第12話「草原にて、閃光の如し」
娘は、走っていた。
ただひたすら、草原を必死に逃げ回っていた。
「はぁっ、はぁっ……!」
彼女は、街の小さなパン屋の娘だ。
街から少し離れた草原で、祖父の病気に効くという薬草を採取していた。
ついでに、祖母の好物である野いちごも。茶に浮かべると香りがいい。
念のため、冒険者を四人雇った。
連れて行ったのは、ブロンズランクの剣士、魔法使い、弓師、そして聖術使い。
この草原に出る魔獣といえば、せいぜいビッグラットや毒コウモリ、ゴブリン、夜になれば稀にゴーストが現れる程度。
それなら彼らで十分だろうと考えていた。
ただ薬草を摘んで帰るだけ。そう、容易いはずだった。
けれど、剣士の最後の言葉――
「依頼主様だけでも……お逃げください!」
その言葉に背を押され、彼女は走り出した。動揺と恐怖のままに。
本来ここに出現する程度の魔物なら、彼らで対処できるはずだった。
だからこそ、一瞬は「二人でよかったかも」と金をケチることさえ考えたのだ。
だが――
「ぐわっ!」
背後から、最後に残った弓師の悲痛な声が聞こえた。やられたのだ。
次は、自分だ。
そう思った瞬間、彼女は必死に身体に鞭を打ち、さらに速度を上げようとする。
ギルドに報告し、援軍を要請しなければ。
このままでは、彼らが無惨にエサにされてしまう。
だが、限界はあっさりとやってきた。
運動能力は平均以下、ただの市民である彼女の足は、ついに止まる。
膝から草に崩れ落ち、観念して振り返った。
そこにいた。
――グオネラ。
翼を広げれば、人間を四人並べたほどの大きさになる、巨大な魔鳥。
本来なら街近くの草原には現れず、もっと森の奥――
噂では、死霊術師が潜んでいるとも言われる辺境に生息するはずの存在。
しかし目の前のグオネラは、どこか違った。
普通の個体よりもやや小さく、嘴は欠け、羽の毛並みも乱れている。
……同族についばまれたのかもしれない。
縄張りか、メスをめぐる争いか……いずれにせよ、惨めに敗れて居場所をなくしたのだろう。
娘は、祈った。
どうか、まだ生きたい。
祖父に薬草を届けて、祖母と野いちご茶を囲んで笑いたい。
店先で焼きたてのパンにバターを塗って、お客に「今日は特別に大盛りだよ」と笑いかけたい。
娘は目を閉じる。
グオネラの低く唸るような鳴き声が、背後からじわじわと迫る。
脳裏に、記憶が流れ込んでくる。
まるで走馬灯のように。
――父の笑顔が浮かんだ。
「パンを焼くのはな、火を入れる前に、すでに勝負が決まってるんだ」
そう言って、小麦粉まみれの手で娘の頭をくしゃくしゃに撫でた。
あのときの温もりが、今もはっきり残っている。
不器用な父だったけれど、パンのことになると別人のように真剣だった。
休日、早起きして焼いてくれた蜂蜜パンの香り。
まだ陽が昇りきる前の、あの優しい時間。
「……お父さん……」
そして、もうひとり。
市場でいつも果物を並べていた、あの青年のことがふと胸をよぎる。
屈託のない笑顔で、時々リンゴにそっと紅でも塗るように触れては、『今日のおすすめです』なんて冗談を言う。
目が合うたび、声をかけられるたび、鼓動が跳ねた。
いつか、おまけの果物をもらった日の帰り道――
「今度、お店のパンと物々交換、してくれませんか?」
はにかんだその顔に、胸がいっぱいになった。
ああ、こんな風に終わるのは、いやだ――。
草に伏せたまま、かすかに震えながら呟いた。
そのときだった。
歪んだ嘴がすぐそこまで迫る――その刹那。
「ウオオオオッ!!」
街の方角から、地を割るような咆哮が響く。
振り返ると、斧を構えた一人の大男が、地面を踏み鳴らしながら突進してきていた。
髪を刈り上げた、やや蛮族めいた風貌。
上半身は獣皮に覆われ、その腕は……私が雇った冒険者たちと比べてしまうのも失礼なほど、膨れ上がった筋肉に覆われていた。
その巨体に似合わぬ俊敏さで、両手の大斧を勢いよく振り上げる。
「グギャアッ!!」
グオネラはとっさに飛び上がり避けたものの、斧の刃はかすり、翼の一部を削いだ。
羽毛が宙に舞い、青黒い体液が草を濡らす。
だが魔鳥は空中で姿勢を立て直すと、怒りを露わにして一直線に襲いかかってきた。
それを大男は横に跳ねてかわすと、
グオネラの首が草に突き刺さった瞬間を逃さず、すかさずその首へ斧を振り下ろした。
鈍い音が響き、骨の砕ける感触が空気を震わせた。
魔鳥は、目を見開いたまま、二度と動かなかった。
「早いね、ゴロウス。もう倒しちゃったのかい」
草むらの向こうから、小走りで現れたのは細身の男だった。
長衣の袖からのぞく腕には数珠をはめ、手には属性術の象徴――宝石を埋め込んだ杖が握られている。
どうやら、魔術師だ。
「おう。...で、そこの嬢ちゃん、無事か?」
ゴロウスと呼ばれた大男が、娘に手を差し伸べる。
「後ろの冒険者たちは...生きてるか!?..早く連れ帰って手当しねえとな。」
その声には意外と優しくて親しみがある。
娘は、まだ足が震えていた。うまく立てなかったが、頭では理解していた。
――ああ、助かったんだ。
この人たちが、命を救ってくれたんだ。
しかし――
「ま、まだだッ! まだ……居る!」
雇われていた冒険者のひとりが、折れた肋骨の痛みに顔を歪めながら、喘ぐように叫ぶ。
茂みを押し分け、ぬるりと現れたのは――全長五メートルを超える大蛇だった。
青緑色をした鱗のあちこちに、魔鳥の太い爪に引き裂かれた跡が残る。
おそらく、巣に持ち帰ってゆっくり食べるつもりだったのだろう。
だが、それにしても、こんな化け物じみた大蛇ですら、平和だったはずの草原に現れるとは。
「やばい!」
あの魔術師の男がわずかに動揺し、杖を握るも反応が一瞬遅れた――その隙を逃さず、大蛇がその巨体をしならせ、飛びかかる!
その時――
ザシュッ、という鈍い音が響いた。
次の瞬間、大蛇の巨体がビクリと跳ねる。
剣の切先が、頭部の天頂を貫き、地面へと深々と突き刺さっていた。
その刃には、バチバチと音を立てて雷が纏いついている。
――属性剣術。落雷のごとき一撃だ。
貫かれた頭部から、ぬらりと血が流れる。
なおも身体はのたうち回るが、やがてその動きも力を失い、地に沈んだ。
「リーダー!……間一髪、だね」
魔術師が、冷や汗をぬぐいながら言った。
立っていたのは、銀の鎧を纏った一人の女性騎士。
陽光を束ねたような金髪が、微かに風に揺れている。
研ぎ澄まされた鋼の瞳が、大蛇の死体を静かに見下ろす。
「娘よ。怪我はないか?」




