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ヴァルハイト城の大応接室。
豪奢な大理石の暖炉には赤々と炎がくべられていたが、部屋を包む空気は、氷点下の北風よりも冷ややかだった。
ふかふかの絨毯の上に立っているのは、王宮から遣わされた特使──シザールの側近であったハミルトン子爵だ。
王都から不眠不休で馬を飛ばしてきたのか、彼の高級な旅装は埃と汗で汚れ、目の下には黒々としたクマが落ちていた。けれど、その落ち凹んだ瞳に宿っているのは、反省でも恐怖でもなく、肥大化した特権意識と、我が身の保身に固執する浅ましい焦燥だけだった。
「──以上が、王太子シザール殿下からの温かいお言葉でございます、エレノア嬢!」
ハミルトン子爵は、金箔が施された上質の羊皮紙を大げさに広げ、朗々と読み上げた後、勝ち誇ったように胸を張った。
「殿下はなんと寛大なお方でしょう! あなたの過去の無礼、聖女様への非道な嫌がらせ、そして王家に対する不敬な態度……それらすべてを、今回は特別に『若気の至り』として許してくださるとおっしゃっているのです! さあ、すぐに荷物をまとめなさい! 我が馬車で一緒に王都へ戻り、まずは滞っている財務処理と、アスラート家からの融資の再開、ならびに魔石の供給手続きを直ちに行うのです!」
静寂が、応接室を満たした。
私とギルバート様は、重厚な革張りのソファに並んで腰掛けたまま、ただじっとハミルトン子爵を見つめていた。
あまりの滑稽さに、開いた口が塞がらないとはこのことだろう。
「……ハミルトン子爵」
私はゆっくりとティーカップをソーサーに戻し、澄んだ声をあげた。
「一つ確認させていただいてもよろしいでしょうか。その書簡は、本当にシザール殿下がご自身の意志でお書きになったものですか?」
「もちろんです! 殿下はあなたという『裏方』がいなくなって、少々王宮の事務が滞っていることに胸を痛めておられます。ですが、反省して戻るならば、聖女クロエ様の補佐としてのポジションを与えてやってもよいと……」
「プッ……」
唐突に、私の隣から押し殺したような笑い声が漏れた。
ギルバート様が、長身を丸めるようにして肩を震わせている。紫色の瞳に涙を浮かべながら、彼は心底おかしそうに吐き捨てた。
「失礼、ハミルトン子爵。あまりにも落語(お笑い草)が過ぎるのでね。……正気か、お前たちは?」
「な……ヴァルハイト公! 無礼な! これは我が王国の未来を決める重大な奉答でございますぞ!」
「どこが重大だ」
ギルバート様の笑みが、一瞬で氷の刃のような冷酷なものへと変わった。
彼が放った圧倒的な覇気と威圧感に、ハミルトン子爵はひっと短い悲鳴を上げて思わず半歩後退した。
「国を傾かせ、財政を破綻させ、結界を消滅させかけた愚か者が、己の無能を棚に上げて『許してやるから戻ってこい』だと? 狂っているのはシザールか、それともお前の頭か?」
「ひ、ひえっ……! し、しかし……エレノア嬢は王太子の婚約者! 国家の危機に際して、王家のために働くのは公爵家の義務で……!」
「私はもう、婚約者ではございませんわ」
私は立ち上がり、静かにハミルトン子爵へ近づいた。
ドレスの裾が、大理石の床を滑るように擦れ合う。
「公の舞踏会の場で、数百人の貴族たちの前で、シザール殿下自らが宣言されたのです。『エレノア・フォン・アスラートとの婚約を破棄する』と。それを今さら撤回するなど、王家の威信を自ら泥に塗るようなものではありませんか?」
「そ、それは……あの時は殿下もお心が混乱しておられて……! 聖女様の甘言に少々惑わされていただけなのです! 殿下も今では深く後悔しておられます! 『エレノアこそが僕の真の理解者だった』と……!」
「……後悔、ですか」
胸の奥で、カチリと冷たい音がした。
後悔。なんと都合の良い、甘っちょろい言葉だろう。
私がどれだけの夜を、数字の山と格闘しながら過ごしたか。
シザールが他の令嬢と楽しげにお茶会をしている間、どれだけのプレッシャーと戦いながら、国家の基盤を守り続けてきたか。
それをすべて「冷酷」だと切り捨て、新しい女に現を抜かしておきながら、自分が困ったら「後悔しているから戻れ」などと……。
「ハミルトン子爵。シザール殿下にお伝えください」
私は、ハミルトン子爵の目の前で、彼が差し出していた金箔の書簡を手に取った。
「な、納得していただけましたか!?」
期待に顔を輝かせる子爵の目の前で──
びりっ。
静かな音を立てて、私はその羊皮紙を真っ二つに引き裂いた。
「な……!? な、何をするのですかエレノア嬢!!? それは王太子殿下の直筆の……!」
びり、びり、びりり。
私は表情一つ変えず、シザールの想い(身勝手な欲望)が綴られた手紙を細かく細かく引き裂き、暖炉の炎の中へと投げ入れた。
紙片は一瞬で赤く燃え上がり、黒い灰となって煙突へ吸い込まれていく。
「──これが、私の返答です」
私は冷たい笑みを浮かべ、呆然と立ち尽くすハミルトン子爵を見据えた。
「私は二度と、あの愚かな男のもとへは戻りません。アスラート公爵家からの融資の再開も、魔石の供給も一切行いません。……王家が自らの手で撒いた種です。その毒麦は、自分たちで刈り取っていただきましょう」
「そんな……っ! そんなことをすれば、王家は……アルカディア王国はどうなると思っているのですか!?」
「どうもこうもありません」
ギルバート様がゆっくりと立ち上がり、私の隣に並んだ。その大きな手が、私の腰を抱くようにそっと添えられる。
「自滅するだけだ。……ハミルトン子爵、お前に一つ忠告しておこう。王都へ戻ったら、すぐに自分の財産を海外へ移し、荷物をまとめることだ。……破滅の波は、もう誰にも止められないぞ?」
「ひ、ひいいぃぃっ!!」
ハミルトン子爵は、まるで悪魔の宣告を受けたかのように顔を惨白にさせ、引き裂かれた手紙の灰を拾うことすら忘れ、逃げるように応接室を飛び出していった。
バタン! と激しく扉が閉まる。
静寂が戻った部屋で、私はふうっと長いため息をついた。
背中に残っていた緊張が解け、少しだけ肩の力が抜ける。
「手厳しいな、エレノア。だが……最高に美しかったぞ」
ギルバート様が、私の腰に回した手に少しだけ力を込め、私を引き寄せた。
「……お恥ずかしいところをお見せしました。あのような手紙、一秒でも手元に置いておくのが不快だったものですから」
「いいや、胸がすいた。あいつらの都合の良い幻想を破り捨ててくれたな。……だが、これで本当に対話の道は途絶えたぞ? 後悔はないか?」
ギルバート様が、私の目を覗き込んでくる。
その瞳には、私を試すような色はなく、ただ私の心を気遣う深い優しさだけがあった。
「後悔など、あるはずがありません」
私はギルバート様の胸にそっと手を当て、まっすぐに見つめ返した。
「私はもう、前だけを見て歩むと決めましたから。……あなたの隣で」
ギルバート様の瞳が熱を帯びる。
彼の手が私の頬を優しく撫で、そのままゆっくりと顔が近づいてきた。
鼻先が触れ合うほどの距離。彼の温かい吐息が私の唇をかすめる。
呼吸が止まる。
シザールとの十年間で一度も経験したことのない、甘く、全身が痺れるような高鳴り。
私は静かに目を閉じた。
二人の唇が重なる、その瞬間の甘やかな温もりは、過去のほろ苦いすべての傷を塗り替えていくのに十分だった。




