表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/84

第80話

中身がチコのネズミは床の匂いを確かめるように鼻をひくつかせる。

次の瞬間、はっとして口を押さえる。

「……あ、これ……ネズミの癖!」

自分の行動に驚いたのか、ネズミの姿のままキャッキャと楽しそうに笑う。

「うそでしょ!? すごすぎるよ、チコ!」

インナは思わず声を上げ、それから――はっとして、視線を巡らせた。

部屋の空中.....

そこに、"霊体の"チコがいた。

半透明の小さな身体が、

床から少しだけ浮いた位置で、ふよふよと揺れている。

……が、その仕草は、明らかにおかしい。

鼻のあたりをくんくんと動かし、床に顔を近づけようとして、

途中で「あれ?」というように首を傾げる。

しかも、妙なことに少しだけ鼻は尖っており、頭部に二つの円状の耳のようなものが見える。

...降霊の本に書いてあったが、魂と霊体というのはまた別で、アンデッド化するのは主に霊体のほうのようだ。

今のチコ......"元"チコは、魂はネズミのが入っているだろうから、霊体がそれに影響を受け、

少しネズミのような外見になったとでもいうのだろうか。 次に、尻尾がないことに気づいたのか、

何もない背後を、ぱたぱたと探るような動きをする。

「チュ……?」

ネズミと入れ替わったチコは、困ったように瞬きをし、

それから、気づいたように笑った。

「ほらー! ぼく、今はこっちにいる」

自分自身を指さすように、

今はチコの霊体になったネズミのほうを見て、にこっとする。

二つの存在……入れ替わる魂。

違う“器”。

インナの胸が、どくん、と大きく鳴る。

――できる。

チコは魂を入れ替えることができる。

その事実が、

熱を帯びて、胸の奥に落ちてきた。

(……もし)

思考が、勝手に先へ走る。

(もし、これを……

チコがネズミじゃなくて、私にやったら……?)

頭の中に、ありえないはずの光景が浮かぶ。

門番にも止められず、侍女にも叱られず、父上にも叱られず、城の門を、すり抜けて。

石畳の道を、自分の足ーーー足は無いがーーーで、好きな方向へ。

市場のざわめき。

知らない匂い、いつも窓から見ていた、行ったことのない外側。

誰の視線も、役割も、期待もない世界。

(……マジで城、出られるかも、ヤバ、エモすぎるよ)

王女ではない自分。

象徴でも、平和でもない自分。 冒険者にでも、旅人にでも、何にでもなれる。

「式典」「作法」「期待」

その全部から、ほんの少しだけ、離れた場所。

胸が、きゅっと締まる。

(……うんう、バカだよね、私……そんなこと)

そう思うのに、その想像はやめられない。

一人でクルクル回って遊んでいるチコの笑い声が、部屋に響く。

そのとき――ドン、ドン。

扉を叩く音が、静まり返った部屋に重く響いた。

息を呑む間もない。

返事を待つことなく、扉が開く。

「インナ。 何を一人で騒いでいる?」

低く、抑えた声。

父――王が、部屋の中へ足を踏み入れていた。

「もう遅い。

明日も稽古と歴史の勉強があるだろう。

無駄に夜更かしをする立場ではないはずだ」

心臓が止まりそうになる。

降霊術の本はすでに引き出しにしまった後だったが、

クローゼットの前にはチコの元々の霊体と、2本足で立つネズミがインナの目の前にいる。

「わわわっ! ち、ちがうんですおとうさま 私は何もーー」

咄嗟にごまかそうとするが、余計に変な声が出てしまう。

「……ん?なんだ? その汚らしいネズミは。 そうか、それを追い払おうと騒いでいたんだな?

あとで鼠取りを持ってきてあげるから、寝る準備をしなさい…」

今度はクローゼットのほうを見る。また、心臓が止まりそうになる。

「……それから、だ」

父は、扉の前で一度だけ立ち止まった。

「王女たる者、私室といえども気を抜くな。

戸締まり、身の回りの整理――

そうした細部こそが、品位と自制を示す」

相変わらず、淡々とした声だった。

怒鳴るでもなく、責め立てるでもない。

それがかえって、重く胸に残る。

「夜は思考も感情も緩みやすい。

無用な想像に耽る時間ではない」

一拍。

「二週間後の式典を忘れるな。

お前は“私個人”ではなく、王女だ」

それだけ言い残し、

父は振り返ることなく部屋を出ていった。

扉が閉まる音が、やけに大きく響く。

――静寂。

インナは、やはりこの瞬間が嫌いだった。 胸が深海の圧力で押し潰されたみたいに、苦しくなる。

クローゼットの前。

確かに、そこにいたはずの――

青白く、ふわふわと浮かぶ小さな影。

しかし、父の視線は一度も、そこに向けられなかった。

「……もしかして」

小さく、息を呑む。

「……お父様には、見えてないの?」

チコは、宙に浮いたまま、首を傾げた。

「? 見えないの?」

その無邪気な反応に、インナははっとする。

――思い出す。

本に書いてあった。

レイスやファントムのように、

存在の輪郭が強く、いわゆる一般的にアンデッドモンスターと言われる霊体なら、誰の目にも映る。

だが、フェイドリングのような、冥力が弱く不定形な存在は違う。

感覚の鋭い者。

あるいは、条件が揃った者だけ。

ネクロマンサーのような冥力の専門家であれば別だが、

父の素質は元素魔力。

霊の気配に注意を向ける理由も、訓練もない。

「……そっか」

胸の奥で、緊張がほどける。

「大丈夫?」

クローゼットの前に浮かぶチコが、少し心配そうに聞いてくる。

ネズミの姿は、もうどこにもなかった。

いつの間にか、壁の隙間へ逃げていったのだろう。

「あぁ……戻したんだね。

入れ替わるの」

そう理解すると、

インナは、そっとチコを抱き寄せた。

手のひらに触れる感触は、ない。

「今日は……一緒に寝よう」

小さく、囁く。

「私、もう寝なきゃいけないみたいだから」

「こんなに早く寝れるの、うらやましい!」

屈託のない声。

インナは、一瞬きょとんとして、それから、ふっと笑った。

(……そうだよね)

この子は――

夜に休むことも、布団に入ることも、

“許される時間”を知らなかった。

眠る場所も、守られる時間も、選ぶ権利さえなかった子供。

インナは、チコを胸に引き寄せたまま、

ゆっくりとベッドへ横になる。

(……だったら)

「ねぇ、チコ。 王女になりたくない? 私と、入れ替わってみない?!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ