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きらびやかなシャンデリアの光が、グラスに注がれた黄金色の発泡酒に反射して、床に無数の星を散りばめている。
王宮の大舞踏会。そこは富と権力、そして甘やかな欺瞞が渦巻く、この世で最も華やかな戦場だった。
耳を劈くような管弦楽の調べ。着飾った貴族たちの裏に刃を隠した笑い声。
その喧騒から少し離れた壁際で、私は一人、冷めかけた給仕の果実水を手にしたまま、ただその光景を眺めていた。
「──見てごらんなさい。今日もまた、一人で壁の花ですわ」
「おかわいそうに。いくら公爵家のお嬢様でも、あのように冷徹で、色気の一体感もない『鉄の女』では、殿下が寄り付かないのも無理はありませんわね」
扇の陰から漏れ聞こえる、令嬢たちの尖った囁き。
その言葉は鋭い針のように私の肌を刺したが、私の心にさざ波を立てることはなかった。慣れ、というのは恐ろしいものだ。あるいは、私の心がすでに、彼らの言う通り「鉄」のように冷たく、麻痺してしまっているのかもしれない。
私の名は、エレノア・フォン・アスラート。
このアルカディア王国の筆頭公爵家の長女であり、そして、この国の第一王子であり王太子であるシザール・ド・アルカディアの、十年来の婚約者だ。
……いいえ。「元」婚約者と呼び変わるのも、きっと時間の問題なのだろう。
視線をホールの中心へ向ける。
そこには今宵の主役たちがいた。
まばゆい金髪を完璧に整え、堂々たる体躯に純白の礼服を纏ったシザール。彼は、私の婚約者だ。しかし今、彼の逞しい腕にその細い手を絡ませているのは、私ではない。
ふんわりとした桃色のドレスを身に纏い、庇護欲をそそる潤んだ瞳でシザールを見上げる少女。彼女の名前はクロエ。半年前、この国に「聖女」として突如現れた、男爵家の庶子だった。
「シザール様、見てください! あちらのテラスから見えるお月様、とっても綺麗です!」
「ああ、本当だね、クロエ。だが、僕の隣で微笑む君の美しさには、どんな満月も敵わないよ」
シザールが優しく微笑み、クロエの頬に触れる。その手つきは、かつて、本当に遠い昔、私に向けられていたものと同じだった。
胸の奥がきりりと痛む。
それは嫉妬というよりも、古い傷口が雨の日に疼くような、鈍くほろ苦い痛みだった。
私とシザールは、十歳の時に親同士の決めた政略結婚として婚約した。
最初は義務だけの関係だった。けれど私たちは共に過ごす中で、確かに絆を育んでいたはずだった。
不器用だったシザールが、私のために庭の不格好な薔薇を摘んでプレゼントしてくれたこと。慣れない勉学に熱を出した彼に、私が夜通し付き添って、冷たいタオルを替え続けたこと。
『エレノア、僕は立派な王になる。だから僕の隣で、ずっと僕を支えてほしい』
十七歳の誕生日の夜、月明かりの下で彼が私に告げた誓いは、今でも私の記憶の底で、色褪せた押し花のように眠っている。
私はその言葉を信じた。だからこそ、王太子妃としての過酷な教育にも耐えた。
一日十六時間に及ぶ座学。マナー、歴史、法学、帝王学、そして何より──この国の歪んだ財政と内政を整えるための数理。
シザールが輝かしい光の王太子として表舞台に立てるよう、私は泥臭い裏方の仕事をすべて引き受けた。彼が「素晴らしい政策だ」と周囲に称賛される法案の裏には、いつも私が徹夜で書き上げた膨大な積算書と、他派閥との血の滲むような交渉があった。
けれどシザールはいつしか、それを「当たり前」だと思うようになってしまったのだ。
私が提出する予算の引き締め案を、彼は「冷酷だ」「民の気持ちが分かっていない」と嫌悪するようになり、私の厳しい諫言を「自分をコントロールしようとする傲慢」だと受け取るようになった。
そこへ現れたのが、聖女クロエだった。
彼女は難しい政治の話などしない。数字の計算もできない。ただ、シザールを「すごい、さすが殿下です!」と無条件に肯定、称賛し、その小さな手で彼の疲れを「癒やし」の魔力で取り除く。
激務に追われていたシザールが、甘やかすだけの彼女に溺れるのに、さして時間はかからなかった。
「……エレノア・フォン・アスラート嬢」
不意に目の前の光が遮られた。
思考の海から引き揚げられた私が顔を上げると、そこにはいつの間にか、シザールが立っていた。その傍らには、勝ち誇ったような、しかし同時に怯えたような絶妙な表情を作ったクロエが寄り添っている。
周囲の喧騒が、潮が引くように静まり返っていく。貴族たちが、何事かと私たちを遠巻きに取り囲む。その目は一様に、これから始まる「見世物」への好奇心に満ちていた。
「殿下。ご機嫌麗しゅう存じます」
私は手にしていたグラスを近くの給仕のトレイに置き、完璧な角度で一礼した。ドレスの裾が、静かに床に広がる。
今日私が着ているのは、アスラート公爵家の家色である深い藍色のドレスだ。シザールが「地味で、喪服のようだ」と以前吐き捨てた、私の大好きな色。もう彼の好みに合わせる必要などない、という、私の小さな、そして最後の抵抗でもあった。
「挨拶などいい。相変わらず可愛げのない女だな」
シザールの声は冷たく、そして酷く尊大だった。かつて私を『エル』と愛称で呼んだ、あの甘い声の片鱗すら残っていない。
「本日は、皆の前でお前に問いただしたいことがあってここへ来た」
「問いただしたいこと、でございますか? 何のことでしょうか殿下」
「惚けるな!」
シザールが声を荒らげる。その威圧的な声に、クロエが小さく肩を震わせ、「殿下、あまり怒らないで、怖いわ……」と彼の袖を引いた。
「すまない、クロエ。君を怖がらせるつもりはなかったんだ。……だが、この悪毒な女の所業を、私はこれ以上見過ごすわけにはいかない」
シザールはクロエをその大きな体で庇うようにしながら、私を鋭く睨みつけた。
「エレノア。お前、クロエが主導している『聖女の救貧院』への今期予算を、すべて凍結したそうだな。そればかりか、彼女が平民たちに配るための癒やしの魔力触媒の支給まで、お前の権限で差し止めた。……違いないな?」
周囲から、ひそひそという落胆と軽蔑の囁きが漏れる。
「まあ、やっぱり……」「聖女様への嫉妬で、そこまでなさるなんて」「本当、心の冷たいお方」
私は静かに息を吸い、シザールの瞳を見つめ返した。彼の瞳は、かつては澄んだ青空のようだったが、今は濁った自己保身と、歪んだ正義感に染まっている。
「はい、殿下。それは事実でございます」
私が淡々と認めると、シザールは勝ち誇ったように唇を歪めた。
「認めたな! 嫉妬に狂い、聖女の慈悲の活動を妨害するなど、未来の国母となるべき公爵令嬢として、あまりにも浅ましく、醜い行為だ。クロエがどれほど傷つき、行き場をなくした平民たちがどれほど涙を流したか、お前は考えたこともないのだろう!」
「エレノア様……」
クロエが涙をいっぱいに溜めた目で私を見た。
「私は……私はただ、苦しんでいる人たちを助けたかっただけなんです。エレノア様が殿下の婚約者だからって、私、殿下を困らせるようなことは何も……っ。どうか、私を憎んでも、貧しい人たちを見捨てないでください……!」
素晴らしい演技力だった。それは認めよう。劇場の一流女優でも、これほど完璧に「無辜の被害者」を演じることはできないだろう。そんな図太さは普通、持ち合わせていない。
私は胸の奥から湧き上がろうとする、乾いた笑いを必死に噛み殺した。
ああ、本当に。この人たちは、何も見えていないのだ。
「殿下、そしてクロエ様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
私は声を一段、低く、しかしホール全体に通るように澄んだ声で語りかけた。
「何だ? だが言い訳なら聞かんぞ」
「言い訳ではございません。事実の確認です。──クロエ様が主導された『救貧院』の設立にあたり、提出された予算書を、殿下は一度でも細部までご覧になりましたか?」
「当然、目を通している! 慈善事業として妥当な金額だったはずだ!」
「では、その内訳に、本来の市場価格の五倍に設定された『聖女専用の特注馬車維持費』や、救貧院の建材として、実態のないクロエ様の生家──男爵家が経営する木材会社への、法外な前払い金が含まれていたことも、ご存知の上での承認だったのですね?」
シザールの顔が、一瞬で強張った。
「な……何を、言っている……?」
「さらに申し上げます」
私は手元の扇をパチンと閉じ、一歩前へ出た。長年の執務で培った、圧倒的な威厳が私を包み込む。周囲の貴族たちが、その迫力に気圧されて息を呑むのが分かった。
「クロエ様が平民に配っていらした『癒やしのポーション』ですが。あれは、我がアスラート公爵家が代々管理する最高峰の魔力鉱山から採掘された、王宮直属の魔導師しか扱えない特級品です。一本あたりの価値はとても高いです。値段だけでなく、国の安全保障の観点からも。それを、ただの擦り傷や風邪の患者に、精査もせず、ただ『聖女の慈悲』としてばら撒いていた。その結果、王宮はおろか、国庫の軍用備蓄までもが底を突き、現在、国境線で魔獣と戦っている騎士団の治療用ポーションが、完全に不足する事態に陥っています」
「それは……っ、でも、苦しんでいる人を目の前にして、出し惜しみをするなんて……!」
クロエが顔を真っ白にしながら反論する。
「出し惜しみではありません。国家の危機管理の問題です、クロエ様」
私は冷徹に、彼女の言葉を遮った。
「あなたの『慈悲』の裏で、前線で命を懸けている騎士たちが、どれほど血を流したかご存知ですか? 私は、これ以上の国家財政の私物化、および安全保障上の危機を見過ごすわけにはいかなかった。だからこそ、財務統括の権限に基づき、予算の凍結と支給の停止措置を取ったのです。これは、純然たる国益のための判断であり、私情など一切挟んでおりません」
「黙れ……黙れ! 黙れ!!」
シザールの怒号が、舞踏会ホールの高い天井に響き渡った。
彼の顔は怒りで真っ赤に染まり、額には青筋が浮かんでいる。完全に理性を失った、醜い男の顔だった。
「そ、どこまで傲慢なのだ、お前は! そうやって、いつも自分が神の如く正しいと言わんばかりに、理屈ばかりで周囲を見下す! クロエは純粋な善意で動いているんだ。それを、お前の汚い政治の物差しで測るな! お前のその冷酷な血、他者への共感の欠如……それこそが、この国を苦しめているのだ!」
シザールは大勢の観衆の前で、私を指差した。その指先が微かに震えている。
「エレノア・フォン・アスラート! 本日、この場を借りて、お前との婚約を破棄する! お前のような嫉妬に狂い、冷酷非道で、聖女を貶めるような女を、我がアルカディア王国の王妃に迎えるわけにはいかない!」
──ついに言った。
ホールの貴族たちから、一斉に小さなどよめきが起こる。
誰もが私の失脚を確信し、あるいは公爵家との決定的な破滅を予感して、息を詰めていた。
けれど。
私の胸の中にあったのは、激しい怒りでも絶望でもなかった。
ただサラサラと、足元から城が崩れ去っていくような、奇妙な静けさ。
ああ本当に終わったのだ。
私が十年間、人生のすべてを捧げて、寝る間も惜しんで守ろうとした男は、もうこの世界にはいない。目の前にいるのは、ただの、自尊心肥大の愚者に成り下がった、見知らぬ男だ。
かつて私を愛してくれた、あの優しい少年は、もう随分前に死んでしまっていたのだ。
その事実が、今更ながらに私の胸にじわりと苦い痛みを残していった。
私が愛したのは彼そのものではなく、過去の幻影だったのかもしれない。
「……殿下」
私はゆっくりと声を絞り出した。
涙は出なかった。ただ、声がいつもより少しだけ、低く冷たく響いた。
「その婚約破棄、しかと承りました」
「なに……!?」
シザールが拍子抜けしたように目を見開いた。
彼としては、私が泣き叫んで縋り付くか、あるいは公爵家の権力を笠に着て怒り狂うとでも思っていたのだろう。私のあまりの潔さに、むしろ動揺したのは彼の方だった。
「本当に、本当によろしいのですね? 取り消しは、なさいませんか」
「あ、あったり前だ! 二度とお前の顔など見たくない! 新しい王太子妃には、この国の光であるクロエを迎える!」
「……そうですか。分かりました」
私は最後の、本当に最後の慈悲として、彼に確認したのだ。
けれど彼は自らその救い蜘蛛の糸を断ち切った。
「では、私はこれにて失礼いたします。殿下、そしてクロエ様。どうか、お幸せに」
私はもう一度、完璧な礼をした。これまでの人生で、一番美しく、一番誇り高い、完璧な一礼。
そして踵を返し、一度も振り返ることなく大舞踏会ホールの扉へと歩き出した。
私の背中に貴族たちの囁き声が浴びせられる。けれど今の私には、それらはただの背景音に過ぎなかった。
扉を開け、王宮の長い回廊を歩く。
ヒールの音が大理石の床に静かに響く。
一歩進むごとに、私の心の中から「王太子妃としての責任」という名の重い鎖が、一つずつ外れていくような感覚がした。
……さようなら、シザール。
あなたがこれから、どのような地獄を見るか私はもう知らない。
彼らは分かっていないのだ。
このアルカディア王国の複雑怪奇な国家予算を、誰が毎晩血を吐く思いで合わせていたのか。
王宮の内政を牛耳る腐敗貴族たちを、誰が公爵家の威光と徹底的な証拠収集で抑え込んでいたのか。
そして──アスラート公爵家が、王家に提供していた「真の恩恵」が、どれほどのものだったのかを。
私が王家を去るということは、公爵家がこれまで無償で提供していた、王都の「魔力結界の維持」も、国家財政の「無利子融資」も、すべて引き揚げるということを意味する。
私の父であるアスラート公爵は、子煩悩故に、溺愛する娘がこのような不当な扱いを受けたと知れば、間違いなく激しく激怒するだろう。そして、王家に対して徹底的な「経済的・政治的報復」を開始するはずだ。
計算外の予算凍結、特級ポーションの枯渇、そして我が公爵家からの全支援の停止。
早ければ一ヶ月。遅くとも三ヶ月で、この国の財政と治安は破綻する。
その時になって、あの「聖女」の甘い癒やしとやらが、国家の赤字を埋めてくれるのか、じっくりと見せてもらうとしよう。
王宮の外へ出ると、夜の冷たい空気が私の頬を撫でた。
夜空にはシザールとクロエが眺めていたのと同じ、美しい満月が輝いている。
けれど私が見上げる月は、彼らが語り合っていたような甘い光ではなく、どこまでも冷たく、冴え渡る銀の光だった。
「──素晴らしい退場劇だったな、エレノア」
不意に影の中から、低い、心地よく響く男の声がした。
私が足を止めると、王宮の馬車留めの近く、大きな馬目の木の陰から、一人の男が歩み出てきた。
漆黒の髪に、夜の闇をそのまま溶かし込んだような、深い紫色の瞳。
仕立ての良い、しかし装飾の少ない夜会服を纏ったその男は、シザールとは対照的な、冷徹で圧倒的な美貌を持っていた。
ギルバート・フォン・ヴァルハイト公爵。
現国王の異母弟であり、かつて「戦場の死神」と恐れられた、この国で最も危険で、最も高貴な孤高の男。そして──シザールにとっては、最も恐るべき政敵でもある人物だった。
「ギルバート様……。見ていらしたのですか」
私は驚きを隠さず、彼を見つめた。彼は夜会に参加していなかったはずだ。彼のような大物が、なぜこんな裏口のような場所にいるのだろう。
「ああ。外の景色が好きでな。ここで一杯やりながら、護衛たちと語らっていた。中に入る気などなかったが、退屈な夜会から、最高の果実が転がり落ちてくるのを待っていたのさ」
ギルバート様は、薄い唇を微かに歪めて笑った。その笑みには、大人の男特有の危険な色香が含まれている。
彼は私に近づき、私が着ている藍色のドレスを上から下まで眺めると、満足そうに頷いた。
「実に見事だった。あのような愚者のために、これ以上君の才を擦り減らす必要はない。……これでようやく、俺の取り引きに応じてくれる準備ができたな?」
「取り引きでございますか?」
「そうとも。忘れたとは言わないでくれよ」
ギルバート様は私の前に立ち、その大きな手を差し伸べた。
「エレノア。君を縛る鎖は消えた。これからは、君のその比類なき頭脳と力を、俺のために使ってくれないか? あの愚か者たちが、己の無知と無能によって自滅していく様を、俺の隣で、特等席で見届けよう」
彼の紫色の瞳が妖しく光る。
それは私を救い出す手であると同時に、新しい、より深く甘い、逃れられない沼への誘いであるようにも感じられた。
私は差し出された彼の美しい手を見つめた。
胸の奥にある、シザールへのほろ苦い未練の残滓が、夜風に吹かれて完全に消えていく。
もう誰も私の価値を踏みにじることは許さない。私を裏切った者たちには、それ相応の、いや、それ以上の対価を支払ってもらう。
「……喜んで、ギルバート様」
私は静かに笑みを浮かべ、彼の手に自分の手を重ねた。
冷たい夜気の中で、私たちの手の熱だけが確かに通い合った。
これが私の新しい始まり。
あの愚かな王太子と、おめでたい聖女の、破滅へのカウントダウンの始まりだった。




