第78話
静寂の中で、インナは子供の目をゆっくりと見つめる。
目の前にいる“それ”は、初めて見る幽霊と呼ばれる存在――生と死の境目に立つ気配。
不思議とあまり恐さはない。
子供のような無邪気な黒目に、ゆらゆらと青白く揺れる輪郭。
「……えーっと……水子、いや違う? あれは人の形を形成してない球状のはず。 じゃあ、ホーンテッドスピリッド? それも違うかぁ」
インナは首を傾げ、ふと昨日読んでいた237ページの記述を思い出す。
「……あっ! たしか、フェイドリング!」
インナは、降霊術の本で挿絵にあった子供の幼子のことを思い出す。
アンデッドとしての戦闘力は、決して高いわけではなく、この世に留まる期間も短いため、
ネクロマンサーからも、あまり興味を持たれない存在。
しかし、幼い故の想像力の高さから、思わぬ固有能力を持つことがあり、未知の素質を持つ。
フェイドリングの視線が冥印へと向く。
冥印の線が、月明かりを受けて、微かに脈打つ。
「……ねえ」
インナは胸の前で指を組み、恐る恐る問いかけた。
「あなた……どうして、ここに残っているの?」
フェイドリングは、すぐには答えなかった。
視線が、部屋の床をなぞる。
そこには、もう何もないはずなのに。
やがて、ぽつり、と。
「働いて……運んで……」
言葉は短く、区切られて落ちる。
「石……重くて……寒くて……」
それは説明というより、
身体に染みついた感覚の断片だ。
「ごはん、少なくて……眠る場所、なくて……」
インナの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……それって……」
喉が、ひくりと鳴る。
「……城の外の……採石場とか……?」
フェイドリングは、首を傾げながらも続ける。
「……わかんない。 でも逃げたら、ヒモで叩かれた。
遅れたら、ヒモで叩かれた」
淡々とした声には、怒りも恨みもそこにはない。
ただ、“そうだった”という事実だけが、置かれる。
インナは一瞬、言葉を失った。
――ヒモ。
おそらく、鞭のことだろう。
「……毎日?」
「……毎日」
「……子どもでも?」
「……子ども、いちばん軽いから。
運ぶの、向いてた」
その言い方が、あまりにも自然で、
インナの呼吸が、浅くなる。
「……止める人は……?」
フェイドリングは、首を傾げた。
「……叩く人は、
命令だから、って言ってた
亀さんやトカゲさんのマークつけてた、服の」
その一言で、何かが、ぴたりと噛み合った。
(特徴的な軍服……それって、あの国……?)
脳裏に、歴史書の一節が浮かぶ。
王族として学んだ、過去の支配体制。
かつてこの地を治めていた、旧王朝。
「秩序維持のため」
「公共事業のため」
「国の繁栄のため」
そうした言葉の陰で、
“名を持たぬ労働者”を大量に使い潰していたと、
ほんの数行で片づけられていた章。
(……あれ、ただの昔話だと思ってた)
インナは、無意識に唇を噛みしめる。
教本の中では、遠い過去の、すでに終わった出来事だったはずだ。
「……それ」
声が、思ったより低く出る。
「歴史の本に……書いてあった国かもしれない」
言葉を選びながら、続ける。
「国旗に亀と二匹の翼を持たないドラゴンが描かれているって、習ったの」
フェイドリングは、首を傾げたまま、
しばらく考えるような間を置いた。
「……たぶん、よくわからないけどそう」
その曖昧な返事が、
かえって確信に近づけた。
(……やっぱり)
「重労働に耐えられない者は自然と淘汰された」
教本では、そんな一文で締めくくられていた。
“自然と”ーーーー
かつてこの地の東側を治めていた亡国。
繁栄の陰で、数えきれない労働者を使い潰した国。
(……この子はその中の、たった一人、なんだ)
十四歳の王女は、思わず口元を押さえた。
生まれてから十四年。
守られ、教えられ、“当たり前に親がいる世界”しか知らなかった。
“親がいないまま生きる”ことを、想像したことすらなかった。
「……そんなの……あまりにもひどすぎるよ、救いがなさすぎるよ」
言葉にならない…….視界が滲み、
涙が一粒、床に落ちる。
フェイドリングは、その涙を、不思議そうに見つめていた。
「泣くんだ」
「だって……」
声が、かすれる。
「だって……ただの昔話みたいに
本に書かれてただけなのに……」
涙が、止まらない。
「あなたみたいな目にあうのが“仕方なかった”って……
“時代だった”って……そんなの……あなたは耐えて」
言葉が崩れる。
「……生きてたんでしょう……?」
フェイドリングは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「……うん。
生きてた」
その一言が、インナの胸を、深く貫く。
「……ごめんね」
理由の分からない謝罪が、
口から零れる。
「私……何も知らないで……
ここで、退屈だなんて……!」




