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第53話「終幕」

メキメキ、と骨も大地も軋むような不快な音が響く。

リブキはベヒーモスの前脚に押さえつけられ、銀色の鎧ごと地面に叩き潰されていた。

鎧が悲鳴のようにきしみ、唇の端から鮮紅の血が溢れる。

全身に力を込めるが、巨獣の一本の脚すら、まるで山のように重く抗えない。


ザンギリとゴロウスが駆け寄り、彼女の上に覆いかぶさる脚を剥がそうとする。

だが――


「何をしている!」

リブキの声が、かすれながらも戦場を切り裂く。

「今が好機だ! もうひとつの魔眼を潰せ! 私になど構うな、ベヒーモスの顔面に叩き込め!」


その言葉は剣のように鋭く、彼女自身を犠牲にしてでも勝機を掴み取らせようとする、執念の叫びだった。

ザンギリは一瞬ためらい、刃を握る手が震える。

しかしゴロウスは無言で、なおもその巨脚を押しのけようと力任せに斧の柄を押し込む。

「ぐおおおおおおおっ……!」

彼の咆哮と同時に、リブキの口から再び血が噴き、先ほどよりも濃い赤が鎧を染める。

その命が、砂時計のように削れていくのが誰の目にもわかった。


「じゃあアッシが!ていやー!」

ザンギリが、ゴロウスに任せるように戦斧を握り直し、跳ねるようにベヒーモスの下顎へと振り上げる。


「治療は任せるッス! 得意じゃないッスけど!」

ユキミがリブキに駆け寄り、両手をかざす。

彼女の指先から聖なる光と護りの符が一度に舞い、青白くきらめく。

元は盗賊シーフとして生きてきたユキミだが、幼い頃から聖素を扱える素養はあった。

だが――それを必死に磨いてきたとは、到底いえない。

かつての仲間、ヘンリスに比べれば拙く粗雑な術だ。

だがその必死の祈りは、確かにリブキの命を繋ぎとめていた。


同時に、ユーキの氷刃が唸りを上げ、ゴンギが召喚した新たなレイスの冥弾が、巨獣の反対側の顔面へと次々に飛ぶ。

「ガガアア!!」

そこへ、骸骨の熊が戦場に飛び込む。

白骨化した巨体が土煙を巻き上げ、鋭い爪でベヒーモスの脚元へと突進した。


「ゴンギさん! そのアンデッド……味方、ですよね?!」

混乱に揺れる声で問いかけたユーキに、ゴンギは一度も振り返らず、ただ低く短く――「……ウム」と応える。

ベヒーモスの咆哮で霧が吹き飛び、視界が開けると、そこに転がっていたのは一体の野生の熊の亡骸だった。

魔獣ではない、ただの熊。

だがその太い骨格、鋭く残った爪や牙を、ゴンギは躊躇いなく戦場の駒に換えた。


冥力に引き寄せられた骨がわずかにきしみ、組み込まれた敵意を纏って立ち上がる。

朽ちかけた皮と肉がまだ所々に張り付いているのも、生々しい。

それは即席の兵士にすぎなかったが、荒れた大地に爪を食い込ませ、揺るがぬ覚悟を宿したかのように、ベヒーモスへと食らいつく。


さらに、黒い弾丸のようなシチューが飛び込み、「ギチューッ!」と野太く吠えてベヒーモスの顔を攪乱する。


ドガッ――!

嫌な音が響く。

リブキを守ろうとしていたゴロウス、そしてユキミが、巨獣の牙の一撃で吹き飛ばされる。

ゴロウスはとっさにユキミをかばい、自らが下敷きになって着地するが、肩から乾いた音がして、深く損傷したのがわかる。


「ぐっおぉ……!」

「申し訳ないっす!」

「……気にすんな」


その瞬間、ベヒーモスの脚の力がわずかに緩む。

常人なら気づけぬ刹那の隙を、リブキは鋭く察知した。

その戦闘本能と、極限まで研ぎ澄まされた神経が、踏みつけからの脱出の機を見抜いたのだ。


「……ッ!」


全身の力を一つにまとめ、最後の力で巨脚の隙間から転がり出る。

その刹那――グシャッ、と別の衝撃音が戦場を覆う。

先ほどまで反対側で吠えていた熊のスケルトンが、もう片方の脚で無惨に粉砕され、白い骨片となって散った。

「チッ……」

ゴンギの舌打ちが、戦場の静寂に鋭く刺さる。

シチューは辛うじてかわしたが、その衝撃に怯み、後退する。


ゴンギは、ファラオを特攻させるのは奥の奥の手段にしておきたかった。

それは最終手段――できることなら使わずに済ませたい、とさえ思っていた。


たしかに、対をなす伝説の魔獣・リヴァイアサンに対して、あの呪いが効いたのは事実だ。

だがベヒーモスにも通じる保証はない。

ゴンギは、うすうす理解していた。ファラオの呪いは、一般に知られる「呪力を用いた攻撃」とは根本的に性質が異なる。

もはや“呪い”と呼ぶのも方便に過ぎず、あれは完全に別の原理で動いている。

だからこそ、未知であり、だからこそ恐ろしい。


どこまで通用するのか――それは、誰にも分からないままだった


無理に特攻させ、肉体が粉々に破壊されてしまえば――もはや満足に再生できるかどうかも分からない。

ザンギリに斬られた時のように、まだ形を保った破片が残っていれば話は別だ。

骸骨やゾンビなら、別の屍体の部品を繋ぎ合わせ、冥力を流し込めば修復は可能だが……

数千年の時を超えて保存されてきた、あの希少なミイラに、同じ理屈が通じる保証はない。


筋肉の補強や、失われた声帯の移植はなんとか成功した。

だが、それらもまだ実験段階に過ぎず、どこまで維持できるかは未知数だ。

加えてあの衝撃波。乾いた体のファラオがあれに迂闊に当たれば、影すらこの世に残らないだろう。


だからこそ、できることならファラオを切り札として温存したまま、討伐まで持ち込みたい――。


その迷いに決着をつけたのは、戦場で燃え上がる人間たちの姿だった。

リブキとゴロウスの宿命を背負った気迫。

ユーキの鋭い魔術と、ユキミの恐怖を押し殺した覚悟。

それらが、ゴンギに“賭ける価値”を思い出させたのだろう。


そして今――。

怒りに震えるベヒーモスの口内で、再び青白い光が渦を巻く。

洞窟の奥底で雷鳴が轟くかのように、反響する低い音が戦場の空気を震わせる。


――来る。

また、あの全てを薙ぎ払う衝撃波が。


先ほどよりも濃く、重く、殺意そのもののように青白いエネルギーが口腔の奥でうねり、溢れ出していた。

一同は息を呑む。

……連射するつもりだ。


恐るべき予兆を察した時にはもう遅く、光の奔流が三方向へ振り分けられる。

前方へ一発。視界を奪われた方角――シチューが錯乱させようと走り回る側へ一発。

そして、ゴロウスとユキミが立つ位置へ、決定的な一発が。


容赦ない閃光が地面を裂き、土煙を巻き上げ、爆風が戦場の空気を切り裂いた。

轟音が耳をつんざき、せっかく晴れていた霧は、再び爆炎と煤で覆い尽くされる。

だが、ベヒーモスはなおも動きを止めない。

もはや先ほどまでのように「仕留めたと思う」などという甘さは、微塵も残っていなかった。

魔眼がぎらりと光り、まだ生きているゴロウスとユキミの存在を、正確に見据える。



ゴロウスは、焼け焦げた息を荒く吐きながら、それでも決死の力で斧を構えた。

ミスリルで鍛え上げられ、刃には微量のの魔力が刻まれていたその斧を、自らとユキミを庇うように高く掲げる。

――もっとも、その斧はすでに刃の部分がボロボロに砕け、輝きも失われていた。

残されたのは無残に焦げ、ひび割れた柄の部分。

彼が握りしめているのは、もはや「斧の形をしていた、ただの棒」に過ぎなかったのだが、それでも振り上げるその背中には、まだ戦意が宿っていた。



容赦のない衝撃波の奔流は、彼の全身を襲い、皮膚は裂けてめくれ、赤黒い筋肉があらわになる。

筋繊維がびくびくと震えながら焼き縮み、骨が軋む音が聞こえるほどの激痛が彼を貫く。

歯を食いしばった口元からは血泡が弾け、白目を剥いた瞳に生気は残っていない。

立ってはいるものの、もはや戦闘を続けられる状態ではない。


そこへ、地面を割るような豪雷の足音。

ドドド、と地表を揺らしながら、ベヒーモスが突進を開始する。


リブキが叫んだ。

だがその悲痛な声は、ベヒーモスの蹄が刻む雷鳴のような轟音に掻き消され、届かない。

ユキミも、考える余裕さえなかった。逃げるには、あまりにも遅い。


誰もが思わず息を呑み、顔を覆い、祈った。

誰かの喉から洩れた「ああ……」という声が、張りつめた空気に飲まれていった、その時――。





瀕死の生者を轢き潰す寸前――突如、異変が起こった。


ベヒーモスの巨体が、前脚を地に突き刺したまま、そこで止まった。

その巨大な蹄が、ズズ……と不規則に滑る。


次の瞬間。

今までのどの咆哮とも異なる、獣というよりも地獄の底から這い上がるような、耳膜を裂く絶叫が戦場に響き渡った。

恐ろしく、そしてどこか哀しみを帯びた叫び声が、天を突き刺す。


全身から、黒く濁った瘴気が、爆発するように吹き出した。

まるでその巨躯が悪意そのものと化したかのように、地表に影が染み込み、空気が重く淀む。


そして、後ろ脚だけでぐらりと立ち上がった。

その姿は、王都の家々すら凌ぐ高さに達し、瘴気に包まれながら天に爪を伸ばすようにそそり立つ。

口元からは、ぶくぶくと黒い泡が溢れ出し、地面に垂れ落ちて煙を立てた。


……苦しんでいる?


まさか、あの災厄の化身が、痛みに苛まれているのか?

たしかに、奴は今まさに衝撃波で戦場を制し、ゴロウスたちを轢き殺そうとしていたはずだ。

リブキもユーキも、反撃する間などなかったはずだ。


だが、その動きは、明らかに「苦悶」としか形容しようのないものだった。


そして。


――ズドォォオオオオン!!!


巨体が、地響きを伴いながら横倒しに崩れ落ちる。

二本の後脚で立ち上がったままの体勢から、ついに力を失い、大地に叩きつけられた。

地面が深く陥没し、土砂が舞い上がり、戦場を覆う。

それは今日、この地で耳にしたどの轟音よりも重く、そして冷たい音だった。


ベヒーモスの体は硬直したまま、残された魔眼からゆっくりと光が抜け落ちる。

虚ろな瞳が、もはや何も映さず、どこまでも無言で空を仰ぐ。

分厚い舌が、だらりと地面に垂れ、巨躯の陰だけが重苦しく残る。


戦場に、耳鳴りのような静けさが広がる。

風さえも、今は息をひそめているかのようだった。


「……死んだ。」


ゴンギの、静かな一言が空気を震わせる。

冥力を感じ取れるその声に、誰も異を唱えなかった。

それは、恐怖でも歓喜でもなく、ただ重く、深く、戦いの終わりを告げる音だった。


負傷したリブキが、剣を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がる。

ユーキはふわりと宙から舞い降り、息を切らしながらも魔力の残滓を手放した。

「ギチュ?」と首を傾げるシチューが、ゴンギの裾にまとわりつく。

衝撃波を完全に避けきれなかったのか、尻尾は半分ほどに千切れ、先端は黒く炭のように焦げていた。

それでも、その丸い瞳だけは変わらず、主人を見上げている。


戦場の空気は凍りついたように動かず、誰もがその場に釘付けになっていた。


あの厄災が、地に伏している。

信じがたいその光景は、戦場の空気を張りつめさせたまま、重く静かに広がっていた。

常識ではありえないはずの、伝説の巨獣が、動かずに横たわっている。

だが、確かに――その巨躯は、もはや微動だにしない。


今もなお、ヤツの全身を覆っていた黒い瘴気の残滓だけが、かすかにうねり、蠢き、

夜空へと吸い込まれるように薄く消えていく。

それは、悪夢の名残が名残り惜しげに空を漂うようにも見え、

戦場に立つ者たちの背筋を、最後にもう一度ぞわりと撫でた。


爆風が少しずつ鎮まり、熱に歪んだ空気が冷めていく。

漂っていた土埃や灰が、静かに地面へと落ちてゆき、視界が開ける。

誰もが深く息を吐き、武器を持つ手の力をようやく緩めながら、

一同はようやく――この状況が現実であることを、少しずつ理解し始めた。


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