第61話「木陰からコンニチハ」
森の中は、迷路というよりもはや“迷宮”と呼ぶべきだった。
「迷路」という言葉がむしろ優しいとすら思えるほどに。
現世と比べても、異世界の森はやはり異質だった。
妙な形の虫、空を飛ぶ奇怪な鳥、そして魔獣――
見たことのない生き物が確かにうろついている。
だが、葉がピンクだったり、地面が宙に浮いていたり――
そんな突飛な光景は、ここにはない。
意外なほどに、この森の造形は“自然”として理に適っていた。
……だからこそ、自分がいまどこを歩いているのか、まったく見当がつかない。
「参っタなぁ...飯ヲ食わなクても歩き続けらレるのはいイが、ドの方向ニ行ケば街がアルのか、全くわからナいゾ!」
ミイラ男は、片足をわずかに引きずりながら歩く。
動きはぎこちなく、体感で言えば成人男性の7割ほどの速度だ。
けれど、彼はアンデッド。動く死体にスタミナという概念はない。
半永久的に歩き続けることができる。
脱出した時は朝日が差し込んできた。
そして今、空の色は茜に染まりつつある。
つまり、半日はさまよっていることになる。
「ン?なンだ?こノ、水色...のゼリー?みたイな...キノコか?!」
ふと目に留まったのは、木の幹に貼りついた半透明のぷるぷるした物体だった。
……暇だし、触ってみるか。
ぷにっ。
指を押し当てると、やわらかく軽い反発が返ってくる。
なんとなく癒されて、もう一度、さらにもう一度つつく。
「あ、動イた。」
物体は「うにょうにょ」という擬音がぴったりな動きで、
ゆっくりと葉の陰に隠れていった。
その姿は、以前見たものに似ている。
ゴンギが召喚したプチゴースト。あれと、どこか形が似ていた。
「……もしかシて、こレがスライムってやつカ?毒とカがあっタとシても、俺ノ身体ナら大丈夫だロウよ...タブン」
そういえば、王都で出会った冒険者――ユキミという女が言っていた。
スライムの体液は、回復薬の素材として重宝されるのだと。
なるほど、そんな使い道もあるのか……などと考えながら歩いていると、
じわじわと、疲労が浮かび上がってきた。
まぶたがじんわり重い。そろそろ眠気が勝りそうだ。
日が完全に沈んだら、そこらの柔らかそうな草の上か、安定感のある低木にでも体を投げ出して眠ろう。
眠るというより“死んだふり”だが……まあ、意味は似たようなものだ。
──と、そのとき。
ふと、空気が揺れた。
微かな声のようなものが、風に混じって耳に届く。耳はないが。
ミイラ男は思考を切り替えた。反射的に木の影に身を潜め、音の方向へとゆっくり進む。
「……誰かいルな」
慎重に、枝を踏まぬように。
ギシ、ギシ、と湿ったミイラの足音が土を踏む。まさにミイラウォーク。
やがて──見えた。
木々の隙間から、人影。
しかもひとりではない。……4人、いや、5人か。
そのうちの1人は地面に倒れており、全身が血に濡れていた。
「おのれえええ!アメジストタイガーめっ!」
短髪の青年が怒声を上げる。
彼の視線の先、茂みを割って姿を現したのは――
茶色の毛並みに淡い縞模様が走る、大型の獣。
虎に酷似してはいるが、その額には青紫の宝石が埋め込まれていた。
──アメジスト。
これが、名の由来か。
尻尾は異様に長く、まるで体長と同じほどもある。
そしてその口元と右の前脚には、生々しい血が滴っていた。
「強そウな魔獣だな……シチューと違って。殺意の塊、野生って感じダ。」
木の陰から、ミイラ男がポツリと呟く。もちろん誰にも聞こえない声で。
突如、虎が跳躍した。
「キャアッ!」
高い悲鳴が上がる。
杖を構えた元素術士らしき女性が弾き飛ばされ、背後の木に激突して崩れ落ちた。
「ミラハル!」
細目で無口そうな男が名を叫ぶ。
盾を構えて前に出ると、また別の仲間の女性――聖職者か?――をかばうように立ちふさがる。
その後方で、癒しの術が発動する。
「間に合って……!」
女性の手元が光り、地に伏した仲間が呻き声を上げた。
――まだ、死んでいない。
虎が再び身を沈める。次の攻撃の構えだ。
短髪の青年が剣を抜き、真正面から突進する。
「よくもミラハルをッ! うおおおおっ!!」
その隙を突くように、駆け出しの冒険者ーー細目で無口そうな男が、もう片方の手をかざす。
「地石弾!」
元素魔力が凝縮し、三個の岩になると、それらは青白い光を纏い、弾丸のように放たれる。
剣の攻撃は躱されて空を切るが、岩弾は虎の右頭部付近に直撃する。
「よし、当たった!」
喜びの声。しかし、虎の反応はそれに続かない。
怒りに満ちた咆哮が、森の空気を一変させた。
まるで、獣の尊厳を傷つけたことへの報復とでも言いたげな、鋭い眼差し。
ミイラ男は木の影でじっと見守る。
助けに入るべきか、逃げるべきか――判断を迫られていた。
「助けたほうガイいか?でも虎こえエシな……」
そのとき、短髪の青年がぼそりとつぶやいた。
「……スウィン渓谷のベヒーモスが倒されて以来、魔獣が縄張りを移し始めてる」
言葉を吐き出すように、彼は続けた。
「よりによって、こんな森で鉢合わせるなんて……運が悪すぎる」
──ベヒーモスが倒された?
ミイラ男の目がかすかに見開かれた。
「……オい、今の話、もウチょっと詳しク……」
誰にともなく呟く。もちろん誰も応じない。
だが、心は決まった。
「……よし、助けるか」
ミイラ男――河来未来には、もともと人助けの精神なんて根づいていない。
第一、今の彼は“人間”ですらない。乾ききった肉体に、紫紺の冥力が通うだけのアンデッド。
そう考えると、生身の人間たちを前にしても、もはや“同族”という感覚はなかった。
日に日に、人間的な情感が薄れていくのを、自分でも感じている。
――それでも。
ほんの少しだけ胸の奥がざわついた。
昔のことを思い出した。
ある日、小学生くらいの男の子が、母親の手を引いて展示の前で立ち止まっていた。
「このミイラ、こわい……」と泣きそうな声を出していたので、俺は思わず声をかけた。
「大丈夫。怖いもんじゃないよ。昔の人が、“あの世でも元気でいられますように”って、ちゃんと包んであげたんだ」
すると、男の子は少し考えてから、「じゃあ、包帯はおふとんみたいなもの?」と聞いた。
俺は笑ってうなずいた。
あのときの光景が、なぜかいまも脳裏に焼きついている。
――だからだろうか。
今、虎に追い詰められて必死に叫んでいるあの冒険者を見ても、
ただの“他人事”として見過ごすことが、どうしてもできなかった。
包帯をギュッと巻き直す。
目にほんの少し、決意が灯る。
「ファラオ、いっキまァ~~~ス!」




