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解釈不一致:EXORCISED EXOBRANCH   作者: 鮪屋樹聿
第一章 天忘錯史
8/10

ACT. 2 青と翡翠の結節点

 1


 

 翌朝。

 エディーコラ・バスケッティの店先に置かれた狭い丸机に、パサリ、と新聞の束が置かれた。

 紙面には『アドフェニアム・デイリージャーナル』の題字と共に、ティファレト地区を賑わせたハイウェイでの認知災害が取り沙汰されている。

「『ティファレト地区にて今年三度目となる広域認知災害が発生。対策が後手に回ったV.S.は死傷者二七九人を見殺しに──。』」

「タダでさえ近頃の交通規制でバッシングの嵐だってのに、派手にやらかしたモンだよ。ったく、また仕入れが滞っちまうね……。」

 ブツブツと新聞を小声で読んでいた頼人の隣で、おばさんは苦虫を噛み潰したような顔で毒づいた。

 そんな訳で、『朝礼』と称してテーブルを囲っているのは、昨日から共同生活を始めた東頼人、バスケッティおばさん、琉彦、そして私、琳洞冴蓮の四人だ。

 サンドイッチ、コーヒー、小さなトルティーヤチップス……。それぞれが一品ずつ用意してテーブルに持ち寄って話をする。これがこの店における朝礼であり、この家における朝食のマナーだった。

 早くも昔の距離感を取り戻したのか、頼人は琉彦が仲立ちするまでもなく、おばさんと新聞の中身やこの店の経営状況なんかをやいのやいのと話し込んでいる。

 十年以上会っていない、という状況がどう影響するか心配だったが、ひとまず杞憂で終わったようだと安心した。

 見れば、頼人は小さく欠伸なんかをかましている。少しはリラックスして貰えただろうか。

「……いや、違うか……。」

 違う。シンプルに寝不足なのだ。そしてその原因は私にあった。

 レディ・シアノアの正体を知られた、あの夜。

 思わず上げた悲鳴を琉彦とおばさんへごまかし、その後、恥を忍んで頼人を呼び戻し、シアノアとしての顔を知らないおばさんの前ではこの事を黙っててくれと念を押す。

 ここまでするのに、あれから三時間もかけてしまったのである。

 挙句の果てには、頼人の返事も怪しかった。

「……おー……。まぁ、黙っとくわ………。」

 である。

 今の所頼人がレディ・シアノアについての話題を避けているのは聴いていて分かるのだが、すっごい眠そうだった昨日のリアクションと相まって、今にも口を滑らせないかと心配でならない。

 ……ならないのだが、それはそれとして、昨日の出来事を振り返っているうちに聞いておかなければならない事もある。

 私の表情から察したのか、ちょうど琉彦がその話題を出そうとしていた。

「頼人さん。亡命の件、僕達に依頼する前にはV.S.から話を持ちかけられたって話してましたよね?」

「ああ。ネツァク地区を中心に、このティファレト地区の方まで幅広く治安維持を受け持ってるって奴らだろ?」

「そうです。優れた統率力と信頼によって、世界の敵に抗う『条道派』の星となった傭兵組織。ですが、彼らが各地に土着して既に五十年近くが経過しています。だから…、」

「アイツらはもう一枚岩じゃない。それどころか、俺に声を掛けたのはV.S.のフリした別の勢力である可能性すらある、って事だよな?」

 頼人の指摘に琉彦は無言で頷く。

 狭い世界に閉じ込められながらも、頼人は自分がある意味で『狙われるに値する人間』であると自負しているのだ。

「第三勢力、って事は無いと思っていい。少なくとも俺に接触してきた奴は、名前も所属も顔も全てハッキリさせてから来たからな。ただ、派閥がどうとかまでは…。」

「教えて頂けませんか。接触してきたのが誰なのか。」

「まだ駄目だ。それはフェアじゃない。」

 頼人は自分にも言い聞かせるように、キッパリと断った。

「フェアじゃない。って事は……。」

「ああ。まだアイツから連絡は来ている。俺はまだ…ここから先、どちらを頼るか選べていない。」

「………。」

 琉彦が黙った事で、和やかだった場を重苦しい沈黙が支配する。

「勿論、ここまで逃がしてくれた報酬は払う。けれど、ここから先は不確定要素が多すぎる。俺は今までの俺じゃ居られなくなるだろうし、きっと、顔や名前も……。

 それが怖くて、迷って、お前らに出会った。偶然でも、おばさんにだって会わせてくれた。それは本当に感謝してる。」

 精一杯の時間を使い、私達は途切れ途切れに紡がれる頼人の言葉を待ち続ける。

「でも、だから一層怖くなった。お前達やおばさんを巻き込む事が。V.S.が使えない『人の消し方』も賞金稼ぎには沢山あるって聞いたけど、それだって……。」

「ハァ………アンタら、ホントにこんな状態のままこの子引き摺って来たってのかい。」

 聞くに絶えない、といった様子でおばさんが盛大な溜息を吐いた。

「「え…………」」

 ここで話を割ると思っていなかった私と琉彦は、同時に驚いた顔でおばさんの方を見た。

「雑な接客しか出来ないバカ共にウチの店は一日たりとも任せらんないからねェ。アンタら、今日から研修だよ。」

「おばさん、何を……?」

 頼人までもがぽかんとしている。全員があっという間におばさんのペースに足を取られてしまった。

「頼人、アンタはそのまま未練たらしく連絡してきてる奴と話をつけな。選ぶ権利はアンタにある。ソイツを上手く利用して、アンタが納得できる形で、アンタを縛るモンから抜け出す道を探るこった。」

 おばさんはそう言いながら、左右に座る私と琉彦の頭をがっちり掴んだ。

「で、このバカ共は用心棒だ。見知らぬバカに踊らされてアンタまでバカになりそうな時は、このバカ共を振り回して相殺しな。アンタが無事に帰ってきて、その両手にバカ共のバカ抜きが握られてれば、ミッションは完了さね。」

「それウチの客商売となんのかん…いだだだだだだ!!」

 口を挟みたくなったが、頭を掴まれたままチャチャを入れるべきじゃなかったなぁ、と即座に反省した。

「頼人、いいかい?コイツらは傭兵の作法なんて知らん、ただのウチの従業員さ。アタシら、『エディーコラ・バスケッティ』からアンタに研修を依頼するんだ、アンタが一番に望む報酬を払うよ。さて、何がいい…?」

 語気は強いが、頼人を見つめるおばさんの目つきは、どこまでも優しかった。

「俺……おれ、自由になりたいよ。俺がなりたい自分になって、ちゃんと、おばさんのところへ帰りたいよ……!!」

 私達から手を離し、おばさんは肩を震わせる頼人の頭に優しく手を置いた。

「シンプルで良いトコ取りな、イイ夢だ。バカ共の使い方が分かってきたようだね。」

 最後にそう言って、おばさんは強気にはにかんでみせた。

 


 

 2


 

 2日後。

 V.S.の隊員を名乗る者と直接落ち合うべく、私達はティファレト地区の中心都市であるエロハ市の西端へ向けて全自動車を走らせていた。

「ふーーーーーん……。」

 車内に響く、頼人の長ーーい相槌。

 頼人が困難に直面するより前に、私は先んじてとある恥辱に耐えていた。

「で!で!そこから全身が大きな光に包まれて、冴蓮さんは遂に『レディ・シアノア』としての姿に!変身!!するんです!!!」

「やめよ…もうやめようよ…ねぇ………。」

 何の気なしに頼人が話を掘り返したものだがら、琉彦はこの通り大興奮で話し続けるし、私は蚊の鳴くような声で異を唱える事しか出来ない。いくらおばさんから「ここからは隠し事はナシ」と言われたからって、もっとこう、開示するタイミングとか場所を選ぶ自由があるんじゃないかなあ…?

 そりゃ能力を使っている間は自分でも不思議なくらい堂々としていられるが、それはあくまで錯律痕に背中を押された結果であり、イチからヒャクまで私がノリノリでやってる訳じゃないのである。

 ひとまず私の錯律痕、『ヴェスティシア・トレスティア』についての情報が共有されたという事実だけを咀嚼し、目的地まではなるべく琉彦の話を聞かないようにして過ごした。

 

 それから三十分後、全自動車はとある廃ビル群の一角に到着した。かつては忙しなく人々が行き来したであろうビルの一棟一棟が、今は長い歳月をかけて成長した蔦や苔に覆われている。

 止まる事を知らない人口の減少と文明の衰退を象徴する、最も身近な例と言えるだろう。指示に従って紙媒体に書き込んだ地図情報と照らし合わせながら、私達は文明の遺骸たちの間を進んでいく。

「(……あれだ。)」

 私は特徴と一致する建物を発見し、二人に目配せした。他のどれとも大差なく、静かに佇む小さな廃ビルだった。

 合流場所は、このビルの地下に増設された地下通路の先である。

 そこから更に、事前に指示された順路に従って迷路めいた地下通路を攻略していく。移動範囲はそこまで広くない筈なのに、道は無限とも思える程に細かく、どこまでも作られていた。

「なん……なんだ……マジで…ッ!」

 運動不足が祟ったのか、頼人の四肢は随分前から悲鳴を上げ始めていた。

「まあまあ。もうゴールみたいですよ。」

 そう言って琉彦はまだまだ元気だと言いたげに少し先へと駆けていった。

 そうして私達が辿り着いたのは、ひとつの重厚なセキュリティゲートだった。

「お前ら……体力オバケかよ…ッ。」

 ストレスと疲労で、頼人はようやく姿を現したゲートにぐったりともたれかかった。

「その、頑張って……あんたの生体情報じゃないと空かないんだから……!」

 私は頼人の上半身を担ぎ上げ、顔面を認証装置に押し付けた。

 程なくして、幾つもの部品や小さい隔壁が駆動する音がしたのち、いちばん大きな最後の隔壁がゆっくりと開いていった。

「行こう。」

 二人を連れて、私達はそのすぐ手前に現れた奥行きのある部屋へと足を踏み入れた。

 電飾なのか壁の色か、薄暗い部屋は青一色に染まっている。

 そうして部屋の半分まで進んだ途端、予期していた事ではあるが、突如として周囲が人間の気配と殺意で埋め尽くされた。

「────────!!」

 頭部まで装甲で隠した完全武装の兵士が五人、既に私達三人をポイントしていた。ご丁寧にも複数のレーザーポインターが身体へ照射されており、私達はそのまま部屋の中央から一歩も動けなくなった。

 ただ、相手は治安維持機構の兵士だ。私達は努めて冷静に、指一本動かさずに相手の出方を窺い続けた。

「……………よし、充分だ。お前ら武器を下ろせ。」

 何かを確かめるような長い沈黙の末、部屋の奥から男の声がした。それを合図に、私達を囲っていた全員が銃を下げた。

「hi‐Bクラスの機密情報管理権限(セキュリティ・クリアランス)……隊長、この男は一体?」

「『俺達』の立ち上げにおける最大の功労者を忘れたか?ティムラッド・カーチス、彼はその息子だよ。」

 そう言って、部下達に道を空けられながら一際大柄な男が姿を現した。ヘルメットの類はつけておらず、堂々とこちらに素顔を晒している。

「ヴェスパー・センチネル(V ・ S)特殊作戦群の『青薔薇部隊』、隊長の浮島徹だ。遠路はるばるご苦労だったな、ライオネル・カーチス……いや、東頼人か。」

 そう言った浮島の視線は、頼人の返事を待たずしてすぐにその隣───私へと向けられた。

「そして、お久しぶりですね、『隊長』。」

「あ………。ええと………こんにちは…。」

「え───────??」

 私が心から最大出力で返した精一杯の挨拶を、浮島は目を丸くして受け取った。

「え、な、なんですか…?」

 知らない奴に知らない呼び名で呼ばれて。気まずくならない訳がない。

 彼なりの冗談かとも思い、頭からいい感じの社交辞令を四つほど引っ張り出してみることにした………筈なのだか、一文字も役には立たなかった。

「隊長…琳洞冴蓮…間違える訳が無い。でも、どうして……?」

「話が見えないんだけど……アンタら、ひょっとして面識あるのか?」

 浮島の困惑に始まり、いきなり場を覆ったそわそわした空気に耐えかねた頼人が、浮島へ怪訝な表情を向けて尋ねた。

「………まさか知らずに雇ったのか?」

 浮島の言葉を受けてチラリとこちらを見てきた頼人へ、私はぶんぶんと横に首を振る。

「いいか?この人こそ、今は亡き錯史界研究所が擁していた、特殊部隊の─────。」

 そこまで言いかけた所で、浮島は何者かに押し倒されて視界から消えた。

 その代わりに、眼前にはフルフェイスを外した黒髪の女が現れた。

「やぁ、お初にお目にかかる。私はこの青薔薇部隊の副隊長。コールサインは『ソーン』だ。」

 そう言って、女は半ば強引に握手を求めてきた。

「ど、どうも…?」

 押しのけられ端で困惑する浮島をよそに、ソーンは私達と順番に握手を交わしていく。

 その態度からは、さっきまでのやり取りは無かった事に、というメッセージが伝わってきた。

「さて、作戦立案者の私から、先にこれからの行程について話をしておこう。東頼人、君がV.S.から追跡対象とされている理由は、言わずもがな君の父君が遺した『カーチスの遺産』にある。」

「おいソーン!勝手に話を進めるなと…」

「うるさい!小難しい話をすンだから黙ってな!!」

 浮島の小言はソーンによる想像以上の怒号によって掻き消された。え、そんなに言っちゃっていいの…?と誰もが同じ事を考えたが、口に出した者はいなかった。

「一応、ただの生体情報だって話しか聞いてないから、俺もそれが何なのはさっぱりで。」

「カーチスの遺産。それは、自身の死によって体内から完全に抹消され、それを認知した君の生きた遺伝子情報にも発現するよう仕掛けられた、特定の生体コードを指す。認知災害の時代が生み出した遺伝子治療(ジーンセラピー)の一つだね。君の身体には、それが生まれた時から施されていたんだよ。」

 それは、一生かかっても日の目を見ないかもしれないナニカの為に、彼の父親が身を捧げた研究が存在したという事だろうか?

 頼人の喉元から、小さく息を飲む音が聞こえた。

「ソーン、これは…一体何に使われるんだ?」

「ある兵器の起動に、鍵として使われる。」

「何だよ、それ…!」

 頼人は苛立っていた。身勝手さの権化のように生まれた時から刻まれていた呪いの正体を、頼人は心のどこかで察していたのだろうか。

「父君の真意は私に分からない。伝えられるのは、私達がどうするべきと考えているかだ。」

 ソーンはそう言うと、改めて頼人の目をしっかりと見据えた。

「結論はこうだ。君にはこうした束縛から自由になる権利がある。その為に、『ヰ道派』の盾たる青薔薇部隊に、君を守らせて欲しい。」

「『ヰ道派』…?」

 思わず口走ってしまった。話がややこしくならないといいけど。

「V.S.内部の勢力争いの話でしょう?確か、V.S.は長官が退役間近だって聞いてますから。」

 すかさず琉彦が補足してくれた。

「詳しいね坊や。そう、恥ずかしい話でもあるが、私達は、次世代の在り方について対立し、大きく二分されているんだ。」

 ソーンによると、現在のV.S.にはタカ派の『沖貞派』と、大多数を占めながらも求心力に欠ける『ヰ道派』による対立関係があるのだという。

 次期長官の座を始めとした様々な紛争の種のひとつに、カーチスの遺産の処遇もあった。

「ソーンの言う兵器ってのは、ネツァク地区…V.S.の管理下にあるのか?」

「ああ。だが君の持つ遺産が無ければ起動も完成もしない鉄屑さ。私達はアレを、君の中にある鍵共々葬り去ってやりたいのさ。

 どのみちあんなもの、完成していい兵器じゃない。」

 そう言ったソーンの目には、心からの嫌悪が滲んでいるように見えた。

「俺は、自由になれるのか……?」

 長い沈黙の後、頼人はこの上なくシンプルにそう尋ねた。

「君を私達の派閥争いに巻き込む気は毛頭ない。君をただの東頼人のまま、外に送り出してみせるよ。」

 その意思に応えるように、ソーンもそう宣言した。

「ね、隊長?」

 くるりと振り向いて、ソーンは浮島へ悪戯っぽい笑顔を向けた。

「無論だ。ヰ道さんもそうする筈だしな。」

 堂々と言い放った部下の宣言を窘める事なく、浮島も目を閉じて頷いた。

「では、只今より護送の準備に入る。お前達も準備を開始しろ!」

「「ハッ!!」」

 じっと待機していた残りの隊員達が、ソーンに促されて忙しなく動き出した。

 琉彦も確認したい事があるとソーンについて行き、その場に立ち尽くしているのは私と眼前の浮島だけとなった。

 再び、気まずい沈黙がやってくる。

「……ソーンは頼りになる。かつてのあなたを見ているようだ。」

 先に口を開いたのは浮島だった。

「俺は、再び昔の貴方が戻ってくると信じて、準備を進めてきた。なのに、一体どうしちゃったんですか、『隊長』?十年経ったとは言え、あなたはそんな、臆病に振舞う人では無かった筈だ…!」

 そう言う浮島の顔からは、空回った期待が齎した本気の困惑と心配の色が見えた。

「すみません、ほんとに、その、なんの事だか…。」

 琉彦に出会うより前の私の記憶は曖昧で、どうやら今とは違う人生があったらしい、という事以外言えることが無い。

 覚えているのは、戦いに身を捧げていた時代があった事。そしてある日、異形の怪物を従えた人間と対峙した、という事だけ。

 手がかりになるなら話すべきかとも考えたが、私はそうしなかった。

 彼は恐らく、過去に私に起きた出来事の当事者だ。失われた記憶に繋がる生き証人だ。

「本当に、何も覚えてないんですね。」

「はい…ごめんなさい。」

 それでも、だからこそ、絶対に彼を巻き込むな。

 記憶の断片にも満たない過去の残響が、私へそう囁いた気がして、私は無知を装った。

 


 3


 

 数分後、忙しなく準備が進んでいた作戦室に、突如として非常ベルが響き渡った。

 浮島を始め、青薔薇部隊の隊員たち全員が迅速に携帯端末を取り出して警報の正体を確認する間、私も琉彦と頼人の所へ急いだ。

 警報の意図は分からない。分からないが、恐らく無関係では居られなくなるだろう、と直感が告げていた。

「外の錯圧防壁が破壊された。恐らく侵入者だろう。各員戦闘態勢、要人を守れ!!」

「「了解!!」」

 堂々と指示を出す浮島の顔は指揮官のそれに変わっており、既に私に見せた困惑の色は見えなかった。

 ふと、頼人が琉彦に耳打ちした。

「なあ、錯圧防壁、というのは?」

「異常の原因となっている空間の歪みを局所的に高める事で、人為的な認知災害を発生させる技術です。僕達がこの部屋に来るまで辿ってきた迷路、覚えてますか?」

「あ…!」

 アレが実在しないものだと知り、特に疲弊させられていた頼人はやけに得心がいった様子だった。

「みんな来てくれ。裏口から脱出する。」

 準備が整ったらしい徹に促され、私達は青薔薇部隊に囲われる形で陣形に加わった。

 

「随分と大所帯だな、青薔薇。民間からスカウトでも始めたのかね?」

 裏口から出るなり、私達は大挙して待ち構えていた武装勢力に取り囲まれた。

 装備の系統や銃の構え方から察するに、向こうもV.S.の隊員と見て間違いない。

 集団の中央からこちらに語りかけて来た男は、こいつらが自分の手足だ、とでも言いたげに大きく手を広げて出迎えてきた。糊のきいた黒いシャツとスーツを着込んでおり、銃火器の類は一切所持していないように見える。

「ヴェスパー・センチネル副官のマーカス・沖貞である。そちらの男は逃亡者としてネツァク地区から指名手配されている。今すぐこちらへ渡してもらおう!」

「何を勘違いしてるか知らんが、東頼人は既に青薔薇部隊の監視下にある。こんなやり方まで選んで、ティファレトでこそこそ手柄の横取りとは関心しないな、副官殿?」

「勘違いだと?私が何の勝算も無く無謀な賭けに出ると思うのか。状況は変わったんだよ、浮島徹。……長官(オヤジ)は危篤になった。」

「何だと!?」

 沖貞の言葉は、浮島だけでなく彼の部下にも動揺を与えた。

「もう終わるのだよ。生温い安寧を貸し与え、仮初の平和を享受した気になる時代が!あの男の死が齎すモノが何であるか、お前もよく知っている筈だろう?」

「…………。」

 浮島は答えなかった。

「しかし、こんな時になってもお前の飼い主は行方知れずのままだ。この非常事態において、私の言葉は今、自ずと次期長官の言葉と同等の重みを持つのだよ。」

 プレゼンでもするように朗らからだった沖貞の言葉と顔色が、そこから格段に重みを帯びたものへ変わった。

「共有事項は以上だ。浮島徹、東頼人を渡し給え。」

 沖貞配下の隊員達も、これが最後通牒だと言わんばかりに一斉に銃を構え直した。

「くそ……!」

 浮島が小さく漏らした。これは生易しい脅しではない、と私の直感も告げている。

 だが、打つ手がない。

 今何か意味ありげに視線のひとつでも動かせば、すぐさま銃弾を叩き込まれそうな緊張感が場を支配している。

 何か。何か、何か────────!

 

「いいねぇ!これぞ人間同士の駆け引きって感じでさァ、ゾクゾクするよ!!」

 そんな私達の緊張をモニタリングしていたかのように、

 異常が、舞い降りた。

「────?」

 この場の誰もが、状況を理解できていなかった。

 沖貞の真後ろから最前列で私達に銃を構えていた筈の隊員の一人が、突如として脈絡のない一言を大声で言い放ったのだ。

「だがそれだけだ。つまらないつまらないつまらないったらありゃしない。ただの削除に理由なんて必要ないんだ。直情的に怯え、直情的に屠る様も見せてみろ。」

 全員に奇異の目で見られながらも、その隊員の歩みは止まらない。ヘルメットやライフルをガチャガチャと外しては放り投げ、私達の沖貞の間まで歩いてきた。

「…貴様どういうつもりだ、そこをどけ!誰の許可を得て、私の視線を遮っている!!」

 部下の異様な行動への驚きか、無礼を働かれた事への反射的な怒りか、沖貞は隊員を怒鳴りつけた。しかし、その語気に先程までの凄みは無い。

「あなたにはガッカリよ、マーカス・沖貞?本気で私の手網を取りたいなら、もっと狂ってみせないと、ね?」

 そう言い切ると共に、隊員は即座にホルスターから拳銃を引き抜き、自身のこめかみに当てた。

「まさか──────!」

「グッドラック♡」

 驚いた沖貞の顔に満足そうな笑みを返し、隊員は拳銃の引き金を引いた。

 

 引き金は、文字通り更なる異常のきっかけとなった。

 撃ち抜かれた隊員の側頭部からは、血液や脳漿でなく、大量のナルテクスが飛び出してきた。宿主を食い破った寄生虫のように溢れ出したそれらは地面に落ちるまでに急速に身体を成長させ、私達と変わらない体格を獲得した者から一斉に襲いかかって来た。

「「うわああああああああーーーーー!!」」

 その不意打ちにより、瞬く間に統率を失った沖貞派の隊員達の悲鳴と、闇雲に放たれた銃声が辺りを埋め尽くしていく。

 ナルテクスは、私達の方へも迫ってきた。

 サブマシンガンを構え、組み付かれる前に急所を撃ち抜いて後退していくと、

「こっちだ!!」

 背後で積まれていた土嚢から浮島の声が聞こえたので、隙を見て滑り込んだ。乱戦と炸裂した手榴弾により、周囲には既にかなりの砂埃が舞っていた。

 土嚢の端から来た方向を伺うが、沖貞の姿は見えない。

「なんだったんだ…アレは…!?」

 息を荒くした頼人が尋ねてくる。左脚を流れ弾に抉られたようで、青薔薇の隊員による手当の最中だった。

「前触れもなく、突然この場の錯圧が上昇しました。その直後にあの隊員が錯乱して自殺を…。」

 潜んでいた第三勢力の真意を確かめるように、そう言って琉彦がこちらへ視線を合わせてきた。

「理由は、分からないけど……既に沖貞達はターゲットにされてた。錯律痕使いが居ないから……ここに来るまで、誰も気付かなかったんだ。」

 そう口にはしながら、私も起きている事を上手く飲み込めずにいた。ナルテクスにそんな知性が備わってるなんて、今まで一度も聞いた事が無かったからだ。

「沖貞は…死んだのか?」

 浮島の疑問に答えられる者は居なかったが、遂に遮蔽の向こうで銃声と悲鳴が止んだ。

 慎重に銃を構え直し、私達は一斉に砂埃の中へと躍り出た。

 全員の視線は、そこから空中へと集まった。

「何だ、アレは……?」

 青薔薇の一人が思わずそう漏らす。

 

 巨大な黒い球体が、三十メートル程上空に浮かんでいた。それは、数日前にティファレト地区のハイウェイに現れたそれと酷似している。

 球体は真下に幾重もの『糸』を垂らしており、それに吊られた沖貞派の隊員達が次々と上空に引き上げられていく。その身体には、溶け落ちたように形を歪めたナルテクスの肉体が癒着していた。

 隊員達から生気の類は一切感じられない。役目を終え、玩具箱に仕舞われていくマリオネットのようだ。

「『パラドクス・ホール』。数日前の件では、中から湧き出てきたナルテクスを一掃した事で自然消滅した、と報告があったが…。」

「……!?ちょっと待ってください、アレは…。」

 冷静に情報を分析しようとしている浮島の隣から、らしくない焦りを滲ませて琉彦が駆けて来た。

「琉彦?」

「冴蓮さん…何か感じませんか?あの球体から何か、圧力のような…。」

 そう言われて、改めて人々を巻き上げる頭上の球体へ意識を集中させる。

 球体の中心からは、確かに以前見た時には無かった『活性』のような感覚があった。

 みるみるうちに大きくなり、やがて全てを飲み込まんとするその感覚は、まるで──。

「みんな、ここを離れよう。」

「何を言ってる?既にこれだけの隊員がやられてるんだ、応援を呼ばないと───、」

「いいから!!」

 浮島を説き伏せている暇は無い。つい勢いに任せて怒鳴ってしまったが、これが案外浮島には届いたようだった。

「……あなたが、そこまで言うのなら。」

 それだけ言って振り返ると、浮島は部下達へ撤退の準備を急かし始めた。

 こうしている間にも『活性』がみるみるうちに大きくなっている。恐らく殆ど時間は残されていない。パラドクス・ホールから離れるべく、脱出用に用意されていたトラックを全力で走らせる。

 本来用意していたルートでは無いが、もうそんな事も気にしていられない。

 荷台のカバーから顔を覗かせ、右目の瞳孔に仕込まれた望遠センサーを起動させる。

 見えたのは、ちょうど球体がナルテクスを介して吊り上げた、最後の一人を『食べた』瞬間だった。

 突如、空間が丸められたように歪み、黒い球体はその場から消え去ったと錯覚する程に縮小した。

 一秒後、準備が整ったと報せるように、それがキラリと一瞬閃く。

「来る──────────!!!」

 

 球体が炸裂し、凄まじい高音と爆風が、既に五キロ程距離を取っていた私達のトラックへ襲いかかった。

 風に吹かれた木の葉のように宙を舞ったトラックの中で、私達は為す術もなく揉みくちゃにされる。

「──────っ、ぐ……!」

 それでも辛うじて意識を失わずに居られた私は、どうにか横倒しになったトラックの荷台から自力で這い出る事が出来た。

 方向感覚は思い出すまでも無かった。爆風が何処からやって来たのか、辺りを見回すだけですぐに分かったからだ。

「なに──────あれ────?」

 空を突き抜ける程の、巨大な雲。

 あれが爆発によって巻き上げられたものならば、爆心地にはもう何も残っていないだろう。

 アレはあってはならないモノだ、と本能が警鐘を鳴らしているのが分かる。これまでにヴェスペライアを襲ってきた、そのどれをも凌駕する認知災害が現れたのだと骨の髄まで思い知らされる一方で、私はただ呆けたように立ち尽くす事しか出来なかった。

 


 5

 


 四日後。

 小さな擦り傷のひとつも癒えないまま、私はとある人物に呼び出され、ガラス張りの壁と、天井まで伝う人口植物の蔓に彩られたカフェに居た。

 向かいには、既に一人の女が座っていた。

 青薔薇部隊の紅一点、ソーンである。

「来てくれてありがとう。異形狩り、レディ・シアノア」

「なっ……!?」

 開口一番、ソーンは予想外の一言を口にした。

 思わずガシャリと物音を立ててしまったが、何事も無かったかのように黙りこくった。

 そんな私のリアクションを面白がってか、ソーンは小さく微笑んだ。

「すまないね、『あの姿』でない時は、琳洞冴蓮と呼ぶべきかい?」

「………いじわる。」

 どうしていいか分からず、つい子供みたいな言い返し方をしてしまった。

「ごめんってば。今回はね、君を裏社会の実力者と見込んで、私達からの依頼を出させて欲しいんだ。実は、君達の雇い主であるバスケッティさんには先に話をつけてある。」

「ほ、本当に……?」

 仮にも公的な組織として振舞っているV.S.から私への、正式な依頼。既に交流を深め、一度は死線を共にした仲だが、慎重にならざるを得なかった。

「ま、周到すぎて怪しいよね。それがコレで信頼に裏返ってくれるといいんだけど。」

 そう言いながら、ソーンは鞄から取り出した一枚の紙を机に置いた。見慣れた筆跡のサインと、その隣には真っ赤な指紋が押し付けられていた。

 インクとして使われたのは血ではない。同系色のどの液体と見比べてもそれだと分かるように、散々口うるさく教え込まれたものだ。

「イーズ・ホットドッグのケチャップ…。」

「君なら分かる、って言ってたけど…どういう意味?」

「えーと……き、企業秘密。」

「はは、了解。ひとまず信じて貰えそうかな?」

 私が小さく頷いたのを見ると、いざ本題に入るぞと言わんばかりの真剣な眼差しで、ソーンは少しだけこちらに身を乗り出してきた。

「私達の長官、ロバート・フィンチが十六時間前に意識を取り戻した。彼の命令で、私達はある『儀式』の支度を急いでる。」

「儀式?」

「人に錯律痕を与えている『塔』に錯律痕を返還し、力ある者がそれと同格の新たな錯律痕を継承する。ネツァク地区では、そうやって長官の代替わりを行ってきたんだ。」

 錯史痕を『塔』に返し、再誕を促す。初めて聞く風習だった。

「その、錯律痕を引き継ぐ事って……そんなに大事な事、なの?」

「うん。とりわけV.S.にとってはね。長距離通信、武器弾薬の転送、資格があると認められた隊員の戦闘力強化────本来はネツァク地区の中でしか齎されない、戦の神ネツァークスの祝福を他の地区に居ても受けられる。それが長官の錯律痕の能力。」

 私とはまるで規模の違う能力だ。V.S.がティファレト地区などと契約して強大な武力を貸与できているのも、この能力のおかげなのだろう。

「長官…ロバート・フィンチは再誕する錯律痕の継承者として、副官のヰ道麗(いどううらら)を指名した。ヰ道さんについては話したっけ?」

「この間会った人と、確か、対立してるって。」

「そうだよ。私達、青薔薇部隊を作った人でもある。実力も信頼もある人だから、多くの人がこの判断には納得してる。ただ…。」

 ソーンが言葉を詰まらせる。私の脳裏にも、数日前に見た野心の塊のような男の顔が浮かんでいた。

「遅かれ早かれ、この知らせはアイツの耳にも入ってくる。マーカス・沖貞が、この決定に納得するとは到底思えない。何か邪魔立てしようと動いてくる筈なんだ。」

 話が見えてきた。ソーンの眼差しにも真剣さが増していく。

「レディ・シアノア。君には私達青薔薇部隊と共に、儀式の妨害を阻止して欲しい。」

 ここからは、慎重に言葉を選んだ方が良さそうだ。

「……ヰ道派は、多数派なんでしょ?私一人加えた所で、その、何かが大きく変わるとは、思えないよ…。」

「どうにもキナ臭いんだ。ティファレトの時とは違うし、直轄領でクーデターじみた妨害は幾ら何でもしないだろうけど……例えば、いきなりナルテクスみたいな外界の異形をけしかけてくるとか、そういう手段に出られたら私達は対処が難しい。」

「この間の、アレみたいに?」

 そう自分で言っておいて、軽く身震いした。

「ただの偶然にも見えたけど、あの時だって沖貞の反応は何か変だった。私達はまだ、何か見落としている気がするんだ。」

「……私に、V.S.のいざこざに介入しろ、って事?」

 少し冷たい言い方だが、互いの立場が平等に保たれていない以上、取引には応じられない。

 ソーンが動じる様子は無い。まだ何かカードを隠し持っているようだ。

「東頼人。彼の身柄は、一時的に私達が預かっている。遺伝子コードは手に入ったし、このまま問題がなければ、私達はネツァク地区のあらゆるデータベースから彼の情報を消し去って解放できる。ただ知っての通り、沖貞も彼を狙っているんだ。」

「………。」

 つまり、長官の代替わりを助けない事には互いに先へ進めない。とソーンは言いたいようだ。

 目的は一致している。おばさんのサインが書かれた契約書に示されていた報酬も、かなり色をつけられているのが分かった。かつてない程実力を買われている。その日暮らしで食い繋いでいる私にとって、こんな仕事はそうそうありつけるものじゃない。

 だからこそ、この気掛かりも拭っておくべきだろう。そう考えて、私は口を開いた。

「ねぇ。遺伝子コードを『手に入った』って言い方をしたのは…何で?アレは破棄されるんだよね?」

「……どうしてそんな事を聞くの?」

「……興味本位だよ。」

 ソーンの反応は、尚も冷静だった。

 まるで、敢えて言及されるよう仕掛け、この瞬間を待っていたようにも見える。

「彼に伝えたのは嘘。遺伝子コードは新兵器の鍵として、ヰ道さんが持つ事になる。」

「どうして…!」

 声を荒らげそうになり、私は乗り出した身体をゆっくりと椅子へ戻した。

「無論沖貞に渡す気はない…けど、貴方が聞きたいのはそういう事じゃないよね?」

「興味本位だけど…ちゃんと説明、して。」

「分かった。」

 そう言って、ソーンは静かに頷く。

「遺伝子を利用する以上、破棄って選択肢はそもそも無いの。それに私達は、悪人になり切れない人間に選択の余地を与える気は無い。彼の父親はそのつもりで彼にコードを託したかもしれないけど、東頼人はそういう選択が出来る人間じゃ無かった。これが私達なりの解釈と選択だよ。」

 言い返す言葉は思い付かなかった。頼人の父親の意図なんてもう図りようがない。ならば残された者達は自ずと線を引くしかない。残された者達なりの描き方で、たとえその遺志を大きく履き違えてでも、誰かがやらなければならないのだ。

「…私も、興味本位で聞くんだけどさ。」

 ソーンはそう言って、私から視線を逸らした。

「隊長って呼ばれてたよね、ウチの隊長に。」

「え……。」

「ええと、しなくないなら良いよ、別に。」

「別に……そういうのは、ない。」

 関係ない事もない話だが、ここで振られたのが少し意外だった。

「本当なの?貴方があの『御伽部隊』を率いてたって話。」

「……嘘じゃない。」

 散々言葉を選んだ結果、何だか過度に意味深な物言いになってしまった気がした。

 でも、本当にそれだけだ。嘘では無いから。

「カタチはどうあれ、この世界の為に生命をかけた経験のある貴方なら分かるはず。そこには嘘であっても信じなければいけない事、必死に納得しなきゃ進めない事が沢山ある。

 この世界にはそれが出来る人と出来ない人がいて、そうするべきでない人がありのままでいられるよう、私達は戦ってきた。そうでしょ?」

 抽象的な物言いだが、言わんとする事は理解できた。あの時代に残してきた未練が、社会の片隅に追いやられた今の私を今も突き動かしているのだから。

 数刻の沈黙の後、粘っこくなった口を必死に動かして、私は漸く言葉を紡いだ。

「分かった、やるよ。でも一つだけ約束。」

「…うん。」

「私も、これからの私の為に戦ってる。それを忘れないで。」

「……分かった。ありがとう、琳洞さん。」


 

 4


 

 煌びやかな装飾と、無機質な静寂に支配されたホテルの一室。

 綺麗に仕立てられたベッドの上で、マーカス・沖貞は目を覚ました。

 壁に掛けられた時計が狂っていないと仮定し、この数時間で起きた事を予想する。

 意識が途切れる直前の記憶───自分を守っていた隊員達がナルテクスに襲われ次々と空中へ消えていった光景は、どうやら趣味の悪い夢ではないらしい。

 込み上げる気持ち悪さを抑えて周りを見渡す。

 とある約束に使っている客室。自分が持っていた荷物や着ていた衣服は、この部屋には一切置かれていなかった。

 沖貞は、置かれている状況から自分が誰に連れてこられたのかを理解した。

「あら、もう目覚めたのね。」

 示し合わせたように扉が開き、声と共に一人の女が入ってきた。備え付けのバスローブに身を包んだ女は、その優雅な足取りのまま沖貞の眼前まで近付いてきた。

「……どういうつもりだね、アレは。」

「何の事かしら?」

「とぼけるんじゃない!ただのデモンストレーションだと…君はそう言った筈だ!」

 沖貞が吠える。その顔には怒りと焦りが綯い交ぜになっていた。

 対して、シラを切る女の態度は冷酷なほどに平静そのものである。

「ええ、素晴らしいものが見れたでしょう?あれこそ、これからのヴェスペライアを象る新世界秩序。アナタのモノになる力よ。」

 女は沖貞の隣へ腰掛けると、互いの心音や呼吸が分かる程に体を密着させた。

「そして何より、私を象り、私を支配する力でもある。アナタのモノになるのは、世界だけじゃ、ない。」

「だが…大勢死んだ。私の、部下が。」

「今更選ばなかった者達を気にしているの?どのみち付いて来られないに決まってるわ。死に瀕している長官と何も変わらない。」

 極めて危険なものを前にしている。単純でない関係性を築いて尚、その感覚は未だに沖貞の中から消えていなかった。

 しかしもう止まれない。その感覚が男の判断に干渉する瞬間は、もうやって来ない。

 それ程までに、新しい世界に魅せられていた。

 否、その道の入口にいた、この女に魅せられていた。

「わかってる……ああ、分かってるよ、リアーナ。」

 それは、彼から女につけた名前だった。

 歪さを隠すのではなく、新たな正しさを証明する為につけたその名前を、女も喜んで名乗るようになった。

「貴方のする事はひとつだけ。恭順させる事よ。ヒトの上に立つ生物として、強者としての線引きを刻むの。迷っているのは……。」

「私に、資格が無いからではないのか?」

「もう、違うわ。大局を見据える目が育っているからよ。アナタに相応しい世界の捉え方をして頂戴。」

 女はバスローブを脱ぎ捨て、更に沖貞へ肢体を絡ませる。

「忘れてしまったのなら…いいわ。私が思い出させてあげる。アナタが本当はどんな男なのか──────。」

 軽い口付けをきっかけに、タガが外れた二人はそのまま夢中で互いの身体を求め始めた。

 V.S.副官、沖貞派、次期長官候補。いかなる装いも纏っていない沖貞の身体は、威厳ある人間のそれにしてはあまりに無垢だった。

 次第に激しさを増していく衣擦れと嬌声。

 欲に身を沈めた身体はまたひとつ、女のつけた痕で新たな色へと染められていった。

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