第13話「酒と誓い、そして沈黙の夜。」
夜の王都、ブラッデイン
王国の中枢に位置する都市――ブラッデイン王都は、長き王統の歴史と多層の文化が折り重なる壮麗な都である。
暮れなずむ空の下、石造りの楼閣が連なり、尖塔の影が地を引き裂くように長く伸びる。そこを行き交うのは市民、貴族、軍属、そしてこの都市の“表に立つ者”と“裏を這う者”たち。
外郭から城壁をくぐって内域へ進むごとに、街の装いは次第に変わる。
市の喧騒が静寂へと溶け、金と石灰岩で組まれた神殿群、青銅の門扉が並ぶ政庁、そして王宮に至る荘厳な建築が、その地位と格式を雄弁に語っている。
だが、そんな王都の片隅にも、陽の当たらぬ場所はある。
東区の寂れた一角、蔦に覆われた小路の突き当たりに、ひとつの古びた酒場がある。
屋号はない。看板は砕け、扉の蝶番は錆びて軋み、暖炉の煙だけが生存の証として屋根から揺らめいている。
その店内、橙色の燭光に照らされながら、若きパーティーの三人がテーブルを囲んでいた。
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リブキ・メルリンファウル
十九歳。銀色の板金鎧に身を包む痩身の女性騎士。
金糸のように柔らかな長髪をきちんと結い、戦場の傷を感じさせない滑らかな白肌。
だがその瞳だけは、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、卓上のグラスを持つ指先には、不自然なまでの気品が宿っていた。
それは彼女が、どこかの高貴な血の流れを受け継いでいることを、ひと目で理解させる。
剣は腰に、盾は背に、威風堂々たる姿で酒を口にする様は、まるで“戦場の姫君”といったところだ。
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ゴロウス・アッヂ
二十一歳。短く刈り上げた髪に、稲妻のような剃り込みを走らせた、王都でも珍しい旧山岳族の出身者。
その肉体はまさに「岩」。
一振りの斧よりも重そうな腕と、甲冑すら着込んだまま眠れそうな太い首、そして何より、無邪気な笑みが似合いすぎる笑窪が、彼の豪快さと少年のような心を物語る。
グラスの代わりに、ほぼ壺と見紛うような木製ジョッキを片手に、何度目かの乾杯を促している。
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ユーキ・サニエモグラ
二十五歳。深く被った大きな帽子に、夜風を受けて揺れる黒衣の裾。
膝まで届くローブは、ところどころ補修の跡があり、旅の苛烈さを物語る。
その表情は無口と見せかけて、実は会話の切れ目を見計らって茶々を入れるタイプであることが、数杯の酒によって露見してきている。
カウンターに立てかけられた杖には、四つの色石が散りばめられ、属性術の使い手であることを無言で示している。
彼がまとう空気には、どこか“裏通りの魔術士”といった雰囲気が漂っていた。
三人はまだ、名の知れたパーティーでもなければ、国に仕える戦士でもない。
それぞれが過去と責任を背負い、場末の酒場に身を寄せ合うようにして、今この瞬間を共に生きている。
静かな夜。
遠くで犬が一声だけ吠え、やがて通りを巡る鐘の音が微かに響いた。
この平凡な夜は、何かを変えるわけではない。ただ、またひとつの夜が静かに終わろうとしている――
そう、思えるほどに。
ブラッデイン王都の夜は、昼間の喧騒とはまるで別の顔を持っている。
星のまたたきさえ届かぬ空を仰ぎ、通りをゆく人々の足取りはどこか早足だ。
けれど、大通りを一本外れた裏路地――
そこにひっそりと灯る、古い木の扉の酒場には、まだ夜が訪れきっていなかった。
店内は、オレンジ色のランタンに照らされている。
ほの暗い光の中、磨かれた木のカウンターと年季の入ったテーブルが、まるで記憶を宿すように静かに佇む。
壁には擦れた絵画と、時折軋む床板の音。
湿った酒の香りと、誰かが笑い飛ばした記憶が、空気にゆっくりと溶けていた。
杯を傾ける旅人、腕組みで談笑する傭兵たち――
だが、中央の丸テーブルに腰掛けた三人の若者は、どこか浮いていた。
巨大な影のような男が、ぐいと酒杯を呷る。
鍛え抜かれた肉体と、その内側に潜む、抑えきれぬ不安。
「……つーかよ、リブキ。
こんな酒で、俺らの明日が良くなるってわけじゃねえだろ?」
ゴロウスの声は低く、どこか乾いていた。
頬は火照り、声には酔いと、ほんのわずかな震えが混じっている。
彼の視線は酒杯の底に沈み、答えなど最初から求めていないようにも見えた。
「まーでもさぁ?」
横から軽やかな声が割って入る。
ユーキは笑っているが、目の奥は静かだ。
グラスを指でなぞりながら、さらりと続ける。
「この店に寄ろうって言い出したの、ゴロっちだよ?
思い出の場所だし、いい選択だったと思うけど?」
軽い言葉の下に、何かを抱えているのがわかる。
その軽さは、強がりかもしれなかった。
「……私は、騎士としての誓いに従って動いているだけだ。」
リブキがそう言い放つ。
グラスが静かにテーブルに置かれる音がした。
まるで鐘の音のように、酒場のざわめきに一瞬の静寂が走った。
背筋を伸ばし、銀鎧に身を包んだその姿は、まるで夜明け前の剣のように静かで強い。
酒場の喧騒の中で、ただ一人、胸の奥に“理由”という名の火を宿しているようだった。
「明日のために、剣を振るう。
……それだけだ。たとえ、この身が朽ちても」
炎のようなまなざしが、二人をまっすぐに見据える。
誰も笑わなかった。誰も、言い返さなかった。
カウンターの奥、老いた酒場主がグラスを磨く手を止めて、そっと視線を向けていた。
まるで、過去にも同じように、ここから旅立っていった若者たちがいたことを知っているかのように。
その夜、風は重たく、月は雲の向こうに隠れていた。
彼らのテーブルだけが、まるで島のように、ぽつんと夜の海に浮かんでいた――
「わーかったよ、はいはい、たぶん俺らはもう、死ぬよな。うんそうだ、リブキお騎士様の“騎士道”に従い、この三人はみんな死ぬ。そうだろ」
木製のテーブルを軋ませるほどの巨腕で、ゴロウスは乱暴にジョッキを持ち上げると、琥珀色の酒を一気に胃に流し込む。泡の残った口元で乾いた笑いを漏らした。
「別に! 私はお前達に、一緒に来いとは言っていない」
リブキの声が、酒場のざわめきの中に凛と響いた。
その背筋は、鎧越しにもまっすぐで、眼差しは揺るぎない。
「ヘンリスのように――辞退してもよかったのだ」
その名に、場が一瞬だけ沈黙に包まれる。
ヘンリス・ロゥシェル。
つい5日前まで、この三人と肩を並べて戦っていた聖術師だ。
癒しの光を操り、パーティーメンバーの怪我や病気を癒やし、
祈りとともに数多くのアンデッドを浄化してきた仲間。だが彼はもういない。
「しょうがないよぉ……」
帽子の影から静かに言葉を漏らすのは、ユーキ・サニエモグラ。
彼の口調はいつも通りだが、声には確かな哀しみがにじむ。
「ヘンリスにはヘンリスの道があるし、妻もいる。
命を懸ける旅に、ずっと付き合わせるわけにはいかなかったんだよ。あれで正しいと思う」
店の片隅では吟遊詩人がリュートを鳴らしているが、その音さえ遠のくような沈黙が流れる。
ゴロウスが、ふとグラスを握り直し、力なく呟いた。
「……ヘンリスだけなら、まだよかったさ。
でも、2ヶ月前の“あれ”で、ブームストも失ってる」
ブームスト・レッツェン。
若き死霊術師であり、冥力を使いこなす異端の戦術家だった。
屍兵を操り、味方への攻撃を肩代わりさせたり、幽霊達で敵陣をかき乱す。
その冷静な指揮は、数々の修羅場を切り抜ける力だった。
――だが、鳥人たちとの戦いで、
目を、耳を、鼻を、全て失い、
そのまま故郷へ戻ってから、精神を崩し、静かに命を絶った。
「……あいつがいなくなってからの依頼は、全部で四つだったか」
ゴロウスの目が、グラス越しにぼんやりと揺れる。
「俺たち、よくここまで崩れずにやってきたよな。
……もう、空中分解してもおかしくなかった。ずっとそう思ってた」
静かに、だが確かに、言葉が降りる。
そして――そのすべてを黙って聞いていたリブキが、ゆっくりと目を伏せ、
グラスの中に残った琥珀の雫を、そっと見つめた。
唇は閉じたままだが、その横顔には怒りも、涙もない。
ただ、騎士として、覚悟を貫く女の沈黙があった。




