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第60話「棺リスポーンから始まる森の無計画冒険記」

精神が朦朧としていた──アンデッドにしては妙な話だが、長期にわたる密室生活により、肉体には異常がないにもかかわらず、精神の方がじわじわと蝕まれていたのだ。

だがそんなミイラ男の目には、ゆっくりと倒れてくる枝分かれした幹の動きが、まるで猛禽類の目のように鮮明に映っていた。動きがスローモーションのように見えるほど、集中している。

何せ、この作戦が失敗すれば打つ手はない。

ゴンギが戻ってくるのを待つか、偶然誰かが侵入してくれるか、あるいは地震でも起きて地下が崩れるか──そんな運任せの展開に頼るしかなくなるのだ。

「頼む……こっチに倒れてクレ!モう、コレを逃しタら...俺ハ」

意識を保持したままこの地下室に永遠に閉じ込められる無限地獄を想像しかけて、無理やり辞める。意識を目前に集中させる。失敗があっていいわけがない。

包帯を木の幹にぎゅっと括りつけ、ミイラ男は天井のガラス窓に向けて、じりじりと力を込めて引き始めた。

今の彼自体は女児程度の出力しかないハズだが、もはや執念だ。河来 未来としての執念が、木を引っ張る力をブーストさせている、ような気がした。

包帯は、まるで途中で消えてしまったかのように、天井のガラス部分で一度見えなくなる――だが確かに、その先へと続いている。

なぜ包帯が物質をすり抜け、向こう側の幹にまで巻きついているのか?

なぜガラスを貫かず、あたかも透明になったように見えるのか?

……そんな理屈は今はどうでもいい。

いちいちつっこんだり検証している余裕は今はない。

使えるものは使う。それだけだ。

当初、彼は楽観的だった。

自分が目覚めたのだから、ゴンギもきっと生きている、自分を探して帰ってきてれるに違いない──そう信じていた。

だが、待っても彼は現れず、次第に思考は変わっていった。

もしかすると、あの男は──すでに命を落としているのではないか。それとも、完全にファラオが消滅したと思っているのかも。

そう考えると、背筋がひやりとした。このまま、誰にも知られず、地下に取り残されるかもしれないのだ。そんな未来があっていいハズがない。

「うおオオおっ!倒レロォオオォオォオ!」

幹が完全に斜め四十五度に傾いたのを見て、彼はさらに力を込めて引き寄せる。

筋力も握力も、人間だった頃の半分にも満たない。

それでも諦めず、何十時間もかけて少しずつ──ただ、少しずつ動かしてきた枝だ。

バッ! メゴッ!

木の幹がガラス天井に直撃した。

葉が舞い、小枝が散る。ガラスには放射状のヒビが入り、手応えは確かにあった──あと一押し。

「くソっ! あと少しなノに……!」

しんと静まりかえる地下室。

だが、天井は砕け切らず、日差しは倒れた木と葉によって遮られ、空間は先ほどよりも一層の暗さに包まれた。

──心がざわつく。何かが、胸の奥で騒ぎ出す。

「なんテナ...コこまできて、あキら……めるカぁアアあ!」

ミイラ男は叫びながら、即座に新たな包帯を左手から伸ばす。

それを倒れた幹に巻きつけ、ガラスの外側から再びグググッと引っ張る。

何時間が経ったのか分からない。

ただ、外の明るさが徐々に朱色に染まりつつあるのを見て、日が傾いたのだと察した。

それでも彼は、腕を震わせながらひたすら引き続けた。

ガラスのヒビがじわじわと広がっていく。

やがて──パラリ。

小さな破片が音もなく床に落ちた。

ここで止めれば、ただ状況を悪化させただけで終わる。

彼は残された包帯の端を握り直し、ぶら下がるように全体重──たかだか二十キロに満たない体重だが──を幹へとかけた。

ギシ……ッ。

ひときわ長く、軋むような音がした次の瞬間。

パァァァァン――!

天井のガラスが、限界を超えて炸裂した。

鋭い破片が雨のように降り注ぎ、日差しとともに空気の流れが一気に地下室へとなだれ込む。

同時に、支えを失った幹が大きく崩れ、バサッと倒れ込んだ。

ミイラ男は思わず部屋の隅へ跳ねるように身を寄せる。

避けきれず肩に破片がかすったが、構っている暇はない。

天井は開いた。

空が、見えた。

「ようヤく……!」

彼は包帯まみれの両手を握りしめ、震える息を吐いた。

長かった閉じ込めの時間に、ついに光が差し込んだのだ。

感極まって涙が滲む。――ああ、懐かしい感覚だ。いや、本当に目元が濡れている。干からびたミイラなのに、なぜ?……たぶん、あの安ラム酒のアルコールがまだ抜けていないだけだろう。

水分がなくとも、飲酒すればある程度は涙も流せるし、汗も出るのだろうか。

もっとも今は、そんなことはどうでもいい。


***


森の中を、よたよたと進む。

ぼろ切れのようなフード付きローブに身を包み、顔の大半を影に沈めたアンデッドが、森をひとり歩いている。

その正体は――あの地下室からついに脱出した、ミイラ男だ。

服は、ゴンギの着替えを拝借したもの。多少くたびれてはいるが、顔を隠せるだけありがたい。包帯むき出しよりは、まだ“生者”に見える……はず。だが鏡で見れば、どう見ても死神の類だが。

長い、長い時間をかけて、ようやく日の光を浴びることができた。

それだけで、今は世界が祝福に満ちて見える。

──かつては、ガラス越しに展示品のホコリを拭いていた身。

それが今じゃ、必死にガラスを叩き割っていたとは。

我ながら、人生(死後?)って、何があるかわからない。

あの地下室で永遠を過ごす羽目になっていたらと思うと、背筋が凍る。

いや、彼にもう体温はないのだが、それでもそう表現したくなるほどの恐怖だった。


何せアンデッドである。

寿命はない。飢え死にもない。

発狂して自ら命を絶っても、あの棺が律儀にリスポーンさせてくるという徹底ぶり。

「……無事、生還しタ……って言っていイノかな、こレ」

包帯だらけの頬をかすめる風が心地よい。

木漏れ日が差し込むたびに、視界がまぶしく揺れた。


だが、ひとつ問題があった。

この森の地理だ。

王都の方向? どこに村があるか? そんなもの、見当もつかない。

この道が道なのかどうかすら怪しい。

森に長く住むゴンギだからこそ、地図もなしに森を抜けられたのだ。木や葉っぱの形からおおまかな場所を割り出せたのだ。

元都会人、現ミイラ男にそれを真似ろというのは酷な話だった。

「ま、イッか。とりあえず、どっかニハ着くダろ」

地下室の冷たくて無機質な空間に比べれば、森の中なんて天国そのものだ。

迷おうが、魔獣に襲われようが、バラバラにされようが――

どうせまた、例の棺からリスポーンするだけのこと。

今度は地下室からの脱出も容易だ。

「問題ナイッ、問題ナイッ!」

そう言って鼻歌まじりに、ミイラ男はのんびりと獣道を進んでいくのだった。

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