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「財務と法務の実務を仕切っているのは、すべてエレノアの手で育てられた優秀なアスラート派の官僚たちだ。彼らがいなくなれば、明日届く数千枚の決裁書類は一枚たりとも処理できなくなる」
「その通りです」と私は頷く。
「シザール殿下は『自分には能力がある』と思い込んでいらっしゃいます。ならば、私のサポートも、公爵家のバックアップも、優秀な官僚たちの補佐もない状態で、ご自身の『素晴らしい才能』で国家を動かしていただきましょう。……聖女様の『癒やしの笑顔』と一緒に」
「よし! すぐに各所へ手配する!」
父は嬉々としてベルを鳴らし、控えていた執事を呼びつけた。
「アスラート家の全力を挙げて、あの王家を干上がらせてやる。エレノア、お前はもう何も心配する必要はない。ヴァルハイト公の領地へ行き、思いのままに腕を振るうがいい。……ただしヴァルハイト公、娘に怪しい手を伸ばしたら、我が公爵家の私兵団が貴殿の城を囲むと思え」
「肝に銘じておこう、お義父殿」
「誰がお義父だ!!」
父の怒号が再び響き渡る中、私は窓の外を静かに見やった。
王宮の方角に浮かぶ満月が、心なしか揺れているように見えた。
あそこには今、己の勝利を確信し、甘い酒に酔いしれている愚か者たちがいるはずだ。
彼らが明日目覚めた時、そこはもう、これまで通りの穏やかな世界ではない。
砂の城は、もう崩れ始めているのだから。
◇
翌朝。王宮──王太子の執務室。
「ふはは! 素晴らしい朝だ! 実に清々しい!」
シザール・ド・アルカディアは、執務室の大きな窓を開け放ち、朝の光を浴びながら豪快に笑っていた。
その傍らには、シルクのナイトガウンを身に纏い、眠たそうな目を擦りながら微笑むクロエが立っている。
「シザール様、そんなに大声を出したら、お腹が空いてしまいますわ」
「ハハハ、すまないクロエ。だが、気分が良いんだ! 長年、僕の首を絞め続けていたあの『鉄の女』が、ついに消えたのだからな!」
シザールは心底満足そうに胸を張った。
昨夜の舞踏会での婚約破棄劇。
エレノアは反論の余地もなく、ただ青ざめて逃げ出した(シザールの脳内ではそのように変換されていた)。
これで、うるさいお目付け役はいなくなった。
これからは、自分が思い描く通りの「理想の治世」が行えるのだ。厳しい現実や細かな数字など突きつけられることもなく、クロエのような可憐な聖女を隣に置き、民から「慈悲深い王」として称賛される日々が始まるのだ。
「さあ、クロエ。まずは君が望んでいた『聖女宮』の改修工事の許可書を出そう。あそこを金箔と薔薇の庭園で飾り、もっと豪華にするんだ。そして、貧しい者たちには毎日、特級ポーションと温かいスープを配らせよう!」
「まあ! 素晴らしいわ、シザール様! あなたこそ、真の民の父ですわ!」
クロエがシザールの胸に飛び込み、二人は甘い抱擁を交わした。
その時。
ドンドン! ドンドン!!
ノックというよりは、半ば叩きつけるような激しい音が執務室の扉を揺らした。
「何事だ! 朝から騒々しい!」
シザールが不機嫌そうに声を張ると、扉が跳ね上がるように開き、息を荒らげた財務大臣のハイド伯爵が転がり込んできた。
「で、殿下!! たい、大変でございます!!」
「落ち着けハイド伯。王太子の執務室だぞ。一体何があったというのだ?」
「あ、アスラート公爵家が……アスラート公爵が、動きました!!」
ハイド伯爵の手には、何通もの緊急書簡が握られており、その顔は土気色に染まっていた。
「公爵が? ふん、娘を捨てられた腹いせに、何か抗議でもしてきたか? 言わせておけ。王家の決定に逆らう気なら、公爵位の剥奪も辞さないと脅してやれば──」
「そうではないのです!!」
ハイド伯爵は叫ぶように言った。
「先ほど、アスラート中央銀行から『王家への短期融資および長期特別融資、計五十万金貨の即時全額返済請求』が届きました! 返済期限は……今週末です!!」
「な……五十万金貨!!?? 馬鹿な、そんな大金、今すぐ払えるわけがないだろう! あれは据え置きのはずだ!」
「さらに! アスラート領内の魔導鉱山から、王都の『結界維持用魔石』の出荷停止通知が届きました! 既存の結界の魔力は、あと三日で底を突きます! このままでは王都を覆う防護結界が消滅し、魔獣の侵入を防げなくなります!」
「な、何だと……っ!?」
シザールの顔から、一気に血の気が引いていく。
「な、なにを焦っているのだハイド伯! 結界など、他の鉱山から買えばいい! 金も、国家の金庫から出せばいいだろう!」
「できません!!」
ハイド伯爵は頭を抱えて膝をついた。
「王国の金庫は……現在、ほぼ『空』でございます!!」
「……は?」
シザールは耳を疑った。
「空……? 何を言っている? 我が国は繁栄しているはずだ! 税収も上がっていると、エレノアが……」
「エレノア様が、毎月の赤字をアスラート公爵家の個人資産から無利子で補填されていたのです!! さらに、先月殿下が承認されたクロエ様の『聖女救貧院』の設立費、および全国への特級ポーションの無償配布のせいで、今期の予備費は完全に底を突いております!!」
「な……っ!?」
シザールはガタガタと震え出した。
理解が追いつかない。
なぜだ? なぜ金がない? エレノアはいつも「今月の予算も無事に組み終わりました」と微笑んで書類を出してきたではないか! なぜ金がないのだ!?
「そ、それなら、エレノアを呼べ! あいつに書類を作らせて、公爵家に撤回させろ! あいつは僕の財務官だろう!?」
「エレノア様は……昨夜、公爵家へお戻りになられたきり、王宮へは出仕されておりません! そればかりか、財務省と法務省の主要な官僚たちが、今朝一斉に『体調不良』を理由に休暇届を提出し、出社を拒否しております!!」
「な……なんだと……!?」
執務室のデスクの上に、ドサリ、と重い音が響いた。
見れば、従者たちが運び込んできたのは、未処理の書類の山だった。それも、一つや二つではない。部屋の天井に届きそうなほどの書類の塔が、何十も作られていく。
「殿下……本日中に決裁しなければならない国債の発行書、隣国との貿易協定の更新書、騎士団への食糧補給の承認書でございます……。エレノア様がいらっしゃらないため、誰も計算と検証ができません……!」
「僕に……僕にやれと言うのか!? こんな膨大な書類を!?」
シザールは弾かれたようにデスクへ駆け寄り、一番上にあった書類を開いた。
『──アルカディア南部における水路使用権に関する対価償却計算および関税相互免除特約(算式:第十四条第三項参照)──』
「な……なんだこれは……!? 暗号か!? 数字と専門用語ばかりで、何が書いてあるかさっぱり分からん!!」
シザールは頭を抱えた。
彼がこれまで署名してきた書類は、すべてエレノアが完璧に計算し、要点を三行にまとめ、「ここにサインを」と付箋を貼ってくれたものばかりだったのだ。
素の書類がどのようなものかなど、彼は一度も見たことがなかった。
「シザール様……? どうされたのですか?」
状況が飲み込めていないクロエが、おずおずとシザールの袖を引いた。
「お金がないなら、聖女の私がお祈りをしてあげますわ! みんなで助け合えば、難しい書類なんてなくても……」
「黙っていろ!!!!」
シザールは思わず、クロエの手を激しく振り払っていた。
「あ……っ!」
クロエが悲鳴を上げて床に倒れ込む。
「あっ……す、すまないクロエ、僕は……っ」
シザールは自分の手を見つめ、愕然とした。今まで一度も声を荒げたことのなかった彼が、あんなにも愛おしかったはずのクロエを突き飛ばしてしまったのだ。
だが、今の彼には、クロエを気遣う余裕など一微塵もなかった。
視界がグラグラと揺れる。
冷や汗が吹き出し、体中の血が引いていく。
(嘘だ……嘘だろ!? エレノア一人がいなくなっただけで……なぜ、国が動かなくなるんだ!? あいつは……あいつはただの、地味で可愛げのない女だったはずだ!!)
シザールの頭の中に、昨夜のエレノアの去り際の言葉が、呪いのように蘇ってきた。
『財務統括の権限に基づき、予算の凍結と支給の停止措置を取ったのです。これは、純然たる国益のための判断であり……』
『その婚約破棄、しかと承りました』
あの時、彼女が見せた、静かで冷たかった瞳。
あれは絶望の瞳などではなかった。
自分たちという愚かな存在を、完全に切り捨てた者の瞳だったのだ。
「エレノア……っ! エレノアあぁぁぁっ!!」
王太子の執務室に、シザールの情けない悲鳴が虚しく響き渡った。
──だが、それはまだ、これから彼らを襲う地獄の、ほんの序章に過ぎなかった。
◇
同じ頃。
王都から遥か北方に位置する、ヴァルハイト公爵領への街道。
豪華な装飾が施されたギルバート様の馬車の中で、私は窓の外に広がる雄大な景色を眺めていた。
王都の狭苦しい空気とは違う、澄んだ北の風が、開けた窓から心地よく吹き込んでくる。
「晴れ晴れとした顔だな、エレノア」
隣に座るギルバート様が、優しく微笑みながら私の髪に触れた。その手つきは驚くほど繊細で、大切で貴重な宝物に触れるかのようだった。
「はい。なんだか、長年背負っていた重い鎧を、ようやく脱ぎ捨てることができたような気分です」
「そうか。……だが、これから向かうヴァルハイト領は、王都ほど快適ではないぞ? 仕事も山積みだ」
「望むところですわ」
私はギルバート様に向き直り、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「私の手腕、存分にお見せいたします。まずはヴァルハイト領の税制改革と、未開発鉱山の魔導技術の導入から始めましょう。三年以内に、この領地を王国で最も豊かな一大拠点にしてみせます」
「頼もしい限りだな」
ギルバート様は満足そうに目を細めると、私の手を再び取り、今度はその手の甲ではなく、掌に静かに唇を重ねた。
「……期待しているよ、私の素晴らしい勝利の女神」
くすぐったいような、甘い痺れが手から腕へと駆け上がる。
私はほんの少しだけ頬を染めながら、窓の外を見上げた。
雲一つない青空が、どこまでも広がっている。
過去のほろ苦い思い出は、もう青空の彼方へ消え去っていた。
ここから始めるのだ。
私自身の、本当の人生を。




