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第74話

イブール王国。

セルリアール王国の南に位置するこの国は、温暖な気候と肥沃な大地に恵まれた、比較的歴史の浅い王国である。

大きな戦乱に巻き込まれることも少なく、周辺諸国との関係も安定しており、交易路としても要衝に数えられていた。

農業と手工業を中心に経済は回り、民の暮らしは概ね安定している。

端的に言えば――平和な国だ。

少なくとも、記録の上では。

イブール王国は強い軍事力を誇るわけでも、特別な魔術体系を持つわけでもない。

それでも国家が成り立っているのは、長年「争わないこと」を選び続けてきた結果だった。

その選択が、常に正しかったかどうかは、また別の話である。

そんなイブール王国の王城。

白い石で築かれた城は装飾過多ではなく、威圧感も薄い。

王の権威を誇示するというより、国の象徴として「そこにある」というのがしっくりくる建物だ。

城の一室に、王女――インナがいた。

白い石壁に囲まれたその部屋は、光がよく入り、調度も申し分ない。

誰が見ても、王族にふさわしい空間だ。

だが、その中央に立つ少女の表情は、年相応の柔らかさを欠いている。

年若く、まだ外の世界をよく知らない王女。

豪奢な衣装は体に合うよう丁寧に仕立てられているが、

それは守るためのものというより、役割を示す印のように見えた。

扉の向こうで、足音が止まる。

その音を聞いただけで、インナの背筋がわずかに強張る。

「――入るぞ」

返事を待つことなく、王は入室した。

重い扉が閉まる音が、部屋の静けさを完全に断つ。

彼は王であり、父であり、

この城で、最も逆らえない存在だ。

「インナ」

名を呼ばれただけで、身体が小さく反応する。

「お前は王女だ。

この国が平和である限り、お前がその中心にいる」

そう言いながら、王はインナの肩に手を置く。

力は込められていない。

その手が“逃げ場を塞ぐもの”だということを、インナはよく知っていた。

「式典はもうすぐだし、

 聖王国との合同儀式も控えている」

王の声は落ち着いていて、

まるで娘の将来を案じているかのよう。

「式典に立つ以上、失敗は許されない。

……わかるな?」

肩に置かれた手が、わずかに位置を変える。

それだけで、部屋の空気が目に見えない重さを帯びる。

「そのために、お前は存在している。

 余計な考えも、感情も、必要ない」

言葉は静かで、穏やかだ。

インナは何も言わない。

首を縦に振ることも、横に振ることもない。

ただ、その場に立ち尽くしている。

王の言葉は命令ではなく、この国の在り方だ。

しばらくして、王は満足したように手を離す。

「よろしい。

お前は、よくやっている…式典が終わったら、ラピスラズリの嵌った宝石首飾り(ジュエルネックレス)を買ってやる。」

それだけ言い残し、踵を返す。

扉が閉まる音が、再び部屋に静寂を戻した。

――数秒。

残された部屋で、インナはその場に立ち尽くしたまま、

やがて、肩の力を一気に抜いた。

「……ぷはーっ!」

深く息を吐き、壁に背を預ける。

「はー……もう。

お父様、やっと出ていってくれた」

誰もいないのを確かめてから、

インナは小さく口を開ける。

「式典は大事なの、わかってるよ?

わかってるけどさぁ……

ご飯の時も、歩く時も、寝る前まで、

式典、式典、しきてんしきてん……!」

糸が切れたように、言葉がこぼれ落ちる。

「はぁ……」

窓辺に歩み寄り、インナは外を見下ろした。

「なんかさぁ……

私だって、年相応の恋とか、してみたいんだけど?」

自分で口にして、少し照れたように頬を掻く。

「生まれてから十四年。

ほぼ、この城の中だけだよ?

王女だから仕方ない、って言われてもさ……」

小さく笑う。

けれど、その笑みは、すぐに消えた。

窓の外では、城下町の鐘が鳴っている。

今日も、平穏な一日が終わろうとしていた。

この国は平和だ。

争いもなく、民は笑い、戦火は遠い。

――ただし、その平和が、

誰の沈黙と、誰の閉塞の上に成り立っているのかを、

知ろうとする者はいないのかもしれない。

「普通の女の子は、お姫様に憧れるって言うよね」

インナは小さく肩をすくめた。

「白馬の王子様が迎えに来て、自分にドレスを着せてくれる。

……ふふ、馬鹿馬鹿しい」

すぐに視線を逸らす。

「もし、私にも“王子様”がいるならさ……

いっそ、この城から連れ出してほしいわ」

幼い頃。

「外の文化を学ぶためだ」と言われて見せられた、紙芝居の物語。

城の外には広い世界があり、

そこでは人が、自分の足で行き先を選ぶのだと、絵は語っていた。

「お兄様は、外交の名目で城を出られる。

弟だって、将来は軍や教会に預けられるって話」

王族としての“役目”はあっても、

彼らには選択肢が用意されている。

「……私だけ、最初から居場所が決まってるんだ」

王女だから。

象徴だから。

平和そのものだから。

インナは、もう一度、窓の外を見た。

自由に行き交う人々の姿が、やけに遠く感じられた。

今日も疲れた。

インナは大きく伸びをして、ベッドに身を沈めた。

張りつめていた一日が、ようやく終わったのだと思うと、

意識は驚くほど早く、闇に落ちていった。

翌朝。

侍女に起こされ、いつも通りの一日が始まる。

身支度、姿勢、歩き方。

玉座の間を想定した立ち位置で、礼の角度を何度も確認される。

「王女殿下、視線はもう少し柔らかく」

「式典では、右足から一歩前へ」

「背筋は伸ばしたまま、肩の力は抜いて」

「微笑みは三拍数えてから」

繰り返される“王女としての練習”。

身体は覚えている。考えなくても動ける。

それが、少しだけ怖かった。

午前の稽古が終わり、短い自由時間が与えられる。

インナは、なんとなく城内の図書室へ向かった。

高い天井、壁一面の書架。

埃と羊皮紙の匂いが混じった、静かな場所だ。

――ここは、好きだった。

誰にも見られず、本を開いている間だけは、

自分が“象徴”であることを、ほんの少しだが忘れられる。

とくに、古代ヌビト文明の歴史の本は面白い。

ヲーやキシスなどの、様々な神を信仰し、

死を終わりではなく、役割の変化として受け入れていたという思想が、

なぜか胸に残った。

棚を眺めながら歩いていると、

指から、きらりと光るものが外れた。

「あ……」

金の指輪が床に落ち、

ころころと音を立てて転がっていく。

追いかけて屈んだ、その先。

指輪は、書架の一番下、

普段あまり使われていない古い棚の前で止まっていた。

そこに、一冊。

他の本よりも色が沈み、

背表紙の文字は、ほとんど擦り切れている。

とても古い本だ。

――降霊儀式についての記述。

そう、かろうじて読み取れた。

明らかに他のとは雰囲気が違うような、この城に似つかわしくない、こんな本があることに驚く。

インナは一瞬、周囲を見回す。

誰もいない。

なぜか胸が、少しだけ早く鳴る。

「……」

指輪を拾い上げ、

そのまま、本にも手を伸ばしてしまった。

重い。

そして、不思議と冷たい。

部屋に戻るまで、誰にも見つからなかった。

インナは扉を静かに閉め、

本を机の上に置く。

指が、ページを開くのを止めなかった。

そこには、

“霊魂を呼び寄せるための準備”

“器となる場”

といった言葉が並んでいる。

難しくて、よく分からない部分も多い。

「……降霊、か。

 古代ヌビトの本と比べると、随分、生々しいけど……」

ページをめくる指が、わずかに止まる。

「……亡霊レイスって……たしか、

 アンデッドが発生する墓地とかで現れる、おばけよね」

インナは記憶を探る。

古代ヌビトの思想では、

死者は正しく葬られ、名を呼ばれ続けるかぎり、

魂は静かに来世へ向かうものだった。

肉体は朽ちても、

魂――ブアとマーは分かたれ、

正しい儀礼のもとで再び結び直される。

だから、本来なら。

彷徨う魂など、あってはならない。

「……なのに」

この本に書かれている亡霊は、

祈りも、裁きも、来世も与えられず、

ただ“残ってしまったもの”として描かれている。

守られなかった魂。

役割を終えられなかった存在。

「……ずいぶん、違う考え方」

それは、古代ヌビトが大切にしてきた

秩序や循環とは、あまりにも相容れないものだった。

インナは、そっと本を閉じた。

ただの好奇心。

外の世界を知りたいという気持ちの、延長線――

そう思おうとしたが、

胸の奥に、言い切れない違和感が残った。

インナは、本を机の引き出しにしまい、

鍵をかけた。

――今夜は、もう遅い。

そう思いながらも、

その夜、眠りにつくまでのあいだ、

あのページの文字が、何度か脳裏に浮かんだ。


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