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市民たちの不満は頂点に達していた。
『聖女なんかいらない! パンをくれ!』
『エレノア様を戻せ! エレノア様がいた頃は、こんなことにならなかった!』
連日のように、王宮の門前で市民によるデモが行われている。
シザールが「慈悲深い聖女」として称えさせようとしたクロエは、今や市民から「国を滅ぼした悪女」「偽りの聖女」と石を投げられる存在になっていた。
「シザール様! お祈りですわ! 私が神様にお祈りをすれば、きっとお金も小麦も降ってきますわ!」
「お祈りで五十万金貨が降ってくるわけがあるか、このバカ女!!」
シザールは怒りに任せて、デスクの上のインク瓶を壁に投げつけた。
黒いインクが壁に飛び散り、クロエの桃色のドレスの裾を汚す。
「きゃああっ!! 酷い……酷いですわシザール様! 私を愛しているとおっしゃったじゃない! 『エレノアのような冷酷な女とは違う、僕の癒やしだ』って……っ!」
「それはお前が……お前が僕をそそのかしたからだろ!!」
シザールは目を血走らせてクロエに掴みかかった。
「お前が『エレノア様が意地悪をする』『ポーションを配りたい』甘い言葉で僕を惑わしたから、僕はエレノアを手放してしまったんだ! お前さえ……お前さえ現れなければ、僕は今頃、エレノアと一緒に完璧な国を納めていたんだ!!」
「な……なんですって……!? 自分の無能を私のせいにするつもり!? この役立たずの王子!!」
「役立たずだと!? 貴様、誰に向かって……っ!」
かつて「真実の愛」を誓い合ったはずの二人は、もはや互いを罵り合い、醜く責任を擦り付け合うだけの関係に成り下がっていた。
シザールは頭を抱えて床に膝をついた。
彼の頭の中に浮かぶのは、いつでも冷静で、どんな無理難題も「かしこまりました、殿下」と微笑んで解決してくれた、あの藍色のドレスの女性だった。
『殿下、南部での水害対策の予算、計上しておきましたわ』
『殿下、お疲れでしょう。温かいハーブティーをお入れしました』
『殿下、大丈夫です。私がおりますから』
──なぜ、気づかなかったのだろう。
彼女が示していたのは、「冷酷さ」などではなく、この国と自分に対する、果てしない「献身」だったのだということに。
彼女が作った完璧な土台の上で、自分はただ「立派な王子」の仮面を被って踊っていただけだったのだということに。
「エレノア……っ。エレノア……助けてくれ……っ! 僕が悪かった……僕が間違っていたんだ……っ!!」
シザールは冷たい床に額を押し付け、誰もいない空間に向かって、虚しく泣き叫ぶことしかできなかった。
◇
ヴァルハイト城、夜の執務室。
静かな部屋に、ペンが紙を走らせる心地よい音だけが響いている。
私はデスクに向かい、明日から始まる鉱山開発の予算組を行っていた。
「……ふう」
手元に置かれた時計を見ると、すでに深夜の二時を回っていた。
さすがに目が疲れてきた。私はペンを置き、目元を指で軽く揉んだ。
「夜更かしもほどほどにと言ったはずだが?」
不意に、後ろから温かい気配が近づき、肩に柔らかなブランケットがかけられた。
振り返ると、ギルバート様が小さなトレイを手にして立っていた。トレイの上には、湯気を立てるマグカップが二つ載っている。
「ギルバート様。まだ起きていらしたのですか」
「自分の参謀が過労で倒れては困るからな。……温かいホットチョコレートだ。生クリームとほんの少しのシナモンを入れてある」
「まあ……ありがとうございます」
マグカップを受け取り、一口含む。
濃厚なチョコの甘みと、スパイシーなシナモンの香りが口いっぱいに広がり、疲れた脳にじんわりと染み渡っていく。
「美味しいです……」
「そうか。お前の好みを厨房の料理長に聞いておいてよかった」
ギルバート様は私の隣の椅子を引き、優雅に腰掛けた。
彼もまた、マグカップを口に含みながら、私が書いていた書類に目をやる。
「王宮からの報告書は読んだか?」
「はい。……シザール殿下とクロエ様が、執務室で取っ組み合いの喧嘩をされたとか」
私は苦笑混じりに言った。
本来なら、あんなにも自分を傷つけた相手が惨めな目に遭っているのだから、胸がすくような快感を覚えるべきなのかもしれない。
けれど、私の心にあったのは、どこか遠い世界の話を聞いているような、淡い寂しさ──ほろ苦い虚無感だけだった。
「悲しいか?」
ギルバート様が、静かな声で尋ねてきた。
「いいえ……悲しくはありません。ただ、私が十年間守ろうとしたものが、あれほど簡単に崩れてしまったのだと思うと……自分の十年間は何だったのだろうと、少しだけ考えてしまいます」
私が俯くと、ギルバート様はそっと私の顎に手をかけ、自分の方を向かせた。
彼の美しい顔が、目の前にある。
紫色の瞳が、夜の闇よりも深く、けれど灯火のように温かく私を映し出していた。
「お前の十年間は、決して無駄などではなかった」
ギルバート様は力強い声で言った。
「お前が積み重ねてきた知識、経験、そして痛みが……今の素晴らしい『エレノア・フォン・アスラート』を作ったのだ。あの愚か者には、お前の価値が分からなかった。だが、俺は違う。……俺は、お前のその気高さも、頭脳も、そして時折見せるその不器用な優しさも、すべてを愛おしく思っている」
「ギ、ギルバート様……?」
唐突な告白に、私の心臓が大きく跳ね上がった。
顔が一瞬で熱くなるのが分かる。
「ビジネスパートナーとしての言葉では……ございませんわね?」
「当然だ」
ギルバート様は薄い唇を吊り上げ、甘く微笑んだ。
「最初は、お前の才能を利用して王家に一矢報いるつもりだった。……だが、違ったよ。俺はお前という女性そのものに魅せられたんだ。あの夜、舞踏会で誰よりも気高く立ち尽くしていたお前を見た時から……いや、もしかしたらもっと前からかもしれない」
彼は私の手を取り、その指先にひとつひとつ、丁寧に唇を落としていった。
シザールとの十年間で一度も感じたことのない、全身の血が跳ね上がるような、甘い痺れ。
「エレノア。俺の隣で、ずっと笑っていてくれないか? 俺の全存在をかけて、お前を幸せにすると誓う」
「……あ」
言葉が出なかった。
私はずっと、「役に立つから」「優秀だから」側に置かれてきたのだと思っていた。
けれど、この人は違う。私が優秀だから必要としているのではない。私という人間そのものを求めてくれている。
胸の奥に眠っていた古い傷跡が、彼の温もりによって、完全に癒やされていくのを感じた。
その時。
バン!!
執務室の重厚な扉が、大音音を立てて開いた。
「閣下!! エレノア様!! 緊急事態でございます!!」
息を切らせた城の従者が、血相を変えて飛び込んできた。
甘い雰囲気が一瞬で吹き飛び、私は慌ててギルバート様から手を引き抜いた。ギルバート様は酷く不機嫌そうな顔で従者を睨みつけた。
「……何事だ。今、非常に重要な局面だったのだが」
「も、申し訳ございません! ですが、城の門前に……王宮からの『特使』が到着いたしました!」
「特使?」
私が眉をひそめると、従者は青ざめた顔で続けた。
「はい……王太子シザール殿下からの『直筆の書簡』を持った使者でございます! 『エレノアを許してやるから、今すぐ王宮へ戻り、国家の危機を救え』と……!!」
私とギルバート様は、一瞬顔を見合わせ──
そして、同時に呆れたような溜息をついた。
「……どこまで盗人猛々しいのだ、あの男は」
ギルバート様が冷酷な笑みを浮かべる。
「エレノア、どうする? 追い返すか? それとも……叩き潰すか?」
私はマグカップを置き、静かに立ち上がった。
私の唇には、かつてないほど冷たく、そして美しい笑みが浮かんでいた。
「追い返すなど、勿体ないですわ。……せっかく遠方から来ていただいたのですから、我がヴァルハイト公爵領の『発展ぶり』を存分に見せつけて、絶望のお土産を持たせて差し上げましょう」
愚か者たちの悲鳴は、まだ始まったばかりだった。




