第75話
午前。
今日もインナにとって、退屈ではあるが、気を抜くことは許されない、そんな一日が始まった。
朝から続くのは、剣や魔法ではない。
言葉の選び方、視線の置きどころ、玉座の間を想定した立ち位置と、沈黙の長さ。
式典を見据えた作法稽古。
加えて、聖王国との合同儀式に向けた想定問答や、
王族としての振る舞いの最終確認。
二週間後に迫った式典を思うと、胸の奥が、じわりと重くなる。
「……インナ」
不意に、低い声が割り込んだ。
振り返ると、いつの間にか、父――王が立っていた。
稽古の様子を、最初から見ていたのだろう。
「今の所作だが」
王は一歩近づき、ほんのわずかに眉をひそめる。
「視線が、外へ流れていた。
あの場では、余計な感情は見せるな」
「……はい」
反射的に返事をする。
「式典は遊びではない。
お前が立つだけで、国の印象が決まる」
叱責は短く、声も荒くない。 それでも、胸の奥に残る重さは消えなかった。
「次は、気をつけろ」
それだけ言い残し、王は踵を返す。
ひと通りの稽古が終わり、しばらくの休憩を告げられる。
インナは城の外縁に出て、花壇に並ぶ花々に水をやった。
青や黄色をした小鳥に、なんとなく話しかけてみる。
城の外へ出られるわけではないが、
空と風を感じられる、この時間は嫌いではなかった。
「おお、インナ王女。
本日も、作法の稽古でございますか」
声をかけてきたのは、城門を守る兵士――ガントだった。
年嵩で、礼儀は崩さないが、どこか気さくな男だ。
「ガント、あなたこそ。
毎日ここに立っていて、大変でしょう?」
「いえいえ。
戦地に赴くわけでもなく、城を守るのが我らの務め。
この平和な国では、ありがたい役目ですな」
インナは少しだけ間を置いてから、口を開く。
「ねぇ、ガント。
ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「はい、なんなりと」
「……亡霊って、あなた。
見たこと、ある?」
その言葉に、ガントは目を見開いた。
「レ、レイス……でございますか?」
王女の口から、 アンデッドの名が放り投げられるとは思っていなかったのだろう。
一瞬、言葉を探すように視線を泳がせる。
「申し訳ありません、王女様。
私は生まれてこのかた、この城の兵士。
魔獣の出る辺境や、戦場へ送られるような任もなく……
アンデッドの類と刃を交えたことは、ございません」
「……そうなのね」
「ですが」
ガントは、少しだけ声を潜めた。
「弟のグリントが、シルバーランクの冒険者でしてな。
幽霊や、ゾンビといった
下級のアンデッドであれば、
何度か討伐したことがあると、申しておりました」
そして、慎重に尋ねる。
「王女様…… アンデッドが、何か?」
インナは、花に水をやる手を止め、
少しだけ微笑んだ。
「ううん。 ただ、気になっただけよ!」
やがて踵を返し、自身の部屋へと戻っていくインナの背を、
部屋に入ると、インナはすぐに机へ向かい、
鍵を開けて、例の降霊術について記された古びた分厚い本をゆっくりと取り出した。
鍵をかけていたのは、万が一、父の目に触れないようにするため。
…だけではない。
この本に書かれていることは、
子どもながらに、あまり踏み込まないほうがいい領域だと、直感が告げていた。
それは夜だった、というのも大きい。
夜は、考えすぎてしまう時間だ。
昼間なら笑って流せた違和感も、
暗がりの中では、妙に輪郭を持って迫ってくる。
結局のところ――インナは、その静かな誘惑を、振り切ることができなかった。
怖いから、ではない。 知りたい、という気持ちが、
それ以上に強かったのだ。
「へぇ……この本、ゴーストを召喚したり、話をする以外にも降霊して、
霊と肉体を入れ替えることができる、って書いてあるけど……すごい」
ページをめくりながら、インナは首を傾げた。
「”死者葬”と、ちょっと似てるのかな?」
ふと、兄が昔、怪談まじりに語っていた話を思い出す。
ネクロマンサーと呼ばれる、冥術に長けた者たちが行う――死者葬。
死者の霊魂を呼び出し、生者と“会話ができる状態”にまで引き上げる、
会得者は多くなく、比較的まれで、扱いの難しい技術。
「古代ヌビトでいう……
ブア――魂を呼び寄せるのと、近い感じなのかな」
そう考えると、少しずつ輪郭が見えてくる気がした。
「……あ、なるほど。
ちょっとずつ、わかってきたかも」
ページを戻ったりしながら、若干うなづく。
だがインナ自身に、いわゆる冥力の素質はない。
人はそれぞれ、呪力、冥力、魔力など、
いずれか一つを強く宿して生まれると言われている。
インナの場合は、聖素。
どちらかというとアンデッドを浄化し、他者の傷を癒すための力だ。
だが、それを冒険者のように鍛え上げ、実戦で使えるほどに高めるのは、ほぼ不可能に近い。
王女であり温室育ちのインナはせいぜい、人より少し回復が早い程度。
良くも悪くも、彼女は普通の人間だった。
「この本の作者も、
もともとは冥力を扱えない人だったみたい」
ページの余白に残された走り書きを、指でなぞる。
「だから、儀式や秘術を使って、
レイスやゴーストに強く干渉する方法を、
必死に探究した……ってことね!」
妙に、親近感が湧いた。
「まずは…蝋燭を用意する、っと」
視線を上げて、考える。
「蝋燭…食堂から拝借するしか、なさそうね?」
ブツブツと、独り言のように手順を復唱する。
ほんの好奇心。 ほんの退屈しのぎ。 何も起こらなければ、それでいい。
ただ、知りたいだけなのだ。
数十分後。
「……ふぅ。
給仕係に見つからずに、なんとか持って来れたわ」
小さく息をつき、蝋燭を机に並べる。
「で、次は……」
本に視線を落とし、眉をひそめる。
「……冥印を、描く?!」
インナは、無意識のうちに唾を飲み込んでいた。
「うーん……古代ヌビトの本で見た、
象形文字みたいな感じなのかな?
……いあy、ちょっと違うかぁ」
本に記されていたネクティル・フォルマは、円形の図形を軸に構成されていた。
幾重にも重なる円の内側と外側をつなぐように、細い線が放射状に伸び、
線の合間には、文字とも記号ともつかない印が刻まれている。
「これ描くのはさすがにちょっと大変そうだし、明日でいいよね!」
インナは本と蝋燭をまた机にしまって、再度鍵をかける。
代わりに、机の上に安置してあった読みかけの図鑑ーもう何周もしているのだがーを無造作に手に取る。
それは何度も読み返してきた、古代ヌビト文明の図鑑。
神々の像、墓の壁画、穏やかな死後の世界――
見慣れたページは、心を落ち着かせてくれる。
「式典は二週間後…はぁ、緊張してきたなー。
本当に誰か変わってくれないかな?」
叶うことのない妄想をぽつりと呟き、今日も壁に囲われた王女の一日は終わった。




