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第30話「元勇者、温泉旅行に行く」

「慰安旅行くらい経費で落とせんだろ」


 デスDがそう言って、本当に温泉旅行を手配した。


「旅行って、仕事じゃなくて行っていいんですか?」


「お前はもうちょっと遊べ」


「わしは遊ぶぞ! 温泉も料理も酒も、すべて堪能するのじゃ!」


「ティアは遊びすぎないでね」


 アイが言うと、ティアは胸を張った。


「温泉旅行に遊ぶ以外の目的があるのか?」


「慰安」


「同じじゃろ」


 萌の学校の予定に合わせたので、全員で参加できた。


 僕たちは電車に乗り、目的地へ向かった。ティアは駅弁を二つ食べ、窓の外を流れる景色へ顔を近づけ、車内販売が通るたびに振り返った。


「悠、旅とはよいものじゃな!」


「まだ移動してるだけだよ」


「移動も旅のうちじゃ!」


 世界を救うための旅なら、三年間続けた。


 けれど、目的地に魔王も魔物もいない旅は、ずいぶん久しぶりだった。


「こういう旅もあるんだな」


「何を当たり前のこと言ってるの?」


 隣に座ったアイが笑う。


「これからも時々こうやって、みんなで行きたいね」


「うん」


 ◇


 着いた旅館は、入口から広かった。


「城ではないか!」


「旅館だよ」


「同じようなものじゃろ」


「城に宿泊料金はないよ」


 部屋へ荷物を置き、全員で浴衣に着替えた。


 ティアは帯を胸の辺りで結ぼうとして、アイに止められていた。


「なんじゃ。ここではこう着るのではないのか?」


「どこを見て覚えたのよ。ほら、こっち向いて」


「わしに似合うようにするのじゃぞ」


「じっとしてたらね」


 僕も浴衣へ着替えると、萌がしばらくこちらを見た。


「お兄ちゃん、なんかお父さんみたい」


「そうかな」


「その落ち着き方が」


「老けて見える?」


「見た目は若いのにね」


 アイが付け足し、二人で笑った。


 ◇


 男湯には、僕とデスDしかいなかった。


 肩まで湯に浸かると、自然に息が抜ける。何かに備えなくてもいいというのは、少し不思議な感覚だった。


「お前、帰ってきた頃よりだいぶマシな顔するようになったな」


 隣にいたデスDが言った。


「そうですか?」


「最初は何見ても、次に壊すもん探してる顔だったぞ」


「そんな顔してました?」


「してた」


 自覚はなかった。


「今は仕事もある。妹も元気になった。女も――」


「女?」


「なんでもねえ」


 デスDが湯へ口元まで沈んだ。


 そのとき、仕切りの向こうから声が聞こえた。


「待ちなさい、ティア!」


「離せアイ! わしはもう! これ以上は耐えられんのじゃ!」


 すぐに、男湯の戸が勢いよく開いた。


 濡れた長い髪に角と尻尾。大きなタオルを巻いた成人女性の姿のティアが、湯気の向こうに立っている。


「もはや情けは無用! わしは今夜、悠を我が物とするぞ!」


「ティア。ここ男湯だよ」


「知っておる!」


「じゃあ戻ろう」


「なぜじゃ!?」


 デスDは無言で立ち上がった。


「……俺ァ先に上がるわ」


「デスDさん?」


「巻き込むな」


 僕たちと入れ替わるように、浴衣と追加のタオルを抱えたアイが飛び込んでくる。


「ティア! 戻るよ!」


「邪魔をするでない! 今日こそ雌雄を決するのじゃ!」


「雌雄はもう決まってるでしょうが!」


「アイまで男湯に入ってきたけど、大丈夫?」


「誰のせいだと思ってるの!」


 結局、ティアはアイに引っ張られて女湯へ戻っていった。


 温泉は、魔物がいなくても騒がしい場所らしい。


 ◇


 夕食には、机へ載りきらないほど料理が並んだ。


「よいぞ! この皿もこちらへ寄越すのじゃ!」


「ティア、それ私の」


「では半分こじゃ、萌!」


「もう三人分食べてるよね?」


「先ほど消耗したからの」


「男湯まで走った分?」


「愛の戦いは魔力を使うのじゃ!」


 デスDは早々に酒を飲み、アイと萌は料理の写真を撮っていた。僕も少しだけ酒を飲んだ。


 旅館の夕食は、魔王城の宴よりずっと静かだった。


 ティアとデスDは言い争っているし、アイと萌は笑っている。静かという言い方は、少し違うかもしれない。


 でも、僕はこっちの方が好きだった。


 ◇


 夕食のあとは、旅館にあるカラオケを使うことになった。


 アイが歌い始めると、全員が自然に聞き入った。萌も普通にうまく、二人で歌えば画面に点数が表示されるたびにティアが悔しがった。


「次はわしじゃ!」


 ティアは立ち上がり、声量だけで部屋を揺らした。


「音が大きい!」


「歌とは己の魂を響かせるものじゃ!」


「音程も響かせて!」


 アイが耳を押さえながら叫んだ。


 次は僕の番になった。


「悠、本当に歌うの?」


「みんなでカラオケに来たんだから、僕も歌うよ。前回よりうまくなってるかもしれないし」


「練習した?」


「してない」


「じゃあ、変わってないと思う」


 萌が先に結論を出した。


 知っている曲を選び、画面に合わせて真剣に歌った。声は出ているし、リズムにも遅れていないと思う。


 なのに、一曲が終わる頃には、みんなが困った顔をしていた。


「……ですよねー」


 アイがため息をついた。


「前回と同じだったね」


「少しはうまくなってると思ったんだけど」


『悠よ』


「何?」


『歌わぬ方がよいのである』


「バール様まで?」


「破壊神に止められる歌って何なんだよ」


「わしはよかったと思うぞ、悠!」


「ティアは人のこと言えないから」


 どうやら、僕は歌わない方がいいらしい。少なくとも、みんなの前では。


 ◇


 夜、部屋へ戻ってからもティアは僕たちの部屋へ来ようとしたけれど、アイに回収された。


 デスDは布団に入ると、すぐに寝てしまった。


 僕はまだ眠くなかったので、一人で旅館の外へ出た。


 夜の温泉街には、昼間より人が少ない。店の明かりを眺めながら歩いていると、後ろから下駄の音が近づいてきた。


「悠」


 振り返ると、浴衣姿のアイがいた。


「アイも眠れないの?」


「少しだけね。一人で出歩いて、迷子になってないか見に来たの」


「道は覚えてるよ」


「八年前の道じゃない?」


「そこまで古くないよ」


 並んで歩きながら、夕食やカラオケの話をした。


「次に歌うまでには、練習しておくよ」


「次も歌う気なんだ」


「上達できるなら」


「その前向きさ、別のところで使ってほしいな」


 アイが笑ったあと、手が少し触れた。


 そのまま、アイが僕の手を握る。


 少し驚いたけれど、振りほどく理由はなかった。僕たちは手をつないだまま歩いた。


「ねえ、悠」


「何?」


「この前さ」


「うん」


「……ちょっとだけ、怖かった」


「何が?」


「悠が」


 アイは前を向いたまま続ける。


「本気で戦ってたでしょ」


「うん」


「あの時……ああ、本当に勇者だったんだなって思った」


「……うん」


「私が知ってる悠じゃないみたいだった」


 つないだ手に、少しだけ力が入った。


「もう同じ場所にはいられないんじゃないかって、ちょっと思った」


 僕は、すぐには答えられなかった。


 八年前と同じだと言うことはできない。僕にとっては三年でも、その間に見たものや経験したことがなくなるわけではなかった。


「そうか……そうだよね」


「え?」


「そう思うよね」


 アイが立ち止まった。


「違う。そうじゃなくて……」


 僕を見上げたアイの頬を、涙が流れた。


 アイ自身も驚いたように、空いた手で頬へ触れる。


「……なんで泣いてるの、わたし」


「アイ」


「泣くつもりじゃなかったのに。わたしは、悠が悠のままだって知ってて、それを言いたくて……」


 拭っても、涙は次々に流れた。


「ごめん」


「なんで悠が謝るの!」


「いや、泣かせたから」


「そういうところ!」


「え?」


「もう……!」


 アイは泣きながら、僕の手を離さなかった。


「もう! これじゃあ、わたしが慰められてるみたいじゃない。わたしの方がお姉さんなのに。わたしが、悠を支えたかったのに……もう、もう!」


 どう答えればいいのか、すぐには分からなかった。


 僕は八年前と同じではない。


 でも、目の前で怒って、泣いているアイは、僕が知っているアイだった。


「いいんだよ。アイはアイだよ。僕の知ってるまんまのアイだ」


 今度は、僕からアイの手を握り返した。


「君が君のままでいてくれるなら、僕も僕のままでいられると思う」


 アイが俯いたまま、鼻をすすった。


「ありがとう。また会ってくれて」


「……何が」


「八年も経ってたのに」


「そういうこと、今言う……?」


「駄目だった?」


「駄目に決まってるでしょ……! また泣くじゃん……!」


「ごめん」


「だから謝らないでよ」


 それでも、アイは手を離さなかった。


 僕たちは、またゆっくり歩き始めた。


 しばらくすると、遠くから大きな声が聞こえてきた。


「ぬ、抜け駆けは許さんぞおおおおお!!!」


 振り返ると、成人女性の姿をしたティアが、浴衣の裾をたくし上げて全力で走ってくる。


「ちょ、ティア! 走ったら危な――」


 ティアの下駄が石畳へ引っかかった。


 盛大な音を立てて転び、そのまま僕たちの前まで滑ってくる。


「ぬおおおおお!!」


「大丈夫?」


「大丈夫ではないわ!!」


 アイが、泣いたまま笑った。


 僕は空いている手をティアへ差し出した。


 何も起きない旅行のはずだった。


 でも、こういう騒ぎなら悪くないと思った。

今回は、ようやく何も救わなくていい旅です。温泉、料理、カラオケと徹底して遊ばせつつ、後半だけ悠とアイの八年間へ踏み込む構成にしました。


一番悩んだのは、アイに「勇者としての悠が怖かった」と言わせても、悠そのものを拒絶する場面にしないことです。悠も「昔と同じだ」と安易には否定せず、変わった自分を認めたうえで、アイが変わらず接してくれることを支えとして受け取ります。告白もキスもありませんが、最後まで手はつないだまま。人間が感情の着地点を決め、AIには温泉旅行の各場面と会話の初稿作りを手伝ってもらいました。


なお、第22話ですでに全員が悠の歌唱力を知っているため、カラオケでは初見の驚きではなく「……ですよねー」という再確認になっています。


次回、第31話「バールさん、再びエロトラップダンジョンに挑む」。


第31話から、物語はいよいよ最終章へ入ります。――その初手が深夜のエロトラップダンジョンで本当にいいのかは、たぶん考えない方がいいです。

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