幕間一「結界の(間違えた)使い方」
春。
暖かくなり始めた空気と共に、厄介なものも増えてくる。
「きゃー!無理!無理!!」
「ちょっと誰か取ってってば!」
教室の一角で、女子たちが騒いでいる。
視線の先には、網戸に張り付いた一匹のカメムシ。
それを遠巻きに見て、男子もざわつく。
「うわ、出たな……」
「触りたくねぇ……」
そんな中で——
ひとりだけ、澄ました表情で席についているやつがいた。
夜月静紀。
その周りだけ、不自然なほど静かだった。
虫も、近寄らない。
⸻
放課後。
帰り道。
田舎特有の、やたらと羽虫が多い道を歩きながら、大和は顔をしかめる。
あちこちにできた蚊柱が、視界をちらつく。
「今日は、虫がやたら多くねぇ?」
目の前を横切る小さな虫を手で払う。
だが——
「……?」
ふと気づく。
隣を歩く静紀の周りには、何もいない。
さっきまでうるさかった羽虫たちが、そこだけ綺麗に消えている。
よく見ると、空気がわずかに歪んでいた。
「……なんか、お前の周りだけおかしくないか?」
そう言うと、静紀は一瞬だけ視線を寄越す。
いつも通りの、何も変わらない顔。
「別に」
「いや、別にじゃなくて」
大和は半歩近づく。
その瞬間——
「っ、いって」
軽く弾かれた。
「は?」
思わず足を止める。
見えない何かに、確かに触れた感覚。
静紀は淡々と言う。
「防御」
「……は?」
「結界張ってる」
さらっと言い切る。
大和は一瞬だけ黙り込んでから、ため息をついた。
「お前なにしてんの」
「防御」
「対象おかしくない?」
静紀はわずかに間を置いて、視線を逸らす。
「……無理なものは無理」
真顔だった。
大和は思い出す。
——こいつ、昔から虫ダメだったな。
⸻
そのときだった。
少し大きめの羽虫が、ふわりと二人の間に入り込む。
「……」
静紀の空気が変わる。
次の瞬間。
——パチ。
何かが弾けたような音。
虫が見えない壁にぶつかって、弾かれた。
「おい、今の……」
返事はない。
水路の脇で、蚊柱が揺れる。
パチ、パチ、パチ……
音が増えていく。
「ちょ、お前……」
見ると、静紀の周囲の空間が、さらに歪んでいる。
一重だったはずの結界が、いつの間にか重なっている。
二重。
三重。
ぶつかる虫の数も増え、
パチパチと弾ける音は、やがて——
バチバチ、と小さな火花のように変わっていく。
「ちょっとした異常空間なんだが」
「気にしないで」
「するわ」
一歩踏み出した瞬間。
「っ!?」
また弾かれた。
さっきより強い。
「いってぇな!」
「近づくと危ないよ」
「お前が広げてんだろそれ!」
さらに一匹のカメムシが現れた。
静紀に向かって飛んでいく。
その瞬間——
静紀が、反射的に手を上げた。
「……っ」
結界が静紀を包む。
完全に。
「……あ」
静紀が、小さく呟いた。
遅い。
結界の内側。
そこには——
カメムシ。
そして。
逃げ場のない空間に閉じ込められた静紀。
外からそれを見た大和は、しばらく黙ったあと。
「……何やってんだあいつ」
中では静紀が固まっている。
動かない。
いや、動けない。
「おい」
外から声をかける。
反応はない。
「おいって」
コンコン、と軽く叩く。
「……」
「開けろ」
数秒の沈黙。
やがて——
パキ、と音がして、結界が解けた。
やれやれとため息をつき、大和が手を振ってカメムシを払う。
「ほら、もういねぇから」
静紀は少しだけ視線を落とす。
わずかに、息を吐いた。
⸻
その直後だった。
ぶーん……
嫌な羽音。
「……」
静紀が、ゆっくりと顔を上げる。
無言。
そして——
バチッ。
再び結界が展開される。
大和は即座に言った。
「学習しろ」
⸻
春の帰り道。
相変わらず虫は多い。
そしてその中で——
ひとりだけ、完全防御を貫く静紀であった。




