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北方の風は、王都のそれとはまるで違っていた。
車窓から吹き込む風には、万年雪を戴く雄大な山脈の冷気と、針葉樹林の瑞々しい香りが混ざり合っている。肌を刺すような寒さではあるが、どこか清々しく、私の胸の奥に澱んでいた湿った記憶を吹き飛ばしてくれるようだった。
馬車が小高い丘を越えると、眼下に広大な街並みが現れた。
ヴァルハイト公爵領の領都、グラン・ヴァルハイト。
重厚な石造りの建物が規則正しく立ち並び、遠くには黒真珠のように鈍い光を放つヴァルハイト城が聳え立っている。一見すると整然とした美しい街だが、長年財務と内政に携わってきた私の目には、その裏に潜む「歪み」がすぐに見て取れた。
市場の人通りはまばらで、流通している商品の多くが隣国からの輸入頼み。
城塞都市としての防壁は堅牢だが、街の外周には未開発の荒地が広がり、産業の軸となるべき鉱山や加工場は、一部の古い権力者に独占されて効率的な運用がなされていない。
「……宝の山ですわね」
思わず呟いた私に、隣のギルバート様がくすりと喉を鳴らした。
「宝の山、か。多くの者が『北の極寒の地』『開拓不能な不毛の塞』と呼ぶこの場所を、そう表現したのはお前が初めてだな」
「当然です。広大な未開発地域は、適切な魔導耕作技術を導入すれば一大農地に変わります。また、山脈から採掘される未精製の魔導鉱石は、純度を高める精錬施設を領内に作れば、他国への輸出で莫大な利益を生むでしょう。王都の腐敗した貴族たちに上前を跳ね撥ねられることなく、すべての富をこの地に還元できる……これほど魅力的な投資対象はありません」
私が熱っぽく語ると、ギルバート様は深い紫色の瞳を細め、心底愛おしそうな眼差しで私を見つめた。
「頼もしい限りだな。……だがエレノア、あまり張り切りすぎて体を壊すなよ? お前は王都で、十人分以上の仕事を一人でこなしていたのだろう。ここでは、まずお前自身の休息も必要なのだから」
「お気遣い感謝いたします。ですが、仕事をしていた方が落ち着くのです。……誰かのために自分を擦り減らす仕事ではなく、自分の未来を切り開くための仕事なら、いくらあっても苦になりません」
「そうか……」
ギルバート様は静かに頷くと、私の左手に自分の手をそっと重ねた。
彼の指先から伝わる温もりが、冷え切っていた私の心をじんわりと満たしていく。
シザールといた十年間、彼が私に触れるのは、舞踏会での形式的なエスコートか、あるいは彼が機嫌の良い時に私の努力を「褒めてやる」ための、上から目線の接触だけだった。
だが、ギルバート様の触れ方は違う。対等な人間として、そして守るべき大切な存在として、慈しむように私に触れてくれるのだ。
この甘やかな感覚に戸惑いながらも、私は彼の手を拒むことができなかった。
◇
ヴァルハイト城に到着した私を待っていたのは、歓迎の宴……ではなく、領地の重臣たちによる冷ややかな視線だった。
「公爵閣下。王都から連れてこられたのが、あの『アスラート家の鉄の女』だとは……。しかも、王太子殿下に婚約を破棄された失意の令嬢ではございませんか」
「左様でございます。いくらアスラート公爵家とのパイプを作りたいとはいえ、他国の政争で傷ついた女性に、我が領地の重要な内政を任せるなど……」
城の大会議室。
長机を挟んで並ぶのは、白髪を蓄えた頑固そうな老貴族や、領内の利権を握る古い商人組合の代表たちだ。彼らにとって、王都からやってきた若い女性──それも「婚約破棄された傷物」である私は、不快な侵入者でしかないのだろう。
ギルバート様が不機嫌そうに眉をひそめ、口を開こうとした。
だが、私はそれを手で制した。自分の価値は、自分自身で示さなければ意味がない。
「──皆様。ご懸念は至極ごもっともでございます」
私は凛とした声を響かせ、会議室の全員を見渡した。
背筋をピンと伸ばし、王宮で仕込まれた完璧な立ち振る舞いで、ゆったりと彼らの前へ歩み寄る。
「私がシザール殿下から婚約を破棄されたこと、そして『冷酷な鉄の女』と呼ばれていたことは事実です。……ですが、皆様はご存知でしょうか? 私が『冷酷』と呼ばれた理由を」
老貴族の一人が、不気味そうに眉を寄せた。
「理由……? 聖女様を嫉妬し、無慈悲に予算を削ったからであろう?」
「いいえ。私が削ったのは、無能な官僚たちが私腹を肥やすための『不正請求』と、現実を見ない王族の『無計画な散財』です」
私は連れてきた従者に合図を送り、分厚い羊皮紙の束を全員の前に配らせた。
それは、私がヴァルハイト領へ向かう馬車の中で、過去の領地決算書を分析して作成した「ヴァルハイト領財政改革案」だった。
「これは……!?」
商人組合の代表が、書類を開いた瞬間に目を見開いた。
「過去三年のヴァルハイト領の台帳を拝見いたしました。北方山脈からの物流ルートにおいて、中間マージンを過剰に搾取している特定の商会が存在しますね。また、領内の魔導炉の維持費として計上されている金額の二割が、不自然に『使途不明金』として消えています。……ハルシュタット子爵、あなたのお屋敷の改築費用と、時期が完璧に一致しておりますが?」
「なっ……な、何を根拠にそのような無礼なことを!!」
ハルシュタット子爵と呼ばれる老貴族が、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「根拠なら、ここにございます」
私は静かに微笑み、別の書類を叩きつけた。
「子爵が利用されている王都の裏銀行の口座記録、および不正な領収書の写しです。……私を誰だとお思いですか? アルカディア王国の裏の国家予算を十年間仕切ってきた、アスラート家のエレノアです。この程度の数字の詐術など、三秒で見抜けますわ」
会議室が、静まり返った。
ハルシュタット子爵はガタガタと震えだし、言葉を失ってへたり込んだ。他の重臣たちも、青ざめた顔で私と手元の書類を交互に見つめている。
「私は皆様に、私を好きになっていただく必要はありません。……ですが、私に従えば、一年後に皆様の懐に入る正当な利益は、現在の1.5倍になります。不正を排除し、流通網を整え、新しい魔導産業を起こす。その計画が、すべてここに書かれております」
私は最後に、ギルバート様の隣へと戻り、完璧な角度で一礼した。
「私を『鉄の女』と呼ぶのは一考ですが、その鉄は、皆様の領地を豊かにするための最高峰の剣であり、盾となるものです。……いかがなさいますか?」
静寂が、部屋を支配した。
やがて──パチ、パチ、と手が叩かれる音が聞こえた。
ギルバート様だ。彼は心底満足そうに目を細め、優雅に拍手を送っていた。
それに引きずられるように、老貴族たちや商人たちも、畏怖と熱の混ざった眼差しで一斉に拍手を始めた。
「……見事だ、エレノア・フォン・アスラート様。いや、ヴァルハイト公爵領の最高財務総括官殿」
かつて私を疑っていた老貴族の筆頭が、深く頭を下げた。
「我が領地の未来を、あなたに委ねさせていただきます」
私は静かに微笑んだ。
胸の奥で、確かな手応えが弾けた。
ここでは、私の努力が、私の能力が、正当に評価される。シザールのためにどれだけ尽くしても得られなかった「報い」が、ここにはあった。
◇
その頃。
私たちが去ったアルカディア王宮は、まさに「現世の地獄」と呼ぶにふさわしい惨状に陥っていた。
この情報は、王都に残った父の密偵や、ヴァルハイト領へ逐一届く情勢報告書によって、私の元へ詳細にもたらされていた。
婚約破棄からわずか二週間。
王宮の財務は、完全に破綻していた。
「シザール様ぁっ! どうして新しいドレスを買ってくださらないの!? 私、聖女なんですのよ!? こんな古くさいドレスじゃ、民の前に出られませんわ!」
王太子の執務室に、クロエの甲高い悲鳴が響き渡っていた。
かつてシザールを虜にした、あのかわいらしい庇護欲をそそる声は、今やただのヒステリックな金切り声へと成り下がっていた。
「黙れクロエ! 今それどころではないと言っているだろうが!!」
シザールは髪をかきむしり、目の下に濃いクマを作って叫んだ。
彼のデスクの上には、処理しきれなかった書類が雪崩を起こし、床にまで散乱している。
アスラート公爵家からの五十万金貨の即時返済請求。
それに伴う王家の信用失墜。王都の商人たちは王宮へのつけ払いを拒否し、給与が支払われなくなった近衛騎士団は、ボイコットを起こしかけていた。
さらに決定打となったのは、王都を覆う「広域魔力結界」の低下だった。
アスラート家からの特級魔石の供給が止まったため、結界の強度は日ごとに低下。王都の周辺には低級の魔獣が出没し始め、物流が滞り、小麦の価格が跳ね上がった。




