第1224話「SNSは国境を越える:美月、外交案件になる」
◆朝 ひまわり市役所 庁舎三階・会議室
庁舎三階の会議室は、朝いちばんの光が入りやすい。窓の外に、異界の空が広がるせいか、天気の良し悪しがどこか派手に見える。青い日はやけに青く、曇る日は雲が近い。
そんな景色のわりに、部屋の中はいつも通りだ。長机、パイプ椅子、角が擦れたホワイトボード。役所の会議室らしい「変わらなさ」が、ここではむしろ頼もしく見える。
ただし、今朝はひとつだけ、いつもと違うものがあった。
ホワイトボードに貼られた付箋が、増えている。昨日の夕方に片づけたはずなのに、朝になったらまた増殖していた。誰かが夜中に貼ったわけではない。たぶん、勇輝たちの頭の中から自然に湧いて、勝手に貼りついたような勢いだ。
広報
秘匿
炎上
引用
写真
位置情報
コメント欄
翻訳
スクショ
「今は」禁止
「……“今は”禁止って、付箋の勢いが変な方向に強いな」
勇輝が言うと、向かいの席でレフィア・ルーミエルが手帳を閉じ、静かに頷いた。頷きの角度まできっちりしているのに、視線は硬すぎない。外交官の「落ち着き」が、ここでもちゃんと機能している。
「“今は”は、希望を含みます。希望は拡散します」
「希望が全部まずいわけじゃないだろ。……困ってる人の希望もある」
「もちろんです。悪いものではありません。ですが、扱い方を決めないと、相手の想像が先に走ります。想像が先に走ると、説明が追いつきません」
レフィアの言い方は、否定ではなく整理だ。勇輝は指先で資料をめくりながら、あらためてタイトルを見た。
研修旅行・広報運用ガイドライン(暫定案)
※作成:異界経済部(主任:勇輝)/アスレリア外務連絡官/広報担当(美月)
「暫定って書いてあるから気楽に見えるのに、中身がぜんぜん気楽じゃない……」
思わず漏れた独り言に、会議室の端の席で美月が小さくうなずいた。端末を机に伏せ、両手は膝の上。昨日の“下書きチェック”で、ひとつ学んだらしい。「とりあえず投稿」は封印している。封印しているのに、視線だけは端末の通知を追いかけたくて落ち着かない。
「主任、これ……私の“やりたい”が悪さしてる感じですか?」
「やりたいが悪いんじゃない。やりたいが速いと、世界が追いつけないだけだ」
「それ、褒めてるのか止めてるのか、どっちです?」
「両方。だから今日、枠を作る」
勇輝が答えたところで、会議室のドアがぱっと開いた。開く音だけで、誰が来たか分かる。遠慮がないのに、勢いだけではない。必要な時に必要な速度で入ってくる人の動きだ。
「おはよー。今日の議題は“ワクワク”だっけ?」
市長だった。片手に紙コップのコーヒー、もう片手に何かのチラシを持っている。服装はいつもより軽めで、いかにも「朝の用事を片づけてきたところ」みたいな雰囲気だ。
「市長、議題は“広報危機管理”です」
勇輝が即座に返すと、市長は椅子を引きながら笑った。
「うんうん、そう言うと思った。じゃあ、ワクワクは議事録の余白にでも書いとく?」
「余白に書くと、あとで正式に見えるんです」
レフィアが、微笑んだまま小さく付け足す。
「複数の国で、“余白の書き込み”は正式扱いになる場合があります」
「余白が危険なの、ほんとに異界だな……」
勇輝が天井を見上げかけたところで、美月が会議室の端から親指を立てた。
「燃える前提で語るの、やめましょう! こっちは燃やしたくないんです!」
「前提にしないと制御が難しいんだよ。……いや、“制御”って言い方も、今日は控えるか」
勇輝が言い直すと、市長が楽しそうに頷く。
「いいね。言い換え会議っぽい」
「それ、楽しそうに言うやつじゃないです」
加奈が遅れて入ってきた。両手にトレイ。マグカップが四つ、湯気が立っている。喫茶ひまわりの差し入れ係として、今日は“会議室担当”らしい。カップを机に置きながら、ホワイトボードの付箋を一瞥して、表情がすっと真面目になる。
「増えたね……。この付箋、増えるだけで会議が一時間伸びるやつだ」
「伸びるの、付箋のせいじゃなくて、俺たちのせいだよ」
勇輝が言うと、加奈は小さく笑った。
「そうだけど。付箋を見ると、覚悟が決まるから」
レフィアが、手帳を開いた。付箋がすでに何色も貼られている。見るからに「分類」されているのに、分類の量が多い。
「では、昨夜起きたことを共有します。結論から言います。情報が、向こう側で走りました」
その言い方が、会議室の空気を少し引き締めた。勇輝は身を乗り出す。
「具体的に、何が」
レフィアは資料を一枚、机の上に置いた。紙には翻訳が添えられている。見出しの付け方が、いかにも掲示板の“煽り”っぽい。
「アスレリア王都の旅行業組合の掲示板に、こういう書き込みが出ました」
翻訳文は二行。
「ひまわり市、住民向け交流ツアーを近々開始か」
「研修名目で視察団が来訪。秘匿の温泉礼式を公開する可能性」
「……誰だ、“温泉礼式”って言い出したの」
勇輝が眉を寄せると、美月が両手を上げた。勢いはあるのに、声は小さい。ちゃんと反省してる人の音量だ。
「わたしじゃないです! 礼式って単語、普段の投稿で使わないです!」
市長が、紙を覗き込みながら感心したように言った。
「秘匿の温泉礼式、って言葉の並び、なんか強そうだね」
「強そうに見えた時点で、だいたい面倒が増えます」
勇輝が言うと、市長は「なるほど」と素直に頷いた。素直すぎて逆に怖い。
加奈が、翻訳文の表現をもう一度読み直す。
「……これ、見出しの作り方が、異界新聞っぽい。ちょっと盛るやつ」
「だよな。つまり、誰かが“盛り方”を知ってる。……美月、昨日の投稿、どこまで出した?」
勇輝の視線が、美月の端末に落ちる。美月は端末を机に伏せたまま、言葉を選びながら答えた。
「匂わせ……と、一般参加は無いって、ちゃんと書きました。あと、“今は”って——」
言いかけて、美月が口を閉じた。レフィアの視線に気づいたのだ。視線は責めていない。ただ、静かに“そこがポイントです”と言っている。
レフィアは穏やかな口調で言う。
「括弧が、危険です。括弧は、補足のつもりで書かれます。しかし読む側は、補足を“本音”と受け取りやすい」
「括弧が危険って、どんな世界なんだよ……」
「異界です」
さらりと言い切られて、勇輝は反論の行き先を失った。失ったので、次に進む。
「まず、切り分ける。何が出て、何が誤解されて、何を出さないか」
レフィアが立ち上がり、ホワイトボードの中央に迷いなく線を引いた。線の引き方が、もう“決裁線”のそれだ。
公開できる情報
公開してはいけない情報
公開してもよいが“言い方”が必要な情報
市長が、線の美しさに感心するみたいに頷いた。
「第三の箱が、いちばん厄介そうだね」
「そして、いちばん多いです」
レフィアが即答すると、美月が小さく呻いた。
「えっ、いちばん多い……? それって、ほぼ全部じゃないですか……」
「“全部”ではありません。ですが、そこが増えるほど、ガイドラインの価値が増します」
勇輝はペンを取り、付箋を一枚ずつ移動させ始めた。作業にすると、頭の中のざわつきが少し静まる。広報、写真、位置情報、翻訳、引用……。どれも“単体なら平気”なのに、“組み合わせると意味が変わる”ものばかりだ。
加奈がマグカップを配りながら、慎重に言う。
「でも、市民への説明は必要だよね。『なんで行くの? 誰が行くの?』って。黙ってると、不安だけが先に増える」
「それは、そうだ」
勇輝が頷くと、レフィアが紙をめくり、例文を提示した。いかにも外交文書みたいな硬さではなく、役所の掲示板に貼っても違和感がないくらいの温度に調整されている。
「公開できる情報は、研修の“目的”と“枠組み”です。例を挙げます」
レフィアは読み上げる。
「『周辺国の行政運用と、観光行政の制度を学び、ひまわり市の運営に活かす』。この表現は安全です」
「観光を入れても大丈夫?」
「“観光行政”なら大丈夫です。観光そのものではなく、制度の学習ですから」
美月が手を挙げる。挙げ方が、研修の受講生みたいだ。本人も気づいてないけど、ちゃんと会議に参加する姿勢になっている。
「じゃあ、『観光も楽しみます!』は?」
「危険です」
即答だった。速さに、美月の肩が落ちる。
「秒で切られた……」
市長が、指を鳴らした。
「じゃあ、『観光行政の制度を学びます!』に、“温泉も学びます”って付けたら?」
勇輝は、反射で手を上げた。叩くのではなく、止めるために。
「市長、その“付けたら”が危険なんです。しかも、括弧を付けようとした顔をしてます」
「顔で分かるんだ」
「分かります。長年の実務で」
レフィアが、にこやかに首を横に振る。
「括弧は、避けましょう。付け足しは、本文に吸収して整えます」
「括弧、ここまで嫌われると逆に好きになってくるな……」
勇輝がぼそっと言うと、加奈が小さく笑った。
「好きになっても、今日は封印ね」
美月が真剣に頷く。
「封印です。括弧は封印。……あ、私が言うと余計に括弧が目立つ」
会議室に短い笑いが落ちた。笑いが落ちると、空気が軽くなる。軽くなると、話が進む。市長がこういう場を好む理由が、なんとなく分かる。
レフィアは、その流れを逃さずに、次の項目をボードの下へ書き足した。
発信の三段階
①庁内共有(内部)
②関係者共有(相手国・受け入れ先含む)
③一般公開(SNS・掲示・記者)
「……三段階」
美月が遠い目をした。
「それ、投稿のテンポが……」
「遅くなります」
勇輝が即答してから、言い直す。
「遅くなる。だから、速くできるところをテンプレで作る。毎回ゼロから考えない仕組みにする」
市長が満足そうに頷いた。
「テンプレ、いいね。役所っぽい」
「褒めてるのか、確認していいですか」
「褒めてる。役所っぽいのは武器。相手が“ちゃんとしてる”って思う」
市長はそう言って、さっき持っていたチラシを机に置いた。紙がぱさっと音を立てる。そこに描かれているのは、ひまわりのイラストと、でかい文字。
『異界研修旅行・応援ポスター(案)』
「ひまわり市、学びに行きます!」
「……市長、これ、どこから」
「商店街の人がね。応援したいって。昨日、たまたま相談されたから、案だけもらった」
加奈が目を丸くして、すぐに嬉しそうに息をのむ。
「それ、いいね。町の空気がちゃんと乗ってる」
勇輝はポスターを見てから、レフィアを見る。判断は、ここで間違えたくない。
「これ、出して大丈夫か?」
レフィアは一瞬だけ考え、答えた。考える時間が短いのは、たぶん“似たケースをいくつも見てきた”からだ。
「表現は安全です。“どこへ”が書かれていない。受け入れ先の体面も守れます。さらに、“研修”ではなく“学び”という言葉が前に出ているのは良い」
「よし。掲示板に貼るのは、ありだな」
美月が身を乗り出す。目が光る。撮りたい。投稿したい。それは分かる。
「じゃあ私、これを撮って投稿——」
「待って。撮っていいけど、手順を踏む」
勇輝が手のひらを上げて止める。止め方は、圧をかけない。今日はそれが大事だ。
「レフィアさん、これは公開していい。でも、“撮り方”と“文言”に注意、で合ってる?」
「はい。位置情報は入れない。背景に机上の資料を映さない。反射でホワイトボードが写り込まない角度を選ぶ。コメント欄で行き先を問われても答えない」
「コメント欄で答えないの、難しい……」
美月が困った顔をすると、レフィアは淡々と言った。
「答えなければ、憶測が出ます。ですが、こちらが公式に否定も肯定もしなければ、“確定”にはなりません。確定しなければ、相手国は動きづらい」
「外交、頭がこんがらがる……」
美月が言いかけて、言い直す。
「……でも、すごいです。これ、ちゃんと理由があるんだ」
レフィアは、わずかに表情を少しだけ緩めた。
「理由があることだけ、続けられます。感情だけで動くと、相手の感情と衝突します」
そこへ、もう一つの紙が差し出された。レフィアが、今度は少しだけ指先を慎重に動かして置いた。重要度の置き方が違う。
「今朝、アスレリア外務省から“確認”が来ました」
勇輝が受け取り、目を通す。要点は短い。
『ひまわり市の研修が、他国への情報提供や軍事的偵察と誤解されぬよう配慮を求む』
『発信に際し、受け入れ先の同意を得ること』
「軍事……」
加奈が眉を寄せる。言葉が重い。
「そんな要素、ないよね?」
「ない。けど——」
勇輝は紙の端を指で叩いた。叩く音は小さい。けれど、その小ささが、現実感を増す。
「相手の頭の中には、“ないもの”がある。誤解ってそういうものだ。こっちが持ってない意図でも、向こうが持てば、向こうの現実になる」
市長が、うん、と頷いた。いつもの軽さではなく、判断する人の頷きだ。
「じゃあ、それを先に小さくする。いや、“小さくする”って言い方も違うか。先に説明して、誤解が入り込む隙間を狭くする」
レフィアが頷く。
「その通りです。だから文書に落とします。研修は行政運用の学習。情報の取り扱いは制限する。発信は合意の範囲内。これを明文化します」
美月が小さく呟く。
「……文書、強い」
「強いです。世界共通で」
勇輝は白紙を取り、見出しを書いた。字が少しだけ大きくなる。ここは、手を抜けない。
情報取扱い方針(研修旅行)暫定
・研修目的の範囲
・公開可能情報の範囲
・公開手順(承認者)
・撮影・投稿のルール
・翻訳の扱い(誤訳防止)
・違反時の対応(削除要請/訂正文テンプレ)
最後の行を書いたところで、勇輝はペン先を止めた。止めたのは、気が重いからではない。想像が具体的になったからだ。訂正文テンプレ。削除要請。やることが増える。増えるけど、増やさないと守れない。
「訂正文テンプレまで、ここで決めるのか……」
加奈がカップを置き直しながら言った。
「備えは大事。使わないのが一番だけど、使う時に迷わないように」
美月が、ぎゅっと拳を握る。机の下で握っているのが、逆に本気っぽい。
「使いません。今回こそ、ちゃんとやります」
レフィアが、短く言葉を添える。
「使わないためのテンプレです」
その言い方が、少しだけ温度を持っていた。勇輝はレフィアの横顔を見て、ひとつ気づく。
この人は、SNSを怖がっている。
怖がっているのに、それを表に出して “だから止めよう” とは言わない。
怖いから、仕組みで守ろうとしている。
勇輝は、内心で頷いた。案内役として、強い。強さの種類が、噛み合っている。
◆午前 庁舎前 掲示板と撮影準備
会議室で方針を決めたあと、勇輝たちは庁舎一階へ降りた。庁舎前の掲示板は、住民が必ず目にする場所だ。ここに何を貼るかは、SNSより遅いのに、重みは時々SNSより大きい。
市長が持ってきたポスター(案)を、掲示板のガラスに当ててみる。ひまわりのイラストが、庁舎の白い壁に明るく映える。文字も分かりやすい。
「これ、貼っていい感じだね」
加奈が言うと、市長が満足そうに頷いた。
「商店街の人、気合い入ってる。僕も嬉しくなった」
「嬉しくなったのは分かるんですけど、ここで勝手に盛り上げると、あとで説明が追いつかないこともあります」
勇輝が釘を刺すと、市長は肩をすくめた。
「じゃあ、盛り上がりは町に任せて、役所は“支える”に回る。いいでしょ」
レフィアが、掲示板を見ながら言った。
「良い整理です。掲示板は“公式の速度”で進められる。SNSは“個人の速度”で進む。速度差があるなら、公式の方に軸を置くと安定します」
美月が、掲示板の前で深呼吸した。会議室では抑えていた“撮りたい”が、今はちゃんと“撮る準備”に変わっている。
「……撮影、やります。テンプレ通りに。位置情報なし。背景に庁舎名が入らない角度。反射に注意」
「反射、見落としやすいからな。スマホの画面にボードが映るとか、ある」
勇輝が言うと、美月は真剣に頷く。
「はい。反射にボードが映ったら……削除案件」
「削除案件、って言い方がもう研修受講生なんだよな」
加奈が小さく笑って、掲示板の近くに立ち、通行の邪魔にならない位置を確認した。住民が通る導線、車椅子のスペース、ベビーカーの幅。こういう気配りは、役所の現場で自然に出る。
「じゃあ、撮るときはここから。後ろに人が写り込まないように、少しだけ待ってから」
市長が、手を叩いた。
「よし。撮影会だ。……いや、撮影“確認”だね」
勇輝が思わず目を細める。
「市長、言い換えが上達してますね」
「レフィアさんの影響。言葉で世界を整えるの、面白い」
レフィアは小さく頷いたが、そこで止まった。面白い、とは言わない。言わないところが、プロだ。
美月はカメラを構え、画角を調整し、掲示板のガラスに映るものまで確認してからシャッターを切った。撮ったあと、すぐに見返して、ズームして、端の端まで確認する。普段の美月なら「撮れた!」で終わるのに、今日は終わらない。終わらないのが、成長だ。
「……よし。資料写り込みなし。人もなし。位置情報もオフ。投稿文、テンプレで行きます」
「テンプレ、見せて」
勇輝が言うと、美月は端末を差し出した。文章は短い。短いけど、短くしようとして削った短さではなく、必要な情報だけに絞った短さだ。
『ひまわり市役所は、周辺国の行政運用を学ぶ研修旅行の準備を進めています。
目的は制度の学習と、今後の市運営への反映です。
安全と手続き整備を最優先に進めます。』
勇輝は、目で追い、頷いた。
「いい。説明の順番もいい。余計な期待が入る余地が少ない」
加奈も頷く。
「市役所の投稿って感じ。安心する」
市長が、背後から覗き込む。
「もうちょい熱がほしい気もするけど……今日はこれで正解だね」
「熱は町が出す。役所は揺れない。揺れないと、誰かが困った時に掴まれない」
勇輝が言うと、市長は「確かに」と頷いた。ちゃんと受け止める時の市長は、いきなり頼もしい。
そして、美月は投稿した。
◆午前 投稿直後 通知の波とテンプレ返信
画面に表示された文章は、予定通り短い。ところが、投稿が世に出た瞬間、端末が震え始めた。振動が一回二回で終わらない。連続する。通知音が鳴らない設定なのに、振動だけで十分うるさい。
「来た……コメント来た……! “どこ行くの?”って……!」
美月の指が震える。答えたくてうずうずしているのが分かる。答えたいのは、悪気じゃない。説明したいだけだ。けれど、ここで答えると“公式情報”がひとつ増える。増えた公式情報は、翻訳され、切り取られ、掲示板の見出しにされる可能性がある。
レフィアが、そっと端末の横に手を添えた。触れて止めるのではない。ここで一呼吸置くための距離感だ。
「ここで答えると、“公式情報”になります」
「……う、うぅ……分かる……分かるんですけど……!」
美月の声が揺れる。揺れるのに、手は止まっている。止まっているのが、今日の一番えらいところだ。
「代わりに、テンプレで返します」
レフィアが差し出した紙には、短い文が三つ並んでいた。会議室で作った“テンプレ文(3種)”だ。
A:安全と調整の観点から、詳細は決まり次第お知らせします。
B:研修の目的は制度の学習です。詳細は相手先と調整のうえ、案内します。
C:個別の行程や訪問先は公開していません。ご了承ください。
「……これ、すごく役所っぽい」
美月が言うと、市長が小さく笑った。
「役所っぽいのは武器、って言ったでしょ」
勇輝が頷く。
「美月、Aで返す。短くていい。短いのは冷たいからじゃなくて、余計な情報を足さないためだ」
「……はい」
美月がテンプレ通りに返信する。すると、コメント欄の空気が妙に落ち着いた。答えないことで燃える、という想像をしていたのに、答えないことで「じゃあ待つか」となる人もいる。公式の態度が揺れないと、相手も揺れづらい。
加奈が、そっと言った。
「SNSって、怖いところもあるけど……ちゃんと扱うと、整うんだね」
レフィアが頷く。
「はい。だから、怖いのです。整えないと、すぐに形が変わります」
「形が変わるのが速い、ってことか」
勇輝が言うと、レフィアは小さく肯定した。
「速いです。速いものは、扱う側の動作も速くなります。速くなるほど、確認が抜けます。抜けたところに誤解が入ります」
美月が、コメント欄を眺めながら呟いた。
「……私、今まで、抜けまくってたな」
「抜けるのは当たり前だ。誰でも抜ける。抜けても大丈夫な形にするのが、今日の仕事」
勇輝が言うと、美月は小さく頷いた。頷き方が、いつもより落ち着いている。
◆午後 外務連絡 「誤解の隙間」を埋める文書
午後、レフィアの端末に連絡が入った。庁舎内の小さな会議室に移動し、レフィアはアスレリア外務省と短い通話を行う。勇輝と市長も同席したが、口を挟む場面は少ない。必要なのは、ここで“余計な言葉”を足さないことだ。
通話が終わると、レフィアはすぐに要点を共有した。
「外務省の懸念は、二つです。ひとつは、研修が他国への情報提供に見えること。もうひとつは、発信が受け入れ先の体面を損ねること。対策は、文書の明文化と、発信の承認フローの提示です」
「承認フローは、もう三段階で作った。見せられる形に整える」
勇輝が言うと、市長が頷く。
「外務省に“安心材料”を渡すわけだね。安心材料って、紙にしないと伝わらないもんね」
加奈が、ここでも差し入れのカップを置きながら言った。
「市民向けにも、同じだよ。口で言うと、言った人の温度で伝わっちゃう。紙は、温度が一定」
美月が、ぽつりと言う。
「紙、強い……」
「強い。世界共通で」
レフィアが、さっきと同じ言葉を繰り返した。繰り返すのは、強調ではなく、確認だ。ここが軸だと、全員に再確認させるための言葉。
勇輝は“情報取扱い方針(研修旅行)暫定”を、庁内回覧に載せるための体裁に整え始めた。ページ番号、改訂履歴、責任者、連絡先。役所の書類は、内容だけでは動かない。体裁が整って、初めて動く。
市長が、椅子にもたれて言った。
「僕、こういうの見るとワクワクするんだよね。整う瞬間って、気持ちいい」
「市長、それ、言う場所が絶妙に違います」
「でもさ、整うと動くじゃん。動くと、町の人の不安が少し減る。なら、ワクワクしてもいいでしょ」
勇輝は返す言葉を探して、結局、頷いた。
「……ワクワクしていいです。ただし、ワクワクは“余白”に書かないでください」
「了解」
市長はあっさり言った。あっさり言うときの市長は、ちゃんと理解してる。
その間、美月は“テンプレ返信”を実際のコメント欄で回しながら、反応の傾向をメモしていた。質問が多いのは「どこへ行くの」「誰が行くの」「いつ行くの」。次に「住民は行けるの」。そして、少しだけ「危なくないの」。危なくないの、に答えたくなる。答えたい。でも、答え方を間違えると、逆に不安を増やす。
加奈が、美月のメモを覗き込み、言った。
「この“危なくないの”は、ちゃんと答えたいね。答えるなら、何を答える?」
美月は考える。考える時間がある。それだけで、前より進んでいる。
「……危なくない、って断言はできない。けど、準備してるって言える。準備してる“中身”も、少しだけなら」
勇輝が、メモを受け取りながら言う。
「じゃあ、“準備していること”を事実として書く。携行証明、緊急連絡、受け入れ先との調整、同行案内。事実は強い。希望より、事実」
レフィアが頷いた。
「事実は、翻訳されても変形しにくい。数字や手順は特に。だから、行政の言葉は時々強い」
美月が、少しだけ笑った。
「私、行政の言葉、好きになってきたかも……。今まで、固いって思ってたのに」
「固い言葉は、固い役割がある」
勇輝は言って、ふと気づく。自分も言い換えが増えている。レフィアの影響が、確かに庁内に広がっている。
◆夕方 庁舎三階・会議室 付箋の整理と次の準備
夕方、元の会議室に戻ると、ホワイトボードの付箋は、朝よりも整っていた。増殖していたのが、分類され、線の中に収まっている。収まっているだけで、達成感がある。役所の達成感は、だいたいこういう形だ。
広報ガイドライン(暫定)完成
テンプレ文(3種)
承認フロー(3段階)
撮影チェック項目(反射/背景/位置情報)
外務省向け説明文(一次回答)
訂正文テンプレ(未使用のまま保管)
勇輝は椅子に深く座り、息を吐いた。疲れはある。けれど、嫌な疲れではない。整えた疲れだ。
「……今日は、役所の仕事をしたな」
「毎日してます」
レフィアが当たり前のように返す。
「ただ、今日は“異界の役所”でした」
美月が肩で息をしながらも、どこか誇らしげに言った。誇らしげなのに、浮かれてはいない。コメント欄の波を見たあとだからだ。
市長が立ち上がり、窓の外を見ながら言う。
「よし。次は、予行演習だね」
勇輝が顔を上げる。
「予行演習?」
「うん。机上のルールは作った。なら次は、現場で崩れる前に“わざと崩して”みる。崩れ方を知っておけば、ほんとに崩れたときに戻しやすい」
言い方は軽いのに、内容は現場の判断だ。市長がこういう発想を出すときは、ちゃんと役に立つ。
レフィアが頷く。
「シミュレーションは必要です。国ごとに失礼の形が違う。言葉と行動を、事前に試しましょう。通訳の順番、挨拶の距離、目線、贈り物の渡し方——些細なことが、大きな誤解に見えます」
加奈が手を挙げた。挙げ方が妙に元気だ。
「じゃあ、私、失礼役やる!」
「加奈、それは自分で名乗る役じゃない」
勇輝が言うと、美月も手を挙げた。
「じゃあ、私、炎上役……!」
「炎上は、役じゃなくて事故にしてほしい。演習でやるなら、“危うい投稿”役だ」
「危うい投稿役……はい、やります!」
「やるのか……。まあ、先にやっておく方がいいか」
会議室に笑いが落ちた。笑いの下には、出発に向けた緊張がちゃんと積み上がっている。笑いは、それを消すためじゃない。重くしすぎないための工夫だ。
勇輝は、ホワイトボードの端へ小さく書き足した。
準備は整った。次は“想定外”を先に試す。
レフィアがその文字を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。手帳の端から、新しい付箋が一枚、覗いている。きっとまた増える。増えるけど、増えた分だけ、整える道具も増えた。
美月が端末を伏せ、言った。
「主任。今日、コメント欄で答えたいのを我慢できました。……私、えらいですか」
「えらい。あと、助かった」
短く返すと、美月は少しだけ照れた顔をした。照れの代わりに、すぐメモを取る。
市長が、椅子を引きながら言う。
「じゃあ、次は“訓練で先に崩れる日”だ。崩れ方を知って、笑って、直して、出発しよう」
勇輝は頷いた。笑って直す。役所の仕事は、たぶんそういう繰り返しだ。異界でも、それは変わらない。




