第15話「災厄は、風に乗ってやってくる」
王都ブラッデインに、昼の鼓動が静かに広がる。
その宿は、王城のある中心部から三つほど裏路地を隔てた場所にあった。
二階建ての石造り、軒先には花瓶代わりの木樽が並び、野草とつたの香りがほのかに漂う。
陽はすでに高く、窓から差し込む光は斜めに部屋を貫き、薄黄のカーテンを柔らかく揺らしている。
どこか湿った空気が部屋にこもっていて、開け放たれた窓からは、王都特有のざわめきが聞こえていた。
表通りでは、パン職人が昼の釜を開け、焼きたての香ばしい香りが漂う。
荷馬車の車輪が石畳を軋ませ、遠くでは鳥籠を売る露天商が、透き通った声で“幸運の青羽鳥”を売り込んでいる。
そんな雑多な音が、まるで一枚の音楽として重なり合う昼下がり。
ゴロウスは、軋むベッドの上でのそりと身を起こした。
喉がからからで、頭の奥に微かな痛みが残っている。
昨晩の酒が、まだ骨の中に残っているようだった。
「……さすがに飲みすぎたな」
呟きながら、額を軽く押さえる。
ふと視線を向けると、部屋の隅の窓辺。
そこに、剣と理知をその身に宿す女――リブキが静かに座っていた。
木製の簡素な椅子に腰掛け、白い指でページをめくっている。
陽光が彼女の銀髪に降り注ぎ、静謐のヴェールを纏わせていた。
彼女は本から目を離さぬまま、小さく口を開く。
「……おはよう」
その声には、いつもと変わらぬ落ち着きと、剣のような張りがあった。
ゴロウスは喉を鳴らしながら、無精ひげを掻く。
「……おう、おはよう。昼の鍛錬は?」
寝起きでもなるべく、声を絞り出す。
だが返ってきたのは、当然のような一言だった。
「もう済んだ」
……なるほど。つまり、俺はだいぶ寝過ごしたってわけだ。
リブキの視線はなおも本に注がれたままで、揺るぎない気配がそこにある。
その姿は、刃を研ぎ澄ませたまま鞘に収めているかのようだった。
「ユーキは?」
ぶっきらぼうに問いかけると、彼女はふと一拍置いて答えた。
「買い出しに。野菜と鶏肉のスープを作ると言っていた。……皆の分だと」
「そうか。……あいつの、あれはうまいんだよな」
思わず、乾いた唇に笑みが浮かぶ。
ユーキの作るスープは、見た目こそ雑だが、香草の使い方が妙に洒落ていて、どこか高級な食卓を思わせる味だった。
「どうせなら、昨日の酒を抜いてくれるような……あっさりしたやつがいいな」
そう続けると、リブキがようやく本から目を離してこちらを見た。
「……ならば、食後に蜂蜜水でも淹れるといい」
小さな微笑。それは、彼女の数少ない“温度”のある表情だった。
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窓の外で、鐘の音がひとつ鳴る。
昼の二刻──王都ブラッデインの静かな、けれど不穏な午後が始まろうとしていた。
俺は、大浴場で汗と旅の垢を流し、ぬるめの湯にしばし身を沈めた。
蒸気の向こう、数人の男たちがぼそぼそと話している。
「どこかのパーティーがやられたらしい」「腕が〜」などと、そんな言葉が聞こえた気もしたが、
風呂場での噂なんてものは、大抵は尾ひれがついている。気にも留めなかった。
湯から上がり、粗い麻布で体を拭き、いつもの黒い上衣と肩当てを着る。
革袋から銅貨を一枚取り出し、宿の女将が売っている瓶入りの牛乳を買う。
昼下がりの王都の風は、湿り気を含みつつも爽やかで、湯上がりの体にちょうどよかった。
瓶を傾けながら階段を上がると、俺たちの部屋の前に立つ。
扉の隙間から、かすかに言い争うような声が漏れていた。
扉を開けると、そこにはすでにユーキが帰ってきており、
リブキと何やら真剣な顔で向かい合っていた。
……空気が重い。
だが、だからこそ。
「……おーい、何だ? 説教か?
俺抜きで“真面目な話”すんのは反則だろ?」
わざと明るく、軽い口調でそう言いながら中に入る。
顔は笑っても、胸の奥にはひやりと冷たい何かが降りていた。
この空気。
「……ゴロウス」
先に反応したのはユーキだった。振り返った顔には、見慣れぬ緊張の色が走っていた。
手には、街角で配られる号外の紙束。滲んだインクがまだ新しい。
ユーキがこちらを見た。
いつもの飄々とした仮面の下、目元が微かに揺れている。
手には、号外の紙束。
「どうしたよ。……野菜、売ってなかったか?」
冗談のつもりだった。
けれど、自分の声が、どこか乾いて聞こえたのは、きっと気のせいじゃない。
「“紅鳥の加護”が……全滅した」
リブキが、抑えるような声で言った。
その言葉を聞いた瞬間、牛乳の瓶を持った俺の手が、ゆっくりと止まる。
「……は?」
耳を疑った。
“紅鳥の加護”が? 全滅? ……何かの冗談か?
あいつらは、俺達より先に"あの魔獣"の退治に向かったって……。
「号外が出てる」
ユーキが静かに紙を差し出す。
その手は震えてはいない――けれど、強張っていた。
「唯一生き残った“尾羽のウフィースト”も片腕を失って、重症らしい」
俺はその紙を受け取る。
目に飛び込んできたのは、黒々と太い活字。まるで弔いの鐘が紙面で鳴っているようだった。
“紅鳥の加護、壊滅。王都に激震走る”
“古参Aランクパーティー、討伐任務中に全滅か”
“ベヒーモス、今回も退治ならず。スウィン渓谷に再び危険区域指定”
中央にはスウィン渓谷の略地図。
その右下に、ギルドによる仮発表と見られる赤い印字の情報が添えられていた。
それを見たリブキの瞳が細まる。
感情を排したようで、しかし、逆にその深みに激しい何かが渦巻いているのが見て取れた。
怒りか。悲しみか。それとも、静かな覚悟か――
“紅鳥の加護”。
王都では知らぬ者はいない、名門とも呼ばれる五人組。
全員がルビーランク以上。
王国軍からの正式任務も何度も請け負い、
火竜の成体を鎮め、吸血鬼の姉弟を討ち、南方のオーガ部族を壊滅させたとされる――
そんな連中が……壊滅……跡形もなく?
「……まさか」
俺の言葉が木の床に落ちる。
不意に、自分の唇の端が乾いて白んでいることに気づいた。
さっき飲んだ牛乳の名残だ。けれど、そのわずかな甘みさえ、今の俺には遠い。
「……つまり、僕たちが今後挑む“ベヒーモス”は、
龍やヴァンパイアの比ではないということだ」
ユーキの一言に対して静かに、だが確かに、リブキが頷いた。
沈黙が満ちる。
外から風が吹き込む。午後の陽は窓枠に伸び、床の上に淡く光の帯を作る。
けれど、その穏やかさが、妙に異様だった。どこか、現実ではないような気がした。
王都ブラッデイン。
大通りには野菜や織物を並べた露店が列を作り、
鐘の音に呼応して鳩が飛び、石畳の上を兵士と子どもが駆けていく。
普段なら活気に満ちているはずの広場は、今日は妙に静かだった。
一枚の号外が、誰かの手から舞い上がり、石畳の上を滑るように流れていく。
それを目で追っていた老婆が、小さく震えていた。
彼女の横にいた少年が、怖がるように母親の裾をつかむ。
……昼だというのに、陽光の色がどこか灰色じみている。
号外の紙に刻まれた“ベヒーモス”の名は、
もはや人々にとって、“災厄”という言葉と変わらぬ意味を持っていた。
巨大で、異形で、理を超えた存在――
その姿は、神話から抜け出したようなカバの魔獣。
筋骨は鉄をねじ伏せるほどに太く、
皮膚は研ぎ澄まされた刃をも弾くとされ、
毒や炎や雷にも、強い耐性を持つとされる。
さらに魔眼――
夜の闇を切り裂いて敵を見通し、
ただ見つめるだけで心胆を凍らせる、“眼”を持つという。
そして何より、あの巨体でありながら、
素早速く地を駆け、森を砕き、崖をもよじ登る――
それは、戦うというより、“出会えば終わり”といった類の存在だった。
王都の街路に、その名が刻まれた号外が舞うたびに、
空気が、ひとつ、またひとつと沈んでいくのがわかる。
人々は口を閉ざした。
物売りの声も、子どもの遊ぶ笑い声も、徐々に低く、控えめになっていく。
夕暮れを待たずして、窓を閉める店が増えていた。
街の中心にあるギルド本部の掲示板には、多くの紙が貼られたまま、誰にも剥がされず、風にめくられていた。
……昼下がりの空。雲は淡く流れ、陽は高いのに、なぜか肌寒い。
そんな静寂の中、
俺たちは――いつもの部屋の、いつもの机で、
いつもと変わらぬ食事を囲んでいた。
ユーキが作った、鶏肉と野菜のスープ。
昨日買ったパンの残りを、スープに浸して食べる。
言葉は、一つも交わされなかった。
冗談もなければ、励ましもない。
否、語ることなど何もなかったのかもしれない。
ただそれぞれが、スプーンを動かし、パンを噛み、
目の前の皿にだけ集中しているように見えて――
その実、誰もが目を逸らしていたのだ。
目前に迫る“それ”から。
部屋の窓が、午後の風に小さく鳴った。
木のカトラリーが陶器に当たる音だけが、静かに響いていた。
この午後、何も変わっていないようで、
確かに変わってしまったものがある。
それが何なのか、まだ明確には言えない。
だが――
俺たちの“時間”は、
もう二度と昨日とは同じではない。
静かに、だが確実に――何かが動き出していた。
冒険者ランク
ブロンズランク→シルバーランク→エメラルドランク→サファイアランク
ルビーランク→ゴールドランク→プラチナランク
ダイヤランク(ギルドに数十名登録)→マスターランク(ギルド内に数名のみ登録)
パーティーのランク
Cランクパーティー Bランクパーティー Aランクパーティー(上位15%)
Sランクパーティー(上位3%) SSランクパーティー(上位0.0?%)
ゴロウス(サファイア)
リブキ(ルビー)
ユーキ(ルビー)
(故)ブームスト(サファイア)
(故)ヘンリス(サファイア)
もともと彼らはBランクパーティー。仲間を失ってからもギリB認定。




