恋する触感―空に咲く大輪の―
ここだあ! と気合一閃。浴衣の袖を肩まで捲り上げた白い腕が残像を残して、いつの間にやら目の前にはふたつのカラフルな水風船が。
「どうよ」
ふふふ、と得意そうに笑い掛ける辰史に、後ろでは和明が拍手喝采している。ぽかんと呆けていた周一郎は、その手元にようやく視線を遣った。
「見た? わかっただろ、やり方。ほら次周な~」
斜め後ろで中腰になっていたのを最前列に押し出され、握っていた硬貨を反射的に差し出すとこよりの先に鈎針が付いたものを手渡される。
幼い頃にやったことがあるようなないような。親が教えてくれたという思い出はないから、やったとしても子供同士で地元の夏祭りでだろうなと考え、さてと水面に視線を落とす。
正直、手元なんてまともに見ていなかった。
だって仕方ないのだ。丁度鼻先に辰史のうなじがあり、男性にしては白すぎるその艶めかしい色に吸い寄せられ、うっかり唇を寄せそうになるのを懸命に堪えていた。襟があるのにそこから覗く肌は、普段寮でノースリーブを着ているときよりも色っぽく見えるから不思議だ。しかも浴衣のまま足を開いてヤンキー座りだなんてあんまりだ。脛はおろか太腿までがちらりと覗いて目の毒だ。
情動と戦いすぎてぐったり疲れて。うっかり本来の目的を忘れそうになってしまったのだ。
仕組みから考えても、こよりを水に浸けなくて済むように、なるべくゴムの輪っかが浮いているものを、と目が彷徨う。
この際水風船の柄は問題じゃない。折角周一郎のためにと商店街の夏祭りに付き合ってくれている同級生たちのためにも、自分用のくらいは掬いたい。
あれなら大丈夫、と狙いを定めて、その近くでそうっと針をくぐらせる。引っ掛けてぐいっと持ち上げると、周一郎の腕と共にその水風船が水から上がった。その後。
ぽちゃん。しぶきをあげて水風船が落下して、周一郎は一瞬固まってしまった。
「あーあ、惜しかったなあ兄ちゃん。それ持ってけ」
屋台のおっちゃんが苦笑いをして、一瞬だけ持ち上げられた件の水風船を指先で拾い上げて差し出し、呆然としながらも周一郎は手を差し出して受け取った。
「惜しい~周」
温かな手に背中を叩かれて、並んでいるひとたちのためにと一同は屋台前から離れたのだった。
金魚すくいは、飼う場所がないから駄目。中庭の噴水にこっそり放せばいいんじゃね、なんて辰史は言っていたけれど、餌とか水草とかどうすんだと智洋に冷静に突っ込まれた上、山の鳥たちに捕食されるかもなんて和明が眉を下げたから全員が諦めた。
何故だかワードローブの中に浴衣がある辰史以外は三人とも普段着で、Tシャツにハーフパンツとかジーンズとかそんな軽装だ。
和明の浴衣姿も見たかったなあなんてチラッと考えたのを感知したのか智洋に睨まれて、周一郎は口の端で笑って殊更辰史にべたべたしてみせる。
あのふたり仲良しだよな。嬉しそうに和明が智洋に笑って見せて、納得いかないままに智洋は口を閉ざす。いつもの、お約束のパターン。
後ろから抱きついた拍子にさりげなく袂に手を差し込めば、エッチ~とその手の甲を辰史が抓る。歩きながらそっと腰に手を回すのはありで、たまにその下の方をまさぐる時間がちょっとでも長すぎると叩かれたり抓られたりする。
なかなか難しいなあと、あれこれ試してみては周一郎は首を捻っていたが。この時間が楽しくて仕方ないというのは、確実に辰史にも伝わっているようだ。だから、けして本気で嫌がる素振りを見せないのだろう。
散々夜店を冷やかし、寮で夕食を取ったというのにまた買い食いして、手には飴細工や牛串などを持ってバスに乗り込んだら、運転手の仁がけらけらと盛大に笑いながら迎えた。
「うわ~祭りだなあって実感するよ」
いつもは最後尾辺りに陣取る和明が、いそいそと運転席に近付き「おひとつどうぞ」とイカ焼きを差し出すと、上司―ズには内緒でよろしくと頬張った。
さまざまな調理品の匂いで充満するバス内では、寮生たちの楽しげな声が行き来し、仁もウキウキと尻尾のような髪を揺らしながらバスを発進させる。
車内には幸広と亮太もいて、相変わらずの人目を憚らないいちゃつきぶりにもなんだか寛容になれるのは、星野原の校風のせいなのかもしれない。数ヶ月前に和明にあれこれしたことはぽーんと棚の上に放り投げて、周一郎は賑やかな車内の音と匂いに身も心も癒されるような気がしていた。
「疲れたか」
窓ガラスに頭を凭せ掛けて静かに瞼を下ろしている周一郎の隣で、辰史がそっと顔色を窺った。珍しくちょっかいをかけてこないことに気付いたようだ。
「いや」
ゆっくりと目を開き、しらず緩んでいた口元のまま、伏せ気味の目で辰史を見る。和明が散々「エロい」と称する所謂流し目というやつなのだが、別に今のは意識してやっていない。それでも、思わず辰史が息を呑むほどに艶があった。
淡く染まる頬に「ん?」と首を傾げて周一郎の手が添えられる。
「辰こそ、はしゃぎすぎて疲れたのか?」
ゆっくりと撫で擦りながら反対の手が膝に下り、いつの間にやら裾を割って素肌に触れてくる。いつもならパシンとはたくタイミングで、辰史の吐息が温度を上げた。
動きを止めて「辰?」と訝しげに呼ばれて、慌てて裾を直しながら手首を掴んで自分のエリアに戻させる。
「ちっと疲れたかもだけど、最後まで付き合えよな」
なんだかちょっと拗ねたように唇を尖らせて、辰史は通路側の手に持っていた焼き鳥にかぶりつき、寮に着くまでひたすら食べ続けていたのだった。
エントランスで解散かと思えば、寮ではなくそのまま校舎の方へと向かう辰史に付いて行く。二人の後ろでは智洋と和明も楽しそうにおしゃべりを続けているから、周一郎は目的などを尋ねることも出来なかった。
まあ、行けば判るだろうし。
時折手元に視線を落としながら動かす手の平の下では、ぱうんと水風船が弾んでいた。
鷹揚に構えていても、雪駄のまま軽快に段を上る辰史の腰と足捌きに視線が行くのは止められない。真後ろにいれば、足を上げた瞬間に顕わになる臀部のラインが艶めかしいし、隣を歩けば、歩を出す瞬間にかなり上まで捲れて見えてしまう内腿の白さが眩しすぎる。
まさにエロ親父全開の視線にも、辰史は気付いているのかいないのか、恥ずかしがる様子もない。
先のことなど考えず、このまま押し倒してその腿にむしゃぶりついて隙間もないくらいに舐め尽くしたい。規制の掛かる妄想をしながら一行が辿り着いたのは、屋上庭園だった。
「良かった~間に合った!」
重いドアを押し開けて南国風の庭園に出ると、かなり広いそのガラス張りの温室にはちらほらと寮生たちが点在している。
ベンチはもう埋まっていて、腰掛けるのは無理そうだ。うきうきと空を見上げている皆に倣い、周一郎も真上を見上げては北極星を探したり、少し視線を下げてはソテツや椰子の幹の隙間から森を眺めたりとしてみたのだが、特に何も楽しそうなものは見当たらない。
星の観測会とか、流星群でもあるのか。皆、来るその時を待ってうずうずしているのか。隣の辰史に視線を落とすと、斜め上を見ている。方向としては、山の向こうに川がある辺りだ。
そろそろ何か尋ねた方が良いのかと周一郎が迷っていると、あ、と声を上げて辰史が半袖シャツの袖をぐいと引いた。
世界が一気に明るく弾けて、どおんと音が空気を震えさせる。
うっかり目を閉じてしまった周一郎が慌てて辰史の見ていた方へと視線を遣ると、赤や橙の光が明滅しながら緩く弧を描いて散り散りに空に溶けていくところだった。
「たーまやー!」「かーぎやー!」
あちこちで寮生たちが喝采を上げ、それに勢いを得たかのように、一定ではない間隔を置いて次々に空へと打ち上げられるもの。
それは、周一郎がもっと幼い頃に画面の向こうでしか観た事がなかった大輪の花火だった。
言葉もなく凝視する周一郎を、辰史は横目で窺っている。十分くらいそうしていると、はっきりと聞こえないが、ずっと遠くからマイクで話している声がする。
「スポンサーの紹介を兼ねて、休憩してるんだよ」
あと、花火の名前とか説明な。首を傾げている周一郎に、辰史が教えた。
なるほど、と呟いて首を戻すと、辰史と視線が絡む。
へへ、と笑う辰史が嬉しそうで、周一郎も笑い返した。
「良く知ってるんだな。花火好きなのか?」
「大抵のヤツは好きだろ? そうじゃなくて、周が楽しそうだから嬉しいんだよ」
え、と周一郎が口を開きかけた時、また夜空に花が咲き、腹の底から突き上げてくる音に世界は自分たちの音を失う。
隣では、それを見上げながら音の隙間を縫って辰史が大きく声を上げていく。
あれが一番オーソドックスな〈変化菊〉、地味なのが〈椰子〉形で判るだろ。〈輪星〉も地味だけどハートが可愛いから女子に人気。ここからは見え難いけど、次々連続で上がるのが嬉しい〈スターマイン〉全然見えないのが、低いところでやる〈ナイアガラ〉。長く楽しめるのが〈千輪菊〉で、ちっさいのがいっぱい飛び出てくるくる回るのが健気だろ。それから俺が一番好きなのは――
ひときわ大きな音が大地すら揺るがし、高く高く上がった金色の光が、色を変えながら尾を引いて降って来る。
ここまで届くんじゃないかと手をかざし目を眇める周一郎に、辰史が体を寄せた。
「冠菊、一番派手なのな」
音もなく動きだけで復唱する唇に、そのまま辰史の唇が触れた。一瞬で逃げていくそれに気付いた時には、フィナーレを飾るかのように次々に全ての種類が打ち上げられて、顔を見ようとした周一郎はまた空へと視線を戻した。
ただ、そのまま消えてしまうのではという不安に駆られて伸ばした手は、しっかりと辰史の手を握っていて。辰史もそれを振り払いはしないで握り返してから、自分の腰に誘導した。
光が消えても、ちりちりと火の粉が空気を焦がしている気配が続いている。
もう終わったんだろうなあと、また微かに伝わってくるマイクの声を耳にしながらも、諦めきれずに空を見上げたままの者が多く、さっさと踵を返して階段へと向かう足音を聞きながらも、ふたりはその場に立ち尽くしていた。
「――なんとなく、たまやって叫ぶ人が多いけどさ」
再び口を開く辰史は、もう見上げるのを止めて周一郎を見ていた。
「本当は鍵屋が本家で、玉屋が分家なんだってさ。知ってた?」
言い易いからたまやなのかなあ、とくすくす笑う辰史に、周一郎はどう言葉を掛ければよいのか逡巡する。
「なにがきっかけで始まるか、わかんねえもんだよな」
自嘲する様に、目を細める目の前の美形は、何を考えているんだろう。
それは、花火の話なのか、それとも――
ようやく諦めの付いた人波に紛れるように、辰史が体を翻して歩き始める。そのまま見送ればよいのか身動きできずにいると、出入り口をくぐる前に振り向いて手が上がる。その指先は、バイバイではなくおいでと招いていた。
ああ、なんかもういいや。いっぱいいっぱいだし。
周一郎は、少しだけ苦笑してからようやく足を踏み出した。
振り回されても、傍に居させてくれるのなら。
自分だって、まだこの気持ちに名前なんて付けられはしないのだから。




