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特使を追い返してから一ヶ月。
季節は冬から春へと移り変わり、ヴァルハイト公爵領には雪解けの季節が訪れていた。
私が主導した財政改革と産業振興は、予想以上のペースで成果を上げていた。
中間搾取を排除した新しい流通ルートによって、北方山脈から採掘される未精製魔石は高値で他国へ買収され、領地の税収は前年比の1.8倍に跳ね上がった。
さらに、魔導耕作技術を導入した実験農地からは、青々とした麦の芽が顔を出し始めている。
「エレノア様! 新しい魔導錬成炉の稼働が成功いたしました! これで純度の高い特級魔石の大量生産が可能になります!」
「エレノア様、領民たちからの感謝の品が届いております! 『新しい税制のおかげで、今年の冬は子供たちに暖かい服を着せられた』と……!」
かつて私を「王都からの冷酷な侵入者」と疑っていた重臣や領民たちは、今や私を「ヴァルハイトの慈悲深き女神」と呼び、絶大な信頼を寄せてくれていた。
誰かのために努力し、それが正当に評価され、人々の笑顔につながる。
私がずっと求めていたのは、この当たり前で、けれど何物にも代えがたい「手応え」だったのだ。
一方で──
王都アルカディアからの情報は、日に日に惨状を極めていた。
特使が戻り、私の拒絶を知ったシザールは怒り狂い、公爵家に対して「国家反逆罪」を適用しようとしたらしい。
だが、それに待ったをかけたのは、他ならぬ国王陛下だった。
病床にあった国王陛下は、王宮の危機を知って起き上がり、シザールがしでかした一連の暴挙──エレノアとの婚約破棄、無謀な予算凍結、聖女への国費の流用、そしてアスラート公爵家との決裂──の全貌を知るやいなや、激怒のあまり倒れ、倒れながらもシザールの廃嫡と幽閉を命じたという。
さらに、結界が完全に消失した王都周辺には、魔獣が頻繁に出没するようになり、流通が完全にストップ。
飢えた民衆による暴動が王宮の目と鼻の先で発生し、騎士団も給与未払いを理由に鎮圧を拒否。
王宮の財宝は、借金のカタとしてアスラート公爵家と各商人組合によって次々と押さえられていった。
「真実の愛」を謳った聖女クロエは、シザールが幽閉された途端、王宮の金品を盗んで逃亡を図ったが、憤慨した民衆につかまり、現在は投獄されているという。
崩壊は、あまりにも劇的で、そして必然だった。
◇
春の暖かい日差しが降り注ぐ午後。
私はヴァルハイト城の広大な庭園で、ギルバート様とお茶を楽しんでいた。
満開を迎えた白いアネモネの花壇。散策路を歩きながら、私はギルバート様が淹れてくれたハーブティーを口に含んでいた。
「静かですね、ギルバート様」
「ああ。……だが、そろそろ『最後の客』が到着する頃だ」
ギルバート様が視線を庭園の入口へ向けた。
見れば、城の騎士たちに左右を固められ、フラフラとした足取りでこちらへ歩いてくる男がいた。
……いや、それを「男」と呼ぶには、あまりにも惨めな姿だった。
つぎはぎだらけの汚れた服。ボサボサに伸びきった金髪。泥にまみれた靴。
目の下には落ち凹んだ影があり、頬はこけて、かつての華やかな王太子の面影など微塵も残っていない。
シザール・ド・アルカディアだった。
「……エレ、ノア……?」
私を見つけた瞬間、シザールの瞳にすがりつくような光が宿った。
彼は騎士たちの制止を振り払い、転げるようにして私の足元へ這い寄ってきた。
「エレノア……! エレノアああぁっ!!」
泥のついた手で私のドレスの裾を掴もうとする彼を、ギルバート様が冷たい目で蹴り飛ばすようにして遮った。
「控えろ、無礼者。お前が誰に向かって手を伸ばしているか分かっているのか?」
「ギ、ギルバート叔父上……っ! お願いです、エレノアを……エレノアを僕に返してください!!」
シザールは泥に顔を押し付け、悲痛な叫びをあげた。涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら、彼は私を見上げて懇願した。
「エレノア! 僕が悪かった! 僕が愚かだったんだ!! あの女に騙されていたんだ! 君がいなくなって初めて分かったんだ……僕の隣にいるべきなのは、君だけだったんだと!!」
「……」
「父上は僕を廃嫡し、平民として追放した! 僕にはもう何もない! 金も、地位も、名誉も……! でも、君さえ戻ってきてくれれば、君の頭脳とアスラート家の力があれば、僕はもう一度やり直せる! 王位だって取り戻せるんだ!! 頼む、エレノア! 僕を許してくれ! 昔のように、僕に優しく笑いかけてくれえぇぇっ!!」
男の情けない叫びが、春の庭園に虚しく響き渡る。
私は、静かに彼を見下ろした。
胸の奥を探ってみる。
怒り? 憎しみ? それとも、復讐を果たした達成感?
……いいえ。
私の心にあったのは、ただ風が吹き抜けるような、どこまでも透明で、冷ややかな感情だけだった。
悲しいかな、私の中にはもう、この男に対する感情が欠片すら残っていなかったのだ。
十年間積み重ねた愛も、情も、失望すらも、すでに過去の砂となって消え去っていた。
「……シザール様」
私はゆっくりと膝を折り、彼の目線に合わせて屈んだ。
彼が一瞬、期待に顔をほころばせる。
「思い出してください。十年前、あなたが私に下さった、あの庭の不格好な薔薇のことを」
「え……? ば、薔薇……?」
「あの頃のあなたは、不器用でしたが、一生懸命で、人の痛みが分かる優しい方でした。私は、そんなあなたをお支えしたかった。あなたの夢を、私の夢として生きたかったのです」
シザールの顔から、すうっと色が引いていく。
「ですが……あなたはご自身の手で、その薔薇を踏みにじり、枯らしてしまったのです。私を傷つけ、裏切り、評価せず、ただの便利な道具として扱い……そして最後に、大勢の前で捨て去った」
「そ、それは……っ、誤解なんだ! 僕は……っ!」
「誤解ではありません」
私は立ち上がり、シザールに背を向けた。
「一度壊れた鏡は、二度と元の姿には戻りません。……そして、過ぎ去った季節も、二度と巡ってはこないのです」
「エレノア……! 待ってくれ! エレノアあぁぁっ!!」
「連れて行け」
ギルバート様が冷ややかに命じると、騎士たちがシザールの両腕を掴み、引きずっていく。
「嫌だ! 放せ! エレノア! 僕を見捨てるな! 君は僕を愛していたはずだろ!? 十年間も僕の側にいたじゃないか! エレノアあぁぁぁぁっ!!」
遠ざかっていく情けない悲鳴。
それが、私とシザール・ド・アルカディアという男の、本当の終わりの音だった。
二度と振り向くことはない。
彼がこれから、平民としてどのような惨めな人生を送ろうと、私にはもう関係のないことだった。
◇
「……大丈夫か?」
静かになった庭園で、ギルバート様がそっと私の肩を抱き寄せてくれた。
彼の胸の温もりが、私の背中に伝わってくる。
「はい。……不思議ですね。とても、心が晴れやかです」
私は微笑み、ギルバート様の胸に顔をうずめた。
ほんの少しだけ、ほろ苦い痛みが胸をかすめたけれど、それはもう過去の脱け殻に過ぎない。
「エレノア」
ギルバート様が私の顎をしゃくり上げ、私の唇に静かで熱いキスを落とした。
深々と、確かめるような、愛おしさに満ちたキス。
「これからは、お前だけの人生を生きてくれ。……俺の妻として、このヴァルハイトの地で」
「……はい、ギルバート様」
私は彼の首に手を回し、自分から背伸びをしてキスを返した。
遠くに見える山々には、春の陽光が眩しく輝いている。
冷たい砂の城は消え去り、私の手には今、決して壊れることのない、本物の愛と未来が握られていた。




