第51話「閃光」
本気で戦う気になったベヒーモスの強さは、圧巻だった。
もとより、ベヒーモスはその巨躯で――生物を踏み潰し、殲滅し、抹殺しながら進行する災厄だ。
山を崩し、森を薙ぎ払い、谷を埋める。踏まれた大地はひび割れ、命は一瞬で潰える。
その身体は巨獣でありながら意外と俊敏で、牙の一本一本に微量の魔力が宿り、多少の深手など一晩もせずに癒えてしまう再生力すらも持つ。
そして暗闇すら見通す青緑の魔眼が、逃げる獲物を確実に捉える。
ギルドが六十年もの間、命を賭けて観察し続けてきた伝説の魔獣。
記録によれば、ベヒーモスは進行のたび、死したものの「魂」を背の口で回収していた。
恐怖に慄き、絶望の中で死んだ魂ほど美味なのか、抗う間もなく喰らわれていく。
その背部にある、開閉する禍々しい“口”。不揃いな牙が無数に並び、
普段は密閉されているが、獲物の魂を感知した瞬間、裂け目が開いて蒼白い霧のようなそれを吸い込む。
ネクロマンサーですら容易には触れられぬ、禁忌の領域——魂そのものへの捕食。
つまり、奴の進行の目的は「食事」であり、そこに悪意も敵意もない。
だからこそ、なお恐ろしい。何百、何千もの命を「ただの糧」として踏み潰せる存在が、
たった数名の人間のパーティーに対して、明確に「殺意」を剥き出しにしたら――どうなるか。
完全に進行を止めたベヒーモスは、後ろ脚で大地をぐぐっと踏みしめ、巨体を反らし、前脚を僅かに浮かせる。
その口から、先ほどまでの痛みによるものとは桁違いの――圧倒的な咆哮が、地を割るように響いた。
「グモォオオォオオオォオォォ!!」
その瞬間、大地が震え、風が切り裂かれ、草原の葉が全て逆巻く。
近くにいたゴロウスは思わず耳を塞ぎ、連撃の態勢を取っていたリブキも顔をしかめて大きく後退する。
空に浮かんだユーキの《百の氷塊》は咆哮の衝撃に耐えられず、次々と砕け散った。
ユキミとゴンギの表情も険しさを増し、周囲の木々は葉を落とし、空を覆う雲さえ散ったように見えた。
「おいリブキ! ユーキ! イケるかよ!?」
ゴロウスが地鳴りにも負けない声で咆える。
巨大な斧を肩で担ぎ直し、その足元に亀裂が走るほど力を込める。
その目は恐怖で濁ることなく、ただひたすらに宿命を見据える鋭い光を宿していた。
この十年、眠れぬ夜も、悔しさで血が滲むほど拳を握り締めた夜も、すべてがこの一瞬に繋がっている。
その呼びかけに、リブキが答える。
静かに、しかしどこか狂気じみた笑みを浮かべて。
「フッ……フフフフ……!」
最初は低い声だった。だが笑いは次第に高まり、剣先がブルブルと微細に震える。
けれどそれは恐怖のせいではない。決して気が狂ったわけでも、自暴自棄になったわけでもない。
剣を握る手は、鉄よりも強く、視線は迷うことなく敵を射抜いている。
「ああ……これだ。11年……ずっと、待ち続けてた。
私はただ、この剣で証明したかったんだ……!」
剣先がベヒーモスの魔眼を捉える。
その刃が、憎しみと希望の熱を帯びて煌めく。
彼女の胸裏を駆け抜けるのは、あの夜の記憶。
一面が「赤」で塗り潰された故郷。
血に染まる草と土、焼け落ちる家々、自分を逃した父の最期の表情。
そして……あの村で出会った、妹くらいの少女の笑み。
でもそれだけじゃない。
ゴロウスやユーキ、仲間たちと過ごした、苦難の旅とささやかな笑い。
オークや変なミイラとその主のネクロマンサーと出会い、酒場で飲み交わしたこと――すべてが、この剣に積み重なっている。
「こいつを撃退し、私は……あの夜を終わらせる!
この剣に、あの日の血と涙の意味を刻む!
お前に屠られた全ての命のために――私は、お前を殺す!!」
その言葉に、ゴロウスも闘志を剥き出しにし、斧を振り上げる。
「そうだ! 俺たちは、終わらせるためにここまで来たんだ!
積年の怒りと誓いを、この一撃に込めるってなぁ!!」
その緊張の只中、宙に浮かんだユーキが、目を見開いて叫ぶ。
氷塊が杖の宝石から湧き出し、彼の周囲に舞う。
指先で氷の陣を操りながら、渾身の声を放った。
「今の僕達には、新しい仲間も希望もある! 本気のベヒーモスと戦い抜いて、僕たちが勝つ!!」
そして最後に、ユキミが聖術用の小型ナイフを構えながら、弾けるように叫ぶ。
全身の毛が逆立つほどの緊張の中、それでも無邪気さと力強さを残して。
「ぜーったいに負けないっすよぉ! 生きて帰るっす!!」
彼女の声は、戦場に吹き込む一陣の風のように、胸の奥まで響いた。
その決意に、ゴロウスが小さく、だが確かに笑った。
次の瞬間、ベヒーモスが突進した。
地面を抉り、轟音を響かせて、一気に距離を詰める。
一同は寸前で散開し、ギリギリで躱すが、かすったザンギリの体が弾き飛ばされ、岩に叩きつけられた。
バキャァッ!
砕け散るような嫌な音が辺りを支配する。
「イテテ……ゾンビだから痛くはないけど、たぶん、骨、折れてるでごわすな!」
呻くザンギリに、ゴンギが不敵に笑いながら言う。
「心配するな。後で直してやる!」
その声に少しだけ場の緊張が緩むが、すぐにユーキが鋭く叫ぶ。
「来るよ!アレが!!」
一同は息を呑み、各々が構えを取った。
だが、その中でリブキの呼吸が乱れる。
胸の奥が、無理やり鷲掴みにされたみたいに詰まり、剣を握る手が強張る。
頭の中で、11年前のあの光景がフラッシュバックする。
故郷の街並みが、あの青白い閃光に呑み込まれ、一瞬で赤い地獄へと変わった夜。
耳鳴りと、焼ける匂いと、炎の中に倒れた人々の声。
――また、同じものが来る。
後ずさりしそうになる脚を、リブキは歯を食いしばって踏みとどめた。
切っ先が震える。これは恐怖のせいか。それとも怒りのせいか。
閃光が空を裂いた。
次の瞬間、後方にあった大樹が轟音とともに粉砕され、紅蓮の炎に包まれる。
衝撃波の熱気が、皮膚を焼くように襲ってきた。
「ぐっ……!」
ゴロウスは咄嗟に動いた。
放射し終えた隙を狙って、ベヒーモスの足へと斧を叩きつける。
刃が深々と食い込み、皮膚の一部を削ぎ取るが、傷は浅い。
肉は分厚く、血が少し斧に付着しただけだ。
上空ではユーキが、すでに詠唱を終え、氷塊の刃を無数に放つ。
狙うは、あの憎たらしい魔眼。
しかし、ベヒーモスの魔眼がぎらりと光り、次の衝撃波を口から放つ動作をする。その標的はーー
「ユーキ!」
リブキの叫びが、無意識にほとばしる。
刹那、口元がぱっくりと開き、さらに強烈なエネルギーが顕現する。
カッ――という閃光が、また戦場の空気を裂いた。




