投稿してしまった、という設定。勇輝主任は庁内連絡。市長閣下は“受け入れ先の担当者役”。加奈さんは市民側の視点で“問い合わせ役”。ドランさんは……異界新聞の記者役をお願いします」
ドランが「おう」と楽しそうに笑った。
「いやぁ〜、記者か。よし、ワシに任せろ。都合のいい部分だけ切り取って、派手に見出しを付けるのが仕事じゃな? ……いや、訓練じゃからな、ほんとにやりはせんが!」
「訓練でもそれを全力でやるの、やめてくださいね」
勇輝が言うと、ドランは「おう!」と元気よく返事をした。
返事が元気なほど不安になるのは、きっと気のせいではない。
美月が端末を構え、模擬投稿を“してしまった”体で画面を見せる。
ドランが即座に言う。
「ほうほう……『天空国の偉い方と面会の可能性』……これはもう確定じゃな! 見出しはこうじゃ。
『ひまわり市、天空国高官と会談へ! 研修の名のもとに何が動く?』
いやぁ〜、書けるのう!」
「書けるのう、じゃない!」
加奈がすかさず“問い合わせ役”に入る。
口調がちゃんと住民だ。
「えっ、会談って何? うちの町、勝手に大きな話になってない? 大丈夫なの? どこまで決まってるの?」
市長も“受け入れ先担当役”で、顔をきりっとさせる。
普段の軽さが消えて、妙にそれっぽい。
「ひまわり市からの情報が先に出るのは困る。調整の順番がある。こちらの体面にも関わる」
空気が一気に現実に寄る。
訓練なのに、胃の辺りがひやっとするような感覚が走る。
現地では、こういう瞬間が突然来るのだろう。
レフィアが、短く言う。
「1番」
美月が、指を震わせずに画面をタップする。
「……取り下げます」
「2番」
勇輝が、すぐに“事実確認”を始める。
投稿文のどこが読み取られるか。何が推測されるか。
コメント欄が付いたら何が起きるか。
紙に書き出して、全員で共有する。
「“偉い方”は、誰か特定できない。でも、“天空国”と結び付ける人が出る。可能性あり、は確定に変換されやすい。後日共有、は期待を煽る。……つまり、この投稿は“断定はしてないのに断定に見える”タイプだ」
加奈が頷き、レフィアが「その通りです」と言う。
「3番」
勇輝が庁内連絡用のテンプレを読み上げる。
市長が受け入れ先役として聞き、レフィアが外務ルート役として確認する。
美月は黙ってメモを取る。黙っていられるのが、今日は大きな進歩だった。
「4番」
説明文。
ここが一番、言い方が問われる。
レフィアが用意したテンプレを、机に置く。
『調整と安全の観点から、研修に関する詳細は決まり次第、公式にお知らせします。
本件は行政運用の学習を目的としたものであり、関係各所と順序を踏んで進めています。』
美月が、その文面をじっと見つめてから言った。
「……短いのに、逃げ道がちゃんとある」
「逃げ道ではありません。誤解を生まないための“幅”です」
レフィアが淡々と返す。
その言葉に、勇輝は少しだけ救われる。
“幅”があるから、相手を傷つけずに、こちらも守れる。
ドランが記者役のまま、ぶつぶつ言う。
「いやぁ〜、これは書きにくいのう。『順序を踏んで』って言われると、変に煽れん。……煽らんが!」
「煽らないでください。訓練でも」
勇輝が言うと、ドランは大げさに肩をすくめた。
「よしよし。じゃあ、ワシは別の角度じゃ。
『ひまわり市、慎重姿勢! 順序を踏むと明言!』
……うむ、これはこれで堅いが、堅いのは堅いで信用になるかもしれんのう」
加奈が思わず笑ってしまう。
「ドランさん、結局、役所の文章を褒める方向に行くの面白い」
「硬度は説得力じゃぞ。書類も金属も、同じじゃ」
「また新しい理屈が出た……」
美月が笑いながら言う。
でも、その笑いが妙に落ち着いている。
訓練の中で、怖さを“形”にできたからかもしれない。
「5番」
再発防止。
ここで“チェック項目”が増えるのが、ひまわり市役所らしさでもある。
勇輝はホワイトボードに、短い項目を足していく。
・固有名詞を出さない(国名含む)
・会う/会うかも/可能性、の類は書かない
・後日共有、の予告はしない
・背景チェック(机上の紙/名札/番号)
・コメント対応はテンプレのみ(個別回答しない)
美月が「増えていく……」と呟くと、市長が肩を叩くように言った。
「増えた分だけ、安心が積み上がる。積み上がった安心は、現地で効く」
レフィアが静かに頷く。
加奈も頷く。
勇輝は、その頷きの連鎖を見て、ようやく息を吐けた。
◆夕方・多目的ホール 総括
片付けが進み、机が元の位置に戻っていく。
段ボールのゲートが畳まれ、台座が外され、マスコットが商店街の人に引き取られていった。
ホールには、夕方の光が斜めに差している。
ホワイトボードには、太字で結論が書かれていた。
訓練結果
・失礼は言葉より“動作”で起きやすい
・入国目的は“制度の学習”を先に言う
・発信は予告しない/固有名詞を避ける
・緊急対応は役割分担が命
・レフィア:声を荒げず場を動かす
・ドラン:記者役がうまい(訓練限定)
最後の一行を見て、ドランが「おう」と満足げに頷いた。
「いやぁ〜、ワシの才能は職人に使うのが本筋じゃが、こういう場で役に立つなら悪くないのう。……まぁ、余計な見出しは作らんから安心せい」
「安心していいんですよね?」
勇輝が確認すると、ドランは胸を叩く。
市長が、窓の外を見ながら言った。
「よし。机上のルールは作った。今日、動かして崩して、直した。じゃあ次は、町のみんなに説明する日だね。出発式をやろう」
「出発式、って言い方がもうイベントなんですよ」
勇輝が言うと、市長は笑う。
「イベントにしないと、伝わらない人もいる。伝わる形にするのは、行政の仕事だろ?」
言い返せない。
悔しいけど、正しい。
加奈が目を輝かせる。
「住民に向けて、ちゃんと話す場だよね。安心してもらうための」
美月が端末を握りしめ、恐る恐る言った。
「……出発式、記録に残してもいいですか。もちろん、ルール通りに。背景も、位置情報も、全部チェックして」
勇輝は、美月の顔を見る。
勢いじゃない。ちゃんと考えている目だ。
それなら、任せてもいい。
「できる。庁舎の外で、掲示と同じ内容を、同じ言い方で。テンプレも用意する。コメント対応も含めてな」
美月がぱっと顔を明るくする。
「よかった……! 私、今回は“ちゃんと役所の人”でやります」
レフィアが、少しだけ口元を緩めた。
「役所の人は、信頼を積み上げます。出発式は、その積み上げを見せる場になります」
その言葉に、勇輝は頷いた。
研修旅行は、どこかへ行く話じゃない。
町が、外へ出るための準備であり、町が、外と繋がるための仕組み作りだ。
今日の訓練は、その仕組みを“人の動き”に落とし込む時間だった。
ホワイトボードの「想定外は想定内」を見上げる。
来る。きっと来る。
でも、来たときに慌てないための“型”は、もう手の中にある。
勇輝は、ペンでボードの端に小さく書き足した。
想定外が来たら、順序を踏む。
市長が「いいね」と満足げに頷き、加奈が「それ、分かりやすい」と笑う。
美月が「投稿用に短くしていいですか」と聞きかけて、途中で自分で首を振った。
「……やっぱり、テンプレ通りにします!」
レフィアが頷き、付箋をもう一枚、手帳の端に増やした。




