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【完結】「言い訳なら聞かんぞ!」いいえ、言い訳ではありません。事実の確認ですので  作者: 逆立ちハムスター


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2/7

影の公爵の誘い

黒塗りの馬車が、重厚な音を立てて王宮の夜の闇を走り抜けていく。

車内に敷き詰められた最高級の絨毯と、ほのかに漂う香木と上質な革の匂い。それは、シザールが好んでいた華やかで甘ったるい香水の香りとは対極にある、落ち着いた、そしてどこか危険な男の香覚だった。


私の向かいに腰掛け、優雅に足を組んでいるのは、ギルバート・フォン・ヴァルハイト公爵。

車窓から差し込む青白い月光が、彼の削りだした彫刻のような美しい側顔を浮き彫りにしている。


「飲むといい。凍えた体には、これが一番だ」


ギルバート様が、小さな魔法陣を浮かべて温め直した銀のフラスコから、温かい紅茶を磁器のカップに注ぎ、私に差し出してくれた。

湯気とともに立ち上るのは、ベルガモットと柑橘の爽やかな香りだ。


「……感謝いたします、ギルバート様」


一口含んでみると、程よい甘みと温もりが、冷え切っていた私の喉と胸の奥をじわりと解かしていくのが分かった。

舞踏会ホールでのあの張り詰めた空気。完璧な姿勢、完璧な表情、隙のないロジック。それらを維持するために、私の神経は限界まで尖っていたのだろう。杯を持つ手が、自分でも気づかないうちに微かに震えていた。


「無理に微笑む必要はないぞ、エレノア」

ギルバート様はカップを自分の口元へ運びながら、静かな声で言った。その紫色の瞳は、夜の湖のように深く、私の全てを見透かしているかのようだった。


「……笑えておりませんでしたか?」

「いや、完璧な笑みだったさ。あまりにも完璧すぎて、今にもガラスのように割れてしまいそうだったがな」


彼の言葉に、私は思わず視線を落とした。

隠していたはずの弱さを突かれたようで、胸がキュッと疼く。


「……泣くほどの未練など、もうございません。ただ……」

「ただ?」

「十年間という時間が、あまりにもあっけなく破片になって消えてしまったことが、少しだけ……虚しいのかもしれません」


嘘偽りのない、私の本音だった。

シザールを愛していた。それは確かだ。彼の不器用な優しさを愛し、彼が立派な国王になれるよう、私は自分の青春のすべてを投げ打って彼を支えた。

私が学んだ刺繍の仕方も、嗜んだ詩の読解も、すべてはシザールとの会話を彩るためだった。けれど、いつしか刺繍針は書類をめくる指ペンに変わり、甘い恋文の代わりに国家の予算決算書を書くようになっていた。


『エレノア、君がいてくれてよかった。君は僕の最高の理解者だ』


十五歳の頃、執務室のデスクで居眠りをしてしまった私に、彼が自分の上着をかけてくれた時のあの言葉。あの温もり。

あれは幻だったのだろうか。それとも、時という毒が、彼を別の生き物に変えてしまったのだろうか。


「人間は変わる。いや……『化けの皮が剥がれた』と言うべきか」

ギルバート様は冷ややかな声で吐き捨てた。

「あいつは最初から、与えられることに慣れすぎていたのだ。アスラート公爵家の威光、お前という不世出の天才の献身、それらを空気のように当然のものとして吸い込み、自分自身の力だと錯覚していた。……豚に真珠を投げ与えていたのは、お前の方だよ、エレノア」


「……豚、ですか。未来の国王陛下に対して、ずいぶんな言い様ですね」


「ふん、国王だと? お前という重しを失ったあの泥船が、あと何日浮いていられるか見ものだな」

ギルバート様は鼻で笑うと、組んでいた脚を組み替え、私の方へ身を乗り出してきた。


距離が縮まる。

彼の纏う独特の圧迫感と、大人の男の体温が直に伝わってきて、私は思わず息を呑んだ。


「さて、エレノア。先ほどの話の続きだ。俺の申し出を受けてくれるな?」


「……ギルバート様の『参謀』になれ、とおっしゃるのですか?」


「それだけではない」

ギルバート様は私の瞳をじっと見つめ、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「俺の領地、ヴァルハイト公爵領は、北方の広大な土地を有しているが、未開発の鉱山や魔獣の脅威、さらには旧態依然とした貴族たちの利権が絡み合い、改革が進んでいない。お前のその卓越した内政能力と、資金運用の手腕を貸してほしい。そして──」


ギルバート様は一瞬、言葉を切り、私の右手を優しく取り上げた。

彼の指先は、私の冷えた手とは対照的に、驚くほど温かかった。


「あの愚か者たちが、己の犯した過ちの大きさに気づき、絶望の淵で泣き叫ぶ瞬間を、俺の傍らで一番良い席から見物するといい。お前に泥を塗った者たち全員に、その代償を支払わせる。……それともお前は、このまま大人しく傷心令嬢として引きこもるつもりか?」


彼の紫色の瞳に、揺らめくような野心の火が灯っている。

同時に、そこには私という人間に対する、純粋な「評価」と「欲求」が存在していた。


シザールは私を「都合の良い計算機」あるいは「自分を威圧する煙たい存在」としてしか見ていなかった。

だが、ギルバート様は違う。私という人間の能力を、独立した一個の脅威であり価値として認めた上で、自分と対当に手を組もうと提案しているのだ。


胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。

冷えて麻痺していた心に、ふつふつと新しい熱が宿っていく。


「引きこもるなど、とんでもございません」

私はギルバート様の手を握り返し、唇の端を吊り上げた。

「私を捨てたことを、あの男に……そしてあの王家全体に、死ぬほど後悔させて差し上げます。私の手で、完璧に」


「くくっ……素晴らしい」

ギルバート様は心底楽しそうに喉を鳴らして笑った。

「やはりお前は、ただの綺麗な花ではないな。猛毒を秘めた、最高に美しく気高い一輪の薔薇だ」


彼が私の手の甲に、静かに唇を寄せた。

唇が触れた部分から、電気のような熱が全身を駆け巡る。私は顔が熱くなるのを隠すように、静かに手を引き抜いた。


「ただし、ギルバート様。一つ条件がございます」


「何だ? 言ってみろ」


「私はもう、誰かの『影』として生きるつもりはありません。私がヴァルハイト公爵領で行う改革、および対王家の経済施策において、私に完全な決定権をいただくこと。私をただの飾りや従属者として扱わないこと。それが条件です」


ギルバート様は驚いたように目を見開いたが、すぐにその口元を深々と歪めた。


「交渉成立だ、我が愛しき参謀殿。お前に全権を預けよう。……さあ、まずは最初のアクト(演目)だ。お前の父親殿が、今頃どんな顔で王宮からの知らせを待っているか、楽しみだな」


馬車が速度を落とし、重厚な鉄格子の門をくぐった。

アスラート公爵家の本邸へ、到着したのだ。



「──なんだと!!!!????」


アスラート公爵邸の最上階にある大執務室。

普段は沈着冷静で、国王からも「氷の宰相」と恐れられている私の父、レオンハルト・フォン・アスラート公爵の怒号が、頑丈なオーク材の扉を突き破らんばかりに響き渡った。


「あの馬鹿王子が……! あの青二才が! 我が最愛の娘、我がアスラート家の至宝であるエレノアに向かって、何と言っただと!!??」


父はデスクを思い切り叩きつけた。の上に置かれた高級な万年筆や書類が跳ね上がり、マホガニーの天板に小さな傷がつく。


「お父様、お落ち着いてください。デスクが傷つきますわ」

私がソファに腰掛け、優雅に紅茶(今度は我が家の給仕が淹れた完璧なアッサムだ)を口にしながら声をかけると、父は血走った目でこちらを振り向いた。


「落ち着いていられるか!! エレノア、お前がどれほどの思いで、あいつの尻拭いをしてきたか! 幼少期から王妃教育に耐え、血の滲むような努力で国家財政を立て直し、あの無能な王太子を立派に見せるために陰でどれだけの泥をかぶってきたか!! それを……それを、あの男狐のような庶子女にたぶらかされて婚約破棄だと!? 『冷酷』『嫉妬に狂った』だと!? 笑わせるな!!」


父の顔は激怒で真っ赤になり、普段は完璧に整えられている銀髪が乱れていた。

父は極度の親バカなのだ。普段は冷血な政治家として振る舞っているが、私に関することとなると、途端に理性が吹き飛んでしまう。


「公爵、感情的になるのは分かるが、まずはエレノアの無事と、今後の戦略を練るのが先決だろう」


部屋の壁に寄りかかり、腕を組んでいたギルバート様が、呆れたように苦笑しながら口を挟んだ。

父はギルバート様を鋭く睨みつけた。


「……ヴァルハイト公。なぜあなたが我が娘と一緒に帰宅しているのですか。まさか、火事場泥棒のようにエレノアを拐かそうとしているのではあるまいな?」


「失礼なことを言うな。俺は失意の令嬢をエスコートし、正当なビジネスパートナーとして契約を結んだだけだ。感謝してほしいくらいだな」


「ぬう……っ。危険な男め。エレノア、この男の甘言に乗ってはならんぞ。ヴァルハイト家は昔から食えない奴らの集まりだ!」


「お父様」

私はティーカップを静かにソーサーに戻し、父をまっすぐに見つめた。


「ギルバート様との契約は、私の意志です。……それよりお父様。アスラート家として、王家への『挨拶』の準備はでき・て・い・ま・す・わ・ね?」


私の言葉に、父の怒りの表情が、一瞬で冷徹な「政治家」の顔へと切り替わった。

口元に酷薄な笑みが浮かぶ。


「……当然だとも、エレノア。お前が合図を出すのを、私はずっと待っていたのだからな」


父はデスクの引き出しから、鍵のかかった重々しい革のファイルを取り出した。


「我がアスラート家が王家に無利子で貸し付けている融資の総額は、国家予算の約二割に相当する。さらに、王都を包み込む広域魔力結界の魔導コアは、我が領地の鉱山からしか供給できない特級魔石だ。これの維持費および供給を……明日朝一番で『完全停止』させる」


「それだけでは甘いですわ、お父様」

私は静かに微笑んだ。


「王宮内のアスラート派閥の官僚たち──特に財務省と法務省の中枢にいる者たちに、明日から『一斉有給休暇』を取らせてください。最低でも一ヶ月。体調不良、あるいは家庭の事情ということで」


「……くくっ、一斉有給休暇か! 素晴らしいな、エレノア」

ギルバート様が歓声をあげて手を叩いた。

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