第37話「それでも愛されたい」
混濁した闇の中で、シグはふいに己を自覚した。
感覚はなく、手足もない。あるのは、ただ「意識」だけ。
「……ここは……」
声を出したつもりもないのに、響きが返る。
視界に広がるのは、形を持たぬ虚無の空間。
「そうか…俺は、負けて死んだんだよな。」
思い返せば、最後に見たのは、短髪のローブの男。
あの、得体の知れぬネクロマンサー。
「ネクロマンサーとは何回か戦ったことはある。
厄介なのはアンデッド兵士であって、アンデッドを無視して本体引き裂けばすぐ終わってた。」
「...ハズなのに」
――今回は違った。
気づけば己は魂となり、ここに漂っている。
つまり敗北したのだ。
「……シーミア」
思わず名を呼ぶ。
振り返れば、そこに確かに彼女の気配があった。
淡く光を帯びた魂――愛した女の姿。
胸の奥から熱が溢れる。
手を伸ばすように、彼女へと滲み寄ろうとした。
今の俺たちに肉体はない。望めば溶け合える、そんな錯覚すらあった。
だが――
「やめて!」
鋭い声が、虚無に響き渡った。
魂そのものを切り裂くような拒絶。
「……シーミア」
掠れる声を押し出すと、彼女は怯えるように震えながらも、はっきりと告げた。
「こうなったのは、あなたのせいよ。――あなたの身勝手さが、無実の人たちを傷つけ、そして己さえも殺した」
その言葉は胸を深く貫いた。
罪は消えない。
だが「己さえも」というひと言に、かすかな優しさを感じてしまう自分がいた。
「俺は……それでも、お前を……」
言いかけた時、シーミアはわずかに目を伏せる。
拒絶の影に、ひとしずくの哀れみを滲ませながら。
「……俺は……お前のその優しさに……包まれたかっただけなのかもしれない」
思わずこぼれた言葉に、彼女の光がわずかに揺れた。
「……あなたが醜いから、皆に避けられて……恋も知らず……最後は人狼になってしまったこと。少しは、同情しているわ」
小さな吐息とともに続ける。
「もし、私も同じ境遇だったなら、世界を見る目が歪んでいたのかもしれない」
ほんの一瞬、魂でも感じられそうな温度があった。
しかし、彼女はすぐに視線を鋭く戻し、告げる。
「でも、だからといって許すわけじゃない。愛を求められても……今の私には、受け取る気はないの」
その言葉に、シグの魂は震えた。
拒絶されながらも、完全に切り捨てられたわけではない。
ほんのわずかな揺らぎに縋りたい衝動が、胸を灼き続ける。
だが――
「下手な真似は許さん」
低く響いた声が空間を震わせた。
重々しい視線がシグを鋭く射抜く。
そこに立つのは、シーミアの父の魂。
かつて剛毅で知られた男は、死してなお娘を守る壁となり、容赦なくシグを睨み据えた。
「お前なんかに娘はやらん、ここでも同じことを繰り返すつもりか?」
シグは言葉を失い、その視線を正面から受け止めた。
魂となってなお、己は加害者のままなのか。
「……わかった」
シグは低く呟いた。
「俺は、距離を置く。それが……望みなのだろう」
「フンッ。どの口がものを言うか。お前は娘と私を殺した。ただ己の欲望のためにな。こうして死んだ後も会話していることすら不快極まりない。死にたいのなら一人で死ねばよかった。顔も醜ければ、心も――」
「お父さん、そのくらいにして」
シーミアが遮った。
「だがな、シーミア。こいつは――」
「彼がポーションを買いに来た時、私は何度か聞かされたわ。子供のころから醜いと蔑まれ、石を投げられ、両親からは“生まれてこなければよかった”と言われ続けてきたって。……私は、そんな話に少し同情していたの」
父の目がさらに険しく光る。
「フンッ……では遠慮はせんぞ、外道め。百年でも千年でも、お前に恨みをぶつけ続けてやるからな」
シーミアは静かに、しかし揺るぎない声で言い返した。
「お父さん……彼は、ただ温もりを知らなかっただけ。ならば、私たちが教えてあげればいいのよ。ブライドお兄様のように、悲しい道を繰り返さぬために」
その名に、父はわずかに瞳を曇らせた。
ブライド――かつての息子。母を慕い、母を喪ったことで世界を呪い、盗賊団として無頼の徒に身を投じた。剣と血に身を売り、使い捨ての戦駒として戦場に散った。
彼はきっと、答えを探していたのだろう。
――自分は生きていてもよいのか。
誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。
父は生前、そんなブライドを「馬鹿者」と罵った。だが、墓前では誰よりも声を殺して泣いていた。――父は父で、不器用にしか家族を想えなかったのだ。
「……シーミア。お前は、本当に慈悲に満ちた娘だな」
父は深く息を吐いた。
「だが忘れるな。こいつは私たちを殺した外道だ。それでも……そうだな。ならば、この恨みをぶつけるのは……八十五年くらいにしておいてやる」
その声音には、憎しみの奥にわずかに人の情が滲んでいた。
シグは、ほんの少しだけ人の温もりに触れた気がした。
気づけば、死んだ身でありながら、嗚咽とともに涙を流していた。




