第77話
ある夜、インナは夢を見る。
夢の中で、インナは自室へ続く城の回廊を歩いていた。
夜の城はひどく静かで、灯りは落とされ、壁の装飾も影の輪郭だけを残している。
――そのときだ。
自分の足音とは違う音が、背後からついてくる…乾いた靴音ではない。
もっと軽く、布を引きずるような、幼い足取り。
振り返る…そこに「誰か」がいる、はずだった。
しかし見えたのは、子どもの姿――ではなかった。
人の形をしているようで、していない。
輪郭は曖昧で、月明かりに溶けるように半透明で、青白い。
それは、言葉もなく、ただインナの部屋の前の廊下をすう、と滑るように移動していく。
歩いているのか、浮いているのかも分からない。
床に触れている気配はなく、
けれど確かに「通り過ぎた」という感覚だけが残った。
(……今の、もしかして……ゴースト!?)
そう思った瞬間、夢は途切れる。
目を醒ますと、部屋には誰もいない。
夜気だけが、微かに冷たく肌に残っている。
――だが、胸の奥に、まだ何かが引っかかっていた。
空気の中に、淡い残滓のようなものを感じる。
ゴーストクイーン――かつてこの城に縛られていた存在の名残。
その気配に導かれるように、インナの視線は枕元の降霊術の書へと吸い寄せられていく。
ページをめくる指が、止まらない。
古代文字が、ただの知識ではなく、何かを呼び戻す道筋として、頭の中に流れ込んでくる。
気がつくと、インナは机に向かっていた。
紙を押さえる左手、羽根ペンを握る右手。
呼吸は浅く、思考は静まり返っている。
――描かなければならない。
そう思ったわけでもない。
ただ、線が“そこに在るべき場所”を、指先が知っていた。
円ー重なり合う曲線、名を持たぬ文字列。
ネクティルフォルマ。
死と死のあいだをつなぐ、冥なる術印…インナは一心不乱に線を引く。
迷いはなく、書き直しもない。
インクが紙に沈むたび、部屋の空気がわずかに軋む。
最後の一画を描き終えた瞬間、胸の奥にあった引っかかりが、静かに形を持った。
そのとき。
「インナ」ー低く、硬い声。
びくり、と肩が跳ねる。
羽根ペンが紙の上で止まり、
インクの一滴が、冥印の縁に滲んだ。
「いよいよ式典は、二日後だ」
声は、扉のすぐ向こうから聞こえる。
父は部屋に入ってこない。
扉一枚を隔てた距離で、ただ呼びかけている。
その声には、感情の揺れがない。
命令とも、確認ともつかない、王の声音。
「……はい、お父様」インナは本を閉じ、机から離れ、背筋を正した。
扉の向こうで、足音が遠ざかる。
それだけで、この会話は終わりだった。
夢の余韻も、廊下を滑る影の気配も、
現実の冷たい空気の中へ押し戻されていく。
だが――あの小さな足音だけは、まだ耳の奥に残っていた…
式典の練習は、いつも通り淡々と進む。
所作、詠唱、立ち位置。
細かな誤りを正され、声の高さと間の取り方を整えられ、
すべてが滞りなく終わる。
父は短く頷いただけだった。
それが、解散の合図。
インナは一礼し、静かにその場を辞した。
回廊を離れると、城はいつもの顔に戻っていた。
高い天井、冷えた石床、規則正しく並ぶ灯火。
儀式の場で張りつめていた空気は、すでに薄れている。
それでも、胸の奥に残る違和感だけは消えなかった。
あの夜の夢。
廊下を滑る影。
耳の奥に残った、小さな足音。
――考えないようにしよう。
そう自分に言い聞かせるように、インナは自室の扉を閉めた。
部屋の空気が、また少し冷える。
――ことり、微かな音。
夢の中で聞いたのと、同じ軽さ。
インナは、ゆっくりと身を起こした。
机の前に、“それ”はいた。
子どもの背丈。
だが影は淡く、輪郭は揺らいでいる。
足は床に触れていない。
残り子。
――現世に引き寄せられ、名を与えられぬまま留まる、幼き死者。
生と死の狭間で、消えきれずに残った霊体系アンデッドだ。
インナは、息を呑んだ。
「……あなた」
声が、かすれる。
「あなたは……夢で見た」
残り子は、ゆっくりと首を傾げる。
笑っているのかどうか、判然としない。
口元は確かにあるのに、そこに浮かぶ感情だけが、定まらなかった。
「ここに、呼ばれた!」
子どもの声は、死が灯火を揺らすように、かすかに揺れる。
「それが、道だったから」
残り子の視線が、机の上の紙――冥印へと向く。
冥印の線が、
月明かりを受けて、微かに脈打った。
「そっか!…ネクティル・フォルマ、私が描いたのに引き寄せられてきたのね?」
インナの問いに、残り子は、ゆっくりと頷く。
夢では、終わらなかった。
もう、戻れないと理解した瞬間、子どもの足音がまたひとつ――




