智洋くんは心配性
つくづく、自分が小さい男だなあと思ってしまう。矮小、狭小、懐が狭い。なんと言われても仕方がない。栗原智洋は、現在進行形で仏頂面のまま廊下を歩いていた。
なんとなくだが、営業系には自分は向いてないと思っているので、専門系あるいは商業系事務系で必要そうな講義を選んでみた。その中のひとつが簿記で、二種類あるのになぜだかたまたま偶然にも赤堀徹と同じクラスになり、席は自由なため隣に陣取られてしまっている。授業中はともかくとして、移動の際には当然のように隣を歩くのは何とかして欲しい。
しばらく放っておいてくれたから、やれやれと気を抜いていたらこの通りだ。
さりげなく体をぶつけてきたり、ポケットに入れている方の袖をそっと握っていたり、それに気付いてぎょっとしたときには大抵和明が近くにいるという念の入れようで。
今も……近くに体温を感じると思って視線を素早く移動させると、廊下を向こうからやってくる和明と、その斜め後ろにいる周一郎に気付いて頬がひきつったところだ。
隣の辰史と話し込んでいた和明よりも先に周一郎が気付いて、ふっと笑みを浮かべて後ろから和明の腰に手を遣った。なに? という感じで和明が振り返ると、囁くように顔を寄せている。
これが他の誰がだったら、何も感じやしないのに。同性同士で、ごくありきたりな遣り取りでしかないというのに、カッと血が上って拳を握り締めて間を詰めたくなってしまう。
ホームルームに戻る経路で再接近する、ドア近く。ようやく顔を向けた和明が智洋に気付いて、他の人にとは少しだけ違う種類の笑みを浮かべ、そして智洋と同じように強ばった。
入念に計算されたタイミングで、徹は智洋の腕に抱きつくように隣にいた。流石にずっとしていたら智洋に事前に振り払われてしまうから、傍にいても邪険にされないように絶妙な間隔を空け、意識が和明と周一郎に集中するのを見定めてからの行動だった。周一郎は見切っていたが、和明にはずっと親しげにしているように見えていることだろう。
大浴場の騒ぎの後にも大変に機嫌を損ねていたというのに、これはもう駄目だ。
「ちょっ、赤堀っ」
「え、なあに急に」
慌ててふりほどいても時既に遅し。辰史が「あちゃー」と声にならないぼやきをこぼし、周一郎の口の端が上がった。
何も言わない和明の冷たい視線が突き刺さる。大きなくりくりの眼が半眼になっていて、しばらくふたりを見つめて、パニックでまた我を失っている智洋に声を掛けることなくそのまま自分の教室に入っていってしまう。
「ねえ、ひろくん、ショート始まるから入ろうよ」
ぐいぐいと腕を引かれ、それから殆ど押し込まれるようにして智洋も自分たちの教室へと入ることになったのだった。
夕飯のときにも、隣には座ったけれど奥にいる携とは普通にしゃべるのに智洋には素っ気なかった。またいつものあれかと携には密かに苦笑され、情けなく身を縮こまらせて食べ終えて。それでも隣の位置はキープしたいから、和明が席を立てば当然後を追った。
寮の部屋に入ればもうふたりだけの世界で、邪魔は入らない。施錠して、背中からぎゅっと抱き締めて、「俺が好きなのは、和明だけだ」ときっぱりと告げる。少しだけ声が震えたのはいたしかたないだろう。
智洋だって、和明に嫌われてこの関係を解消されることが、今一番怖いことなのだから。
和明が、智洋の腕をそれぞれの手で握り締めた。うー、と唸り、俯く。うなじが現れて、智洋は思わずそこに唇を押しつけてしまった。
「……ばか」
「ごめん。迂闊だった」
「ぼけっとしすぎだろ」
「……だよな。谷本見て頭に血ぃ昇って自分のこと見えてなかった」
責める声には、怒りではなく呆れの色が濃い。だから肩の力を抜いて、智洋は抱き締め直した。
周? と怪訝そうに繰り返して、肩越しに振り向こうとする和明を誘って、隣合う形でベッドに腰を下ろす。
「いつもだけどさあ、気にしすぎだよ」
心底呆れたように言いながら、可愛いやつめと言いかねない口元で、和明は智洋の頬を手のひらでさする。
気にし過ぎ、というのは解っている。けれど、こればかりはどうにもできないのだ。
多分、初対面の印象が悪すぎた。
寮の玄関の外で、壁に和明を追いつめて腕の中に囲い込んでいるのを見てしまったあの時から――もう、恋敵として深く刻み込まれてしまったんだと思う。
浩司のことも気になっていても、彼は和明にとっては憧れで、向こうだって猫可愛がりしても本気で恋人にしたいとか思っていないだろうし、だからそういう意味では安心している。気になってはいるけれど、文句を付けようもないくらいに格上の存在だし、もしも和明が本気で先輩を選ぶなら、戦いはするけれど応援もすると思う。
だが、周一郎は別だ。
後から調べてみれば、信じられないくらいに黒い噂ばかりだ。人数も判らなくなるくらいにその場凌ぎで抱き捨てられた今までの相手のように、和明をメンバーのひとりにされたくない。
もしも和明だけ本気だなんてことだとしても、尚更退けない。許せないと思う。
和明がいくら周一郎は自分が本命じゃないと口を酸っぱくして諭しても、信じられない。それが本当だったとして、だ。つまみ食いとか、おやつみたいに軽く食われてしまったらどうするんだとやきもきしてしまうのだ。
自分でも止められない。
大体あいつ、なんでああも自然に、誰彼構わず秋波を送るのか。意味ありげに流し目で見つめんな、いやらしい手つきでさわんな、同じ学年なのに大人っぽくて、やたらと色気がありすぎだろ。その手が何をしても規制音付きに見えてしまう。存在そのものが年齢規制が入る猥褻物だ、誰か隔離してくれ。心の中でだけではあるが、智洋は酷い言い種で周一郎の存在を全否定してしまう。
「あー……余裕なさすぎ、俺」
思わずこぼしてしまった呟きをしっかりと捉えた和明は、その腕の中でこっそりと笑っていた。
墓参りを口実に半ば強引に帰省を決定されていた智洋と、ついでに俺もと便乗して和明も自宅に帰った。初日はその通りにそれぞれの墓参りをして、晩には家族と過ごし、穏やかな時間が過ぎていく。
栗原邸でも母親がせっせと息子の好きなものばかりをテーブルに並べ、残業の父親は放っておいての晩ご飯。
山盛りの唐揚げの大皿から忙しなく口に運びながら、ふと伴美がはす向かいの智洋に首を傾げた。
「なんかさあ、調子狂うよね」
さらりと栗色のボブヘアが流れて、ぱっちりとした大きな目をくるりと動かしている。
なにが、と言いたげに視線だけで応じる弟に、それそれ、と箸を向けて、行儀悪いわよと母親に注意されて下げたのだが。
「前はさあ、唐揚げとかムキになって取り合いしてたのに。それに全然突っかかってこないしー」
張り合いないの、と肩を竦められて、智洋は眉根を寄せた。
「そりゃ、一緒にいる時間少ないんだから、喧嘩する理由だってなくなるだろ」
「そんなもんかな」
ぶうっと頬を膨らませてまだ納得行かない様子の伴美に、
「男の子の方が成長遅いけど、変わるときには一気に変わるんじゃないの。いいじゃないの、大人になったんなら」
と、母親は指摘して満更でもない様子。それも当然だろう。最後のひとつを巡っての攻防と来たら、あんたたちは幼稚園から成長してないのかと毎回怒鳴りあげるくらいに熾烈な争いを繰り広げていたのだ。静かな食卓万歳である。
うー、と唸って箸の先を咥えたところをまた母親に注意され、今度はコロッケに箸を伸ばす伴美。最後の一個なのに智洋がスルーするのを確認して、「そんなもんかな」ともう一度呟いた。
「そんなもんだろ」
ようやく智洋が相槌を打ち、中学時代なら得意げに笑っていただろうに、静かにサラダを摘んでいる。
実際、以前は妙に反発したり対抗心を燃やしていたりしていたのに、どこかに落としてきたのかというくらいにこだわらなくなってしまった。自分でも驚くほどに。
確かに大人になった、ということなのかもしれないが、優先順位の問題でもあるのだろう。
以前は相手から告白されて、なんとなく付き合っていた。だから、体だけは先に大人への一歩を踏み出していたが、いつも受け身だったから心が成長していなかった。
今は、成長云々はともかくとしても、自分からきちんと恋愛をしていると感じている。それも両想いだ。そっちの方が遥かに重要だから、姉と張りあって小競り合いをしている場合じゃないのである。
両手を合わせてごちそうさまと言うと、母親はうんうんと頷いて嬉しそうにしている。
和明や携に釣られて手を合わせるようになった。ごっそさん、とただの決まり文句のように言っていた頃とは違って、ちゃんと感謝しているからそれが伝わっているのかなとこそばゆくなる。
もっと早く気付いて、自分からしていれば良かった。そうしたら、髪の色とかも、もしかしたら違っていたかも。
今は風呂上がりで自然に垂らしたままの前髪を掻き上げて、いそいそとデザートのゼリーやフルーツを並べ始めた母親をぼんやりと眺めていた。
翌日は和明が訪れて、以前と同じようにセイジと戯れて大喜びしていた。
セイジは猫なりに理解しているのか、玄関で座って姿勢正しく四指を着いているし、普段だったら智洋の私室にはあまり入らないくせに、率先して入って和明が居る間は出ていかない。
一時間もひとりと一匹で遊んでいるのをじりじりしながら待ちくたびれて。コミックスを勉強机にポンと放り投げて、智洋はベッドの上から和明の腰に腕を回して引き寄せる。
「なあ、もう満足した? 猫堪能したか」
「う、うん。まあね」
どぎまぎしている和明をそのまま全身で絡めとると、シャツの裾から手を入れて、少し汗ばんでいる健康的な肌を辿っていく。
「やっ……あの、ここじゃ」
「大丈夫。姉貴まだ帰らねえから」
でもお母さんとか、と言い掛ける口を強引に塞ぐと辿々しく応え始めるからだが愛しくて堪らない。
母親は、伴美と違って息子の友人に構い付けたりしないし、勿論差し入れを持ってくるタイプではない。それはそれで気を使っているのだと解っているから、遠慮も要らない。
テーブルの下でひとやすみしている様子のセイジは、こちらに背を向けてフライをしゃぐしゃぐと噛んでいる。野生なら食事中ってことになるんだろうが、生憎そのおもちゃは食べられない。その代わり歯磨き代わりになるし、噛み心地良いのか放っておけば暫くは夢中になってそうしているから安心だ。耳だけがこちらの気配を探っているようにベッドを向いていたけれど、ふたりが話を止めてしまうと、やがてぺたりと寝かせるようにしてしまったのだった。
和明が暇を告げれば玄関まで見送り名残惜しそうに見上げているくせに、智洋の時にはセイジは姿さえ見せない。
猫なんて薄情なもんだよ。いざ学園に帰ろうと、少し増えてしまった荷物を手に上がり框に腰を下ろしてスニーカーの紐を締めていると、中にいる智洋を外に吸い出しそうな勢いでドアが開いた。
「おかーさんっ」
息せき切らせて駆け込んだのは伴美だった。出掛けに、帰るの間に合わないかもとさよならしていったくせに急いで帰ったのかなんて一瞬感動し掛ける智洋ではない。長袖のシフォンの腕に抱えられている小さな黒い物体に気付いてしまったのだ。
まあまあ何事なの、と息子の後ろで佇んでいた母親にも、恐らく伴美の言いたいことは伝わっているのだろう。またなのと呟いて黒い小さいのを見つめている。
「あ、あのね。この炎天下で、道路の端で動けなくなっててね。アスファルトで足の裏火傷してるみたいで、だから病院とかつれて行かないとって」
あわあわと説明しながら、流れる汗をものともせずにチラチラと母親と智洋に目線で訴えている。
可哀想だよね。飼ってもいいよね。
「まあ、セイジで猫は手が掛からないの解ったし、智洋居ないから猫くらい増えたっていいけど」
一所懸命な伴美に、父親が甘いのは解っている。だから今不在でも帰宅後に上目遣いに「お願い」すればあっさり許可されるのも解っている。
しかし、嫌な予感しかしない智洋は、ここで一応家族の一員として軽く反対しておかねばと右手を挙げた。
「あのさ、それってセイジにも訊いた方がいいんじゃね。小さいから苛められるかもしんねえじゃん」
はい智洋くん、と指されて吐息混じりに言えば、ないない、とふたりに全否定された。
「セイジはいいこだもん。そんな意地悪しないよお。ほら、こんなに可愛いのに」
両の手のひらから少しはみ出る程度の大きさの猫を、ぐいと智洋の顔の前に遣る。
もう乳離れしている月齢で、洗えばきっとビロードのようなんだろうなと思わせる真っ黒の毛並みはささくれて毛羽立っていた。半眼に伏せられた優美な緑金の瞳がじいっと智洋を見て、それから長いしっぽがゆらりと揺れた。シャムが混じっていても少し長めの毛足のセイジと違って短毛種だ。スレンダーで、子供のくせに硬いくらいに筋肉が付いている。きっと厳しい生活をしてきたんだろう。
そして、伴美の言う通り、四本の足の裏は肉球がべろりと剥げて血が滲んでいた。
姉の最悪のネーミングセンスに頬が引き攣るのは止められないが、ここでもしも捨ててこいだなんだと言っても鬼畜呼ばわりされて一生恨まれるんだろうなとどんよりしてしまった。
いやだ。ものすごーく嫌だ。何が嫌って、これから伴美が付けるであろう名前を、和明の口から聞かされるのが嫌なのだ。
今回だって、帰省前からセイジセイジ連呼してげんなりした。うんざりだけど、元の名前の持ち主と和明は面識もないからまだ我慢できる。これはそういう記号で、脳内で自動的にカタカナに変換するようにしていれば、隣の大学生とは全く関わりないのだとすら思い込むことが可能になったのだ。
だがしかし。
「あんたのことだから、名前まで予想が付いちゃうわ~」
頬に手を当てて、母親が呆れたように吐息している。頼むからクロで構わないから、母親が名付けてくれればいいのにと考えてしまう智洋。
引っ込められてまた伴美の胸で大人しくしている黒猫は、ゆっくりと腰を上げる智洋をじっと見つめている。
「ほら、ヒロくんが自分の生殺与奪握ってんの解ってるのよ」
ね、お願いいいでしょ。うるりと大きな目で頼まれて、本人(猫)にも無心に見つめられてはもう頷くしかない。
はあ、と盛大な溜め息が漏れた。
「解ったよ。どうせこいつだって俺には素っ気ねえんだろうし、いてもいなくても一緒だよ」
じゃあそろそろ行くなとドアに手を掛けようとしたとき、なあ、と声が引き留めた。
初めての声に振り向くと、ぴんと立った耳がまっすぐに智洋を向いていて、黒猫がもう一度小さく鳴いた。
可愛い、と伴美も母親も歓声を上げる中、黒猫はまだ智洋を見ている。
なんだろう、ちょっと嬉しいかもしれねえ。
少しだけ頬を緩めて、今度こそ智洋はドアを開けた。
いってらっしゃいの声に押されて、クマ蝉とアブラ蝉が大合唱する住宅街の道路へと降り立つ。流石に急がないと電車に乗り遅れそうだ。
和明はもう駅で待っているかもしれない。
まず間違いなく、次に会うときにはその身に馴染んでいるであろう名前を思い、さてあの猫のことはいつ恋人に話そうかと暗澹たる気分になる。
どのみち伴美が手紙に書くだろうから、話題になるまで忘れておく方が心の平穏が保てるのかもしれない。
やっぱり俺ってちっせえ男。心の中で、もう何度目かの溜め息を吐いて、智洋はバス停へと向かったのだった。




