第79話
「退屈? 退屈なの? お姉さん」
フェイドリングは、よく分からなさそうに首を傾げた。
涙で濡れたインナの顔を見上げながら、
その意味を考えている、というよりも――
言葉そのものを転がしているような様子だった。
「それより――」
ふいに、声の調子が変わる。
「……あのキラキラ、すごいきれい!」
無邪気な視線が、開いたままのクローゼットの奥へと向く。
宝石のついたドレス、刺繍に縫い込まれた光糸。
灯りを受けて、淡く反射する装飾。
子霊は、すーーっと床を滑るように移動し、ドレスの前で立ち止まった。
その通った跡にかすかに、青みがかった光が残る。
インナが目を凝らしたとき、それはもう溶けるように消えていた。
涙が収まる前に、あまりに無邪気な反応を見せられ、インナの胸が少し緩む。
「……こういうドレス見るの、初めてだよね?」
インナは、袖で目元をぬぐいながら、子霊の隣に腰を下ろした。
「すごい! 宝石だ!
こっちはなぁに? 丸いお団子!」
「……聞いてないけど……」
インナは、小さく苦笑する。
「それは、真珠よ」
「……しんじゅ……」
舌で確かめるように――舌など無いはずなのに、
子霊はその名をゆっくりと、音そのものを味わうみたいに繰り返した。
「……着てみたい?」
つい、口をついて出た言葉だった。
言った瞬間、インナは「あ」と思う。
この子は霊体だ。
輪郭は、かろうじて小さな人の形を保っているけれど、
ふよふよと透けてて不定形で、触れれば揺らぎ、
布を通すことなんてできるはずがない。
「……あ、でも……」
言い直そうとして、言葉に詰まる。
「……その体だと……」
言いかけて、
インナは言葉を飲み込んだ。
空気を変えるように、少しだけ声の調子を明るくする。
「そういえば……
あなたの名前は? 私はインナっていうの」
子霊は、少しだけ首を傾げた。
考える、というより――記憶を探っているような仕草。
「……ぼくは、チコ」
「チコ!」
思わず、声が弾む。
「かわいい名前だね。
じゃあ、チコって呼ぶね?!」
一拍置いて、
そっと付け足す。
「……親が、つけてくれた名前なの? あなたは、男の子だったの?」
チコは答えなかった。
代わりに、またドレスのほうへ近づいていく。
今度は、床を滑るのではなく、
その場から、ふわりと浮き上がった。
おおよそ六十センチほど。
ドレスの宝石の縫い目に顔を寄せ、光を覗き込む。
「……これ、着てみたい! かっこいい!」
「……あ、また無視」
思わず苦笑しながらも、
インナは強くは言えなかった。
きっと、聞こえていないわけじゃない。
今は、それよりも気になるものがあるだけ。
「……もう。
ほんと、子どもなんだから」
困ったように言いながら、その声音には、責める色は微塵もなかった。
「……ごめんね、なんて言うほどでもないか」
誰に向けたともつかない言葉を、インナは軽く吐き出す。
胸の奥に残った感情は、くすぐったさに近いもの。
名前の話も、親の話も、チコにとっては、
今はまだ“どうでもいいこと”なのだろう。
それよりも――
目の前で光るもの。
きらきらして、触れられそうで、触れられないもの。
(……うん)
インナは、ふわりと浮かぶ子霊を見上げながら、
小さく笑った。
(こういうところは、ほんとに子どもだなぁ)
「着たい! 着たい!」
チコが、こちらを見てはしゃぐ。
全身は淡く透けていて、確かに霊体だ。
それでも、黒目がちの瞳はきゅっと目尻が上がり、
笑っているように見えるのが、なんとも微笑ましかった。
「……えっと、だから、その……
このドレスは――人間じゃないと、ね……」
言いかけて、インナは言葉を濁す。
けれどチコは、ちゃんと分かっている様子だった。
霊になってからどれほどの時を過ごしてきたのかは分からない。
なにせ、あの王国が滅びたのは百年以上も前。
チコもまた、それと同じくらい長い間、どこかを漂ってきた魂なのだろう。
自分が服を着られないことも、
触れられないことも――きっと、とっくに知っている。
「うん」
チコは小さく、素直にうなずく。
その様子に、インナは何か言葉をかけようとして――
「……あ、ちょっと」
間に合わなかった。
チコの輪郭が、すっと細くなる。
「……見せる」
「え?」
意味を問い返すより早く、
蝋燭の炎が、ふっと横に流れる。
次の瞬間ーーーネズミの動きが、ぴたりと止まる。
尻尾が宙で固まり、
ひくひく動いていた鼻先も静止する。
「……っ」
インナが息を詰めた、その直後――
ぱちり、と何かが切り替わる、乾いた感触。
ネズミは、ぎこちなく二本足で立ち上がった。
前足を持ち上げ、
重心の置きどころが分からないまま、ふらりと揺れる。
「……あっ、ぼく」
小さく、間の抜けた声。
それは、ネズミの喉から出た声だったが、確かにチコの声だった。
ネズミは自分の前足を見下ろし、
次に、くるりと首を回す。
動きは拙く、まるで初めて体を動かす子どものようだ。
「……これ……」
一歩、踏み出そうとして、よろける。
尻尾が床に当たり、ばたばたと音を立てる。
「わっ……わっ……!」
慌てて両前足――いや、今は“腕”を振り回し、
なんとか転倒を免れる。
その仕草は、どう見てもネズミのものではない……
落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回し、
インナを見つけると、ぱっと顔を上げる。
――その目。
黒く、小さな瞳。
けれど、そこに宿る光は、間違いなくチコのものだ。
「お姉さん!」
ネズミは、胸を張ろうとして、またよろける。
「ぼく、立ってる!
ちゃんと……立ってるよ!」
声は高く、弾んでいる。
喜びを隠そうともしていない。
インナは、言葉を失ったまま、
ただその光景を見つめていた。
「……入れ替わっ……た、の……?」




