第16話「声なき者たちの序章」
木製の床板がギシ、と軋むたびに、空気が揺れるようだった。
王都ブラッデインの冒険者ギルド本館――それは巨大な酒場のような空間で、柱のあいだに掲示板が並び、獣の毛皮や魔物の骨が誇らしげに壁を飾っている。
昼下がりの時間帯でも、ギルド内はざわめきに包まれていた。
酒をあおる者、仲間と話し込む者、剣の刃を研ぐ者――しかし、その中に漂う雰囲気は、いつもとどこか違っていた。
「……ですので、“紅鳥の加護”の件を受けて、ベヒーモス退治は現在、Sランク以上のパーティーの専属任務となっております」
受付カウンターの内側に立つ女性は、何度も繰り返してきたその言葉を、ゆっくりと、丁寧に告げた。
声は柔らかかったが、その表情には明らかに“これ以上の会話は意味がない”という、職務的な硬さが見て取れる。
「申し訳ありません……“<剣に灯る光>”様では、今回はお受けいただけません」
受付嬢の向かいには、リブキたち三人が立っていた。
その言葉に、リブキは静かに瞼を伏せる。
深く、吸い込むように息をして――そして、吐き出した。
「……間に合わない」
低く呟いた声が、テーブルの上に落ちる。
硬質な騎士の声音にしては、あまりに脆く、切実だった。
「なぁ、もう……諦めようぜ」
隣のゴロウスが、力なく肩をすくめて言った。
太い腕を組み、背後から射す光にその輪郭を沈めながら、それでもなお、どこか優しい声色だった。
「……まだ、ほかにも道はあるはずだろ?」
彼の目はまっすぐリブキを見ていた。
諦めというより、“失わせたくない”という感情が、そこに強くあった。
そして、三人目の男――ユーキが口を開く。
彼は手に持ったギルド告知書の紙片を軽く振りながら、いつもの調子で言った。
「僕らが受けてた依頼も、キャンセルされてたね。……公式には、もう“手を引け”ってことだろうねぇ」
その口調はあくまで軽快だったが、背後の掲示板には、剥がされた依頼票の跡が生々しく残っていた。
削れた木の繊維が、まるで“この先へ進むな”と告げているようだった。
ギルドの奥では、数人の熟練冒険者たちが静かに話し込んでいる。
ベヒーモスの名が囁かれるたび、誰もが自然と声を潜め、目を伏せた。
壁際では、一人の重戦士が愛用の戦斧を指でなぞっている。
その手は震えていた。先日“紅鳥の加護”と同じように、ベヒーモス退治のパーティーメンバーの一人として、
候補に挙がっていたという噂の筋肉男。
天井の梁に吊るされたランタンが、昼の光を受けてわずかに揺れた。
まるで、ギルド全体が“重たい何か”の下に置かれているかのようだった。
「……三日後だ」
リブキの声は低く、沈んでいた。
まるで胸の底に沈んだ鉛を、そのまま喉から押し出したような声音だった。
「三日後の夕刻、ベヒーモスは“あの村”を通過する。……ほぼ確実に」
その場の空気がぴたりと止まる。
「Sランクのパーティーを呼んでいたのでは、間に合わない。
招集はすでに始まっているだろうが、この街からの距離、移動にかかる日数……希望的観測をすべて詰め込んでも、“到着”は五日後が最速だ」
リブキは、テーブルの上に置かれた水差しを睨むように見つめていた。
「……となれば、選択肢は二つだけだ。
一つは、三日以内に仕留めること。
もう一つは、進路を強制的に逸らすこと……だが、それはもはや“戦わずに済ませる”という幻想にすぎない」
リブキの右手は、鞘のない剣の柄に添えられていた。
この場に剣はない。それでも、手は震えていなかった。
「この剣も、この鎧も――それができなければ、無用の長物だ」
場が沈黙する。
やがて、静けさを割るように、ユーキが本をぱらぱらと捲りながら口を開いた。
「……三日、ねぇ」
彼の声には、いつもの軽さがなかった。
それどころか、慎重な薬師が毒瓶の蓋を開けるような、恐る恐るの響きだった。
「三日は……厳しいねぇ。今頃、王都からSランク級を急いで引っ張ろうとしてるとは思うけど、到着は到底間に合わない」
指先でページを摘んだまま、彼は賛同を示す。
ユーキの手元にあるのは、表紙の革が摩耗し、ページの端には焼け焦げた痕さえ残る、冒険者ギルドの古文書写本だった。
その中央付近――厚手の羊皮紙に印刷された、**《BESHEMOTH|伝説魔獣 第六巻》**という見出しのページが開かれていた。
ページの上部には、粗い木版画で描かれたカバにも似た巨体の魔物。
口を開けたその顎の内には、複数の鋭い牙と、ツノとも見間違える無数のイボ、深淵のような暗い瞳が浮かび上がっていた。
ユーキは指先でなぞるように、記述を静かに読み上げる。
ー《大地を裂く巨影、沈黙の災厄“ベヒーモス”》ー
本種は極めて長寿かつ休眠性を持ち、その多くの周期はおおよそ「10年」ごとに訪れる。
通常は地下の湖や深部の洞窟にて休眠しており、覚醒時にはエネルギーを求めて地上を彷徨する**。
特筆すべきはその移動パターン。過去の目撃例と破壊痕跡から、**“ほぼ円形のルートを描いて徘徊する”**ことが判明している。
進行方向の変更はほとんどなく、迂回もしない。
また、若干の知性は確認されているが、意思の疎通はほぼ不可。
まるで何かの“本能”に従って動いているかのようであり、災厄そのものが形を取って歩いているような存在である。
⸻
「……まるで、地面の記憶をなぞって歩いてるみたいだよねぇ」
ユーキは静かにページを伏せ、呟く。
「感情も、理性もない。ただ“道”を歩くだけ。
でもその道に人がいたら……建物があったら……生き物がいたら、止まらず踏み潰すってわけ」
「しかもさ。そもそも――Aランクの中でも上積みの“紅鳥の加護”が全滅した相手でしょ?
それってつまり……Sランクのパーティーでも、下手をすれば勝てないってことだよねぇ……?」
「……」
ゴロウスは、何も言わなかった。ただ両腕を組み、壁を睨みながら、椅子の背にもたれていた。




