第58話「さて、帰るぞ。」
スウィン渓谷を囲む平野に、静寂だけが駆け巡る。
災厄の巨獣――ベヒーモスが微動だにしなくなり、勝利を確信した一行は、王都への帰還準備を進めていた。
「……いいんですかい、主人。」
ザンギリがぶっきらぼうに問いかける。
オークのアンデッド――彼の問いに、ゴンギは微動だにせず応じた。
「何がだ、ザンギリよ。」
「ファラオのアニキが、いなくなっちまったじゃないでごわすか。」
視認できず、呼びかけにも応じない。
あの冒険者ーリブキたちにも手伝わせて辺りを探した。だが、見つからなかった。
それだけが確かな事実だった。
冥力の残滓も、包帯の切れ端すらも、何一つ見つかっていない。
最終的に、誰もが渋々ながらこう結論づけた。
――衝撃波に巻き込まれ、滅んだのだろう、と。
「だから、その……代わりって言うのもなんですが、
ファラオのアニキの代わりに、ベヒーモスを蘇らせて使役するってのは……無理なんでごわすか?ほら、例の、不死王を倒すとかいう目的は。」
「不死帝な。ううむ、まぁ、そのような考えが浮かばなかったといえばウソにはなるが」
ザンギリは、単純な疑問だった。
ファラオは、ゴンギにとって切り札だったはずだ。
その切り札が、相討ちのような形で消滅してしまった今――
残された戦力は、オークのアンデッドと、ビッグラットのゾンビ、
それに宿に安置したままのスケルトンと、シグ。
歴史そのものを具現化した死の支配者といずれ戦うにしては、いささか心もとないのではないだろうか。
わずかな沈黙の後に一息ついたゴンギは、納得の表情を浮かべてから答えた。
「無理だな。これほどの巨体を蘇らせるには、莫大な冥力が要る。そうだな...たとえば、我はギルドに登録している死霊術師の中では、かなり上澄みのほうだと思う。」
「...本当でごわすか?ドジでファラオどんが居なくなったのに?」
「う、うるさい。それは想定外の出来事だったためだ。で、話を戻すが、そんな我が所有する冥力の総量を仮に"
100"、駆け出しの死霊術師たちのそれを"3"だとする。実際、それくらいの差があるだろう。」
ザンギリも、横で聞いていたゴロウスたちも、あまりピンときていないようだった。だが、ゴンギとはこういう男だ。自分の得意分野、死霊術に関することなら、ざっくりとした例えを提示しただけで、そのまま話を進めていく。
「そして、仮に私よりも強い死霊術師の冥力の総量は"150から200"だとする。そして、このベヒーモスをアンデッドにしてして従えるにはーーおおよそ、1000もの冥力が必要だろう」
やらないのではない。――やれないのだ。
ファラオが消滅し、彼に込められていた冥力はゴンギのもとへと還ってきている。
余力はあるが、それでも到底及ばない。
複数の熟練したネクロマンサーが協力して術を組み上げれば、あるいは……。
それほどの規模の仕事だ。
「シチューやお前を蘇らせたときのような簡易な蘇生陣では足りん。
まったく新しい《ネクティル・フォルマ》を開発せねばならん上に、冥力を溜めたり他から供給する必要が出てくる。装備も研究もアイテムも、何もかもが足りんな」
ゴンギは肩をすくめ、諦念とも疲労ともつかぬ表情を浮かべる。
熊のスケルトンを即席で復活させ、杖からは無数の霊体を呼び出す――
短時間の戦闘の中で、彼の死霊術の腕前は一同に強く印象づけられていた。
「ゴンギなら、何でもできるのでは」と思ってもおかしくはない。
「……まあ、伝説級の魔獣をアンデッドとして使役した例が、世界に皆無というわけではないがな。事実、かつての私の仲間もーーーいや、いい。それに」
ゴンギは話をさらに続ける。
このベヒーモスは、特にこの大陸の者たちにとって、買った恨みは数知れないだろう。
あまりにも多くの命を踏み潰し、遺族たちに怒りと悲しみを刻みつけてきた。
屍体とはいえ連れて歩けば、その姿を見た誰かが、いつ、どんな感情をぶつけてくるかわからない。
それは怒号か、あるいはもっと思いがけない形で。
正直なところ──
そんな厄介な代物を従えて旅するつもりなど、ゴンギには毛頭なかった。
だいたい、こんな規格外の巨体を連れていては、宿に泊まることすらできない。
強力な戦力は欲しい。だが、リスクというものもある。
それに今回は──
彼の視線がそっと逸れる。
まだ涙の跡が頬に残る顔に、安堵の色を浮かべて歩く騎士リブキ。
その肩を支えるゴロウスとユーキ。そして彼らの周囲を、どこか晴れやかな表情で歩くユキミの姿があった。
《――昔を思い出すな》
十年以上も因縁を背負い、仇と対峙し、それに勝った彼ら。
その背中を見て、ゴンギの口元にはほんの少しだけ笑みがこぼれていた。
「ん?」
隣でザンギリが、ゴンギの視線の先を追った。
「……ああ、なるほど。故郷を破壊されてるのに、ベヒーモスを復活させたりしたら……あの子ら、納得しなさそうでごわすね。」
ザンギリは不器用なオークの戦士であり、故郷の集落には家族もいる。
だからか、たとえ人間と種族が違えども、リブキたちの感情をなんとなく察したのだろう。
「んん?…ああ。そういうことだ。」
ゴンギはわずかに頷き、説明の手間が省けたことに感謝しながら、再び耳を澄ませた。
渓谷の風が、どこか遠くで草を揺らす音を運んできた――その時
「ゴーンギさんっ!」
突然、間に割って入るようにユキミの声が響いた。
「おおっ、お前は...ユキミか。」
声に驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、さっきまで後方を歩いていたはずのユキミだった。
戦闘では聖素魔術を使っていたが、本職はシーフだと言っていた。
隠密行動が得意なのも納得だ、とゴンギとザンギリは妙に感心する。
「終わりましたね、戦い。」
ユキミは夕日の差す方角を見つめながら、透き通るような声で呟いた。
いつもの無邪気な笑みの奥にあった、どこか「黒」を秘めた不穏な空気は、今はもう感じられない。
すべてを出し切ったような、清々しい表情だ。
隣に立つザンギリも、静かにその変化を感じ取った。
「……ああ。そうだな。帰るとしよう。」




